白旗城(しらはたじょう)
白旗城の基本情報
通称・別名
- 赤松氏城
所在地
- 兵庫県赤穂郡上郡町赤松、野桑他
旧国名
- 播磨国
分類・構造
- 連郭式山城
天守構造
- なし
築城主
- 赤松則村
築城年
- 元弘3年〔南朝〕/正慶2年〔北朝〕(1333)
主な改修者
- -
主な城主
- 赤松氏
廃城年
- 嘉吉元年(1441)
遺構
- 曲輪、土塁、堀切、井戸
指定文化財
- 国史跡(赤松氏城跡)
再建造物
- -
周辺の城
-
感状山城(兵庫県相生市)[7.1km]
上月城(兵庫県佐用郡)[9.1km]
鴾ヶ堂城(兵庫県赤穂市)[9.5km]
福原城(兵庫県佐用郡)[10.2km]
三日月陣屋(兵庫県佐用郡)[10.3km]
城山城(兵庫県たつの市)[13.6km]
大嶋城(兵庫県相生市)[13.7km]
福城(岡山県美作市)[14.6km]
三石城(岡山県備前市)[15.0km]
利神城(兵庫県佐用郡)[15.4km]
白旗城の解説文
[引用元:Wikipedia「白旗城」の項目]
白旗城(しろはたじょう、しらはたじょう)は、播磨国赤穂郡白旗[1](現在の兵庫県赤穂郡上郡町赤松)にあった日本の城(山城)。「赤松氏城跡」の1つとして国の史跡に指定されている。室町時代に播磨国白旗山(標高440m)に築かれ、播磨守護赤松氏の居城となる。
概要
築城期には二つの説があり、鎌倉時代末期に赤松則村(円心)が護良親王(大塔宮)の令旨を受け鎌倉幕府打倒の軍を挙げた時に築いたという説(1333年説)。もうひとつは、則村が幕府滅亡後に成立した建武政権から離反した足利尊氏に従い、宮方の新田義貞の西進を食い止めるために築いた説(1335年説)。
赤松円心はこの城に籠もり、古典『太平記』に拠れば、東上する足利軍を迎え撃つ新田軍約六万を五十日あまりの間足止めさせ、湊川の戦いでの足利軍勝利に貢献したという。
他にも諸説があるが、有力なのは1335年説である。1361年には、赤松則祐が南朝方の襲撃で京都を逃れた春王(足利義満)らを避難させたという。嘉吉元年(1441年)、赤松満祐は将軍足利義教を討伐するとして白旗城で挙兵したが、幕府軍に攻められて落城する(嘉吉の乱)。
享徳3年(1454年)、赤松則尚は白旗城に入り、矢野荘に年貢を納めるよう命じた。また城の修築・改修のために人夫も徴用している。
明応8年(1499年)、守護代・浦上則宗は赤松義村を擁して白旗城に入る。同年、浦上宗国は則宗らが籠もる白旗城を攻めるも、則宗の家臣の宇喜多能家の働きによって撤退させられた。
永正4年(1507年)、赤松氏の御一家衆赤松播磨守家当主・赤松播磨守勝範(大河内勝範)が白旗城に拠って反旗を翻すも、義村の攻撃によって落城する。
永正17年(1520年)、赤松義村が白旗城を拠点に美作国岩屋城を攻めるも撤退。この頃の記録を最後に白旗城の名は歴史上から消える。
構造
標高約440mの白旗山上から尾根・谷部にかけて、東西約350m、南北約850mにわたって築かれた連郭式山城で、白旗城の曲輪と縄張は、本丸・二の丸・三の丸で形成されており、他にも馬場丸・侍屋敷等がある。三の丸の近くに、罪人を突き落とす「千人落とし」があり、本丸と三の丸の間に夏でも水が涸れることの無い「光火の井」があったが、今ではもう枯れて塞がれている。城へ上るには、赤松方面からは「ひばら谷(西)」「ふねが谷」を通り、鞍居方面からは「よね谷」「ひばら谷(東)」「くらの谷」「ぼう谷」「ひよごり」を通る。
その他
毎年11月23日に、麓の赤松地区で白旗城まつりが開催される。
交通
- 智頭急行智頭線・河野原円心駅から登城口まで徒歩30分
- 播磨自動車道・播磨新宮ICから30分
参考資料
- 上郡町史
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白旗城の口コミ情報
2024年11月18日 八咫烏紀伊守鉄龍
白旗城
比高400メートルは強烈!
