陣ノ内城(じんのうちじょう)
陣ノ内城の基本情報
通称・別名
- 陣ノ内館、陣の内館、陣の内城、陣内館
所在地
- 熊本県上益城郡甲佐町豊内
旧国名
- 肥後国
分類・構造
- 丘城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 不明
主な改修者
- 小西行長?
主な城主
- 阿蘇氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 国史跡(陣ノ内城跡)
再建造物
- 碑
周辺の城
-
堅志田城(熊本県下益城郡)[3.3km]
御船城(熊本県上益城郡)[7.3km]
竹崎城(熊本県宇城市)[10.0km]
隈庄城(熊本県熊本市)[10.8km]
曲野城(熊本県宇城市)[11.5km]
木原城(熊本県熊本市)[12.0km]
健軍陣内城(熊本県熊本市)[15.3km]
木山城(熊本県上益城郡)[15.4km]
黒淵城(熊本県八代市)[15.7km]
愛藤寺城(熊本県上益城郡)[16.0km]
陣ノ内城の解説文
陣ノ内城の口コミ情報
2023年06月12日 mootze
陣ノ内城
見晴らしのいい館跡、土塁、まぁ普通のお城と思いましたが、裏にまわって山側の堀の大きさにビックリ、なかなかやるなぁ、と感心しました。
2023年06月12日 Maru姫22
陣ノ内城
堀のほうに進んで、驚くほど大きな堀を見たほうがよいです。
2023年01月12日 陸奥守新九郎
陣ノ内城
なかなか評価が難しいお城です。小西の城ということですが、一時期の城ではないことは明らか。さらには、本当に小西と言えるのか・・・
2022年11月22日 曲輪但馬守削平
2km先・陣ノ内城跡駐車場[陣ノ内城 その他]
「陣ノ内城2㎞先駐車場」の看板があります。カーナビを駐車場にセットして行ったのですが、駐車場のない南側の道に入ってしまいました(通り抜け不可)。カーナビをここにセットすればあとは一本道で問題なく駐車場に行けると思います。マップコードは「291 547 052*43」です。
2022年09月11日 RED副将軍
陣ノ内城
令和3年10月に国史跡にも指定された良好に残存する織豊系城郭🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
築城年代等の詳細不明。
阿蘇惟時、阿蘇惟前の館とも伝えられています。
阿蘇大宮司の阿蘇氏の館跡と長年考えられてきましたが、2002年〜2008年の調査により阿蘇氏の拠点の跡に築城された織豊系城郭であることが判明しました。
築城は、豊臣系大名の佐々成政、小西行長、加藤清正による可能性が高いですが、小西行長が築城した他城郭に共通する点があることから、小西行長による築城と考えられています。
小西行長は関ヶ原で西軍に付き一族は滅亡したため、そのまま廃城となり、現在まで良好に残った様です。
見所
東西210m、南北190mの大規模な方形城郭。
周囲は土塁と空堀が巡り、北西と南東に虎口が開口。
残存状態は極めて良好で、昨年に国史跡に指定されたことより整備も進んでいます。
城域近くまで車で行くことができ、駐車場もありますが道が狭いのでご注意ください。
2022年08月29日 琉球守風のこうちゃん播守
陣ノ内城
堅志田城から訪問しました🤚
R443を北上して県道220号線を右折して小さな陣ノ内城跡の縦看板有ります☝️
が🤨ここから車で登城すると駐車場有りません😱
行き止まりになります😱
北側から行くと駐車場が有りますが道中がどうなのか、分かりません😶
現地、🚻無し…
2022年07月14日 国府左京大夫城介
甲佐城[陣ノ内城 周辺城郭]
甲佐の地における阿蘇氏の出城
【歴史】
