水俣城(みなまたじょう)
水俣城の基本情報
通称・別名
- 陣内城、陣の城
所在地
- 熊本県水俣市古城町
旧国名
- 肥後国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 水俣四郎
築城年
- 治承5年(1181)頃
主な改修者
- -
主な城主
- 水俣氏、相良氏、上村氏、犬童氏、島津氏、深水氏、寺沢氏、小西氏、中村正師(加藤氏家臣)
廃城年
- 慶長17年(1612)
遺構
- 曲輪、石垣、井戸跡
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
佐敷城(熊本県葦北郡)[13.4km]
出水城(鹿児島県出水市)[16.3km]
高尾城(熊本県葦北郡)[17.0km]
木牟礼城(鹿児島県出水市)[19.9km]
棚底城(熊本県天草市)[24.2km]
大口城(鹿児島県伊佐市)[25.3km]
久多良木城(熊本県八代市)[26.6km]
渡利城(熊本県球磨郡)[27.9km]
小宮地城(熊本県天草市)[28.1km]
阿久根城(鹿児島県阿久根市)[28.8km]
水俣城の解説文
[引用元:Wikipedia「水俣城」の項目]
水俣城(みなまたじょう)は、熊本県水俣市古城に存在した中世の丘城。
概要
水俣市中心の古城1丁目にある標高約30mの独立した丘陵に位置する。城域は古城と高城に分かれ、本城にあたる古城からは石垣や瓦の破片が出土したが、南東に続く小山の高城では遺構は確認されていない。1978年に水俣市が城跡に運動公園を造成し、地下から石垣が検出された。
歴史
水俣を本拠として葦北郡を治める水俣氏がかつて城主を務めており、至徳2年2月4日(1385年3月23日)の今川了俊の書状に城名が記されているのが当城の最も古い記録である。やがて本郷氏が入った後、南北朝時代から葦北へ進出を図っていた相良氏が長禄4年(1460年)に水俣を支配下に入れた。大永4年(1524年)には相良長定が幼い相良長祗を人吉から追い、当城の裏山で長祇は自殺している。
弘治3年(1557年)に水俣城主の上村頼興が死ぬと、息子の上村頼孝らは相良義陽に反乱を起こした。水俣城を与えるという条件で頼孝は帰参したが、義陽により謀殺されている。永禄2年(1559年)5月21日、頼孝の叛乱に与し関係の悪化していた菱刈氏により落城させられているが、翌3年(1560年)に天草の上津浦氏が仲介となり、相良側より水俣内の12の屋敷を菱刈氏に割譲することで、7月3日に城を譲渡させている(『八代日記』)。天正年間に入ると隣接する島津義弘との対立が始まり、海陸から攻撃が加えられた。天正9年(1581年)には島津勢が大軍で水俣城を囲み、城主の犬童頼安が籠城したが、義陽は葦北郡を島津氏に割譲して降伏し水俣城から撤収した。
島津氏は古墻大炊大夫を地頭とし、当城に置いた。九州征伐後は葦北郡は豊臣秀吉の直轄領となり、天正15年(1587年)に深水長智を当地の代官および水俣城・津奈木城の城代に任命した。その後、相良氏や寺沢広高が城代を務め、慶長3年(1598年)に寺沢領となった。翌慶長4年(1599年)に小西行長、さらに同5年(1600年)には加藤清正領となっている。清正は中村正師を城代にしたが、慶長17年(1612年)に江戸幕府の命で宇土城、愛藤寺城とともに破却された。
参考文献
- 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典(43.熊本県)』、角川書店、1987年
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水俣城の口コミ情報
2022年05月13日 数珠丸恒次左近衛大将ヒロティー
水俣城
公園の上?が遺構的な物がありますがはっきりとはわかりませんでした
2022年05月04日 タナキク肥後守
水俣城
駐車場はグラウンド南側に何台もありますよ。本丸跡?の破却石垣、グラウンド脇の2段ほどの石垣列が遺構かなと。削平地が周りにあって、それっぽいですが。
2022年05月02日 不動明王之介
水俣城
はっきりとわかる遺構は井戸跡くらいしかありませんが、石垣に使われていた石がそこら中に見られます。
2021年02月20日 相模守こうちゃん播磨の守♡
水俣城
R3号線を南から訪問💨国道に「水俣城跡」との道標は見当たらずで、水俣市城山公園を目指して下さい☝️駐車場は城山公園駐車場と東福寺の南に有る2台停めれる駐車場有ります☝️トイレは城山公園側にも東福寺にも有り☝️
案内板を読んでいると破却廃城らしく、遺構が無惨の様な🤨
城山公園南に官軍墓地「陣内官軍墓地」が有ります。
2019年07月28日 織田上総介晃司
水俣城
水俣城近くの小さな公園に2台(障がい者用スペースが1台)停めれる駐車場とトイレがあります。