三星城(みつぼしじょう)
三星城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 岡山県美作市明見
旧国名
- 美作国
分類・構造
- 山城
天守構造
- なし
築城主
- 渡辺長寛
築城年
- 応保年間(1161〜1163)
主な改修者
- -
主な城主
- 渡辺氏、後藤氏
廃城年
- 天正7年(1579)
遺構
- 曲輪、土塁、井戸
指定文化財
- 市史跡(三星城跡)
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
井の内城(岡山県美作市)[6.1km]
有元城(岡山県勝田郡)[10.2km]
周匝茶臼山城(岡山県赤磐市)[10.8km]
福城(岡山県美作市)[10.9km]
津山城(岡山県津山市)[13.9km]
医王山城(岡山県津山市)[15.0km]
神楽尾城(岡山県津山市)[16.7km]
上月城(兵庫県佐用郡)[16.9km]
天神山城(岡山県和気郡)[18.1km]
福原城(兵庫県佐用郡)[19.0km]
三星城の解説文
[引用元:Wikipedia「三星城」の項目]
三星城(みつぼしじょう)は、岡山県美作市明見にあった日本の城(山城)。美作市市指定史跡。
概要
後藤氏の居城。美作に侵攻した宇喜多氏によって攻められ、落城。山に屋敷を設けた山城と思われ城の東側は、吉野川が流れる。現在、屋敷があったと思われる整地された場所などが残る。この城のある山を三星山と呼ぶ。
歴史・沿革
名前の由来
一番有力なのは、山の峰が3つに分かれていることからその名前が付いたといわれる。
三星城落滅のころ
天正7年(1579年)4月下旬、延原景光が率いる宇喜多家の軍勢は茶臼山城など拠点を落とし、後藤勝基の守りの拠点の1つであった倉掛山を目指した。
一方、三星城にいた後藤家の安藤相馬と難波利介、柳澤太郎兵衛らは倉掛山に来る宇喜多家の軍勢が大軍であることを知り、軍議を開き一計を廻らした。倉掛山に押し寄せる敵を前後から挟撃することにし、後藤久元、小坂田吉詮、下山正武、浦上景行の4人を倉掛山の援軍として差し向けた。4人は手勢を連れ荒木田村深山に潜み宇喜多家の軍勢の背後に回った。援軍を送ってから3日過ぎないうちに宇喜多勢は三海田村(現在の美作市栄町)に押し寄せた。まるで鯨が波を立てる勢いであったという。4人はそれより先に倉掛山へ入城し宇喜多勢を迎え撃った。
前後より攻撃を受け宇喜多勢は佐瀬村まで退いた。それを4人が追討し景光の郎党17騎を討ち取った。後藤久元は景光と切り合い景光に深手を負わせた。宇喜多勢は位田村鳥貝山まで退いた。後藤久元は景光を打ち漏らしたのを悔しがった。後藤勢は倉掛の城に火をかけ撤退した。
宇喜多勢は鳥貝山まで退いてからすぐに、4人がいない三星城へ攻め寄せた。しかし、4人が三星城へ戻り戦い宇喜多勢を退けた。
宇喜多勢は鳥貝山に退却した。その後、景光は和田助四郎と相談し鳥貝山を勝間という名前にして籠城した。そのうち、宇喜多直家のもとから西尾文五郎が加勢にきた。景光は湯郷村長光寺の住職を招きいれ、後藤家に内応する者を探すように頼んだ。そして、住職に親しい安藤相馬が内応することになった。
景光は大軍をもって三星城に再び攻め込んだ。兵が少ないながらも後藤勢はよく耐えた。戦いも半ばにさしかかった頃、ついに安東相馬が城内より火をかけ裏切りをした。それを合図に宇喜多勢はより激しく攻めた。西の丸を130騎で守っていた難波利介と柳澤太郎部衛は城を出て荒木田へ退いた。しかし、宇喜多勢に追討され戦っていたが、手傷を数多く負っていたのでこれまでと思い両名とも自刃した。柳澤太郎部衛83歳、難波利介47歳であった。
大将勝基は郎党ら27騎を引きつれ城を落ちていった。しかし、入田中山村辺りで追ってきた宇喜多勢の大軍と戦い、なお落ち延びて長内村の隠坂まで来て自害した。
