本渡城(ほんどじょう)

本渡城の基本情報

通称・別名

本砥城、本戸城

所在地

熊本県天草市本渡町本戸馬場町(天草切支丹館)

旧国名

肥後国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

天草尚種

築城年

不明

主な改修者

主な城主

天草氏

廃城年

遺構

曲輪、堀切

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

小宮地城(熊本県天草市)[10.6km]
上津浦城(熊本県天草市)[12.1km]
瀬詰崎台場(長崎県南島原市)[14.4km]
棚底城(熊本県天草市)[15.3km]
富岡城(熊本県天草郡)[15.8km]
河内浦城(熊本県天草市)[18.1km]
原城(長崎県南島原市)[19.8km]
日野江城(長崎県南島原市)[22.9km]
大矢野城(熊本県上天草市)[27.0km]
久玉城(熊本県天草市)[30.2km]

本渡城の解説文



本渡城(ほんどじょう)は、熊本県天草市にあった中世の日本の城(山城)。

立地・構造 

熊本県天草市本渡町の連山の東端尾根に位置し、本丸や馬責め場、一の丸などの地名が残る。標高76mの最高点に本丸があり、三方から曲輪が取り囲む。本丸から南西および南東方向は、それぞれ堀切と幅7-8m・長さ100m以上の急な尾根となっていた。南東端の一の丸には城主や木山氏の墓、板碑などが残り、さらに下った二の丸には天草切支丹館が建てられている。

歴史 

16世紀に入ると開発領主の子孫である天草氏は天草五人衆の中で最も有力な存在となり、天正年間の天草鎮尚・久種時代には下島中央から南部の地域を支配し、本渡城は本城に次ぐ主要な城であった。天草五人衆は豊臣秀吉に領土を安堵され肥後国人一揆にも参加しなかったが、小西行長の宇土城普請を拒否した事から天正17年(1589年)に合戦が起きた。

天草氏は志岐氏とともに篭城・抗戦し、天草種元の本渡城は加藤清正・小西勢によって攻め落とされた。また、木山正親も客将として入り討死したという。加藤勢は高台になっている城後方および本丸を攻撃して城兵や家族をほぼ全滅させたのに対し、小西勢は教会などを含む領域を包囲し、城兵や司祭をほとんど助けたとルイス・フロイスが記録している。

参考文献 

  • 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典(43.熊本県)』、角川書店、1987年

本渡城の口コミ情報

2024年05月25日 龍馬備中守【】
本渡城



熊本県天草市の【本渡城】♪天草氏の事を記載します♪現在はキリシタン館として資料館になっています♪別名を本砥城、本戸城とも呼ぶ中世の山城です♪天草諸島は海峡で上島と下島に分かれていますが、本渡城は下島の西端にあります♪古くから船の航路として要衝地であるここもヤハリ、港を掌握した『天草五人衆』の1人、天草氏の城郭となります♪

天草氏の本姓は大蔵氏☆『藤原純友の乱』で活躍した大蔵春実の後裔と伝わります♪寛仁3年(1019年)大宰大監となった大蔵氏は、後に秋月氏・原田氏・高橋氏・田尻氏・三原氏など、筑前、筑後を支配する諸家を輩出しています♪
大宰大監の流れを持つ大倉種有は、娘の播磨局(女武将)に本砥島の地頭職を継承します♪播磨局は子が無く、弟の種資の子・大倉種益に家督を譲りました♪大蔵家が『天草氏』を名乗ることが許されたのは、播磨局の元寇での活躍と、種益の『弘安の役』での軍功によるものです♪以後は天草、亀川、河内浦、嶋子等を支配下に置き、在地領主として成長しました♪

鎌倉時代の天草下島は、菊池一族の兵藤左衛門尉光弘が幕府から志岐六ヶ浦(天草下島の北部一帯の海)の地頭職に補され、志岐姓を名乗ります♪後に『天草五人衆』となる志岐氏です♪この志岐氏は志岐浦を執権北条氏に寄進する事で幕府と関係を築き、勢力を拡大♪次第に天草氏と対立していきます♪度々起こる抗争に発展していくのです。。

