堅志田城(かたしだじょう)
堅志田城の基本情報
通称・別名
- 勢多尾城、赤蜂尾城
所在地
- 熊本県下益城郡美里町中郡
旧国名
- 肥後国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 西氏(阿蘇氏家臣)、島津氏
廃城年
- 16世紀後期
遺構
- 曲輪、虎口、堀切、畝状竪堀群
指定文化財
- 国史跡(堅志田城跡)
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
陣ノ内城(熊本県上益城郡)[3.3km]
竹崎城(熊本県宇城市)[7.4km]
御船城(熊本県上益城郡)[9.6km]
曲野城(熊本県宇城市)[9.7km]
隈庄城(熊本県熊本市)[11.1km]
木原城(熊本県熊本市)[11.5km]
黒淵城(熊本県八代市)[12.4km]
宇土城(熊本県宇土市)[14.9km]
河尻城(熊本県熊本市)[16.2km]
健軍陣内城(熊本県熊本市)[17.0km]
堅志田城の解説文
[引用元:Wikipedia「堅志田城」の項目]
堅志田城(かたしだじょう)は、熊本県下益城郡美里町にあった中世の日本の城(山城)。
熊本県下益城郡美里町尾根筋、標高256mに位置する。集落からの比高は約160mで、最高所に平坦地があり東半分は削平されている。南西および北西の集落に延びる尾根には計3条の堀切が設けられた。
歴史
阿蘇惟長(菊池武経)は弟の阿蘇惟豊に敗れて本拠を失い、惟長の子・惟前は大永3年(1523年)に当城に入った。惟前は相良氏と結んでいたが天文12年(1543年)に落城し、当城は惟豊方の支配下となった。天正10年(1582年)に島津氏が八代城まで進出した後は阿蘇領の最前線となる。
しかし、阿蘇領は一宮の神領であることから、島津義久は攻撃を躊躇い、くじ引きを行うことで、神に攻撃してもよいかどうかを問うた。天正11年10月5日、くじ引きによって攻撃が決定される。だが、再び神領への攻撃に疑念を感じた島津義久が、10月17日、薩摩郡山寺にて二度目の神慮を占う。すると白くじが出たので、攻撃を中止[1]。
このため島津氏は押えの城として花の山城を築き、戦線は膠着した。
天正13年(1585年)に甲斐親直が死ぬと甲斐親英は花の山城を攻め、合戦が再開された。同年に当城は攻め落とされて島津氏の番城となり、豊臣秀吉による九州征伐から肥後国人一揆の間に廃城となったとされる。
参考文献
- 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典(43.熊本県)』、角川書店、1987年
[続きを見る]
堅志田城の口コミ情報
2023年09月04日 気分爽快陸奥守
堅志田城
主郭まで車で行けるので楽ちんですが、細い道なのですれ違い可能な場所を確認しながら行くといいでしょう。
地震、豪雨の影響で主郭周りしか行けないようでした。加えて元気な夏草のため、お目当ての堀切は見れず、夏場は避けるべきです。
昔の投稿写真を見ると、人の手が入らない山城は、こんな感じで埋もれていくのかなと思いました。
愛藤寺城からの帰りに寄ってみたら、藪が少しおとなしくなっていたので、連続堀切⑦と4郭からの眺め⑧を追加しました。
①主郭(既に草深い)
②連続堀切(踏み入れ断念)
③4郭(遠目に見るだけ)
④主郭内部(荒れている)
⑤2郭(かろうじて郭っぽいのがわかる)
⑥夏草に埋もれた4郭
⑦②の藪の中の堀切
⑧4郭に降りてみた
2023年06月12日 Maru姫22
堅志田城
登城途中の道路が整備がされてました。本丸近くの駐車場までクルマで来ることができました。
2023年06月12日 mootze
堅志田城
お城近くの道路は、修復終わって本丸駐車場まで、車で行けます。草木が、整備されてなく、連続切岸は、全然見れません。また帯曲輪や出曲輪までも、行けません。早く、整備される事を願います
2022年11月24日 曲輪但馬守削平
堅志田城
美里町HPによると、堅志田城跡進入路復旧工事の為、令和4年11月~5年3月(予定)まで本体部分への立ち入りが出来なくなるそうです。
2022年10月11日 RED副将軍
堅志田城
中世肥後国を代表する大規模な山城🏯
阿蘇惟長と阿蘇惟豊の兄弟激戦の地⚔
また、阿蘇氏と島津氏の激戦地⚔
オススメ度 ★★★★⭐︎
築城年代は不詳。
野心家であった阿蘇惟長は菊池氏の内紛を好機として付け込み、阿蘇大宮司職を弟の阿蘇惟豊に譲り、肥後国守護の菊地家を継承し菊池武経と称しました。
しかし、悪政で家臣をまとめられず、1511年に菊池氏本拠地の隈府城から阿蘇氏領の矢部へ戻り、名も阿蘇惟長に戻します。弟に譲っていた阿蘇大宮司職を取り戻そうとするも計画が露見し薩摩の島津氏へ落ち延びます。
