棚底城(たなそこじょう)
棚底城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 熊本県天草市倉岳町棚底1529
旧国名
- 肥後国
分類・構造
- 丘城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 上津浦氏、栖本氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、堀切
指定文化財
- 国史跡(棚底城跡)
再建造物
- -
周辺の城
-
上津浦城(熊本県天草市)[8.4km]
小宮地城(熊本県天草市)[15.1km]
本渡城(熊本県天草市)[15.3km]
佐敷城(熊本県葦北郡)[20.2km]
大矢野城(熊本県上天草市)[20.8km]
田川内城(熊本県八代市)[24.2km]
水俣城(熊本県水俣市)[24.2km]
久多良木城(熊本県八代市)[24.7km]
原城(長崎県南島原市)[25.0km]
瀬詰崎台場(長崎県南島原市)[25.0km]
棚底城の解説文
棚底城の口コミ情報
2022年10月31日 気分爽快信濃守
ガウトウの「山ン城」[棚底城 周辺城郭]
入口周辺は藪化が激しいですが、暫くすると山道らしきものがあり、後は上に向かって進むのみ。3郭、1郭には石積みが確認でき、1郭の先に大きな堀切があります。
④2郭横の竪堀
①1郭先の土橋
②1郭先の堀切
③2郭への登り口
⑤3郭の石列
⑧登り口
⑥2郭から1郭を見たところ
⑦3郭入口
2022年10月31日 気分爽快信濃守
棚底城
登城口に車を停めるスペースがあります。藪もなく石積みがしっかりと確認でき、非常に歩きやすい城です。2郭は修復中でした。
2022年07月15日 国府左京大夫城介
棚底の石垣[棚底城 碑・説明板]
棚底の石垣とこぐり
【由来等】
冬季には、棚底の集落の背後にある天草最高峰である倉岳(標高682m)の名を冠する「倉岳おろし」と呼ばれている強烈な北風が吹き荒れます。その北風対策として、防風用の石垣を屋敷の北西から北東側にかけて鉤状に造られたのが、棚底の石垣です。
この地は安山岩が豊富であり、その安山岩を活用し、野面積みで築かれています。
いつ頃から築かれたのかは不明ですが、隅部が算木積みになっているものもあり、古くても江戸中期頃と云われています。中には5mを超え、見事な曲線を描く石垣もあるとのことです。
防風用の石垣は、棚底城の南側にある扇状地形、約1.3kmに渡り、古くからある宅地にはほぼ100%石垣が築かれている。
また、集落内には「こぐり」と呼ばれる地下式用水施設もあり、それも見事な石積みで築かれています。
【感想】
棚底の集落を歩くと、立派な石垣に囲まれた宅地があちらこちらにあります。場所によって、高さは区々ですが、自分が見た範囲では4m近い石垣もありました。ただの防風用の石垣なのですが、見る方向によって、天守台や櫓台と見間違えてしまう立派な石垣もあります。棚底城をリア攻めした際には、是非この棚底の石垣を堪能してください。城好きの人にはたまらない集落です!
当然のことながら、現在も住人の方がおりますので、見学の際は注意してください。また、昔のままなので、かなり道は狭いです。
なお、スポット地点は、「棚底の石垣」の説明版がある場所となっています。
【アクセス】
産交バスで、「本渡バスセンター」から「松島」行きに乗り、「棚底」で下車。
【写真】
①説明版「棚底の石垣」
②説明版「こぐり」
③~⑦棚底の石垣
⑧こぐり
2022年07月04日 国府左京大夫城介
棚底城
棚底城の公共交通機関でのリア攻めについて
産交バスで、本渡バスセンターから松島行きに乗車し、棚底で下車し、徒歩10分で登城口に着きます。登城口から主郭まで約10分となります。
見学に適したバスは、本渡を7時、10時、12時に発するものであれば、帰りのバスまで75~120分程あるので、充分に棚底城を堪能することが出来ます。
天草にある城をバスだけで攻略するのであれば、熊本からの高速バスの往復券付きの乗り放題切符があるので、とても便利です♪
2022年04月24日 昌幸近江守野面積み㊉
ガウトウの「山ン城」[棚底城 周辺城郭]
上天草市にあるガウトウの「山ン城」。(登城口の標柱には「山ン城」とのみ記されています)鋸嶽から連なる尾根上に築かれました。麓に内野河内城があり、それの詰め城もしくは遠見番所とされています。築城時期・築城者は不明のようです。
県道34号沿いの内野河内変電所の向かいにスペースがあり駐車できます。小道に入ると左手に標柱があり登城口となります。登城し始めて、しっかりした道と段曲輪が現れ「これは登りやすいかも」と思うのですが、残念ながら城の遺構ではなく移転済の廃墓地のようです。墓地エリアを過ぎると道はなくなります。基本、直登でOKなのですが、ピンクリボンなどの目印は一切ありません。墓地エリアを過ぎて、直登し10分ほどで三郭に着きました。
縄張は3つの郭から成る連郭式の城です。虎口と思われるところに石積みがあり、主郭背後には二重堀切と土橋が見られます。
【写真の説明】
①石積みでできた三郭虎口。
