山崎城(やまさきじょう)

山崎城の基本情報

通称・別名

鹿沢城、(山崎陣屋)

所在地

兵庫県宍粟市山崎町鹿沢他

旧国名

播磨国

分類・構造

平城、(陣屋)

天守構造

築城主

木下勝俊?

築城年

天正15年(1587)?

主な改修者

池田輝澄

主な城主

木下氏、池田輝澄、松井康映、池田氏、本多氏

廃城年

遺構

曲輪、横堀(空堀)、移築門

指定文化財

市文化財(紙屋門)

再建造物

塀、石垣、石碑、説明板

周辺の城

長水城(兵庫県宍粟市)[4.7km]
三日月陣屋(兵庫県佐用郡)[10.0km]
城山城(兵庫県たつの市)[12.1km]
龍野城(兵庫県たつの市)[14.9km]
利神城(兵庫県佐用郡)[15.6km]
感状山城(兵庫県相生市)[15.7km]
置塩城(兵庫県姫路市)[15.8km]
福原城(兵庫県佐用郡)[17.2km]
恒屋城(兵庫県姫路市)[17.2km]
波賀城(兵庫県宍粟市)[17.5km]

山崎城の解説文



山崎城(やまさきじょう)、または鹿沢城(しかさわじょう)は、兵庫県宍粟市山崎町鹿沢(播磨国宍粟郡山崎)にあった日本の城(平城)。1679年(延宝7年)以降は山崎陣屋(やまさきじんや)となった。城跡は市街地化しているが、旧城門の「山崎藩陣屋門」(別名・紙屋門)が宍粟市指定有形文化財に指定されている。

概要 

中世後期の山崎の地には、赤松氏庶流の宇野氏が、最上山(さいじょうやま)北西の山(通称「一本松」)に築いた篠ノ丸城があったが、1580年(天正8年)に羽柴秀吉によって攻め落とされた[1]。その後、神子田正治・黒田孝高・木下勝俊が城主となった。木下勝俊時代の1587年(天正15年)に篠ノ丸城の南東山麓、現在の山崎城の場所である鹿沢の地に城を築いたとされているが、鹿沢には羽柴氏以前より城砦があったとする説もある。

なお、筑前国(福岡県)黒田家伝来の『黒田家譜』に見える、黒田孝高が1580年(天正8年)に入城した「幡州宍栗郡山崎の城」は、本項の山崎城ではなく篠ノ丸城のことではないかと考えられている。

本格的な城郭が建築されたのは、1615年(元和元年)に池田輝政の子輝澄が山崎3万8千石で入封した後である[2]。揖保川と菅野川に挟まれた鹿沢と呼ばれる河岸段丘の南半分に築城した。川に面した崖の部分には石垣を築き、その南端に本丸を設置、続いて北側に東西に広がる形で二の丸・三の丸を設置し、その境目には揖保川から引いて構築した堀が巡らされた。更にその北側には武家屋敷、外堀を挟んだ北側には城下町が広がっていた。ただし、城は未完成のまま終わり、本丸に代替となる陣屋の設置が許されたのも本多氏が藩主となった1679年(延宝7年)以後のことであった。

池田輝澄が1代で改易された後、松井康映が入るもこれも移封となり、輝澄の甥にあたる池田恒元が入り以後3代続いたが無嗣断絶した。その後、本多忠英が1万石で入り、廃藩置県まで本多氏9代の藩主が入った。

廃藩置県後は跡地に学校施設などが設置されたものの、幕末期の設置とされる表門で、市指定有形文化財の紙屋門など一部が本多公園として保存の対象になっている。

参考文献 

  • 平井聖ほか 1981「山崎城」『日本城郭大系』〈第12巻〉大阪・兵庫 新人物往来社 p.465
  • 『兵庫県大百科事典』神戸新聞総合出版センター、1983年 ISBN 978-4-87521-100-6 「山崎城」(上月昭信)
  • 『角川日本地名大辞典 28兵庫県』角川書店、1988年 ISBN 978-4-04-001280-3 P1527「山崎城」
  • 『日本歴史地名大系 29下 兵庫県の地名Ⅱ』(平凡社、1999年) ISBN 978-4-582-91058-2 P767「山崎城跡」

山崎城の口コミ情報

2024年03月11日 主水佑Jimny
山崎城



山崎城となりに図書館がありそこの横に駐車場があります。

2023年11月04日 織田上総介晃司
山崎城

宍粟市中央図書館の裏に本多公園駐車場がありますが、わかりにくかったので今回、山崎文化会館の駐車場に停車。

中国自動車道に昔、キセルなど不正通行を防ぐ山崎バリアと呼ばれる検閲所がありましたがETCの普及などにより廃止。
山崎バリアを知っている又は覚えているという方はいますか?