1513年に島津氏の支援を受けて侵攻し、阿蘇惟豊は日向に逃亡。
阿蘇氏を奪還した阿蘇惟長は嫡男の阿蘇惟前を大宮司職に付かせ、1523年に入城したのが堅志田城です。
1543年、日向に追われていた阿蘇惟豊は甲斐宗運の支援を受けて阿蘇惟前の籠った堅志田城に攻め込み落城させます。阿蘇惟前は八代へ逃亡しました。
その後、島津氏と阿蘇氏の最前線となり幾度も攻防が繰り広げられましたが、1585年に島津氏が攻め落として島津氏の支配となりました。
その後、1586年の豊臣秀吉による九州征伐から1587年の肥後国人一揆の間に廃城となった様です。
見所
国指定の史跡であり公園化され車で城域まで登ることができます。
連続する大規模な堀切や畝状竪堀群など中世肥後国を代表する山城ですが、災害の影響で登城路が崩落しています。主郭周辺までは行けますが北側の二郭や東側の四郭方面へ行くことは難しい状況です。
但し、主郭背後の土塁を降れば畝状竪堀群をバッチリ確認することができました。結構な斜度ですが虎ロープが付いてます。
甚大な災害のため復旧が後回しになるのは仕方なく時間がかかりそうです。
復旧されれば★5です。
2022年08月29日 播磨守風のこうちゃん播守
堅志田城
九州道松橋インターチェンジ下りてR218号線を山都町・高千穂方面へ東進💨
県道105号線手前に小さな道標有り☝️
その県道105号線を右折して右手に梅林神社の看板が有ります☝️
ここから登城します💨
道中かなり狭いですが写真の🚘で行けました😵
震災の影響か現地、渡橋等が無くあっちこっち行けず残念でした…
🚻無し…
2022年05月07日 課長大和守Ver.B
堅志田城説明板と武将像[堅志田城 碑・説明板]
道の駅美里・佐俣の湯に縄張り図を伴う説明板と堅志田城主西金吾の像が設置されています。
武将像は時節柄マスク姿でしたが…(笑)
施設が開館前でしたのでわかりませんが、堅志田城のパンフ等もあるのかもしれませんので事前学習とトイレ休憩を兼ねて訪問前に立ち寄られると良いと思います(^^)
2022年03月06日 もっこす肥後守
堅志田城
以前は災害の影響で近くまで車で行けなかったみたいですが、現在は大丈夫です。
城跡も災害の為立ち入れない場所が多々ありますが、見どころは沢山あります。
本丸裏の畝状竪堀群は必見です。
2022年01月25日 榎晴信肥後守
花之山城[堅志田城 周辺城郭]
花之山城は堅志田城の西およそ5キロ、標高220㍍の"しんじょう"と地名が残る山陵にあります。
島津が堅志田城攻略のため築いたいわゆる付城です。万を越える軍勢を収容するため山頂や尾根沿いに限らず、谷間も含めてありとあらゆる場所に小規模な曲輪群を隙間なく構築してあります。付城のため堀切などの防御遺構はほぼなくひたすら小曲輪が続きます。
この城、天正十一年十月二十八日から構築が開始され十一月九日には島津義久に完成の報告を行なっていることから、わずか半月ばかりで数十万平方㍍の規模の陣を構築したことになります。しかし、天正十三年八月阿蘇.甲斐方によりこの花之山城を攻められ落城、守備をしていた鎌田政虎らが戦死。これにより阿蘇家を攻める名分を得た島津方は堅志田城を攻め落城させた。これにより阿蘇惟光は降伏し島津は肥後の大半を平定することになりました。
花之山城…案内等一切ありません。主郭へは西側の農免道路から取り付くのが良いでしょう。主郭からは北方向の尾根をたどれば大まかな見学が可能です。が、2~3時間ではとても全体を回ることは無理です。ほとんどが小曲輪群の連続ですのでほどほど見るのが無難でしょう。
2017年08月19日 柴崎権大納言幸助
堅志田城
九州道松橋ICから国道218号線で東進し、美里町に入って神園交差点を右折します。少し手前に案内板があります。そこからの県道105号線で少し南進すると、再び大きな案内板があり、城跡までアクセスできます。途中、砂利道になったり下りになったりしますが、残り何mという案内もあるので心配ありません。
山城の雰囲気を感じられる素晴らしい城跡ですが、地震の影響か、崩落箇所がいくつもあり、南東部及び北東部の郭へ行くことは叶いませんでした。復旧にはまだ時間がかかりそうです。
2016年11月19日 左近将監摂政
堅志田城
アクセス林道に崩落箇所があり、途中で通行止めになっています(2016年11月5日現在)。
ただ、通行止めポイントに2台ぶんぐらいの駐車スペースがあり(転回可能)、歩きでなら、アプローチできるかもしれません。
そこから主城部(駐車場)まで、おおむね500mほどです。