棚底城(たなそこじょう)

棚底城の基本情報

通称・別名

所在地

熊本県天草市倉岳町棚底1529

旧国名

肥後国

分類・構造

丘城

天守構造

築城主

不明

築城年

不明

主な改修者

主な城主

上津浦氏、栖本氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、堀切

指定文化財

国史跡(棚底城跡)

再建造物

周辺の城

上津浦城(熊本県天草市)[8.4km]
小宮地城(熊本県天草市)[15.1km]
本渡城(熊本県天草市)[15.3km]
佐敷城(熊本県葦北郡)[20.2km]
大矢野城(熊本県上天草市)[20.8km]
田川内城(熊本県八代市)[24.2km]
水俣城(熊本県水俣市)[24.2km]
久多良木城(熊本県八代市)[24.7km]
原城(長崎県南島原市)[25.0km]
瀬詰崎台場(長崎県南島原市)[25.0km]

棚底城の解説文

棚底城(たなぞこじょう)は、熊本県天草市倉岳町棚底にある山城。

歴史 

築城年代、築城者は定かではない。戦国時代の天草を分割統治した天草五人衆(天草氏・志岐氏・上津浦氏・栖本氏・大矢野氏)のうち、上津浦氏と栖本氏が争奪を繰り返した城だ。

『八代日記』によれば、天文13年(1544)までは上津浦氏の城だった。栖本氏の所有となると、上津浦氏が奪還すべく何度も戦いを仕掛けた。

永禄3年(1560)、最大の抗争戦が起こると、棚底城は相良氏の斡旋によって栖本氏から上津浦氏へ返還され、再び上津浦氏の支城となった。書状からも、上津浦氏にとって譲れない拠点だったことがうかがえる。

棚底城をめぐる争いはその後も続き、永禄9年(1566)には栖本氏が棚底城を攻めている。しかしこの年以降の八代日記の記録はなく、棚底城がどうなったかはわからない。

天正7年(1579)には、天草五人衆が島津に降伏。棚底城はこの時期までに廃城になっていた可能性が高い。

遺構 

天草諸島でもっとも高い標高682mの倉岳から、棚底川に沿って東へ派生する尾根に築かれている。地元ではタカジョウと呼ばれるという。

標高91mの最高所を主郭として、東側へ尾根上に階段状に8つの曲輪が並ぶ構造だ。さらに南斜面などに大小の平坦面が設けられている。中世の天草諸島では単郭の城が多く、棚底城のように多数の曲輪が並ぶ城は天草五人衆の居城や拠点城郭に限られる。また、1本の尾根線に曲輪が連続して配置される城は棚底城だけで、大規模かつ特殊な縄張の城といえる。

主郭は堀切や横堀で防御され、東側に帯曲輪を置く。必見は、北側に執拗に設けられた三重の横堀と土塁だ。横堀の幅は、主郭に近いほうから10m、6m、9m。遮断線としては強力で、先端は北斜面にまわり込む。横堀の土塁は版築で、帯曲輪だった場所に横堀を入れた可能性がある。上津浦氏と栖本氏の構想の激しさを示す遺構といえよう。

北斜面10m下にある、横堀群を補強するように長さ45mほどの横堀にも目を見張る。横堀の両端が竪堀となって、北斜面の防御を固めているのも見逃せない。

昭和30年代まで曲輪や南斜面は耕作地だったため地形が改変されているが、全体的にはよく残っている。

交通 

・熊本天草幹線道路知十ICから車で約25分

参考文献 

・『史跡棚底城跡整備活用基本計画書』天草市教育委員会、2017年。

文:萩原さちこ


棚底城の口コミ情報

2024年07月10日 血圧高い系男子RED副将軍
内野河内城[棚底城  周辺城郭]



中世は大矢野氏、近世は寺沢氏の属城と考えられる連郭式山城🏯

オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎

築城年代や築城主等の詳細不詳。
戦国時代には大矢野氏の属城であったと考えられています。大矢野氏は天草五人衆(他に天草氏、志岐氏、栖本氏、上津浦氏)のひとつに数えられる天草上島東部を勢力圏としていた国人領主です。
その後、関ヶ原の戦い後に天草を治めた寺沢氏により近世城郭に改修されたと考えられています。