2023年11月04日 織田上総介晃司
香山城[山崎城  周辺城郭]

たつの市新宮町の大歳神社の裏山にあり、香山城説明板のある場所に駐車場があります。

防獣柵を開けて進むこと数分で石垣が現れます。
山頂でなく山麓に城跡があり、順路も示されてあるので山城初心者でも気軽に散策できます。
総石垣の城内に古墳もあり「一粒で二度おいしい」城です。
ただ、湿地帯なので山ビルには注意してください。

北郭は整備してありますが大歳神社を挟んで向かいの南郭は未整備で藪化しております。
藪こぎすればなんとかなりますが先ほど述べた通り山ビルがいるので藪こぎはおすすめできません。

兵庫県には「宍粟市」「養父市」「朝来市」と難読地名が多いので誰でも読めるように平成の大合併の際、龍野市→たつの市と名称変更したのかな?

2023年08月27日 龍馬備中守【】
聖山城[山崎城  周辺城郭]



兵庫県の穴粟市にある【聖山城】♪さて、聖山城ですが、堅木山の標高166mに築かれた城郭は別名を堅木城、篳篥山城とも呼びます♪この城郭は篠ノ丸城に籠る宇野氏を落とす為に羽柴秀吉が本陣とした場所となります♪

始まりは1493年(明応2年)赤松氏庶流で播磨守護代を務めた宇野氏の家臣・下村則真が築城し城主として名を連ねます♪

織田軍の播磨侵攻の際、宇野政頼・祐清父子は、当初は織田軍に付いたと云われます☆
が、第二次上月合戦の際に宇野氏は毛利氏に寝返った事で1580年(天正8年)羽柴秀吉による播磨攻めの局地戦、『長水合戦』の際に聖山城は真っ先に落とされます☆その際に聖山城を本陣とし、その後には、篠ノ丸城・長水山城を攻め落とし、宇野氏は滅亡しています…宇野氏は長水城を本城として、篠ノ丸城と聖山城を支城群として活躍した国衆です♪この長水合戦の際に城主・宇野祐清は、美作国へ逃れようと試みましたが…千種で秀吉配下の蜂須賀正勝の率いる軍に追いつかれて討死しています…。


宇野氏滅亡後、宍粟の地を領したのは神子田正治、次いで黒田官兵衛らが所領しています♪聖山城からは、篠ノ丸城、長水城がバッチリ見えます♪

2023年08月26日 龍馬備中守【】
篠ノ丸城[山崎城  周辺城郭]



兵庫県の穴粟市にある【篠ノ丸城】♪最上山の山頂(標高324m)一本松と呼ばれる場所に築かれた中世の山城となります♪

別名を広瀬城と呼ぶ、この城郭は畝状竪堀群を配置します♪眼下には揖保川と、その支流・菅野川、伊沢川に挟まれた河岸段丘上に広がる宍粟市の中心街・山崎町を望む場所に城郭は立地します♪

この城郭は南北朝期に赤松貞範の長男・赤松顕則が築城したとされています♪
応仁の乱以降は赤松氏の守護代である宇野氏が本拠地とする長水城(標高584m)の支城群の1城として機能しています♪

戦国期に入ると天正6年(1578年)頃より織田信長の播磨侵攻が本格化していきます☆
当初、宇野政頼・祐清の父子は織田方に付いたと見られますが、織田軍の羽柴秀吉による第2次上月合戦の際に毛利方に寝返っています☆

その後、三木城、英賀城を攻略し迫る羽柴秀吉軍勢により天正8年(1580年)に長水城と共に落城…城主・宇野氏の滅亡後は宍粟の地は、神子田正治に続き黒田官兵衛に与えられています☆黒田家の書『黒田家譜』には宇野氏滅亡後に黒田官兵衛は《山崎の城》に居城したとの記述が残っていますが、この《山崎の城》が篠ノ丸城ではないか?という説もあります♪因みに山崎の城は篠ノ丸城の南東山麓に立地しています☆

この篠ノ丸城からは秀吉が陣を張った聖山城がバッチリ臨めます☆

2023年02月21日 RED副将軍
山崎城



陣屋門、土塀、石垣が一部残る宍粟山崎藩の藩庁

オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎

1615年に池田輝澄により築城。池田輝澄は播磨城主 池田輝政の四男で母は督姫(徳川家康の次女)のスーパー御曹司です。

1631年に弟の政綱が死去すると、新たに播磨佐用郡3万石を加増されましたが、急激な領地拡大により新たに家臣を加えたため新旧の家臣団で争いが勃発。1638年、お家騒動に発展し、鳥取に改易となります。御曹司でありましたが、やはり外孫であったため処分を受けたと言われています。その後、松平康映、池田恒元の入封が続き、池田氏が3代で途切れると、本多忠英が入封し、明治まで続きました。