瓦礫の岩場登りは膝に来ます。足元はしっかりした靴を履いて行きましょう
2024年03月24日 雲龍斎隠遁守全長
駒山城[白旗城 周辺城郭]
駒山城は赤松円心の三男である赤松則祐によって築かれた城だと伝えられて、白旗城の西を守る支城との事さすがは赤松さんの城だけにとても面白い城跡である
岩盤剥き出しの登城路面の「馬の蹄跡」なる穴凹や主郭前の岩盤切岸😅、ニ郭背後の岩盤堀切など楽しめる
2023年12月14日 ふる播磨守
白旗城
斜面を下るのは大変だったが伝侍屋敷、大手郭の石垣が凄かった。
2023年05月11日 RED副将軍
白旗城
赤松円心が50日余りの籠城戦を耐え抜いた落ちない城🏯
オススメ度 ★★★★★
1333年頃に赤松円心こと赤松則村により築城。
赤松円心は、村上源氏の系譜で、建武の新政の恩賞に播磨守護職を与えられ統治しました。
足利尊氏が鎌倉で建武政権から離反して挙兵をすると赤松円心も従軍します。
1335年には、西国へ敗走する足利尊氏を追った新田義貞が6万の大軍を率いて白旗城を包囲しましたが、僅か2千の兵で50日あまりの籠城を耐え抜き落城しませんでした。
その後、勢力を盛り返した足利尊氏は、湊川の合戦で楠木正成に勝利し室町幕府を開きます。赤松円心も室町幕府の重鎮となり播磨守護として勢力を拡大しました。
1441年、赤松満祐が将軍足利義教を暗殺した嘉吉の乱が勃発。幕府の討伐軍として山名氏が攻め寄せて白旗城は落城、赤松惣領家は一時滅亡しました。
1454年、赤松満祐の甥である赤松則尚が白旗城に入り白旗城を修築・改修。赤松氏は細川氏の庇護もあり再興します。
1499年、赤松氏家臣である守護代の浦上則宗が台頭し、赤松義村を擁して白旗城に入城。しかし、浦上氏庶流の浦上村国が白旗城を攻め寄せるも浦上則宗の家臣である宇喜多能家の働きによって撤退させたと云われます。
1520年、赤松義村が美作国の岩屋城への侵攻の拠点としましたが撤退しました。
幾度と戦いの舞台となりましたが、以降の記録はありません。しかし、遺構の感じからすると戦国時代まで使われていたと思われます。
見所
標高440mの白旗山ピークに築かれており、国史跡に指定されています。
赤松氏初期の本城だけあって素晴らしい城跡です。
比高が高く険しい山城であることも赤松氏の特徴。
ピークに主郭を配し、北に三の丸、南西に馬場、二の丸、櫛橋丸と続く連郭式。三の丸の北側は土塁と堀切がありその先にも郭があります。
二の丸の南東下には侍屋敷があり石垣が残っています。更に降りると段々と石垣造りの郭群が続いています。
登山道途中にある巨石群は谷落としの岩と呼ばれ、敵を撃退するために落とした岩が現在も苔むして残っています。
行き方は、西麓に登城口があり入口付近に大きな看板と案内板が設置されています。駐車場、トイレも完備されています。
これだけ整備されていたら楽勝と思うかもしれませんが、比高は約400mで巨石が転がる中を延々と登ります。主郭まで3km近くありますので覚悟が必要です😎
この日は利神城、白旗城、最後に置塩城を登城しましたがヘロヘロになりました。
2022年10月16日 真田
白旗城
登山の基本装備は必ず必要です。あとは、無理せずボチボチ登っていくことですね。本丸跡までたどり着ければ絶景か見られますよ。
2022年02月16日 RED副将軍
大聖寺山城[白旗城 周辺城郭]
主郭背後は岩盤堀切が垂直に断ち切ってます✨
西播磨の山城ガイドも務める備前の城友さまオススメだけありました。
勝手に今年度の堀切アカデミー最優秀作品賞です🏆
オススメ度 ★★★★★
応永年間(1394~1428)に赤松出羽守満貞が築城。
居城とし、以降も子息の安室義長などの代々居城となったと伝わりますが、詳細は不詳です。
この周辺で羽柴秀吉が中国攻めで駐屯していた歴史もあり、毛利と決別した宇喜多直家が改修した可能性も指摘されています。
見所
標高258mの山頂を削平し単郭に三段の段差を付けた縄張り。
登城から最初に目にするのが岩盤を掘削した竪堀で5条程度確認できます。