宗國寺
三星山には宗國寺という寺があった。元亀・天正の頃、浦上宗景が国中の兵乱を憂えて、要害の地である三星山に父である浦上宗國の墓を築いた。そして、寺を建て父の字をあてて宗國寺とした。その後、寺は倉敷に移したが残っていた建物は宇喜多氏が三星城を攻めたとき、城郭とともに灰となった。
交通アクセス
- JR岡山駅より
- 宇野バス「湯郷温泉・林野駅行き」に乗り、約1時間30分後、停留所「栄町」下車。徒歩10分。
- JR林野駅より
- 宇野バス「岡山駅・表町バスセンター行き」に乗り、約2分後、停留所「栄町」下車。徒歩10分。
参考文献
- 『東作誌』
- 『美作太平記』
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三星城の口コミ情報
2024年06月09日 織田上総介晃司
三星城
国道179号松茸直売の看板のある場所に広い路肩があるのでそこに停めて登城。
明見三星稲荷神社が登城口となります。
途中までは軽トラなら登れそうな道がありますが、その後はいきなりロッククライミングするようになります。体力に自信のない方は北曲輪の横矢土塁までで引き返してもいいと思います。
三星城から約3km進むと湯郷温泉があります。
アイルトン・セナファンは必見。
’94年TIサーキット岡山(現・岡山国際サーキット)でF1が開催された際、湯郷温泉の「ゆのごう館」にセナが宿泊した時の写真を展示してあります。亡くなる2週間前の写真です。
宿泊者でなくても15:00〜19:00の間見学することができます。
ノートにコメントを書いてフロントに言うとオリジナルポストカードがいただけます。
日帰り入浴も可能(1,000円)なのでリア攻めの後の汗を落としてはどうでしょう。
2024年05月30日 ハマカズ
三星城
三星城と林野城をセットで登りました。三星城は激戦だったようで、看板にも説明があるように色々妄想してしまいます。どちらもまずますの整備されてて登りやすいと思います。危ないところはロープしてくれてるから安心です。
三星城の二の丸案内がよく理解できず、道迷いしひとりぼっちだったので引き返してしまった。急なところがザレザレであしを滑らします。あとで市役所の観光課で縄張図をもらって見ると奥までまだまだあり、なんてもったいないことしたんだと後悔です。
林野城、のちに倉敷城となります。搦手から登り途中から急になります。落ち葉でまたも足を滑らせ朽ちた木が折れてしまいました。大手に向かう道はとても整備されています。
2023年07月15日 RED副将軍
三倉田城[三星城 周辺城郭]
今更ながらちょうど1年前に城友さま達と訪れたマイナー城を口コミ投稿
急峻な岩山に段郭群と畝状竪堀群が特徴的な詳細不明の山城🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代等の城史は詳細不詳。康安年間(1361年~1362年)に広幡某が城主で落城したと伝わる程度です。但し、現存する遺構は南北朝時代のものとは思えない戦国時代後期の技巧性のある縄張りです。この地域は赤松氏、山名氏、浦上氏、尼子氏、毛利氏、宇喜多氏等の諸勢力の激戦地。いずれかの勢力に陣城として利用されたと思われます。
見所
吉野川東岸の標高251mの硫黄平に築かれています。ピークの主郭から北の尾根筋に段郭が連なり、その下には折れを伴う土塁を備えた二郭があります。二郭は西側と北側に虎口が開口し、北東側面には畝状竪堀群が配されています。ほとんど人の出入りがない未整備状態であり写真映えは全くありません。