見所
倉江川北岸の丘陵先端に築かれています。
北東から南西に伸びた丘陵上に大きく3つの曲輪を展開し、それぞれは堀切で区切らています。
南西端の曲輪は石垣造りの近世城郭に改修。寺沢氏によるものとされ、現在は石垣造りの枡形の内部に天照皇太神宮が祀られています。
中央の曲輪は北側面に横堀と畝状竪堀群があり、北東の曲輪には堀切と竪堀がある様ですが、全体的に背丈以上のヤブで覆われており遺構を判別することが困難でした。整備の手が入ればポテンシャルのある城跡と思います。

行き方は、内野河内地区多目的集会所を目標に設定。駐車場をお借りして南東麓へ回り込むと登城口があります。所々に案内の標柱が立っています。比高は約30mです。

2024年05月20日 龍馬備中守【】
栖本城[棚底城  周辺城郭]



熊本県の天草市の湯船原町にある【栖本城】♪湯船原城とも呼ばれ天草五人衆の1人である栖本氏の代々の居城です♪城跡は湯船原の南方、標高60mの帯状型の山稜で南西方向に主軸を呈し、山頂部分を中心に城郭を造り込みます♪南側、眼下には栖本湾が広がり、栖本氏もまた、天草の入り組んだ海岸線と港を掌握した在地領主です♪
天草は海岸の小平野毎に城郭と集落を構え、山間部を挟み、違う領主のエリアという形で成り立ちます♪なので、海岸沿いに城郭が多い特徴を持ちます♪コレは、険しい山々から成る天草の地形的な制約から、限定された平野部と海岸により生産、生活の主軸を置く事で、必然的に、海岸沿いに城郭が多くなったのでしょうね♪また、栖本氏はキリシタンでもありますので、海から入ってくる異国の船を迎えるにはやっぱり、港は必要不可欠だったのでしょう♪

この栖本氏は肥後・菊池氏の一族と伝わります♪菊池則隆の子である小島次郎保隆を祖と云われています♪栖本氏は天草上島の栖本を中心に勢力を拡大していますが、戦国時代に至るまでの事蹟は不明な点が多いです。

応仁元年(1467年)京都での『応仁の乱』後の天草では国衆である栖本氏、大矢野氏、天草氏、志岐氏、上津浦氏ら(後の天草五人衆)は一揆を結び、世の動きに対応しようとしています♪文明15年(1483年)人吉の相良為続が八代の名和顕忠を攻めた際には栖本氏、志岐氏、上津浦氏らは相良氏に味方して兵を出しています☆

相良氏が八代を支配下に置いたのを見た肥後守護・菊池能運は相良氏と対抗し相良氏を八代から人吉に追い払っています☆この時、天草の各氏は相良氏を見限り菊池氏に従いました。より強力な勢力に付く事で、自らの勢力を維持・拡大に努めています♪

その後、菊池氏は内訌などがあり、勢力を失い再び相良氏が八代まで支配下に置くようになると、栖本氏ら天草諸氏は相良氏に従っています♪天文13年(1544年)栖本氏は相良義滋に面会し兵部少輔を称する事を願い出て許されています♪以後の栖本氏は相良氏との関係強化に努めました♪

天文13年(1544年)栖本氏は上津浦氏の棚底城を攻略☆更に上津浦城を攻撃して天草上島の主導権を掌握していますが、以後は栖本氏は上津浦氏との続く抗争に発展。。。
天文20年(1551年)上津浦氏は天草・大矢野と連合し栖本氏を攻撃。これには有馬氏も援軍を送っています。弘治2年(1556年)棚底城を奪還され上津浦氏の攻勢に敗れ領内の浦々を攻撃されています。
栖本氏は、人吉の相良氏に援軍を求めましたが、上津浦氏は天草・志岐氏と連合して再び栖本を攻撃☆戦いは栖本氏の劣勢で、相良氏の援軍も上津浦氏の攻撃を受けて敗戦…。。
しかし、相良氏の援軍は続々と栖本に到着し、さらに天草氏との間に和議が成立しました♪
しかしながら上津浦氏の栖本攻撃は続けられ、戦いは決着が付かないまま、次は栖本氏の上津浦氏に対する反撃が開始されていますが、しかし、上津浦氏を攻略する事叶わず、戦いは膠着状態となっています☆その後、相良氏の援軍が引き上げた事により上津浦氏が攻勢に出てきました☆これに対し栖本氏は天草氏と結んで反撃、戦いは再三行われました。

