木山城(きやまじょう)
木山城の基本情報
通称・別名
- 松丸城
所在地
- 熊本県上益城郡益城町寺迫(木山城跡公園)
旧国名
- 肥後国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 木山氏
築城年
- 戦国時代
主な改修者
- -
主な城主
- 木山氏
廃城年
- 慶長6年(1601)
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
健軍陣内城(熊本県熊本市)[6.5km]
長嶺城(熊本県熊本市)[6.6km]
御船城(熊本県上益城郡)[8.6km]
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亀井城(熊本県熊本市)[10.8km]
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隈庄城(熊本県熊本市)[12.4km]
竹迫城(熊本県合志市)[12.5km]
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木山城の解説文
[引用元:Wikipedia「木山城」の項目]
木山城(きやまじょう)は、熊本県上益城郡益城町寺迫にあった日本の城。阿蘇氏の一族である木山氏の拠った城として知られる。
概要
南北朝時代の1344年(南朝:興国5年、北朝:康永3年)に木山松丸城として史料にその名が初出するが、その所在地は今日とは異なり、戦国時代に入って現在の寺迫字城の本に築城されたと推定される。比高約25メートルの丘城で、空堀跡と見られる遺構が現存する。
城主の木山氏は時代によって前木山氏(南朝方)と後木山氏(北朝方)に分けて考えられ、両者の系譜上の繋がりには不明な点がある。当初は南朝方の城として幕府軍の攻撃を受け、1381年(南朝:弘和元年、北朝:永徳元年)に今川了俊によって攻略されている。その後は代わって入部した北朝方の後木山氏が阿蘇氏の権威を背景にこの地を治めた。
1547年(天文16年)、木山惟久は赤井城を新たに築いて移り、木山城には城代を置いた。
1548年(天文17年)、菊池義武が大友氏より自立を図って争った際には、阿蘇氏・大友氏側の前線である木山城も戦場となっている。
戦国時代末期になると島津氏が南方より九州全域の制圧に乗り出し肥後の諸城を攻略。木山城と赤井城は1585年(天正13年)9月、相次いで落城した[1]。1587年(天正15年)、豊臣秀吉の九州征伐により島津氏が去った後は、肥後南部を領有した小西行長によって支城の一つに位置づけられたが、関ヶ原の戦いによって小西氏は滅び、木山城も廃城となった。
城の本古墳群
1982年(昭和57年)の豪雨で城跡の北側斜面が崩れ、被葬者と副葬品を納めた箱式石棺が現れたことから、縄張りの一部に古墳時代の円墳が取り込まれていたことが判明し、「城の本古墳」と名付けられた。1992年(平成4年)より「木山城趾公園」として整備が進められたところ、2005年(平成17年)にその工事現場より再び別の石棺が出土し、「城の本2号墳」として報告された(城の本古墳群)。城跡とは直接関連しない遺構だが、両古墳から出土した遺物は益城町指定有形文化財に指定された[2]。
参考文献
- 『益城町史 通史編』 益城町史編纂委員会編、1990年
- 益城町 2013「文化財」『益城町勢要覧2013(資料編)』(https://www.town.mashiki.lg.jp/kiji003299/index.html)p.20
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木山城の口コミ情報
2023年06月19日 順☆散歩征夷大将軍508+23
赤井城[木山城 周辺城郭]
付近は道が狭いので、自分は木山城に駐車し約1km歩きました。(ただ近くに路駐できそうな場所もなくはないです)
まず、城の北側には水堀があり、ここに縄張図つきの説明板があります。説明によると、堀は二重になっており、外側の堀には草を浮かべてカモフラージュし、落とし穴みたいにしていた(浮草堀)とのこと。また、いざという時に堀の外側の田んぼに水をはればさらに防御力を高めることもできたそうです。なお、地元の方に話を伺ったところ、以前はもっと堀が広くて水も多く、ここでみな泳いでいたんですって。
なお、田んぼと堀の間の道を進んで城の東側にいくと土橋があります。知らなければ「田んぼの畦道かな」と思っちゃうような感じです。
本丸へは登録地点の真西から細い道を進むと近道ですが、この登城口の横のお宅のおばあちゃんに訊ねると「草が生えて通れないから南から行くといいよ」とのことでした。結果的にはメグらーさんなら問題ない程度の藪だったものの、こちらは帰路に利用し、遠回りでも行きは南側から攻めるがオススメです。なぜなら空堀や曲輪が見られるからです。
南から空堀、農地を抜けて進んだ先には鳥居があります。説明板もあります。この付近は石が散乱してブルーシートが掛けられており…以前はここに石積があったんですけど、熊本地震で崩れてしまいました。そしてここを登ると日枝神社。社殿の奥にはさらに一段高い平場があり、ここが本当の主郭かなと思います。なお、主郭北側には竪堀があり、二重の水堀に繋がっているはずですが藪で何もわかりませんでした。ちなみに、地震の時には神社の拝殿だけ(だったかな?)が1m位置がずれた(建物は無傷)ので、その後またもとに戻したんですって。自然の力に驚きです。
城攻め後、先程のおばあちゃんがまだ庭先で作業なさっていたのでお礼を言うと、なんとおばあちゃん手作りの赤井城パンフレットをくださいました!おばあちゃんは大の歴史好きで、赤井城を盛り上げようと活動してらっしゃるそうです。自分もお城好きなんですと言うと、30分以上いろんなお話を聞かせてくださいました。しかも帰りは自分が車をとめた木山城まで軽トラで送ってくださり…本当にありがとうございます。ちなみにおばあちゃん曰く、そのうち赤井城専用の駐車場も作る予定だそうですよ!
たくさんの人に来てもらい、整備も行って赤井城が歴史に埋もれてしまわないようにしたい、とおばあちゃん。こういう方々の努力で我々も楽しめるわけですから大いに感謝しないといけないですね。今回は時間がなかったので自分は辞退しちゃいましたが、発掘で見つけた青磁や古銭なんかも見せてあげるよとおっしゃってくださったので、またいずれぜひ再訪したいと思います!
2022年03月23日 ゆかりん
木山城
さくらが見事!綺麗に整備され地域の力を見ました
2021年11月18日 もっこす肥後守
木山城
国道の看板から入る所だけ狭いですが、トイレ完備の駐車場もあります。公園になっていますが、城跡だったとわかりやすい地形になっています。西側の水路も堀の跡かなぁと思いながら歩きました。小規模ながら綺麗に整備してあります。