行き方は、吉野川に架かる「ほうらいはし」西側の河川敷に駐車スペースがあります。吉野川沿いの西側鞍部から尾根に取り付き、城友さん達は北側の尾根筋、少し遅れて登り始めた私は南側の尾根筋を直登。途中から岩場にしがみつきながらとなり、かなり危険な箇所もありました。北側尾根を登った城友さん達も同じ様だったと全くオススメしません。正しくは城域北側の墓地裏から鞍部を登るのが正解みたいで下山はこのルートを利用しました。しかし何の案内も無いのでわからないと思います。比高は170mでルートを誤ると苦労します。
2022年07月16日 生駒讃岐守江現蔵✿
三倉田城[三星城 周辺城郭]
三倉田城は岡山県の吉野川に面した標高251.7mの硫黄平(よびら)に築かれています。
城の詳細は不明で、1361年~1362年に落城したとだけ伝えられています。
武蔵の城友さんが畝状竪堀が見たいと懇願し、城アプリの周辺城郭にも登録されていない、正体不明のこの城に、城友さん達と縄張り図見ながら行ってきました。
登り口はウロウロ探してやっと見つけ、かなりの距離を直登、ようやく主郭に着いて、土塁に囲まれている広い曲輪と堀切、薄い畝状竪堀を確認。
来た道は降りられないと判断し、別のルートを尾根づたいに歩き、最後は道無き道を行く…振り返ってみると登ってきたルートと変わらないぐらい急だったという案件でしたが、城友さん達が一緒だったので勇気を出して進めました☆
遺構はあるのですが、案内看板は無く登山口も不明。2時間ほぼ彷徨い歩き、それなりに楽しく、下界に降りた時は達成感はありましたが、次回城友さんを案内出来ない凄まじい城でした。
どなたか登山口が分かる方いらっしゃいましたら教えてくださいませ。
2020年10月07日 RED副将軍
三星城
三つのピークにそれぞれ郭群を展開する山城🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
応保年間(1161年〜1163年)に渡辺長寛により築城。
南北朝時代には赤松氏配下の後藤氏の居城でしたが南朝方の山名氏の侵攻により落城しました。
後藤氏は、赤松氏、山名氏、浦上氏、尼子氏に属しながら勢力を維持し尼子氏が毛利氏に滅ぼされると美作東を掌握。
しかし1579年に宇喜多氏に攻められ落城。後藤氏は滅亡しました。
標高233mの三星山山頂に築かれた山城。山頂が3つの峰に分かれていることが名の由来とされます。
近くに駐車場が無いのでご注意を。少し離れた路肩に駐めて登城しました。
案内板ではそれぞれのピークに東から一の丸、二の丸、三の丸と名付けています。
登城開始から暫くは、重機で整備された山道が続き、やがて後藤勝基供養塔、北曲輪群に辿り着きます。北曲輪群の横矢土塁、畝状竪堀は明確に残り最初の見所です。
ここから先は分岐路の連続。今回は左へ左へと進み、岩井戸を越えて東峰のピーク、一の丸を目指しました。ここから急に足場は悪く藪化。しかし高度が上がると東曲輪群に着き、見事な階段状の小曲輪が連なります。個人的にはここが最大の見所でした。
東峰ピークの一の丸を越えて、中峰ピークの二の丸を目指します。中峰が最高所であり、二の丸が主郭と紹介している記事もありますが、余りにも狭小である事から、見張り台の役目で、主郭は一の丸であったと考えます。双方の解説があり、主郭はどちらであったか分かってない様です。
二の丸からの眺望を堪能し、先の降り坂を進みます。ここがかなり急坂で足場は非常に脆く、千切れかけの虎ロープを頼りに降ります。慣れていない方はオススメできないレベルです。
最後に西曲輪群のある三の丸に立ち寄ります。少し広めですがあまり特徴のない曲輪でした。
大山登山後のデザート感覚で登城しましたが、アップダウンを繰り返し、途中の脆い岩肌の急坂もあり思った以上にハードでした。確りとした登山靴が必要です。
非常に複雑な地形を利用した技巧的な縄張りは見事で星三つと思います。
写真
①北曲輪群の土塁
②一の丸(東峰ピーク)
③二の丸(中峰ピーク)
④東曲輪群の段曲輪
⑤二の丸からの降り(脆い岩肌。落石注意)
⑥下から二の丸を見上げる(ロープ切れかかってます)