城山城(きのやまじょう)
城山城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 兵庫県たつの市新宮町馬立字亀山他
旧国名
- 播磨国
分類・構造
- 神籠石式山城[古代山城]、連郭式山城[中世山城]
天守構造
- なし
築城主
- 天智天皇[古代山城]、赤松則佑[中世山城]
築城年
- 天智天皇6年(667)?[古代山城]、正平7年〔南朝〕/文和元年〔北朝〕(1352)[中世山城]
主な改修者
- -
主な城主
- 大和朝廷[古代山城]、赤松氏、尼子晴久[中世山城]
廃城年
- 不明[古代山城]、天文9年(1540)[中世山城]
遺構
- 建物礎石、石塁、土塁[古代山城]、曲輪、土塁、堀切、竪堀[中世山城]
指定文化財
- -
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
龍野城(兵庫県たつの市)[3.2km]
感状山城(兵庫県相生市)[7.2km]
楯岩城(兵庫県揖保郡)[9.4km]
大嶋城(兵庫県相生市)[11.2km]
坂本城(兵庫県姫路市)[11.6km]
山崎城(兵庫県宍粟市)[12.1km]
白旗城(兵庫県赤穂郡)[13.6km]
三日月陣屋(兵庫県佐用郡)[13.9km]
置塩城(兵庫県姫路市)[14.5km]
鴾ヶ堂城(兵庫県赤穂市)[14.7km]
城山城の解説文
[引用元:Wikipedia「城山城」の項目]
城山城(きのやまじょう)は、兵庫県たつの市にあった日本の城。同一の山の上に7世紀末の古代山城跡と、西暦1352年(正平7年/文和元年)に赤松則祐が築城した中世(南北朝時代)の山城跡が存在する。
概要
古代山城
揖保川右岸に面した標高458メートルの亀山(きのやま)の山頂に位置する。西暦663年(天智天皇2年)の白村江の戦いで敗れた大和朝廷が、唐・新羅の侵攻に備えて築城したと考えられている神籠石式山城であり、兵庫県内最古の古代山城とされる。山体に組まれた石塁のほか、城門の礎石などが出土している[1]。
中世山城
赤松氏の居城は則祐の父・赤松円心が築いた白旗城であったが、播磨の西に寄りすぎていたため新たな居城として則祐が1352年(正平7年/文和元年)から10年以上の歳月をかけ、この兵庫県下屈指の山城を築いた。麓には則祐・義則の2代にわたる守護所「越部守護屋形」があった。
1441年(嘉吉元年)に起きた嘉吉の乱の際、赤松満祐(義則の子)は、当初この当時の守護所である坂本城に籠って室町幕府軍を迎え撃とうとしたが、坂本城では長期の籠城戦には耐えられないと判断し、要害である城山城に移動した。しかし、9月8日には山名宗全と幕府に味方した赤松満政の軍に包囲され、翌9日に攻撃を受けた。これを受けて籠城していた満祐の弟・赤松義雅は嫡男の千代丸と共に満政に降伏、義雅は千代丸を満政に預けて自害した。その一方で満祐と義雅の甥・赤松則尚は逃亡に成功している。10日には総攻撃が行われ、満祐は嫡子・教康や弟の則繁らを逃がし、一族69名とともに自害して城は落城した。
その後、山名宗全の統治を経て再び赤松氏の城となったが、天文年間に尼子晴久に攻め込まれて陥落し播磨攻略の拠点とされた。しかし、尼子軍が撤退するといつしか廃城となった。発掘調査による出土品はたつの市立埋蔵文化財センターに展示されている。
現在、嘉吉の乱による城山落城の際に討ち死にした赤松一族らの供養塔が本丸跡や麓の集落に多数建てられており、赤松一族の霊を弔うための盆供養「さいれん坊主」が毎年8月14・15日に行われている。赤松一族の末裔らによる「さいれん坊主保存会」によって祭礼の伝承がなされている。
周辺
- 大倉山(ふるさと兵庫100山)
参考文献
- 播磨学研究所編『赤松一族 八人の素顔』神戸新聞総合出版センター、2011年。
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城山城の口コミ情報
2024年02月21日 首藤志摩守通宗
林田陣屋[城山城 周辺城郭]
現聖ヶ丘公園。石垣と堀が残る。1617年建部政長が大坂の陣の功により摂津尼崎から一万石で入封。窪山城跡に陣屋を築く。
2022年11月04日 RED副将軍
城山城
古墳、古代山城、中世山城が一度に楽しめます✨
オススメ度 ★★★★⭐︎
【古代山城】
663年の唐・新羅軍に大敗した白村江の戦い後に大和朝廷により大陸からの侵攻に備えて築かれたとされます。
九州や瀬戸内各所に築かれた古代朝鮮式山城のひとつです。
日本書紀や続日本紀に記載が無いため神籠石式山城に分類されます。
【中世山城】
1352年、赤松円心の三男である赤松則祐によって築城。それまでは白旗城が本拠でしたが所領のあまりに西に位置していたため新たな本拠として築城したもの。