永禄元年(1558年)天草勢が上津浦を攻撃していますが敗戦☆勢いにのる上津浦氏は、翌、永禄2年(1559年)栖本氏を攻撃してきました☆翌、永禄3年(1560年)にも栖本氏は上津浦氏の攻勢に晒されました☆不安定な情勢の中、天草進出を目論む肥前・島原の有馬氏が上津浦に出陣し、更には栖本に着陣しています☆これをみた人吉・相良氏も、天草に兵を送っています☆戦況不利と悟った有馬勢は上津浦で戦うも結局、兵を引き上げています。。

やがて、永禄8年(1565年)栖本氏は志岐氏と和睦♪ところが、上津浦氏、天草氏、大矢野氏らが連合して志岐氏を攻めた為、栖本氏は上津浦氏と合戦となりました。相良氏は栖本氏を支援し兵を派遣しますが、上津浦氏は栖本の内河内を攻撃。その一方で、天草氏・志岐氏、さらに人吉・相良氏との間で和平交渉が行われ、和睦が成立しています♪そして、翌、永禄9年(1566年)栖本氏と上津浦氏の和議が進められ、長きに渡って行われた抗争に終止符が打たれました♪

2024年05月17日 龍馬備中守【】
宮田城[棚底城  周辺城郭]



熊本県の天草市の倉岳町宮田にある【宮田城】♪標高626mの矢筈嶽から南に伸びる尾根から一部切れ間を見せる尾根ですが、山塊は南側へと続き扇状地扇端の独立丘に城郭は立地しています♪西側には砥石川、東側にも八代海に流れる2本の川を外堀として活用し入り江(舟入)に面します♪

このエリアは『天草五人衆』上津浦城を本城とする上津浦氏の領有する場所です♪棚底と栖本領との境目にあたる宮田城は二重横堀と腰郭群を持ち主郭背後には二重堀切、更には畝状竪堀群をも持ち合わせました♪遺構の残り具合は良好で、境目の城に相応しい形相をしています♪上津浦氏の領有するエリアだけに、宮田城もまた、上津浦氏の城郭なのでしょう♪

上津浦氏は、戦国天草時代まで、天草を支配を支配していた国人領主です♪天草五人衆である上津浦氏は現在の天草市有明町を中心に勢力を持っていました♪
14世紀前半の古文書には上津浦次郎入道という名があり、この頃から上津浦氏の存在が確認されています♪16世紀前半に入ると天草五人衆は、互いに覇権争いを繰り返します♪
時には、人吉・相良氏と組んだり、時には島原・有馬氏と組んだりし、争いは絶えず行われています☆
上津浦氏は人吉・相良氏と組んだりして、他の天草五人衆と幾度も抗争を繰り返しました☆およそ30年にも渡る抗争は天草全土を巻き込んでいます(1532年〜65年頃まで)☆
特に…栖本氏との抗争が激しく行われています☆

天草五人衆はキリシタン領主として、在地を納めていましたが、上津浦氏もまたキリシタンで、五人衆の中では最も遅くキリシタンとなっています♪
天正14年(1586年)秀吉による九州征伐が開始され翌、天正15年(1587年)薩摩・島津氏は秀吉に屈服しています☆
この間、上津浦氏ら天草五人衆も秀吉に拝謁していて島津軍の討伐に加わっています☆
この戦後、本領を安堵され、新たに肥後の領主として入部してきた佐々成政に属していますが、その後直ぐに肥後国人一揆が起こり、情勢は悪化☆乱は制圧されましたが、佐々成政は鎮圧出来なかったと責任を問われて自害☆
そのあとの肥後は二分されて、北部を加藤清正が領有し南部を小西行長が領有するとなり天草五人衆は小西行長の与力となっています☆
天正17年(1589年)宇土城の普請に着手した小西行長ですが、天草五人衆に手伝いを命じましたが、これに志岐麟泉が反発し志岐城に立て籠っています☆上津浦種貞や他の天草衆は、はじめ静観していましたが、やがて志岐氏に加担して小西行長、加藤清正らと戦っています☆
戦いは激戦となり天草衆の敗戦で終了☆
志岐氏は国外に逃亡しています☆
上津浦氏らは本領を没収された上で改めて小西氏の家臣に組み込まれています☆

