福城(ふくじょう)
福城の基本情報
通称・別名
- 福ノ城
所在地
- 岡山県美作市土居
旧国名
- 美作国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 江見帯刀
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、堀切、竪堀、切岸
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
上月城(兵庫県佐用郡)[6.1km]
福原城(兵庫県佐用郡)[8.1km]
三星城(岡山県美作市)[10.9km]
利神城(兵庫県佐用郡)[11.9km]
井の内城(岡山県美作市)[13.3km]
竹山城(岡山県美作市)[13.7km]
有元城(岡山県勝田郡)[14.5km]
白旗城(兵庫県赤穂郡)[14.6km]
三日月陣屋(兵庫県佐用郡)[15.4km]
周匝茶臼山城(岡山県赤磐市)[17.4km]
福城の口コミ情報
2022年09月24日 RED副将軍
淡相城[福城 周辺城郭]
残存度が高く横矢が効いた空堀、土塁に圧倒されるオススメ城🏯
オススメ度 ★★★★★
淡相城(あわいじょう)と読みます。
応仁年間(1467年〜1469年)に淡相佐盛によって築かれたと伝わる淡相氏(粟井氏)の居城。
淡相氏は美作菅氏の流れを汲む新免氏の一族であり、粟井庄の荘官として勢力を伸ばし、淡相氏を名乗ったと云われます。
播磨国守護の赤松氏に属し、赤松氏の美作侵攻に協力。新免氏と激しく対立しました。
赤松氏の重臣でありましたが、1520年に赤松義村と浦上村宗が対立すると、粟井氏は美作守護代中村則久と共に赤松氏から離反。今度は浦上村宗に付きます。
赤松氏は浦上氏に敗れて没落。
1551年の尼子晴久による備前・美作侵攻の際は尼子軍に攻め落とされたと伝えられますが、浦上氏に属していた頃の淡相氏の動向は不明です。
宇喜多直家の裏切りにより浦上氏が滅亡した後は、粟井三郎兵衛は宇喜多氏に仕えた様で、八浜合戦の際の八浜七本槍のひとりに数えられています。
1600年に宇喜多氏が滅亡すると粟井氏も没落した様です。
見所
城域は大きく西の城と東の城に分かれています。
西側は春日神社の裏山最高所が主郭で土塁と空堀で区切られた郭は居館跡の様相です。
圧巻なのは主郭西側に残存する空堀と土塁。折れが伴う空堀と張り出した櫓台は横矢が効いており中々のものです。
谷を隔てて東の城もありますが大半は農地と民家となっていますが、遠景からも城郭地形は楽しめます。写真⑧
東の城主郭部は入り方も分からない上にヤブってる様なので入っていません。
行き方は、春日神社を目指してください。神社裏側に城跡へ向かう山道がついています。
ものの数分で城域に辿り着きます。
2021年04月05日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
鯰城[福城 周辺城郭]
岡山県の美作市にある鯰城♪仲良し城友様のご先祖様の城郭だったと教えて頂き行って来ました♪
築城年代は不明な城郭ですが江見頼房が築城しました☆江見氏は赤松氏の一族で忠頼、行頼、為行、為秀、秀房、秀雄と代々続きましたが慶長期になって帰農していきました☆
吉野川がS字にクランクする岸沿いの標高205mの山に立地☆出雲街道の直ぐ北側に街道監視、繋ぎの砦といった顔をしております☆人が余り足を踏み入れていないのか?堀切、土塁、土橋、横堀、石積みが明瞭に残ります☆
2021年01月29日 ♡まぁ8(✪▽✪)8
鯰城[福城 周辺城郭]
写真と口コミバラバラで出してしまいましたwww
祖父から、城が我が家にもあるーヽ(`▽´)/と聞かされ続け…でも、祖母側の家系からは大した事ない…ただの砦だ(^o^;と…(祖母側の家系の方がお城が多いなり)
やっと訪問(╹◡╹)全然砦でも大満足なつくり(✪▽✪)めっちゃくちゃ砦でしたwww
主郭を囲む堀…土橋二本…横矢2つ、石積み、土塁
戦う、つくりだなぁー(✪▽✪)とかなり感動しました!!
2019年09月10日 ( *¯ ³¯)っ旦
福城
このアプリのマップでも行けないことはありませんが、
ハズレです。
駅からのルートで説明しますと
駅を出て左手側、
車一台ギリの道を行きます。
すこし行くと左手側へまがる道を左折して線路を渡ります。
突き当たりをナビマップでは左手側ですが、右手側へ曲がると
左手側の雑種地みたいな中に30cmくらいの小さな「正面、福城跡」と書かれた看板が顔を出しています。
1・徒歩の方は看板の右手側の畦道を登って行きます。
2・車の方はそのまま線路沿いに進み、一つ目の踏切手前を大きく左へV字を描く感じで曲がって坂を登っていきます。(矢印看板有り)
ルート1ですと登り着くのは見事な堀切のど真ん中。
ルート2ですとルート1の堀切手前の慰霊の塔です。
ルート2は突き当たりまでアスファルトの道ですので、徒歩の方は遺構を気にせずにルート1を選んで大丈夫です。
ちなみにマップルートは福城の要害の川沿い方面です。
郵便配達の方に
「此方は遺構は無いし、かなり遠回り」
だと教えられました。
確かに本丸からある程度、降りてみましたが、遺構は見当たりませんでした。
2019年05月22日 あきおこ
福城
主郭切岸下の堀切。竪堀状に少し落ち込む。神社背後は割と遺構が良く残る。神社正面には馬落としと呼ばれる堀切があるが参道で中央が分断されていおり破壊が著しい。馬落としの意味は遺構を見ても良くわからない
2019年05月21日 あきおこ
福城
神社背後の曲輪。背後は鋭い切岸になっており竪堀状の通路がある。球場側の尾根は破壊道が縦断し改変が著しい