見所
幕末期の設置とされる表門の紙屋門(山崎陣屋門)か現存し、虎口石垣、城壁が復元されています。現在、本丸部分が本多公園、二の丸他の曲輪跡は、山崎小学校・中学校敷地となっています。

2022年12月03日 RED副将軍
篠ノ丸城[山崎城  周辺城郭]



赤松氏一族の宇野氏の拠点で黒田官兵衛の居城であったことでも有名✨

オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎

貞和年間(1345年〜1350年)に赤松貞範が築城し、嫡男の赤松顕則が入城したとされます。
その後、戦国時代には赤松氏一族の宇野氏の長水城の支城として機能しました。
1580年、織田信長による播磨侵攻において、羽柴秀吉により長水城と共に落城しました。
宇野氏滅亡後には、1587年に豊前へ移封となるまで黒田官兵衛が居城としたとされます。

見所
揖保川右岸の標高325mの尾根先端部に築かれています。
最高所に主郭を置き、北側と西側に伸びた尾根上に郭を連ねるL字型の縄張り。
主郭は西から南にかけて土塁が施され、外側に空堀が巡ります。
西尾根は三重堀切で遮断され、北から西にかけての斜面には畝状竪堀がビッシリと配されているのが特徴的。しかし畝状竪堀は薄めで雑木が茂っています。

行き方は、最上山公園を目指して下さい。車で中腹まで登ることができ駐車場もあります。

2022年08月22日 RED副将軍
聖山城[山崎城  周辺城郭]



篠ノ丸城・長水城攻めにおける羽柴秀吉の本陣🏯

オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎

1493年に赤松氏庶流の宇野氏重臣である下村則真により築城と伝わり、宇野氏の篠ノ丸城の出城であったと考えられています。
1580年、羽柴秀吉による長水城攻めにおいて、まず聖山城を攻め落とし、秀吉は本陣として利用。その後、ここから長水城と篠ノ丸城を攻め落としました。

見所
揖保川東岸の標高167m山頂にあり、川を挟んで西に篠ノ丸城、北西に長水城が一望できます。
秀吉も見たであろう眺望に想いを馳せることができます。
縄張りとしては、主郭の北側に帯郭、西側下に腰郭、東尾根に浅い堀切と土塁が見られるだけのシンプルなもの。砦という感じです。

行き方は、篳篥神社を目指してください。城跡碑があり、登城路が付いています。駐車場もあります。
ものの数分で主郭に辿り着けるお手軽城です。
篠ノ丸城を訪城の際は併せての訪城をオススメします。

2021年12月12日 ゆらキング⭐️左衛門佐信繁
山崎城



虎口の石垣を抜けると紙屋門と呼ばれる本丸正面の城門に辿り着きます。本丸には法務局山崎出張所の旧庁舎が移築され現在は歴史民族資料館になっています。常時は解放されてないようでしたが、偶然観光案内の団体が来られて一緒に仲を見学させて頂きました🏯

2021年11月15日 巴御前主税允
聖山城[山崎城  周辺城郭]



揖保川を挟んで対岸にある篠の丸城の出城と言われ、篠の丸城・長水城がよく見えます。羽柴秀吉はまずこの城を落とし本陣を置き、長水城と篠の丸城を攻め落としたと伝えられます。遺構としては土塁が確認出来ます。麓の觱篥神社が登城口で、整備された道を約10分で本丸跡です。

2021年10月14日 真牛織部正@地元イベ不参加
香山城・説明板[山崎城  碑・説明板]

登城口下にあり、縄張図や想像図付きでした。

2021年06月06日 RED副将軍
香山城[山崎城  周辺城郭]



総石垣の郭群の城郭。

オススメ度 ★★★★★

大歳神社の裏山に位置し、神社に駐車をして登城。
山頂ではなく山麓にあり、ものの数分で廃城感たっぷりの石垣遺構に出会えます。
途中で城域に古墳遺構にも出会い一石二鳥です。
確かに崩落が進むものの、大規模な石垣群が続きます。
よくある明治以降の畑跡の近代石垣に見えてしまいましたが、播磨地方ではよくある家臣の居館跡の石垣群で中世のものとのことでした。
廃城感には充分浸ることができます。
ぜひ訪城をして確かめてください。