1441年には赤松満祐が将軍足利義教を暗殺した嘉吉の乱が勃発。赤松満祐は当初、坂本城で幕府軍を迎え撃ちましたが耐えられず、城山城に移り籠城しましたが、一族69人とともに自刃しました。
その後、山名氏の支配を経て再び赤松氏の支配となりましたが、1538年に播磨へ侵攻してきた尼子晴久により落城。尼子氏の播磨侵攻の拠点に使われましたが、尼子氏が撤退すると廃城となりました。
見所
大手道からは、馬立古墳群があり古墳を見ながら登ることができます。
遺構としては、中世山城よりも朝鮮式古代山城の方がハッキリとしています。西側斜面に集中しており、門礎石、水門の石塁、土塁が残っています。
城域西端の尾根筋を分断する岩盤掘削堀切は城内で最大規模です。
2021年05月11日 ( *¯ ³¯)っ旦
城山城
前の方が詳しく書かれています。
少し足しますと
搦手口、大手道と共に
お墓、古墳がありますので
最初に搦手口に行ってしまうと「大手道と搦手口と勘違いしていない?」と疑問に思ってしまいます。
一般道から直線でお墓に入れるのが大手道
「馬立古墳群」が大手道。
村の中を通って寂しい山裾を延々と行くのが搦手口
「市野保古墳群」は搦手口です。
搦手口側から登るときも此方には車を置かずに大手道の方に置いて、搦手口側登り口まで徒歩2.5kmくらいありますが、人気が全く無い山奥に車を置くよりは無難だと思われます。
何処から登るにしても、特に搦手口から登るときもは赤いテープ、紐を目印にしてください。
稜線と実際の登山道とは違ったりしていますし、道もふら〜っとナチョラルに進んでしまうと城山城へはクルッ急旋回が必要だったりします。
尾根に登りきると尾根の上を歩いていれば道に迷うことはありません。
遺跡を見るために尾根から外れると急な山なので赤の印は絶対に見逃さないでください。
兵糧道とは下野田へ降りる道のことです。
道標に「竜野城・鶏籠山」とありますが、其方に行くと崖みたいな道があったり、アップダウンがそれなりにあります。
しかし途中下山できる道は一ヶ所くらいしか無いので体力に自信のない方、心配な方は
「下野田」方面に降りられるのを勧めます。
龍野古城の遺構を見たくても城山城と
鶏籠山 (龍野古城) とは山が続いているだけで遺構も無く関係はありません。
城山城から鶏籠山(龍野古城)・竜野城を目指すと
鶏籠山のほぼ隣になる的場山周辺にすら龍野古城の遺構は見当たらないように思えます。
それなら下山されて下道から龍野城まで移動されて龍野城左手裏からか、
たつの公園(大手道?)から
龍野古城へ行かれるのをお勧めします。
2018年04月25日 安那備後守はるか
城山城
(遺構)
県下で唯一の古代神籠石山城と中世山城が残っています。
麓には古墳時代後期の馬立古墳群が大手道周辺で32基、城郭内では65基。1号古墳はドーム状の珍しい形状で大手道に行く前にでも見学をおすすめ。
古墳群を過ぎると頂上までは物見台ぐらいしかないです。尾根筋にくると亀山までは曲輪、蛙石横堀、土橋など。古代山城の築石の礎石はなかなか大きく門も相当大きいと想像をかきたてられます。
石塁は城郭内に5つあるようですがフォトにあげてある石塁の看板しかありません。その石塁までの看板も途中までしか看板なく、探し歩きました。
看板より少し中に入りUターンするように歩くと石塁が見えてきます。中世山城までは問題なくたどり着けます。
古墳、古代山城、中世山城と3つおいしい遺構だらけでした。
(案内)
大手道より古墳を見ながら歩いて亀山までは約2時間ほど。比高400mはやっぱりきつかったです。
亀山から帰りの道兵糧コースを通り元の入口まで約2時間かかりました。遺構散策時間含めての時間です。
城山城の周辺スポット情報
堀切(遺構・復元物)
堀切(遺構・復元物)
石塁1(遺構・復元物)
井戸(遺構・復元物)
石塁2(遺構・復元物)
竪堀群?(遺構・復元物)
門の築石(遺構・復元物)
二重堀切(遺構・復元物)
石塁3(遺構・復元物)
門の築石(残骸?)(遺構・復元物)
三基墓(碑・説明板)
越部里条(碑・説明板)
新宮藩陣屋大手門跡(碑・説明板)
矢竹自生地(碑・説明板)
祗園嶽城(周辺城郭)
新宮藩陣屋(周辺城郭)
林田陣屋(周辺城郭)
興聖寺(寺社・史跡)
梅岳寺(寺社・史跡)
新宮八幡神社と新宮神社(寺社・史跡)
道の駅しんぐう(御城印)
兵糧道側駐車場(駐車場)
駐車場(駐車場)
礎石建物址(関連施設)
たつの市立埋蔵文化財センター(関連施設)
輪袈裟の清水(その他)
お玉の清水(その他)
水布弥登山口(その他)
水布弥登山口(2)(その他)
分岐路(その他)
西側の山肌の道(その他)
大手道合流点(その他)
大手道登山口(その他)
見張り岩(その他)
主郭・石塁2分岐点(その他)
展望スポット(物見台)(その他)
パノラマ展望台(その他)