14世紀に甲佐を本拠とした阿蘇氏の一門である恵良惟澄(九州における南朝方の将の一人で、名刀『蛍丸』の所持者)が築いたと云われている。
その後も、阿蘇氏の出城として機能し、戦国時代になると伊津野山城守が在城していた。
天正9年(1581)に、島津氏の阿蘇攻めの先陣を命じられた相良義陽の先鋒東掃部助によって、城主の伊津野山城守は日和瀬で討死にし、甲佐城は落城している。一度、阿蘇氏が取り戻しているが、天正13年(1585)の島津氏の再侵攻により落城し、そのまま廃城となった。
別名:松尾城、豊内(どいのうち)城
【遺構】
陣ノ内城の南東450mにある松尾山(標高90m/比高50m)の山頂に築かれている。
頂上付近に数段の曲輪が残っている。土塁や堀などの遺構はないが、「搦手」という小字が残っていたり、南西側に大量の五輪塔が発掘されたという。
【感想】
陣ノ内城の対面にある松尾山に築かれており、遺構は曲輪しか残っていないので、あまり見所はありません。公園として整備されており、遠くに堅志田城方面も望むことができます。奥の方に藪があり、そちらを探索しようと思っていましたが、自分が訪れていた時はずっとガサガサ音がしていたので探索していません。
【アクセス】
陣ノ内城から徒歩20分程。
【写真】
①説明版
②石碑
③曲輪
④頂上部の曲輪
⑤頂上から堅志田城方面を望む
2022年06月19日 笑門来猫
甲佐神社[陣ノ内城 寺社・史跡]
甲佐神社。鎌倉の御家人 竹崎季長が「蒙古襲来絵詞」を奉納した神社で、境内には甲佐大明神が現れたという願成桜。社殿内には蒙古襲来絵詞が複数掲げられ、話の流れも楽しめます。原本は宮内庁が管理しており国宝。
(日没間際で社殿内は真っ暗でしたが、なんとかみれて良かった^ ^)
2022年06月13日 左兵衛佐けんちん
陣ノ内城
火の国攻略、まずは陣ノ内城制覇(^^)整備されている方に感謝です。きれいにして貰ってます。あいにくの雨ですが、あと3つ攻めます!Gマップでは狭い道に案内され、かなり歩きましたが、きれいな道があります😅
2022年05月24日 源山城守@ポンコ2…
陣ノ内城
町役場前から「国史跡指定陣ノ内城」のノボリなど立ち、気合感じつつ城址へ。レンタカーナビには道がないものの、標識頼りに途中まで上がっていきました。平日の朝っぱらで誰もいなかったので、広い車幅のとこに路駐させていただきました(車幅は全体的に1台しか通れないとこがほとんどです)。アクセスの詳細は先達の方々口コミをご参照下さいませ。
城址の南側虎口付近に、パンフの入ったポストがあり、一部いただき城内へ。パンフあったら便利です。方形単館ながら、虎口の東から北、北の東西に延びる土塁、その外側の空堀の規模、土塁内側の館跡の広い平坦部は一見の価値ありかと思います。あまり防御を想定した造りではないので、水運や耕作地などの領地経営の拠点のようでした。駐車場側からは空堀に近づけられるようですが、今回は土塁上から見下ろしただけでも、ようこんだけ掘ったなぁと思わされました。
堀の土を土塁に活かした「あげつち」、堀と土塁の規模と相関関係からなるほどと思わされました。
2022年05月06日 摂政丸
陣ノ内城
緑町バス停が最寄りになりますが、2つ手前の甲佐止まりのバスでもそれほど離れてはいないので利用できます。甲佐小学校の先の国道を渡って県道を200〜300m歩くと徒歩での登城口への案内表示があります。左に曲がって100mほど歩くと今度は右に折れて徒歩15分との表示があり、ここから登ります。
前記の県道から曲がったところで車に道を譲ってから、徒歩で登城口から登り出したところ、道を譲った車を運転していた方が走って追いかけてきました。なにかと思えば、上に置いてあるリーフレットが切れているからと自宅から持ってきてくれました。