主郭南東には虎口が開口し石積みも散見されます。
目玉は主郭背後の岩盤堀切です。地割れの様に垂直に深く掘削されており圧巻です。
行き方は、「西方寺石造宝塔」を目標に目指して下さい。Googleマップにも登録あります。
残念ながら駐車場は近くにありませんので離れたところで路肩駐車しました。
案内板がありますので宝塔は分かると思います。途中で赤い鉄製の橋を渡ればお堂が上方に見えるので、その背後の尾根筋を30分程度登れば到着します。
ただ、登城路はシダ地獄ですので、冬期の訪城をオススメします。西播磨はマダニ、ヤマビルが多いので今シーズン登城できるのは残り僅かな時間かも…
写真
①主郭背後の岩盤堀切
②岩盤堀切と主郭土塁
③岩盤堀切 パックリ割れてます
④⑤主郭周辺には石積みが点在
⑥主郭の桝形虎口
⑦岩盤掘削の竪堀
⑧登城路はシダ藪地獄
2021年11月24日 HS兵部大輔
白旗城
パンフレットに載っている登城コースよりも大手郭が何よりオススメです。ただし道はほぼないのと石垣の損傷が激しいので自己責任で注意が必要です。
2021年08月07日 隼大学頭太郎
白旗城
山ビルが足から這い上がってくるから、夏は本当にやめておいた方がいい。
2021年06月20日 ( *¯ ³¯)っ旦
白旗城
注意!
昨年まで確認されていなかったヤマビルが今年は爆発的増殖しています。沢の横から水脈になっているゴロタ石、その先の階段を登りきるまではかなりの注意が必要です!
本当に爆発的増殖していますので沢、苔などの写真を撮るために立ち止まるときは特に注意です。
一瞬だから、と思って油断するとヤマビルが靴にぶら下がっています。
本丸手前、お城としては一番奥の三ノ丸奥の堀切へ行くルートなど、落ち葉が溜まっているところも獣が暴れたり、歩いた跡があるので、
今後は白旗城全体が注意した方が良いと思われます。
2020年11月28日 内記かずりヾ(・ε・。)
大聖寺山城[白旗城 周辺城郭]
大聖寺山城は白旗城の南西約6.3km、上郡アルプスの一山、標高344.1mの鳳凰山から南東へ延びる尾根の一つ、山塊尾根上、標高258mのピークの一つに主郭が存します。東南麓からの比高は210m位でしょか。同じ白旗城のリア攻めマップにある西方寺陣とは別尾根になり一つ西側の尾根にあるって感じです。
行き方はGoogleマップに位置登録されている東麓の西方寺石造宝塔を目標に設定して下さい。案内板も立っているのでこれに従いましょう。赤い小さな鉄橋を渡ると、右へ行くと宝塔へ、上を目指すと小堂に辿り着き、小堂を抜けると尾根筋に出るので後は登るだけとなります。が、この尾根筋400m位はシダシダしまくってて気持ち悪い…歯朶植物が尾根を覆い尽くしてます。普通風雨の影響を受け易い尾根上は草木が育ち難い場所だと思うんですが歯朶植物には関係無いんでしょか。道は完全に消えていて辛うじて踏み跡があるかなといった感じ…休める場所はその途中にある鉄塔跡の平場ぐらいなので頑張りましょう!所謂藪漕ぎになります。
苦闘するとお城は突然に現れます。出迎えるのは短く薄いですが、たぶん岩盤を削った畝状竪堀(心眼で見ましょう。)です。腰郭を経て主郭に入りますが、此処には明瞭な桝形虎口があります。こにちわ〜ですね♪主郭は段付きで意外にも面積があり石積みも散見されます。主郭の北側山側にはファジーですが土塁が付き、その背後には腰郭を経て堀切が1条付いてます。この堀切が実に素晴らしい岩盤切削堀切でして感動する事間違い無し!又、主郭の南西側には武者隠しのような空堀なんかもあったりします。
築城年代は不明ですが、築城者は赤松氏の者と推測されています。まぁ昔の事なんでよく解んねぃよみたいな感じですかね。ちなみにこのお城の東方、生駒山山頂には駒山城(素晴らしい!)が存しますが、別称をを小聖寺山城と言うらしいです。規模的には逆なんすけど…本当なんか…
帰りは元来た尾根筋を引き返しますが、今度は行きには気にならなかった松の若木が牙を剥きます。ちくちくちくちく痛いわっ!ちなみに尾根上端部、最初にぶつかる小堂周辺は砦じゃないのかな?前哨線としては極めて有効だなと思いました。
