天神山城(てんじんやまじょう)
天神山城の基本情報
通称・別名
- 天瀬城、(太鼓丸城)
所在地
- 岡山県和気郡和気町田土
旧国名
- 備前国
分類・構造
- 連郭式山城
天守構造
- -
築城主
- 浦上宗景
築城年
- 天文23年(1554)
主な改修者
- -
主な城主
- 浦上氏
廃城年
- 天正5年(1577)
遺構
- 曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)、井戸、侍屋敷跡
指定文化財
- 県史跡(天神山城跡附根小屋跡、岡本屋敷及び木戸館、伝浦上与次郎墓)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
周匝茶臼山城(岡山県赤磐市)[8.9km]
保木城(岡山県岡山市)[9.0km]
井の内城(岡山県美作市)[12.3km]
富田松山城(岡山県備前市)[13.6km]
三石城(岡山県備前市)[14.1km]
福岡城(岡山県瀬戸内市)[16.0km]
大廻小廻山城(岡山県岡山市)[17.3km]
沼城(岡山県岡山市)[17.8km]
三星城(岡山県美作市)[18.1km]
金川城(岡山県岡山市)[18.5km]
天神山城の解説文
[引用元:Wikipedia「天神山城」の項目]
天神山城(てんじんやまじょう)は、岡山県和気郡和気町田土(備前国和気郡)にあった日本の城。岡山県指定史跡。
なお、同国御野郡、現在の岡山市北区にあった同名の城郭については、岡山城#南北朝時代 - 安土桃山時代を参照のこと。
概要
戦国時代の大名・浦上宗景が築いた連郭式の山城である。和気町の市街地から国道374号を北上した国道沿いの天神山西峰(390m)の山上に位置する。城山は峻険で西側に吉井川が流れており天然の堀をなしていたものと思われる。
標高390mの西峰の山頂に本の丸が配され、北西に向かって山上伝いに二の丸、三の丸が配されていた。また、本の丸の南東側に向かって馬屋の段、南の段等の曲輪、深くV字型に切れ込んだ堀切が確認出来る。さらに堀切を南東に進むと天神山東峰(409m)に入り2つの石門を経てその山頂には周囲を見晴らせる太鼓の丸、太鼓の丸への侵入経路として北東方面から伸びる虎口があり、より南東にも雑な作りではあるが堀切や土塁線の遺構が残る。天神山城北西の「下の段」の遺構から太鼓丸南東の土塁線の遺構まで実に1km超に及ぶ大規模な城郭である。
現在は曲輪、土塁、石垣、空堀、侍屋敷跡などの遺構が見られる。
沿革
浦上氏は室町時代、播磨・備前・美作を治めた守護大名赤松氏の守護代であった。 天神山城を築いた浦上宗景の父・村宗は主君である赤松義村を凌駕し、守護代から一躍戦国大名となった。
天文20年(1551年)、村宗の嫡男浦上政宗とその弟の浦上宗景は備前に侵攻してきた尼子晴久の対応について恭順の意を示そうとする政宗方と撃退するべしという意見の宗景は激しく対立。政宗は尼子と同盟を結び、それに対抗すべく宗景は安芸の毛利元就と同盟し周辺国衆にも政宗方に属する者、宗景方に属する者がそれぞれ現れ備前の覇権を賭けて争う事になる。その際に宗景は自らの新たな拠点として天神山に城を築く。(普請に取りかかったのは天文23年(1554年)正月前後)これが長らく宗景が居城とする天神山城である。
ここを拠点とした宗景は毛利の助力を得て各地で勝利を収め政宗の勢力を駆逐し備前の支配権を握る。また、宗景はかつて浦上被官であった宇喜多能家の孫で放浪の身であった直家を召し抱えた。有能な直家は頭角を現し宗景の片腕となって活躍し、その助力もあり宗景の備前・美作地域の支配は次第に強固なものになっていった。
永禄7年(1564年)兄の政宗は室津城において、二男・清宗の婚礼の当日、赤松政秀の攻撃に遭い父子ともに戦死。跡は政宗の三男の浦上誠宗が継いだが、3年後の永禄10年(1567年)に宗景の手の者によって暗殺され室津の浦上惣領家は滅び、その領地を接収してさらに勢力を強めた。
天正元年(1573年)宗景は西国に勢力を伸長してきた織田信長と結び、備前・播磨・美作の支配権を認められた。しかし、次第に家中での勢力を拡大していた宇喜多直家は、これに反対し安芸の毛利氏と結んだ。
