医王山城(いおうやまじょう)
医王山城の基本情報
通称・別名
- 祝山城、岩尾山城
所在地
- 岡山県津山市吉見1609他
旧国名
- 美作国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 上道是次
築城年
- 南北朝時代以前
主な改修者
- -
主な城主
- 山名氏、三好氏、湯原氏、宇喜多氏
廃城年
- 天正9年(1581)頃
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、堀切、畝状竪堀、虎口、枡形虎口
指定文化財
- 市史跡(医王山城)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
矢筈城(岡山県津山市)[8.6km]
神楽尾城(岡山県津山市)[8.6km]
津山城(岡山県津山市)[9.0km]
有元城(岡山県勝田郡)[10.0km]
院庄館(岡山県津山市)[13.1km]
三星城(岡山県美作市)[15.0km]
西屋城(岡山県苫田郡)[15.8km]
葛下城(岡山県苫田郡)[16.5km]
香音寺城(鳥取県八頭郡)[16.9km]
井の内城(岡山県美作市)[19.5km]
医王山城の解説文
医王山城の口コミ情報
2023年06月21日 RED副将軍
医王山城
放射状竪堀が特徴的な数多くの激戦があった山城🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
築城年代は不詳。諸説ありますが南北朝時代以前に上道是次によって築かれたとも伝わります。
南北朝時代の美作国は山名氏と赤松氏が争っていたため、医王山城も戦地となり交互に両氏の支配となった様です。
1441年の嘉吉の乱後は山名氏の支配となり山名忠重が在城しました。
1554年には尼子国久が美作に侵攻。浦上宗景に属していた岩屋城などと共に落城した様です。毛利元就により尼子氏が滅亡すると、医王山城も毛利氏の属城となりました。
1579年、宇喜多直家が織田信長に寝返り毛利氏と対立すると医王山城も毛利氏と宇喜多氏との激戦の舞台となり、湯原春綱が在城しました。長期に渡り激戦は続きましたが宇喜多氏は落とすことができず、1582年に毛利元就と羽柴秀吉との和睦が成立。和睦をする協議として、高梁川を境界に西側が毛利領、東側が宇喜多領となったため医王山城は宇喜多氏領となりました。
しばらくして宇喜多氏の支配が安定すると廃城となった様です。
見所
加茂川の西岸に聳える烏山から南東に伸びた尾根のピーク先端(標高340m)に築かれています。
ピークに主郭を置き、南へ伸びた尾根に二の郭、三の郭を配した連郭式。
主郭は、北から西にかけて石積みで補強された土塁が巡り、北西に虎口が開口しています。
主郭北側の尾根には四重堀切がある様ですが激ヤブで全く立ち入ることが出来ませんでした。南尾根を下ると痩せ尾根を削平した二の郭があり、更に南へ下ると一段高くなった尾根先端に三の郭があり西側に土塁が付いています。
一番の見所は三の郭下で、岩盤掘削の大堀切があり、その先の斜面に放射状に連続竪堀群が配されています。
行き方は、東麓の岩尾寺の裏手に駐車場と登城口の入口があり案内板も立っています。
比高は180mくらいで20分程度で主郭に辿り着きますが、主郭から三の郭までは距離もあり結構下るうえに再度主郭に戻って下山する必要があるので比高以上に時間をみておいた方が良いと思います。
写真
①②③④三の郭下の大堀切。端部は岩盤掘削の竪堀となり落ちる
⑤⑥放射状竪堀群
⑦土塁が巡る三の郭
⑧主郭は石積み補強の土塁が巡り虎口が開口
2023年04月18日 tracer_azu
医王山城
