福原城(ふくはらじょう)
福原城の基本情報
通称・別名
- 佐用城
所在地
- 兵庫県佐用郡佐用町佐用
旧国名
- 播磨国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 佐用範家
築城年
- 建武年間(1334〜1338)
主な改修者
- -
主な城主
- 佐用氏、福原氏
廃城年
- 天正5年(1577)
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
上月城(兵庫県佐用郡)[3.4km]
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福原城の解説文
[引用元:Wikipedia「福原城」の項目]佐用城(さようじょう)は現在の兵庫県佐用郡佐用町に存在した日本の城(平山城)である。
【概要】
比高差約20メートルの丘に建てられた。
【歴史】
〜南北朝時代〜
元弘3年(1331年)4月28日に淀の久我畷の戦いにおいて鎌倉方の総大将であった名越高家を討ち取った佐用範家が建武年間(1334年 - 1338年)に築城した。その後、赤松氏36人衆のうちの福原氏がこの城を継いだため、福原城とも呼ばれる。
〜戦国時代〜
戦国時代末期、東西勢力が拮抗する中で、東の利神城、西の上月城、南の高倉城と共に赤松氏の城郭群を形成していたが天正5年(1577年)、羽柴秀吉が黒田孝高、竹中重治らの諸将に攻めさせ、城主の福原則尚は城に自ら火を放ち菩提寺の円福寺にて自刃して城は落城した。
【構造・遺構】
南側には川、背後には山がある平山城で、空堀・土塁・馬落としが残っている。土塁は西と北に残っており、西側の土塁上には落城時の城主であった福原則尚の首級を祀るため、土地の人々によって造営された福原霊社(頭様こうべさま)が鎮座している。[続きを見る]
福原城の口コミ情報
2019年06月25日 石工㊻備中守境目集団穴太衆
福原城
木々が生い茂る高まりが主郭西側の土塁跡で現在は城主福原藤馬允則尚の首級を祀る為に福原霊社が造営されてます、主郭は東側へと広がり、手前も段々と広がるかつての郭跡
2019年06月25日 石工㊻備中守境目集団穴太衆
福原城
正面へ抜ける農道はかつて馬落しと言う堀切があり右側が主郭東側の土塁で、西側も郭があった場所で現在は墓地になってます
2019年01月09日 (*¯ ³¯)っ旦
福原城
車を駐車するスペースは全く無いので、佐用駅前の役場が駐車場になります。
役場から城めぐのナビ通りに行くと
1kmくらい道なりに歩き、
橋を渡り右手に曲がっての
「目的地到着」はコンクリートの土塁で阻まれます。
渡った橋から道なりに坂道を進むと右手に神社が見えます。
神社が土塁で右手の一段低いところが本丸です。
土塁は本丸より高い位置にあり、
パッと見た感じ明治以降の砲台などでみられる「胸壁」のような感じですが、
本丸の建物が陣屋のような一階建てでも、屋根などは土塁よりは高い位置になります。
土塁、空堀はよく残っています。
先に佐用駅前の役場二階の商工観光課ですごい簡単な縄張り配置図「時を越え戦国の地へ・官兵衛ゆかりの佐用「三城」を巡る」を貰うか
教育委員会に行くと詳しい繊細図があるかもしれません。
私は後でもらったので
土塁のところが本丸だと
勘違いしていましたけどね…
(lll-ω-)
2017年03月21日 3000ロス征夷大将軍マイリバ
福原城
拙者を一目見て「そのスジの人」と見破ったのか(笑)、城跡からR179へと戻る途中にある家の御主人から声を掛けられ、「文化財を歩く」というコーナーで福原城の記事が載っている平成4年10月18日の神戸新聞のコピーをいただきました。
家に帰ってから、10年以上前に初めて福原城を訪れた時も福原霊社奉讃会が作成した「福原城物語」という冊子を同じ方からいただいたのを思い出しました。
いただいた新聞記事によると、城主・福原藤馬允の胴塚が佐用町南中山の福円寺にあるとのこと。(時間の都合により訪問断念(>_<))
ちなみに、首の方は福原城跡の福原霊社に「こうべ様」として祀られており、お参りすると首から上の病に効果があると言われています。