②虎口からつながる石積み。
③三郭からニ郭へつながるスロープ。
④ニ郭から主郭へつながるスロープにも石積みが。
⑤主郭背後の二重堀切。奥の堀切には土橋がある。
⑥手前の堀切をピックアップ。
⑦堀切からの竪堀。
⑧土橋をピックアップ。
2021年12月14日 一寸榎肥後守
宮田城[棚底城 周辺城郭]
宮田城は棚底城の南西約3キロ標高約70メートルの独立丘にあります。城山は三角形で南西側に四段の腰曲輪があり南東側にも四段の腰曲輪が付きます。
南西側に二重の横堀があり北西側に大きめの竪堀二本とその間に小さめの竪堀二本があり防御壁を構成します。
北側尾根は三重の堀切、その斜面には竪堀群、堀切先端は横堀化して竪堀に連結と北側の防御を固めています。小さな城ですが盛りだくさんの城となってます。
全体の防御は西側に厚く栖本方面からの敵を想定したものでしょう。上津浦衆と栖本衆、戦国期を通してついに和睦する事がなかった戦いの中心の城です。
2021年11月23日 もっこす肥後守
棚底城
先ずは国道より入り麓の暴風石垣に圧倒される。道は狭く駐車スペースも狭いが、山城自体は熊本を代表する位の規模です。何段にもなる郭を楽しみながら歩きました。駐車スペースにはパンフレットも置いてあります。
2021年04月27日 一寸榎肥後守
栖本城[棚底城 周辺城郭]
栖本城は湯船原城とも呼ばれ天草五人衆の一人栖本氏代々の居城でした。
天草五人衆の上津浦氏と争いを繰り返し棚底城を取ったり取られたりしています。
秀吉の九州討伐後も本領安堵されていましたが小西行長の宇土城普請を拒んで他の天草衆とともに小西行長、加藤清正に攻められ降伏しました。
現状は本丸は公園になり東側の一段下がった二の丸には水道の施設が造られています。さらに東側に一本の堀切が残ってます。
2020年12月09日 播磨守播州らぁめん
棚底城
駐車スペースに3台駐車可能で山頂には10分で着きます。
2016年08月03日 土佐守きこりん
棚底城
国史跡らしく、国道266号からちゃんと道標があり、迷わず到着できます。駐車場あり(周辺に公共交通機関は無いそうです)。
登城口にパンフレットありますが、事前に天草市HPからPDFで入手することもできます。
登城口からすぐに城域で、しっかり作り込まれた郭が連なっています。堀切や三重の横堀で守られた広い主郭は見応えがあります。整備も良好で見やすかったです。
順路通りに下ってきたら、ぜひ集落内を散策してみてください。遠目には生垣にも見える、塀のような防風石垣が各民家を囲っている独特な風景が見られます。なかなか他の土地にはない面白いものだと思います。また田んぼの中にはコグリと呼ばれる石積みの暗渠の用水路が見られます。
棚底城の周辺スポット情報
棚底の石垣(碑・説明板)
栖本城(周辺城郭)
宮田城(周辺城郭)
ガウトウの「山ン城」(周辺城郭)
内野河内城(周辺城郭)
歴史
築城年代、築城者は定かではない。戦国時代の天草を分割統治した天草五人衆(天草氏・志岐氏・上津浦氏・栖本氏・大矢野氏)のうち、上津浦氏と栖本氏が争奪を繰り返した城だ。『八代日記』によれば、天文13年(1544)までは上津浦氏の城だった。栖本氏の所有となると、上津浦氏が奪還すべく何度も戦いを仕掛けた。
永禄3年(1560)、最大の抗争戦が起こると、棚底城は相良氏の斡旋によって栖本氏から上津浦氏へ返還され、再び上津浦氏の支城となった。書状からも、上津浦氏にとって譲れない拠点だったことがうかがえる。
棚底城をめぐる争いはその後も続き、永禄9年(1566)には栖本氏が棚底城を攻めている。しかしこの年以降の八代日記の記録はなく、棚底城がどうなったかはわからない。
天正7年(1579)には、天草五人衆が島津に降伏。棚底城はこの時期までに廃城になっていた可能性が高い。
遺構
天草諸島でもっとも高い標高682mの倉岳から、棚底川に沿って東へ派生する尾根に築かれている。地元ではタカジョウと呼ばれるという。標高91mの最高所を主郭として、東側へ尾根上に階段状に8つの曲輪が並ぶ構造だ。さらに南斜面などに大小の平坦面が設けられている。中世の天草諸島では単郭の城が多く、棚底城のように多数の曲輪が並ぶ城は天草五人衆の居城や拠点城郭に限られる。また、1本の尾根線に曲輪が連続して配置される城は棚底城だけで、大規模かつ特殊な縄張の城といえる。
主郭は堀切や横堀で防御され、東側に帯曲輪を置く。必見は、北側に執拗に設けられた三重の横堀と土塁だ。横堀の幅は、主郭に近いほうから10m、6m、9m。遮断線としては強力で、先端は北斜面にまわり込む。横堀の土塁は版築で、帯曲輪だった場所に横堀を入れた可能性がある。上津浦氏と栖本氏の構想の激しさを示す遺構といえよう。
北斜面10m下にある、横堀群を補強するように長さ45mほどの横堀にも目を見張る。横堀の両端が竪堀となって、北斜面の防御を固めているのも見逃せない。
昭和30年代まで曲輪や南斜面は耕作地だったため地形が改変されているが、全体的にはよく残っている。
交通
・熊本天草幹線道路知十ICから車で約25分参考文献
・『史跡棚底城跡整備活用基本計画書』天草市教育委員会、2017年。