主郭では農家の方が草刈りをされていましたので邪魔にならないようにゆっくり一周。空堀はなかなかの深さです。リーフレットを持ってきてくれた方は「何もありませんよ」とおっしゃっていましたが、そんなことありませんよ。
2022年05月01日 三上駿河守
陣ノ内城
堅志田城跡から歩いて、徒歩75分かかりました。城跡というよりハイキングコースという感じでした。
2022年05月01日 戦国一番星
陣ノ内城跡駐車場[陣ノ内城 駐車場]
陣ノ内城跡駐車場です。城跡は目と鼻の先です。
2021年06月18日 榎晴信肥後守
陣ノ内城
陣ノ内館が陣ノ内城として今秋に国史跡として指定される見通しとなりました。
1980年に陣ノ内館跡として町文化財に指定され、中世の阿蘇氏館跡とされていましたがその後の測量、発掘調査で空堀や土塁で囲まれた大規模な城郭で構造が豊臣系の城郭と共通していることが判明して小西行長がもともとあった阿蘇氏の拠点に城郭を築いたとの見方が強まり国指定史跡の指定となったそうです。
遺構は幅20メートルの空堀が400メートルに渡って残りその内側に高さ5メートルの土塁があり見応えがあります。
陣ノ内城の周辺スポット情報
油坂(碑・説明板)
甲佐城(周辺城郭)
甲佐神社(寺社・史跡)
陣ノ内城跡駐車場(駐車場)
2km先・陣ノ内城跡駐車場(その他)
名称
昭和53年(1978年)の熊本県教育委員会による中世城郭の悉皆調査報告書が刊行されました。それ以来、本遺跡は現地に堀や土塁等が良好に残ることが注目され、昭和55年(1980年)に江戸時代の文献史料から阿蘇大宮司の館跡である「陣ノ内館跡」として、甲佐町で初めての町指定文化財になりました。その後、甲佐町が平成14年(2002年)度~16年(2004年)度に地形測量と確認調査を、平成20年(2008年)度から発掘調査と関連史料調査などを実施した結果、遺跡は阿蘇氏の拠点が置かれた場所に築城された織豊系城郭であることが明らかになりました。そこで、令和元年(2019年)度より遺跡の名称を「陣ノ内館跡」から「陣ノ内城跡」に変更しました。
国史跡
陣ノ内城跡は、これまでの調査を踏まえて歴史的価値がまとめられ、次の3点が評価され、令和3年10月11日に国史跡に指定されました。肥後国の中世城館の中でも突出した規模を持ち、保存状態が良好な城跡
陣ノ内城跡は甲佐岳から伸びる尾根の先端部にある標高100mの平坦地上に立地しており、麓との比高は64mです。現在の陣ノ内城跡は、約1.9ha(東西長145m、南北長132m)の平坦地の東側と北側を堀と堀の内側に沿った土塁が方形に区画しています。堀は直線を基調として東隅で直角に折れ、北隅では鉤型に折れています。その規模は長さ400mを超え、最大幅は20m、深さは5mの巨大なものです。その内側に沿った土塁の規模は長さ270mを超え、幅は15~30m、平坦面からの比高は5mになります。この土塁は「あげつち」と呼ばれており、堀を掘った時の土砂を積み上げて造られたことが発掘調査によって分かっています。
一方、発掘調査の結果、堀で囲まれた区画の中央付近と北側の土塁上で石列遺構を、区画の南側と西側で埋没していた堀や土塁、虎口などを検出しました。
埋没していた堀は直線を基調として西隅で直角に折れて、南側中央でも北側に屈曲しています。この堀は現在見られる東側と北側の堀にはつながっていません。堀の規模は長さ275m、最大幅8.5m、深さ2.7mです。堀の内側にも土塁が造られていましたが、19世紀以降にこの土塁を崩して南側と西側の堀を埋め立てたことが分かっています。そして、堀と土塁がつながらない北西と南東は虎口と考えられ、「きどまる」の地名が残る南東隅には幅2.4mの硬く締まった面(硬化面)がありました。