この出来事により天草の戦国時代は終焉を迎えています☆その後の上津浦氏は、大矢野氏、栖本氏と共に肥後・細川家に仕えました♪

竪堀の基点に石積み♪要害山城を彷彿とする造りが見所でありました♪

2024年05月13日 龍馬備中守【】
ガウトウの「山ン城」[棚底城  周辺城郭]



熊本県の天草市の松島町にある【打越城】♪鋸岳から西へ伸びた支尾根の1つで、標高110m程の山に城郭は立地します♪北には次郎丸嶽、南は鹿見岳、西に鋸岳、東側も山々が続く盆地は何処か、のどかで、閉鎖的な印象があります♪この集落山内にある打越城🏯地元では『山ン城』と呼ばれていて、今泉から教良木へ抜けるルート上の監視を目的とした城郭と思われます♪

内野河内城とは谷間(次郎丸嶽から流れる小川は内野河内城の西側を流れ倉江川と合流します♪)を挟んだ立地にある為、コチラも恐らく天草五人衆である大矢野氏の領有した地であり大矢野関連城郭では無いか?と考えるのが自然でしょうか??

戦国時代の明応10年(1501年)菊池武運の判物を天草一揆中に与えた時、大矢野から名代として合津氏が談合に参加しています(志岐文書より)♪合津氏は大矢野氏の家臣にあたる人物で、内野河内からは直ぐの北側にある合津の豪族として合津の港を掌握したのでしょう♪
また『四郎記』によれば、合津の庄屋九左衛門は、もと当地の地頭合津山城守の子孫であり、いずれにせよ中世において、この一帯は楠甫(有明町)、内野河内、姫浦あたりを含めて大矢野氏の勢力下にあったものと思われます♪
この内野河内にも同様の豪族が居たのかも知れませんが、記録が薄い為、中世の打越城も、内野河野城も詳細は分かりませんが、立地的に合津氏は怪しい……気がします☆

内野河内より西側は山深い念珠岳♪更に西側の棚底城付近からは同じく天草五人衆の1人、上津浦氏、栖本氏の領有する地になっていそうです♪
因みに、天草で名を馳せた領主達の共通点は港を掌握している事にある為、内野河内の地は山に隔たれた盆地の為に、大矢野氏、または合津氏の下に付いていた存在があったのかも知れません♪何しろ記録が無いので、妄想の域です☆

内野河内集落で記録が出てくるのが寛永14年(1637年)天草・島原の乱の際には村民の半数が一揆に加わっています☆
同年一一月六日の天草にて切支丹に立帰申候村々覚(細川家記)に「此村も半分切支丹に成申候」と残ります☆
集落内には五輪塔・宝篋印塔が散在します☆中世寺院の存在推定もされますが、これに関する記録は残っていないのは、こういったキリシタン的な理由なのでしょうね☆

天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州仕置後、天正17年(1589年)天草合戦を経て、天草全域が小西行長の領となっています♪

小西行長領となった天草ですが、一揉めあり☆天正17年に小西行長は宇土城の普請夫役を与力となった5人衆に命じています☆ところが…天草5人衆である志岐麟泉は.これを拒否していて、大矢野氏を含む他の4氏もこれに同調します☆
秀吉には服属するも、行長とは与力の立場で、同格と見ていたのが拒否の原因であった様です☆戦には参軍するが、私城の修復にまで手伝う必要はないというスタンスです☆
怒った小西行長は、秀吉に訴えると直ちに討伐せよと命じました☆小西行長は家臣に兵3千を授け志岐城を攻撃するも全軍壊滅の大敗を喫してしまいます☆

