城山城(きのやまじょう)

城山城の基本情報

通称・別名

所在地

兵庫県たつの市新宮町馬立字亀山他

旧国名

播磨国

分類・構造

神籠石式山城[古代山城]、連郭式山城[中世山城]

天守構造

なし

築城主

天智天皇[古代山城]、赤松則佑[中世山城]

築城年

天智天皇6年(667)?[古代山城]、正平7年〔南朝〕/文和元年〔北朝〕(1352)[中世山城]

主な改修者

主な城主

大和朝廷[古代山城]、赤松氏、尼子晴久[中世山城]

廃城年

不明[古代山城]、天文9年(1540)[中世山城]

遺構

建物礎石、石塁、土塁[古代山城]、曲輪、土塁、堀切、竪堀[中世山城]

指定文化財

再建造物

碑、説明板

周辺の城

龍野城(兵庫県たつの市)[3.2km]
感状山城(兵庫県相生市)[7.2km]
楯岩城(兵庫県揖保郡)[9.7km]
大嶋城(兵庫県相生市)[11.2km]
坂本城(兵庫県姫路市)[11.6km]

城山城の解説文

※この城郭は2018年4月6日に名称と位置が変更となりました。

城山城(きのやまじょう)は、正平7年/文和元年(1352年)に赤松則祐が築城した播磨国の山城である。兵庫県たつの市の亀山(きのやま)(標高458m)の山頂にあった。元々この山には663年の白村江の戦いで敗れた大和朝廷が唐・新羅の侵攻に備えて築城した古代山城があった。

沿革
そもそも、赤松氏の居城は則祐の父赤松円心が築いた白旗城であったが、播磨の西に寄りすぎていたため新たな居城として則祐が正平7年/文和元年から10年以上の歳月をかけ、この兵庫県下屈指の山城を築いた。麓には則祐・義則の2代にわたる守護所、「越部守護屋形」があった。

嘉吉元年(1441年)に起きた嘉吉の乱の際、赤松満祐(義則の子)は当初はこの時分の守護所である坂本城に籠って室町幕府軍を迎え撃とうとしたのだが、坂本城では長期の籠城戦には耐えられないと判断し要害である城山城に移動した。だが、9月8日には山名宗全と幕府に味方した赤松満政の軍に包囲され、翌9日に攻撃を受けた。それを受けて籠城していた満祐の弟赤松義雅は嫡男の千代丸と共に満政に降伏、義雅は千代丸を満政に預けて自害した。その一方で満祐と義雅の甥赤松則尚は逃亡に成功している。10日には総攻撃が行われ、満祐は嫡子教康や弟則繁らを逃がし、一族69名とともに自害して城は落城した。

その後、宗全の統治を経て再び赤松氏の城となったが、天文年間に尼子晴久に攻め込まれて陥落し播磨攻略の拠点とされた。しかし、尼子軍が撤退するといつしか廃城となった。

現在、嘉吉の乱による城山落城の際に討ち死にした赤松一族らの供養塔が本丸跡や麓の集落に多数建てられ、赤松一族の霊を弔うための盆供養、さいれん坊主が毎年8月14・15日に行われ、たつの市無形文化財に指定されて、赤松一族の末裔らによるさいれん坊主保存会によって祭礼の伝承がなされている。

城山城の口コミ情報

安那備後守はるか様[2018年04月25日]
(遺構)
県下で唯一の古代神籠石山城と中世山城
が残っています。
麓には古墳時代後期の馬立古墳群が
大手道周辺で32基、城郭内では65基。
1号古墳はドーム状の珍しい形状で
大手道に行く前にでも見学をおすすめ。
古墳群を過ぎると頂上までは物見台
ぐらいしかないです。
尾根筋にくると亀山までは曲輪、蛙石
横堀、土橋など。
古代山城の築石の礎石はなかなか大きく
門も相当大きいと想像をかきたてられ
ます。
石塁は城郭内に5つあるようですが
フォトにあげてある石塁の看板しか
ありません。その石塁までの看板も途中
までしか看板なく、探し歩きました。
看板より少し中に入りUターンするように
歩くと石塁が見えてきます。
中世山城までは問題なくたどり着けます。
古墳、古代山城、中世山城と3つ
おいしい遺構だらけでした。
(案内)
大手道より古墳を見ながら歩いて
亀山までは約2時間ほど。
比高400mはやっぱりきつかったです。
亀山から帰りの道兵糧コースを通り
元の入口まで約2時間かかりました。
遺構散策時間含めての時間です。

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