大廻小廻山城(おおめぐりこめぐりさんじょう)
大廻小廻山城の基本情報
通称・別名
- 築地山城
所在地
- 岡山県岡山市東区草ケ部1815
旧国名
- 備前国
分類・構造
- 神籠石式山城
天守構造
- なし
築城主
- 不明
築城年
- 6世紀後期〜7世紀前期
主な改修者
- -
主な城主
- 不明
廃城年
- 不明
遺構
- 列石、土塁、水門
指定文化財
- 国史跡(大廻小廻山城跡)
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
沼城(岡山県岡山市)[2.0km]
福岡城(岡山県瀬戸内市)[6.3km]
明禅寺城(岡山県岡山市)[8.3km]
保木城(岡山県岡山市)[8.7km]
岡山城(岡山県岡山市)[9.9km]
砥石城(岡山県瀬戸内市)[10.0km]
乙子城(岡山県岡山市)[10.1km]
金川城(岡山県岡山市)[12.3km]
徳倉城(岡山県岡山市)[13.0km]
富山城(岡山県岡山市)[13.4km]
大廻小廻山城の解説文
[引用元:Wikipedia「大廻小廻山城」の項目]
大廻小廻山城(おおめぐりこめぐりさんじょう/おおめぐりこめぐりやまじょう、築地山城<ついじさんじょう>)は、備前国上道郡の大廻・小廻山(現在の岡山県岡山市東区草ヶ部・瀬戸町観音寺・瀬戸町笹岡)にあった日本の古代山城(分類は神籠石系山城)。城跡は国の史跡に指定されている。
概要
岡山市北東部、独立小山塊の大廻・小廻山(小廻山山塊、標高199メートル[1])の山上に築城された古代山城である。文献に記載が見えない古代山城(いわゆる神籠石系山城)の1つで、現在一般的な山名を冠する城名は後世の命名による。城は大廻・小廻山の山上に土塁を巡らすことによって構築されており、特に3ヶ所の谷部では石塁の水門の構築が認められている。
城跡域は2005年(平成17年)に国の史跡に指定されている。それに先立つ1984-1988年度(昭和59-63年度)には岡山市教育委員会による発掘調査が実施されている。
歴史
古代
大廻小廻山城は文献上に記載のない城であるため、城名・築城時期・性格等は明らかでない。天智天皇2年(663年)の白村江の戦い頃の朝鮮半島での政治的緊張が高まった時期には、九州地方北部・瀬戸内地方・近畿地方において古代山城の築城が見られており、大廻小廻山城もその1つに比定される。発掘調査では当時期に該当する土器片が検出されている。当地は古代には備前国上道郡日下郷に属し、立地としては北方の山陽道、西方の備前国府、南方の岩間津(備前国の国府津か)を抑える要衝になる[2]。なお岡山県の古代山城としては、大廻小廻山城のほかに備中国の鬼ノ城(岡山県総社市、神籠石系山城)も知られる。
大廻小廻山城に関連する施設としては、付近に建立された築地山常楽寺がある。この常楽寺は、寺伝では天平勝宝元年(749年)、実際には平安時代後期頃の開基とされる寺院で、山号の「築地」は山城遺構を意識した名称と見られる。しかしながら、他の古代山城のような「キ(城)」の読みを含む名称は周辺地名を含めても失われているため、常楽寺開基までには廃城して城の記憶も一旦失われたと推測される。
中世・近世
中世期の城域に関しては、室町時代の多数の線刻石仏が城域内から出土していることから、常楽寺が宗教施設として使用したと推測される。
江戸時代においても大廻小廻山城の一帯は、常楽寺の持山として推移している。『撮要録』では安永4年(1775年)の山論の際に「築地山四天屋敷之古跡」と見える。
近代以降
近代以降については次の通り。
- 明治期、小廻山山塊の国有林化。
- 1940年(昭和15年)刊の『赤磐郡誌』で、荒木誠一が「小廻城址」として古代山城跡の可能性を指摘。
- 戦後、1946年(昭和21年)頃から小廻山山塊の開拓。
- その後、長光徳和が古代山城跡の可能性を再提起。
- 1973年(昭和48年)、埋蔵文化財分布調査に伴う現地踏査。古代山城跡と判明(岡山市教育委員会)。
- 1984-1988年度(昭和59-63年度)、発掘調査(岡山市教育委員会、1989年に報告書刊行)。
- 2005年(平成17年)3月2日、国の史跡に指定。
遺構
- 城壁
- 城壁は全周3.2キロメートル(域内面積約38.6ヘクタール)。小廻山山頂()から大廻山山頂()など峰々を巡り、谷3ヶ所を取り込んで一周する。基本的には内托式[3]の土塁とし、3ヶ所の谷部では石塁の水門とする。土塁は列石の上に版築によって構築される。