そこで小西行長は隣国の加藤清正に援軍を求めていて、天草5人衆と小西行長と清正連合軍の戦いが勃発☆これが天正の天草合戦です☆
加藤清正は法華経を崇拝していた事と、豊臣秀吉からキリシタン禁制を掲げていた為に、この天草5人衆は徹底的に潰されていくのであります☆話が逸れてしまうので、ここ迄w
以上、打越城の口コミでした♪

主要部の虎口前にある石塁は広めな郭を目隠しし、区画している所が見所かな〜??低い石塁の上には塀を設けていたのでしょう♪

2024年05月11日 龍馬備中守【】
内野河内城[棚底城  周辺城郭]



熊本県の天草市の松島町にある【内野河内城】♪倉江湾奥の海岸より最短3キロの盆地♪鋸岳から西へ伸びた丘陵、尾根上に城郭は存在しました♪ココは今泉から教良木へ抜けるルート上です♪

築城年代、城主等の詳細は不明です☆が、同じく上天草にある大矢野城の城主・大矢野氏の支城群の1城だと考えられています♪後の天草五人衆と呼ばれる大矢野氏が1番最初に出てくる記録として鎌倉時代に元が九州北部へ2度にわたって攻め込んできた『蒙古襲来』の際となっています♪

その後の記録で再び大矢野氏が現れるのは戦国時代です♪戦国中期に志岐氏・天草氏・上津浦氏・栖本氏と大矢野氏の事を『天草五人衆』と呼ばれました♪う〜ん♪かっちょいい♪
九州統一を狙う豊後の大友氏、薩摩の島津氏、肥前の龍造寺氏などの影響を受けながらも大矢野氏は独立を保ち最終的には豊臣秀吉に従いましたが、大矢野氏は上天草エリアで約300年、豪族として栄えました♪

時は流れ…秀吉は九州を平定☆肥後南部の領有を許されたのは秀吉家臣の小西行長☆小西行長は大矢野氏ら『天草五人衆』を圧迫していきます☆コレは、天正17年に小西行長は宇土城の普請夫役を与力となった5人衆に命じています☆ところが…天草5人衆である志岐麟泉は.これを拒否していて、大矢野氏を含む他の4氏もこれに同調します☆

コレにより『天草五人衆』は小西行長に対抗していきました☆苦戦を強いられる小西行長ですが加藤清正を援軍として呼びます☆加藤清正を相手に善戦するも遂に『天草五人衆』は敗北☆後に大矢野氏は領地を失い小西氏の家臣となっていきます♪

その後、大矢野種基は小西行長に従い秀吉が命じた文禄・慶長の役に参陣するも討死☆
関ヶ原の戦いで西軍に力を添えた小西行長が滅ぶと、大矢野氏は加藤清正に仕え加藤氏改易後は細川氏の家臣となりました☆

実際の所は内野河内城は誰の城だったか?分かってはいませんが、恐らく立地的にヤッパリ大矢野氏の被官の城であり、大矢野城の支城群の1つでしょうかね〜♪

城内には石垣で築かれた枡形(神社が立っている場所)が残っているのですが、コレは唐津、飛地で天草を領した寺沢氏によって改修されたと考えられています♪
この時の在城者は…寺沢氏の家臣でしょう♪
中世期の横堀と畝状竪堀群の合わせ技に大堀切を持ち合わせた内野河内城♪中世にはどんな立ち位置で、生きたのか?気になる所です♪
時代は中世城郭から近世城郭へ♪城郭を改修しようとした結果が石垣として残っています♪横堀とセットとして築かれた畝状竪堀群は天正前半期に豊後国・大友氏の影響下で採用された可能性があります♪

因みに、後に起こる『天草島原の乱』の際には、この内野河内の住民の半数が、一揆勢として参戦しています☆

2024年04月27日 薩摩安房守義弘維新斎
棚底城



棚底城址には、土地柄公共交通機関がないため、車で訪れることをオススメします。ちょうど訪れた日がゴールデンウィークでもあったため、城の入口周辺に鯉幟があって場所の特定が難なくできました。

城跡は、急な登り口に仮設の足場が設置されており、苦労することなく曲輪まで行けます。曲輪が連なってあり、堀や切岸などを確認できます。また、曲輪には一部石垣が残っています。ここは、非常に整備がよく説明板が設置されているため、城の状況がよく理解できます。