2020年11月27日 内記かずりヾ(・ε・。)
鳳張古墳群[白旗城 寺社・史跡]
鳳張古墳群は白旗城の南西約5.7km、同じ白旗城のリア攻めマップにある西方寺陣の東側、川跡?を挟んだ谷間の平場に存します。いきなり西播磨の情報が少ない場所に飛び込んでしまい自分も錯綜してしまいましたが、この古墳群東側の山塊にも鳳張陣(未見っす。)という陣城?があるらしく両者を混同してしまいました。ただ西方寺陣もそうですが、恐らく鳳張陣も大きな軍勢を収容するのはとても無理な感じですので、実際の陣跡はこの古墳群に設けられたと思います。又、西方寺陣の口コミで秀吉が陣を敷いたと書き込みしてしまいましたが、誰の陣だったかは不明としたいと思います。答えは永遠に出ないと思いますしね。そう!ネットだけですがちょと勉強したのw
この古墳群には3つの古墳があるんすけど、古墳自体も墳丘がしっかり残ってて、内部の石室もよく保存されてます。ただこの古墳群の周辺には明らかに古墳の成立とは関係を無にする土塁や空堀が残っていて陣跡であった事が簡単に想像出来ます。平場の面積は相当に広く三千位の軍勢なら楽に収容出来そう。また平場の西側の川跡?は後世の改変かもしれませんが、明らかに人工的に手が加えられていてまるで空堀の様に存しています。又、この平場の南端にはかなりの大きさの空堀様地形があり、高さもある(でも薄い。)土塁様地形で谷間を大きく遮断しています。これを何かの遺構と見るのかは早計でしょうが、とても自然地形とは考え難いので是非皆様の心眼で確かめてみて下さいまし。
この古墳群の南方には中世山陽道が走り、付近一帯は必争の地でもあったと思います。一時期は宇喜多、毛利vs羽柴の最前線でもあった訳ですし、その後の宇喜多騒動なんかも視野に入れておくべきなのかな?又、赤松の時代まで遡れば更に謎は混迷を深めます。深い歴史に感嘆することしかり…こうして答えを求めようとする変態が誕生する訳ですな。
2020年11月26日 内記かずりヾ(・ε・。)
西方寺陣[白旗城 周辺城郭]
西方寺陣は白旗城の南西約5.7km、上郡アルプスの一山、標高344.1mの鳳凰山から南東へ延びる尾根の一つ、標高約104mの尾根上端部に主郭が存します。南麓からの比高は60m位でしょか。道はまともなのが見付けられなかったので尾根下に着いたら直登して下さいまし。
行き方はGoogleマップに位置登録されている鳳張古墳群を目標に設定して下さい。此処から川跡?を挟んだ西側に見える尾根上に砦が存します。ちなみに鳳張古墳群は秀吉が陣を敷いた場所、陣跡でもあるらしく、広大な削平地に古墳が3つ、土塁や空堀が健在で謎な地形に満ち溢れた場所です。ここは是非纏めて訪ねてみるのがよいでしょう。
砦はたぶん物見程度の単郭です。たぶんというのも尾根上はシダシダしまくりでその輪郭さえ不明瞭です。突入してもとても何かを見付けられる状態ではありません。ただ主郭はそんなに藪っていないので無駄骨にはなりません。主郭には北側山側に立派な土塁、その背後には立派な堀切が健在で写真のとおりきちんと確認出来ました。思わずほっとしましたよ〜
この砦は船坂城砦群の一つに数えられていますが、築城年代、築城者、築城の経緯とか一切不明です。砦でもなく一般的に陣と呼ばれていますが、ここら辺も陣跡だったのがその理由なんでしょか、お城の西麓には館跡か寺跡を彷彿させる広大な段付き削平地が広がっていますので、考察抜きの印象で何となく両者は混同されているイメージです。単純に砦は同じ白旗城のリア攻めマップにある大聖寺山城の支城と考えるのが自然じゃないでしょか。
関東から来た自分ですが、西播磨の地はお城も歴史も知っているものが少ないのにいきなりディープな所に飛び込んでしまいました。が、探索魂に火を付けるよい機会になりました。お城的な魅力に満ち溢れた西播磨は調べれば調べる程に行きたい所が現れてきます。次は事前勉強もしっかりした上でこの地を再訪したいものですね!