南北朝時代は天草氏は南朝方、志岐氏は北朝方で争います。興国7年(1346年)南朝方の阿蘇大宮司惟澄に属する佐津津貞弘が本砥島の地頭職を望み、天草氏は地頭職を失います。その後も志岐氏の支配に抵抗しますが…。。南北朝合一後の応永期には、本砥は志岐氏領となっています。。

戦国時代初め(1492~1500年)頃、天草氏は他の領主と共に天草一揆を結成♪肥後・菊池氏の支配下となります♪菊池氏は一揆衆に対し、八代郡小野、豊福の地を与えます♪この天草一揆衆は志岐氏をはじめ、上津浦・宮地・長島、そして天草氏、さらに大矢野氏、栖本氏、久玉氏の名代らです♪その後、菊池氏家中の家督争いに巻き込まれ、天草氏は一時勢力を失いますが…。。
やがて天草郡に相良氏の勢力が伸長してきます。この頃当主は天草尚種で、再び失地を回復、拡張していました♪
天文元年(1532年)天草氏・志岐氏・栖本氏・ 大矢野氏・長島氏の五氏は、相良氏配下の上津浦氏を攻撃し、敗退。天草郡の諸将は相良氏に属します♪天草氏をはじめ諸将らは相良氏との関係強化に努めていくのです♪

一方、天文20年(1551年)頃から、天草郡の諸領主の間で抗争が繰り返されます。豊後国の大友義鎮(宗麟)が菊池義武を滅ぼし、北九州一円に勢力を拡大した頃です。
弘治2年(1556年)天草氏は、栖本氏と上津浦氏の合戦に上津浦氏を支援し参陣します。ところが翌年、天草氏は栖本氏側となり、結局敗退しました。。その後も小競り合いは続き…。相良氏の援軍により、ついに講和が成立♪
しかし翌年、島津氏・有馬氏が天草氏の領地を攻撃。天草氏も抵抗し、戦にもなりました。

天草では天草氏、志岐氏を双璧に大矢野・上津浦・栖本の五氏が『天草五人衆』として割拠し、相良氏、島津氏、大友氏、有馬氏ら近隣の有力大名の影響を受けながら、集散離合を繰り返していた訳です。

その後の天草五人衆は豊臣秀吉に領土を安堵されます♪天草領は小西行長の支配下となり、五人衆はその与力となりました♪
しかし天正17年(1589年)小西行長が宇土城普請を天草五人衆に依頼しますが、彼らはコレを拒否。合戦に発展します。天草氏も抗戦しますが、本渡城は加藤清正・小西勢によって攻め落とされました…。
また、肥後益城の赤井城主・木山弾正正親も客将としてこの戦に入り討死。仏木坂の戦いで、加藤清正と一騎討ちして討たれています…。木山弾正正親の首は志岐城下に、遺骸は本渡城の二の丸(現・明徳寺の墓地)に葬られています。この戦で加藤勢は城兵や家族をほぼ全滅させたのに対し、小西勢は教会などを含む領域を包囲し城兵や司祭をほとんど助けたとルイス・フロイスが記録しています。

現在、主郭跡に天草切支丹館、出丸跡に殉教千人塚、二の丸跡に明徳寺が建ちます♪堀切も主郭の南北にありますが、道路になっています♪

道路の写真は仏木坂♪仏木坂は苓北に向かう途中にあります♪

2021年11月20日 もっこす肥後守
本渡城



登られる方は車をキリシタン館下駐車場に止めて、一方通行の道を下って行きワイの字を左にいけば、木山弾正の墓の看板が有りますので、そこから登って下さい。
墓の裏を通り尾根伝いに行けば着きます。石碑のみで遺構は分かりずらいです。

2014年01月04日 三日左馬助落人
本渡城

遺構はほとんど残っていませんが、当地の周辺が天草・島原の乱の緒戦の舞台となっており、その際に戦死した富岡城代・三宅藤兵衛の墓が近くにあります。

余談ながら、天草名産の希少な地鶏「天草大王」を出してくれる「鳥蔵」という店が近くにあり、鳥刺しや手羽先の串焼き等がかなりうまかったです。ご当地グルメファンの方はぜひ♪

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