天正2年(1574年)直家は遂に主君宗景に反旗を翻した。浦上政宗の三男誠宗の子で直家が岡山城に庇護していた浦上久松丸を奉じ、浦上宗家復興を名目に天神山城の宗景を攻めた(天神山城の戦い)。
天正3年(1575年)家中で直家に内応するものもあり、遂に宗景は城を放棄し播磨へ遁走した。その後も宇喜多直家により、使用されていたと考えられていて、石垣や瓦片などは宇喜多時代の物と推定されている[1]。
落城時期に関して
近年まで天神山城落城の時期については備前軍紀などの記述から「天正5年(1577年)落城説」が受容されており、事実天神山城の案内板もこれを採用した形となっていた。しかしながら近年になって備前の地方史研究家によって従来の備前軍記などの二次資料の記述と現存している一次資料との矛盾点が多く指摘され始め、平成3年(1991年)に寺尾克成が『浦上宗景考』にて従来より天神山城の陥落を早く見る「天正3年(1575年)落城説」を提起した。
続いて平成4年(1992年)には岸田裕之が『小瀬木平松家のこと付「新出沼元家文書」の紹介と中世河川水運の視座』、平成9年(1997年)にしらが康義が『天神山落城についての一史料』でそれぞれ寺尾とは別の史料を用いて天神山城の陥落を天正3年(1575年)と断定した。以後、渡邊大門・畑和良・森俊弘らもこの説を下敷きにした論文や本などを発表し、平成16年(2004年)刊行の『久世町史資料編』では「天正3年(1575年)落城説」が採用されるなど近年はこちらが史実として定着しつつある。
参考文献
- 畑和良 「浦上宗景権力の形成過程」(『岡山地方史研究』100、2003年)
- 乗岡実 「中世山城の瓦三題」 (『吉備されど吉備』、2000年)
- 中井均 「置塩城跡の石垣」 (『置塩城跡総合調査報告書』、2002年)
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天神山城の口コミ情報
2024年02月11日 たいʕ•ٹ•ʔやき
天神山城
天石門別神社からの登り口と、城の北側からの登山口があります。頂上に祀っていた祭神は麓の天石門別神社に遷座されているので、山を登る前にはご挨拶をするのが宜しいかと思います。
2023年11月23日 ハマカズ
天神山城
和気美しい森から、歩きました。天神山ピークまでは平坦な道。そこから急坂を降りていきます。そしてアップダウンあり本丸まで30分ほどでした。雑木が伸びてるので眺望はあまり良くないですが、尾根つたいの細長い縄張りです。岩🪨が多くどこから運んだのか自然のものなのか?夕方だったので本丸で引き返しましたが、今度は麓からスタートしたいです。
2022年07月20日 内記かずりヾ(・ε・。)
日笠青山城[天神山城 周辺城郭]
日笠青山城は天神山城の東方約3.2km、日笠川西岸(右岸)、標高216mの山塊山頂に主郭が存します。南東麓の岡山県道414号線からの比高は140m位でしょか。が、北東山腹に建つ日蓮宗の寺院、長泉寺まで車で行けるので徒歩で登る比高は80m位です。又、天神山城と尾根続きになっているとする資料もありましたが地形図を見ると事実上なってないです。
行き方はGoogleマップに位置登録されている前述の長泉寺を目標に設定して下さい。お寺さん裏手の墓地脇から登城路が付いてます。が、道は荒れている以前の問題で、歯朶植物、ちくちくする草木、倒木、倒竹でジャングルを形成、道形はありますが到底頑張れないので適当尾根稜線上まで直登しました。汚れていない姿での下山を此処で諦める感じっす。ベトナム戦争時のSEARCH AND DESTROYを体現したい方はそのまま進めばいいさ。
築城年代は不明ですが、築城者は日笠氏です。日笠氏は坂上田村麻呂の後裔を自称し、若狭国日笠を出自として平安時代に当地に移り住んだとされていますが勝手に言ってるだけの話しみたい。はっきりするのは戦国時代、頼房の代からで、この頃には浦上宗景の老臣の立場にあり、元亀二年(西暦1571年)六月十九日には明石行雄(全登の実父っす。)、小嶋一頼と連署で播磨国室津と那波の境界争いを仲介してたりします。又、天正二年(西暦1574年)四月十二日には城下において一門の日笠牛介等の働きにより宇喜多勢を破り、これ等への感状の発給を宗景に促しています。