このように、陣ノ内城跡は「堀と堀の内側に沿った土塁が明瞭に残り、その規模は発掘調査で確認されたものを含めると、東西210m以上、南北190m以上の北西と南東に虎口をもつ方形の城跡」であることが明らかになりました。
この陣ノ内城跡の規模や構造は、中世の阿蘇氏の城館をはるかに凌ぎ、16世紀末から17世紀前半の中国産の輸入陶磁器が出土していることから、陣ノ内城跡の築城時期は、豊臣系大名が肥後国を治めた以降と考えられます。この場合、築城は佐々成政、小西行長、加藤清正によると考えられますが、豊臣系大名として初めて肥後国を治めた佐々成正は実質半年で失脚したことや、肥後国を治めた加藤清正の城が載る慶長9年(1604年)~12年(1607)頃の『肥後国絵図』には陣ノ内城が載っていないことに加えて、陣ノ内城跡のように本丸を直線的で屈曲した堀を用いて明確に区分する構造は、他の小西行長の城郭にも共通することから、小西行長による築城と考えられます。
このように、陣ノ内城跡は肥後国内でも突出した規模を持つ城郭であることに加えて、小西行長が関ヶ原で滅亡した後の加藤・細川氏の統治の時に使われなかったために、小西行長の城郭を現在まで良好に残す貴重な城郭といえます。
城跡のある場所は水陸交通の要衝であり、継続的に利用された
陣ノ内城は、緑川の流れが急流から緩やかになる河川交通の出発点に位置し、陸上交通では小西行長の本城の宇土城(宇土市)と支城の矢部城(愛藤寺城 山都町)を結ぶ領国内の中継地に築城されています。小西行長は、宇土城を起点とした領国内の統治をより安定させるためにこの地に陣ノ内城を築いたと考えられます。また、小西行長の城郭の多くが海や河川に近い場所にあり、行長が水上交通網を重要視していたことが窺える一方で、正保元年(1644年)~正保3年(1646年)の『肥後国絵図』では、支城が宇土城を起点にした道路で結ばれていたことも明らかになりました。この道路は現在まで続いており、宇土郡や益城郡、八代郡を結ぶ陸上交通の重要なルートであったと考えられます。陣ノ内城がある「甲佐」は、矢部を本拠に阿蘇郡や益城郡を治めた阿蘇氏にとっても熊本平野への進出口となる重要な場所でした。南北朝時代の古文書「恵良惟澄軍忠状」では「甲佐獄」や「甲佐城」、戦国時代の古文書『上井覚兼日記』では「甲佐の囲」が確認できます。
陣ノ内城を明確に記した一次史料は未確認ですが、陣ノ内城が立地する甲佐が要所であったことは明らかです。また、発掘調査では阿蘇氏が統治していた時期の中国産の輸入陶磁器が出土するので、陣ノ内城には阿蘇氏の拠点が置かれていたと考えられます。
これらのことから、城跡のある場所は水陸交通の要衝に所在し、有力者によって継続的に利用されたことが明らかになりました。
阿蘇氏から豊臣系大名による肥後国支配へと転換する時期の政治的、社会的状況を考える上で重要
小西行長の城郭の記述は日本の一次史料には存在しません。しかし、イエズス会の史料中に宇土城と八代城(麦島城、八代市)、隈庄城(熊本市)、矢部城の4城が確認されています。また、近年の城郭研究の進展によって赤井城(益城町)や豊福城(宇城市)も小西行長の城郭と考えられています。これらの築城はいずれも戦国時代の領主やその有力家臣の城に近接しています。陣ノ内城の南200mにも阿蘇氏の家臣の城と伝えられる松尾城(甲佐町指定文化財)があり、陣ノ内城と松尾城の関係は従来の領主の城に隣接した場所にこれまでは見たことがない、直線的な塁線を縄張りとした巨大な城郭を築城し、新たな統治体制への移行を強く意識させる統治手法の好例といえます。それは旧勢力の統治地域を治める際に小西行長のとった領国統治の手法で、小西行長が豊臣政権の中枢の大名であったことも考慮すると、豊臣系大名が新たな領国に入部した際の統治の在り方の一つを示していると考えられます。