2024年02月06日 じょーうん隠岐守
棚底城



整備はイマイチという口コミがありましたが、全然そんな事はありません。
登山口には階段が設置され、無駄な木がどんどん伐採されてます。
中ほどの曲輪には東屋が設置され、案内板に城の事が詳しく書かれてます。
24年1月現在主郭部分は工事中です。ネットで見れる棚底城の整備計画によると、居館跡がわかるような整備になる模様です。

2023年09月10日 陸奥守新九郎
棚底城



コンパクトで良いお城です。石垣は見事。。。国指定史跡ですが、整備はイマイチでした。

2022年10月31日 気分爽快安芸守
ガウトウの「山ン城」[棚底城  周辺城郭]



入口周辺は藪化が激しいですが、暫くすると山道らしきものがあり、後は上に向かって進むのみ。3郭、1郭には石積みが確認でき、1郭の先に大きな堀切があります。

④2郭横の竪堀
①1郭先の土橋
②1郭先の堀切
③2郭への登り口
⑤3郭の石列
⑧登り口
⑥2郭から1郭を見たところ
⑦3郭入口

2022年10月31日 気分爽快安芸守
棚底城



登城口に車を停めるスペースがあります。藪もなく石積みがしっかりと確認でき、非常に歩きやすい城です。2郭は修復中でした。

2022年07月15日 国府左京大夫城介
棚底の石垣[棚底城  碑・説明板]



棚底の石垣とこぐり

【由来等】
冬季には、棚底の集落の背後にある天草最高峰である倉岳(標高682m)の名を冠する「倉岳おろし」と呼ばれている強烈な北風が吹き荒れます。その北風対策として、防風用の石垣を屋敷の北西から北東側にかけて鉤状に造られたのが、棚底の石垣です。
この地は安山岩が豊富であり、その安山岩を活用し、野面積みで築かれています。
いつ頃から築かれたのかは不明ですが、隅部が算木積みになっているものもあり、古くても江戸中期頃と云われています。中には5mを超え、見事な曲線を描く石垣もあるとのことです。
防風用の石垣は、棚底城の南側にある扇状地形、約1.3kmに渡り、古くからある宅地にはほぼ100%石垣が築かれている。
また、集落内には「こぐり」と呼ばれる地下式用水施設もあり、それも見事な石積みで築かれています。

【感想】
棚底の集落を歩くと、立派な石垣に囲まれた宅地があちらこちらにあります。場所によって、高さは区々ですが、自分が見た範囲では4m近い石垣もありました。ただの防風用の石垣なのですが、見る方向によって、天守台や櫓台と見間違えてしまう立派な石垣もあります。棚底城をリア攻めした際には、是非この棚底の石垣を堪能してください。城好きの人にはたまらない集落です!
当然のことながら、現在も住人の方がおりますので、見学の際は注意してください。また、昔のままなので、かなり道は狭いです。

なお、スポット地点は、「棚底の石垣」の説明版がある場所となっています。

【アクセス】
産交バスで、「本渡バスセンター」から「松島」行きに乗り、「棚底」で下車。

【写真】
①説明版「棚底の石垣」
②説明版「こぐり」
③~⑦棚底の石垣
⑧こぐり

2022年07月04日 国府左京大夫城介
棚底城

棚底城の公共交通機関でのリア攻めについて

産交バスで、本渡バスセンターから松島行きに乗車し、棚底で下車し、徒歩10分で登城口に着きます。登城口から主郭まで約10分となります。

見学に適したバスは、本渡を7時、10時、12時に発するものであれば、帰りのバスまで75~120分程あるので、充分に棚底城を堪能することが出来ます。

天草にある城をバスだけで攻略するのであれば、熊本からの高速バスの往復券付きの乗り放題切符があるので、とても便利です♪

2022年04月24日 昌幸近江守更に吉
ガウトウの「山ン城」[棚底城  周辺城郭]



上天草市にあるガウトウの「山ン城」。(登城口の標柱には「山ン城」とのみ記されています)鋸嶽から連なる尾根上に築かれました。麓に内野河内城があり、それの詰め城もしくは遠見番所とされています。築城時期・築城者は不明のようです。