お城はコンパクトですが概ね3つの郭で構成され、主郭には小社、通称Ⅲ郭には和気日笠デジタルテレビ中継局が建っています。郭間を堀切で区画し、城域北西端部には二重堀切を穿っています。特筆すべきは畝条竪堀の存在ですが、笹藪で埋もれてしまい鑑賞は大変難しい(写真は無理に等しい。)…何とか見れるのは通称Ⅱ郭に付随するものぐらい…
結構な雨の中のリア攻め、日笠氏関連のお城を3つ程廻ろうかと思っていましたが心折れました。城友さんから頂いた傘も折れ曲がってしおしおに…冬でも笹藪は消えそうにありませんがもう一度トライしてみたいです。どんよりとした雨雲で日中にも関わらずカメラはフラッシュを常に要求、見苦しい写真は参考程度に。
2022年07月02日 RED副将軍
天神山城
備前国の戦国大名である浦上宗景 の居城🏯
岡山県の代表的な巨大山城のひとつです✨
オススメ度 ★★★★★
播磨国守護代から戦国大名に上り詰めた浦上村宗の嫡男である浦上政宗と弟の浦上宗景は、備前国に侵攻してきた尼子晴久の対応を巡って対立⚔
政宗は尼子氏に恭順し同盟を結び、宗景は尼子氏と対立し毛利元就と同盟を結ぶ。結果として、兄弟で備前の覇権を賭けて争うことに…
その際に宗景が1554年に天神山に城を築き、新たな拠点としたのが天神山城🏯
西峰ピークに本丸を置き、元々あった東峰ピークの太鼓丸城は出城として機能させたと考えられます✨
毛利の力を得て、政宗の勢力に勝利し備前の支配権を握り、やがて美作、播磨までも支配下に置きました。
1574年、家臣の宇喜多直家が謀反を起こし#天神山城の戦い が勃発⚔ 宗景は城を放棄し播磨へ遁走。
宇喜多直家は天神山城を焼き払い廃城となったと言われます。
見所
主郭を最高所とし尾根筋を階段状に削平した連郭式の山城。
大手門跡、飛騨の丸、長屋の段の石垣。郭側面部には石垣が点在します。
主郭と二郭を隔てる大規模な空堀。
南の段の横矢が掛かった櫓台。
行き方は、河本コミュニティハウスに駐車し、天石門神社裏の河本ルートで登城しました。急な斜面が続きますが、急斜面は降る方が大変で40分程度で天神山城本丸に辿り着きました。本丸から太鼓丸はゆっくり歩いて30分程度でした。その後本丸近くまで戻り、侍屋敷跡に降る天瀬ルートで下山しました。
36度の猛暑にも関わらず、山城である以上、長袖ポロ、アルパインパンツにミドルカットブーツの装備で、時折尾根筋に吹き上げる風で体温を冷やしながらの登城でした。
今回は珍しくトレッキングポールも持参しましたが、急坂が多いため役に立ちました。
非常に見所が多いため、熱中症アラートの中、天神山城全体で4時間籠りました。その話を全く興味無い人にすると、尋常じゃないくらいの冷めた目で引かれたのは内緒ですが、それくらい魅力的なお城です。
2021年12月08日 HS兵部大輔
天神山城
井戸への道が途中からほとんど見えず 苦労したのと侍屋敷エリアの石垣が凄かったです!
2021年03月04日 内大臣尼子保久
天神山城
美しの森広場に駐車し、歩いて20分で太鼓丸へ。やはりこっちからの方が楽だと思う
2021年01月11日 織田上総介晃司
天神山城
和気美しい森というキャンプ場の駐車場に停めてリア攻め。
ここから太鼓丸城(前期天神山城)への登城は比較的楽なほうですが、天神山城へは非常に厳しいアップダウンが待ってます。
河本ルートだと太鼓丸城を諦める方もいるかと思いますが、和気美しい森ルートは否が応でも両方リア攻めとなります。(ただ逆に天神山城を諦める方がいるかと…)
その後車で四十曲登山口(天瀬ルート)付近に移動。侍屋敷跡もちゃんとリア攻め。
すべてを堪能しようと思えばかなりの時間を要します。
和気IC出入口に岡山国際サーキットの看板があったので一言。
和気ICから25km進んだ美作市英田町にあるサーキット場で主に国内レースが行われてますが1994年と95年にF1が開催された事がありました(パシフィックGP)
コースレコードは94年にアイルトン・セナが出した1分10秒218で今もその記録は破られてません。
2020年08月17日 RED副将軍
太鼓の丸城[天神山城 周辺城郭]
オススメ度 ★★★★★