矢筈城からほど近く矢筈城の後に攻城しました。セットで行かれると良いと思います。岩尾寺より登山道があり看板も出ています。
主郭虎口周りの石垣がよく残っています。しかし主郭北側の遺構は薮と倒木が多く少し残念でしたが南側には岩盤を切り出した竪堀があります(こちらは堀切を降りていくと見ることができます)放射線状におちるウネタテも見ることができます。
2020年10月20日 織田上総介晃司
医王山城
岩尾寺を目指して進みましょう。車の方は登城口前に駐車場がありますが、岩尾寺の土地なので住職に許可を得てください。約20分で主郭にたどり着きます。
医王山城から因美線沿いに北へ進むと美作の山城ラスボス級の矢筈城があります。
東隣の美作市には美作三湯の1つ湯郷温泉があります。
2019年05月24日 あきおこ
医王山城
大堀切の南斜面にある畝状竪堀。縄張図によると大堀切を中心に放射状にある様だが西側は樹木が生い茂り探索困難。南の緩斜面で割と長い竪堀が4条程確認できた。しかしながら畝状竪堀を写真で伝えるのは難しい・・・
2019年05月23日 あきおこ
医王山城
南尾根先端を分断する大堀切。大堀切に続く竪堀は急斜面を落ち込んでおり登坂は困難。更に南に続く緩斜面には畝状竪堀があり横移動を厳重に阻む。
2019年03月14日 カーネル
医王山城
因美線 美作滝尾駅から
駅をでて右。500mくらい進むと道標があるので従い加茂川を渡る
岩尾寺を目指します。同寺の南側の道を進むと登山道があり、登山口に縄張り図があります
登山道はキレイに整備されているので、迷うこともなく本丸へ。道中の堀切や曲輪等の案内もうれしい
主郭は石垣の虎口がかっこいい。虎口をでて北に向かうと、稜線の左右に堀・・・だけど、見通しがよくないのでよくわからなかった
大岩を見て引き返し、本丸を通過して南側へ。二ノ丸。三の丸は土塁がありました
さらに下ると大堀切で、その奥の(うっすらとした)畝状竪堀を見てから引き返しました
駅から往復120分でした
2018年12月11日 播磨守狂鬼人間
医王山城
岩尾寺の駐車場は無断駐車禁止で住職に許可を得て下さい。
比高190mで20分程で山頂に着きます。
主郭には虎口に石垣が残っています。
景色は抜群でした!
2015年02月05日 INO【兒】左京大夫
医王山城
登山口は岩尾寺の裏からです。駐車スペースもあります。(寺の土地ですが。。。)
立地
標高340m(比高約190m)の山頂に築かれた山城。東に加茂川が流れ、西には深い谷が入り込み、北に続く峰と南端は堀切で画してあるため、天然の要害となっている。因幡から津山盆地へ抜ける往来筋にもあたるため、この往来筋の掌握も意識して築かれたと考えられる。城史
初めて築城したのは、南北朝期以前の上道是次とされている。南北朝期の美作では山名氏と赤松氏が抗争を繰り広げており、医王山城も両氏が交互に拠守した。天文年間(1532~55)には出雲の尼子氏が2度侵攻し、その度に城は尼子氏の手に落ちた。尼子氏滅亡後の美作は、毛利氏と宇喜多氏の対立に巻き込まれ、医王山城には毛利方の湯原春綱が籠り、宇喜多勢と激しい攻防を繰り返した。縄張
北側の山頂部と南側の尾根頂部を中心に南北に長い城域を持つ。本丸を北端に置き、北東を大手、南を搦手とし、南北に細長い郭を配置する。本丸北側の尾根筋に連続堀切、南側尾根頂部の南面に放射状の畝状空堀群を配し、堅固に防御している。本丸では西側と北東側に石塁を設け、両石塁が少し食い違っているため、西側の石塁隅でひと折れして中へ入る虎口となっている。南側尾根頂部の郭では石垣の桝形虎口がみられる。また、本丸付近では瓦が採集されており、瓦葺きの建物があったと考えられる。虎口や瓦の様子から、織豊系縄張り技術による改修がおこなわれたと考えられる。