県道34号沿いの内野河内変電所の向かいにスペースがあり駐車できます。小道に入ると左手に標柱があり登城口となります。登城し始めて、しっかりした道と段曲輪が現れ「これは登りやすいかも」と思うのですが、残念ながら城の遺構ではなく移転済の廃墓地のようです。墓地エリアを過ぎると道はなくなります。基本、直登でOKなのですが、ピンクリボンなどの目印は一切ありません。墓地エリアを過ぎて、直登し10分ほどで三郭に着きました。

縄張は3つの郭から成る連郭式の城です。虎口と思われるところに石積みがあり、主郭背後には二重堀切と土橋が見られます。

【写真の説明】
①石積みでできた三郭虎口。
②虎口からつながる石積み。
③三郭からニ郭へつながるスロープ。
④ニ郭から主郭へつながるスロープにも石積みが。
⑤主郭背後の二重堀切。奥の堀切には土橋がある。
⑥手前の堀切をピックアップ。
⑦堀切からの竪堀。
⑧土橋をピックアップ。

2021年12月14日 榎晴信肥後守
宮田城[棚底城  周辺城郭]



宮田城は棚底城の南西約3キロ標高約70メートルの独立丘にあります。城山は三角形で南西側に四段の腰曲輪があり南東側にも四段の腰曲輪が付きます。

南西側に二重の横堀があり北西側に大きめの竪堀二本とその間に小さめの竪堀二本があり防御壁を構成します。

北側尾根は三重の堀切、その斜面には竪堀群、堀切先端は横堀化して竪堀に連結と北側の防御を固めています。小さな城ですが盛りだくさんの城となってます。

全体の防御は西側に厚く栖本方面からの敵を想定したものでしょう。上津浦衆と栖本衆、戦国期を通してついに和睦する事がなかった戦いの中心の城です。

2021年04月27日 榎晴信肥後守
栖本城[棚底城  周辺城郭]



栖本城は湯船原城とも呼ばれ天草五人衆の一人栖本氏代々の居城でした。
天草五人衆の上津浦氏と争いを繰り返し棚底城を取ったり取られたりしています。
秀吉の九州討伐後も本領安堵されていましたが小西行長の宇土城普請を拒んで他の天草衆とともに小西行長、加藤清正に攻められ降伏しました。

現状は本丸は公園になり東側の一段下がった二の丸には水道の施設が造られています。さらに東側に一本の堀切が残ってます。

2020年12月09日 播磨守狂鬼人間
棚底城



駐車スペースに3台駐車可能で山頂には10分で着きます。

2016年08月03日 日高守きこりん
棚底城

国史跡らしく、国道266号からちゃんと道標があり、迷わず到着できます。駐車場あり(周辺に公共交通機関は無いそうです)。
登城口にパンフレットありますが、事前に天草市HPからPDFで入手することもできます。
登城口からすぐに城域で、しっかり作り込まれた郭が連なっています。堀切や三重の横堀で守られた広い主郭は見応えがあります。整備も良好で見やすかったです。
順路通りに下ってきたら、ぜひ集落内を散策してみてください。遠目には生垣にも見える、塀のような防風石垣が各民家を囲っている独特な風景が見られます。なかなか他の土地にはない面白いものだと思います。また田んぼの中にはコグリと呼ばれる石積みの暗渠の用水路が見られます。

棚底城の周辺スポット情報

 棚底の石垣(碑・説明板)

 栖本城(周辺城郭)

 宮田城(周辺城郭)

 ガウトウの「山ン城」(周辺城郭)

 内野河内城(周辺城郭)

「ニッポン城めぐり」を始めるには?

「ニッポン城めぐり」は、iPhone・androidの両アプリに対応。
利用料金は無料、アプリ内の課金も一切ナシ!いますぐ城めぐりを始めてみよう!

スマートフォンからのアクセス方法

app store app store  ■iPhone
 AppStore で「ニッポン城めぐり」を検索。

google play ■Android
 Google play で「ニッポン城めぐり」を検索。

スマホを持って城をめぐろう!スマホでお城スタンプラリーゲーム「ニッポン城めぐり」 ニッポン城めぐりとは? GooglePlay Appstore