城門は未確定で、一の木戸北縁や三の木戸そばなどの候補地は挙げられるが検出には至っていない。また建物跡も未検出であるが、小廻山山頂部の平坦地などに存在が推測される。小廻山山頂は城内最高地でもあるため、烽火台の設置を推測する説もある。
- 水門
- 前述のように水門は3ヶ所が認められる。いずれも石塁で構築され、それぞれ「一の木戸」()・「二の木戸」()・「三の木戸」()と称される。いずれも半壊・半埋没状態であるが、一の木戸は全長(正面幅)27メートル・高さ1.8メートル、二の木戸は全長13メートル・高さ1メートル、三の木戸は全長25メートル・高さ1メートルを測る。一の木戸が最も良い遺存状態で、現状では石積4段を残すが、構築当初はその上にさらに3-4段の石積と土塁を伴い、規模は幅6メートル・高さ5-6メートル程度であったと推測される[4]。
文化財
国の史跡
- 大廻小廻山城跡 - 2005年(平成17年)3月2日指定。
現地情報
所在地
- 岡山県岡山市東区草ヶ部・瀬戸町観音寺・瀬戸町笹岡
交通アクセス
- 鉄道:西日本旅客鉄道(JR西日本)山陽本線 瀬戸駅(徒歩約50分)
周辺
- 両宮山古墳群
- 両宮山古墳 - 国の史跡。
- 備前国分寺跡 - 国の史跡。
- 備前国分尼寺跡
参考文献
大廻小廻山城の口コミ情報
2024年07月08日 華亜賦備中守乱丸
大廻小廻山城
現在は案内板から先は行けません 道路も行き止まりとなるのでここでUターンがおすすめです。
2022年12月27日 RED副将軍
大廻小廻山城
七世紀頃に築かれた神籠石系の朝鮮式山城🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
大廻小廻山城(おおめぐりこめぐりやまじょう)と読みます。
築城年代は不詳。日本書紀などの文献に記載が無い全国に16ある神籠石系山城のひとつです。
663年の白村江の戦いにおいて唐・新羅連合に敗れた後、大和朝廷により大陸からの侵攻に備えて防御を固めるために築かれたとされます。
見所
標高199mの大廻小廻山に築かれた古代山城。
3ヶ所の谷部に石塁の水門が残っています。
一の木戸が最も残存状態が良好で4段の石積みが現在でも確認できます。
二の木戸、三の木戸は未整備状態で確認は困難で、削平地は確認できるものの城門や建物跡は不明で山頂部も私有地となっています。
2022年02月07日 ドクターイエロー大蔵大輔
大廻小廻山城
環太平洋大学に近い岡山市瀬戸町郷土館に駐車させて頂こうと思っていましたが、第2、第4日曜日しか開館しないとのこと。仕方なく適当に停めてから徒歩にて山中にいざ突撃。途中から未舗装路を進むこと約1キロで一の木戸(水門)に到着します。付近には説明板も設置されています。それによるとこの山城は石塁のある西側の3つの谷を取り込んだ総延長約3.2キロの土塁(外郭線)で築かれているとされていますが、よくわかりませんでした。7世紀に国家規模で築かれた朝鮮式山城の一つという説があるとも記載されています。R4.2.6訪城
2021年05月05日 みずたま
大廻小廻山城
山頂付近まで車で登ることができますが、木が生い茂って遺構の確認ができませんでした。
2021年04月13日 ほりしろ
大廻小廻山城
「鬼ノ城と同じく7世紀代の古代山城と考えられている」と平成17年に国指定史跡の案内板に書かれてあります。言葉にロマンを感じます。が、年月が経ち草木に覆われておりわかりにくいかも、、、
2017年07月09日 石工集団穴太衆【兒】
大廻小廻山城
大廻小廻山城は岡山県にある神籠石系山城で国指定史跡になっている鬼ノ城も同じ神籠石系山城です、大廻小廻山城跡は、総延長約3.2kmの土塁、版築と呼ばれる工法で造られた壁で囲まれており、これまでに一の木戸のほか、二の木戸、三の木戸と呼ばれる水門跡が発見されていますが、現在は草木に覆われて一の木戸しか確認出来ません、今後の整備をされる事を願います、神籠石系山城と朝鮮式山城と言うのは白村江の戦いで唐、新羅連合軍に敗れた倭国が同盟国の百済の将軍の指導のもと築城された城郭で九州と西日本に合計28ヶ所あるとされてます、文献に見える城は12ヶ所(朝鮮式山城)見えない城は16ヶ所(神籠石式山城)あり、基本的に山1つを防御施設としたもので、山の頂上付近を土塁・石塁で区画しており、大規模なものでは区画の外郭線が数キロメートルに及ぶ近年の発掘調査により両者の違いが必ずしも明確でなくなりつつあり、これらをして「古代山城」と総称される傾向にあります。