注意:湿地帯でありヤマビルに注意が必要です。

2021年05月06日 芦屋能登守虎吉
山崎城



山崎IC近くの本多公園一帯が跡地です。別名鹿澤城(宍佐和(ししさわ)、の当て字とか)。
陣屋門や石垣も多少残っていて、説明板も設置されていたので、散策はすぐできました。

2021年03月19日 萌魏摂政叡声
山崎城

山崎バスセンターから徒歩10分程度。お城っ🏯という雰囲気は、殆ど感じられないが、紙屋門や石垣の部分、中堀や表御門、搦手門などの遺構が、住宅地の中に散在する。市立図書館の2階に歴史郷土館がある。別名鹿沢城。

2020年04月15日 ソバッソ80.0
篠ノ丸城[山崎城  周辺城郭]



最上山公園を目標に設定。同公園の駐車場が山中にあるので、そこまでクルマで登れます。
公園整備され遊具がたっぷり置いてある高台がありますが、こちらは千畳敷?との看板、居住区になっていたのでしょうか。

黒田官兵衛さんが一万石を拝領し、大名としての第一歩を踏み出した事で有名なのが、この笹ノ丸城跡です。
当時は山崎城と名付けられていたそうですが、近年になり麓の新山崎城との差別化を図るために、笹ノ丸城と表記される事になったそうな。

赤松家臣の宇野さんが入っていたそうで、長水城跡の支城として機能していたみたいです。
(だったらスポット登録は長水じゃね??いいえ登録出来るキョリが足らなかったんです。)
また川を挟んで東側には、聖山城跡があり(未踏、情報あれば下さい)長水、笹ノ丸、聖山と3つが連動して機能していたっぽいです。


妙見宮に対する鳥居をくぐり、整備道を15分程度登ると、あとはだいたいキレイに刈られた凸凹と平坦地が出てきます。
僕は途中で整備道から外れ、尾根を直登していきましたが、若干コブコブしており段郭を彷彿とさせる阻害ルートを選択。Ⅵ郭に到達し、そこからはもう明確遺構をコブコブに誘導されながら、折れて折れて登る形で侵入しました。

例に漏れず主郭には沿革やら情報が看板に表記されており、測量して作成された赤色立体地図が載っています。ホンマに凸凹が地形通りに出ていて、大変参考になります。
特に、主郭北側の段郭群にある、内桝形状の虎口から見上げた主郭のヌケは抜群です。狙撃されてる感満載です。
また甘いけど畝状竪堀群も相当数入っており、それなりに視認できますのでお楽しみ下さい。南西端の3重堀切から派生した竪堀の間にも薄く畝状竪堀が入っています。

竪堀の中に竪堀。マトリョーシカ竪堀。



黒田官兵衛さんは実は改修しておらず、この遺構たちは宇野さんが作ったモノだそう。そしてこの宇野さん、筑前黒田氏に召し抱えられたんですって。そらこんなマトリョーシカ城を作る人、部下に欲しいよな。

2017年10月15日 まるき〜出雲守
山崎城

埋門跡が迫力あります!

元々の城の縄張り内、武家屋敷跡等に現在は病院、学校、道路が走りますが所々に面影が残っているようで探索が楽しいです。

宍粟市立図書館、山崎歴史郷土館(同じ場所)にて山崎歴史マップと街並探訪ガイドブックが手に入ります
各遺構の説明文、他、掲載

紙屋門、表門跡、大手門、中堀跡、外門桜ノ馬場町、搦手門跡等のイラストが描かれているので当時の様子を想像しやすく探索が楽しくなると思いますので是非入手する事をオススメしたいです。



2011年08月07日 中務大輔播磨の将軍
山崎城

山崎小学校の敷地内に陣屋門と石垣が残っています!

山崎城の周辺スポット情報

 家老屋敷門(遺構・復元物)

 紙屋門と左右の土塀(遺構・復元物)

 土橋御門跡(碑・説明板)

 中門·外堀跡(碑・説明板)

 清水口見付御門跡(碑・説明板)

 搦手跡(碑・説明板)

 香山城・説明板(碑・説明板)

 埋御門の跡(碑・説明板)

 桜の馬場跡(碑・説明板)

 篠ノ丸城(周辺城郭)

 須賀代官屋敷(周辺城郭)

 聖山城(周辺城郭)

 浜御殿(周辺城郭)

 香山城(周辺城郭)

 安志陣屋(周辺城郭)

 香山城(大歳神社)駐車場(駐車場)

 本多公園駐車場(駐車場)

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