2019年04月04日 カーネル
白旗城
智頭急行線 河野原円心駅から
駅前に地図があり、松雲寺と五輪塔群の前を経由すればいいことが赤線で引かれております。またこの地図からは比高差が400mで往復7.4kmであることもわかります。縄張り図もあります
駅をでたら東へ向かい川を渡り、右折して国道373を南下。道路は歩道も完備
松雲寺前を通過して東へ進むと見晴らしがよくなり、山裾に大きく白旗城の文字があるので目指します
獣害避けの檻を超えた先に五輪塔があります。山道がガレ場になります。傾斜は緩めですが、その先の山道できつくなります
道中の堀をいくつか超えた先で櫛橋丸跡に往復。滑りやすい道はなかなか怖いです
元の道を進むと二ノ丸。その先の本丸に着いたのは駅から90分後でした
さらに先に進むと三の丸に土塁で降りると大堀切で、ここで引き返す。二ノ丸から侍屋敷方面に降りて散策してから駅に戻りました。全工程で180分でした
2018年09月18日 織田上総介晃司
白旗城
今回は国道373号から白旗城に向かい登城。
数台停めれる登山者用の駐車スペースがあります。
登城ゲートから白旗城まで約1.9km。時間にするとおよそ1時間はかかります。
途中トイレがありますがその先にはありません。また途中から天然石が登山道に多くありますが、これがなかなかの曲者で、行きはまだ良いですが帰りが怖い。
石に苔が生えてるうえに安定感の無い石があるので慎重に。
下山の時、足を滑らせて怪我ということもあるので、杖は特に下りで必要です。
「落ちない城」なのに白旗(降参)かと思いきや、源氏の白い旗が由来となってます。
2017年12月02日 野呂利左衛門督休三
白旗城
【白旗城の支城、駒山城】
白旗城の南西約4㎞、上郡駅の北北東約2㎞のところの生駒山山頂部です(距離は直線)。大きくは堀切を挟んで本丸と二の丸に分かれますが、それぞれに腰曲輪があります。
本丸下には空堀もあります。この空堀と本丸には石積が一部残っており、瓦も出ていることから戦国時代にも用いられていたようです。
さて、この城、東西南北4つのルートがあります。私は東側から登り、南側から下山しましたが大変でした。東側ルートは入り口から井上古墳の看板まではルートがはっきりしていますが、後は下草はありませんが判別しづらいです。またほぼ直登なので傾斜は少しきつめです。尾根に出て城の方を望むと延々と岩場が続いています。
南側のルートは尾根筋なので結構緩やかですが2ヶ所ほど岩場を越えなければなりません。馬の蹄跡は所々窪みがありますが一枚岩なので、怖いことこの上ありません。(特に下山時)
北側のルートは他の山へ向かうルートです。
麓からの比高差は230mほどです。
白旗城の周辺観光情報
赤松則祐以降の播磨守護・惣領家が氏寺として庇護した臨済宗の寺院です。赤松氏とともに衰微しましたが、江戸時代以降は真言宗に改め、境内円心館で「赤松三尊像」が公開されるゆかりの寺院として、多くの人々が訪れます。
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