愛藤寺城(あいとうじじょう)

愛藤寺城の基本情報

通称・別名

矢部城、相藤寺城、愛東寺城

所在地

熊本県上益城郡山都町白藤

旧国名

肥後国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

阿蘇惟次

築城年

貞応元年(1222)

主な改修者

小西行長、加藤清正

主な城主

犬飼氏(阿蘇氏家臣)、結城氏(小西氏家臣)、長尾氏、加藤氏(加藤氏家臣)

廃城年

慶長17年(1612)

遺構

石垣、曲輪、横堀(空堀)、堀切

指定文化財

町史跡(愛藤寺城跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

岩尾城(熊本県上益城郡)[4.2km]
向山城(宮崎県東臼杵郡)[17.9km]
堅志田城(熊本県下益城郡)[18.3km]
御船城(熊本県上益城郡)[19.1km]
木山城(熊本県上益城郡)[22.2km]

愛藤寺城の解説文

愛藤寺城(あいとうじじょう)は、熊本県上益城郡山都町に存在した城郭である。別名、矢部城ともいう。

概要
愛藤寺城は阿蘇氏によって白糸台地の南端に築かれた山城である。小西行長によって近世城に改築され、さらに加藤清正の修築を受けた。目下のところ熊本県におけるクルス瓦(キリシタン瓦)の唯一の出土地点として知られている。

城地は昭和46年(1971年)11月25日に山都町指定史跡となり、クルス瓦は同49年(1974年)1月14日に山都町指定文化財になった。

構造
愛藤寺城は、緑川と千滝川の峡谷に挟まれた狭隘な台地上にある、3つの尾根にまたがるよう位置している。北から南に向けて緩やかな弧を描きつつ、ところどころに尾根が突き出しながら総延長約560メートルにわたり城域が拡がっている。その三日月状をなす城域の中央付近から西へ突き出る尾根によって同城の縄張は、一見するとあたかも北西に頭を向けて両翼を大きく広げた鶴のようでもある。

城域の中央には旧登城口と重なるように林道が南北に貫いており、南北どちらからも160メートルほど入り込んだ辺りでややまとまった平坦地が存在し、城郭の主要部分とみなされる。この平坦地には南北それぞれに高さ数メートルの小丘陵が存在し、北を伝二の丸、南を伝本丸、伝本丸より西へ突き出る尾根を伝三の丸とする連郭式の体をなすが、これまでに行われた調査の過程で伝二の丸丘陵の方が標高が高く、面積も広いことが判明し、本丸と二の丸との位置関係は本来逆であったとみられる。

一方、城内から大小の石を出土する事により石垣の存在はかねてより示唆されていたが、平成19年(2008年)、大雨による土砂災害で埋もれていた石垣の一部が発見され、その残存が確認された。同22年(2010年)の調査によって、その分布は伝本丸から伝三の丸にかけてのほかに、城域最北端の通路東に隣接する小丘陵でも確認されており、その付近の旧地名「城門」と併せて高楼の存在を窺わせている。
石材は安山岩だがかなり硬質で、加工痕跡を明瞭に留める石材はきわめて少ないものの、矢を用いた割石を積み上げており、隅石には算木積みを用いている。

現状での出土遺物は瓦が主で、県内唯一のクルス瓦のほか、巴紋の軒丸瓦などが出土している。クルス瓦はこれまでに4点の追加出土をみているが、やはりその出土は同城内に限られている。ただし分布域は石垣検出部全域に拡散する形となっており、2次利用の可能性が高い。

歴史
愛藤寺城の起源は貞応元年(1222年)、阿蘇大宮司阿蘇惟次が天台宗系寺院の愛藤寺を移転させた跡地に城を築いた事によると伝えられる。

文正元年(1466年)、肥後国守護菊池為邦に破れた阿蘇惟忠が同城へ立て篭っている。...

愛藤寺城の口コミ情報

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