太鼓の丸城は、室町時代以前に日笠青山城の出城として日笠氏が天神山東峰ピークに築城したもの。
その後、享禄5年(1532)頃に浦上遠江守宗景により天神山西峰ピークに本丸を置いた天神山城が築かれ、太鼓丸として物見・狼煙場に利用されたと想定されます。
天神山城本丸から南東500m・比高差70m(尾根鞍部から比高100m)に位置します。
元々は在地勢力の出城として築かれたため一定の城郭として完結し、天神山城からは完全に独立した形態として考えるべきです。
天神山城本丸のある西峰は標高390m、太鼓丸のある東峰は標高409mであり、一旦降ってから100m登ることになるので、天神山城をリア攻めする際は、二つの山城を登る覚悟が必要でしょう。
見所は、物見として機能した眺望、虎口の石垣、軍用石と呼ばれる巨石群が尾根上に散見できることです。
今回は、河本コミュニティハウスに駐車し、天石門神社裏の河本ルートで登城しました。急な斜面が続きますが、急斜面は降るより登る方が楽でゆっくりと40分程度で天神山城本丸に辿り着きました。本丸から太鼓丸はゆっくり歩いて30分程度でした。その後本丸近くまで戻り、侍屋敷跡に降る天瀬ルートで下山しました。
折角、天神山城に来たのなら、太鼓丸にも是非立ち寄ることをオススメします。
今回、36度の真夏にも関わらず、山城である以上、長袖ポロ、アルパインパンツにミドルカットブーツの装備で、時折尾根筋に吹き上げる風で体温を冷やしながらの登城でした。
今回は珍しくトレッキングポールも持参しましたが、急坂が多いため役に立ちました。
非常に見所が多いため、熱中症アラートの中、天神山城全体で4時間籠りました。その話を全く興味無い人にすると、尋常じゃないくらいの冷めた目で引かれたのは内緒ですが、それくらい魅力的なお城です。
写真
①太鼓丸からの眺望
②虎口に残る石垣
③本丸の石門に使われた巨石
④本丸東側の堀切
2020年01月13日 真牛織部正@地元イベ不参加
天神山城
登山道入口、天石門別神社付近に熊の目撃看板がありました。
登城の際はくれぐれもご注意を!
2017年01月02日 石工集団穴太衆【兒】
天神山城
天神山城は吉井川に面した標高409.2mの天神山から西へ派生した標高337m付近に築かれ東西500m程の城域を持つ連郭式の山城で天神山城は西の尾根から下の段・西櫓台・三ノ丸・桜馬場・長屋の段・二ノ丸・本丸・飛騨の丸・馬屋の段・南櫓台・南の段と曲輪が繋がって整備された山にそれぞれ案内板が設置され非常にわかりやすい石垣は三ノ丸の下ノ段から飛騨の丸に至るまで随所に残骸が残されてます天神山山頂へ向かうと太鼓丸城があり本丸から南へ降りた所には天瀬侍屋敷が残り是非訪れて欲しい登山道は複数あり西尾根の天石門別神社の所に登山道入口があり近くの河本コミュニティセンターに駐車でき下山時に天瀬侍屋敷ルートを取ることができるので便利又は田土側からの登山道でこちらは天神山城と太鼓丸城の間に通じる。西尾根の河本ルートよりは楽今回利用したのが天神山山頂の東尾根続きに和気美しい森のキャンプ場があり車で天神山近くまで行くことができここから太鼓丸城はすぐで、そこから山道を下って天神山城にアクセス出来ますおそらくこの道が一番楽に天神山城にアクセスできる。
2016年02月27日 カーネル
天神山城
山陽線和気駅から、備前バスの片鉄沿線路線を利用
土日は本数が少ないので平日に行きました。バスはアナウンスなし料金表なしで、バスに乗り込んだら、どこまで行くの?って聞かれた
河本バス停で下車し、道を挟んだ神社の脇にある登山口から登る。傾斜がきつく軽い岩場もあるけど、途中の[見晴らし所]と[天神地蔵]からの眺めが最高です
30分ほどで下の段に到着し、ここから細長~い城域を歩く。数々の曲輪や堀を越えて進むと本丸
バスは4時間半後まで来ないので、更に奥へ。石門や堀など、イベントがあり楽しく歩けます
太鼓丸を超え、旧本丸を目指すがそれらしきところはなく、本格的な下り坂に入ったので引き返し、堀切と石門の間の少し平なところを旧本丸と自分認定し、バス停に戻る
本丸で30分くらい昼寝したけど、下山後にさらに30分バスを待った
ゆっくり歩き3時間半+ぼーっとしたの1時間でした
歩き計画されている方の時間目安になれば幸いです