砥石城(といしじょう)

砥石城の基本情報

通称・別名

砥石山城、砥石ケ城

所在地

岡山県瀬戸内市邑久町豊原

旧国名

備前国

分類・構造

連郭式山城

天守構造

築城主

浦上氏

築城年

文明年間(1469〜1487)

主な改修者

宇喜多氏

主な城主

浦上氏、宇喜多氏

廃城年

不明

遺構

曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

市史跡(砥石城)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

乙子城(岡山県岡山市)[4.5km]
福岡城(岡山県瀬戸内市)[7.0km]
沼城(岡山県岡山市)[8.0km]
大廻小廻山城(岡山県岡山市)[10.0km]
明禅寺城(岡山県岡山市)[11.6km]
高山城(岡山県岡山市)[12.5km]
岡山城(岡山県岡山市)[13.8km]
保木城(岡山県岡山市)[14.3km]
富田松山城(岡山県備前市)[14.3km]
富山城(岡山県岡山市)[18.3km]

砥石城の解説文



砥石城(といしじょう)は、岡山県瀬戸内市邑久町豊原の千町平野に突き出た標高100mほどの砥石山山頂にあった日本の城(山城)。五連郭の本城と堀切を構えた四郭の出城で構成される中世の山城。「砥石山城」「砥石ケ城」等とも呼称された。

城の歴史 

文明年間1480年ごろに備前国守護代の浦上氏によって築城したとされている。備前国の中心地、福岡の町や西大寺の町をそれぞれ見据えた重要拠点のひとつといえる。

この築城の際に宇喜多直家の曽祖父である宇喜多久家がなんらかの形で関わっていたのかはわからないが、城番として宇喜多氏が在するようになったようである。しかし、久家の子能家が隠居し、興家の代となった天文3年(1534年)に、同じ浦上氏家臣の島村盛実らに離反の疑いをかけられて攻められ、能家は自害、興家と、わずかに6歳の幼子だった直家は放浪することとなる。

砥石城は島村盛実に協力した浮田国定(能家の弟)に与えられるが、その後浦上宗景の下で再興を果たした直家により永禄2年(1559年)に奪い返され、弟宇喜多春家が城主として入城した、という記録が残る。しかし、それを最後に歴史の表舞台からぱったりと姿を消してしまい、詳細は不明である。

現在の城 

現在は砥石山山頂まで登山道も整備され、本丸跡を含め遺構が残る。石垣跡があるがこれは江戸時代末期天保年間に本丸付近に存在した金比羅宮の石垣跡であり、天守などがあったわけではない。

登山口そばに「宇喜多直家生誕の地」の石碑がある。

砥石城の口コミ情報

2024年01月08日 竹中播磨守じゅん兵衛
砥石城



登城口の脇に車1台の駐車スペースが空いてたので800m先のキャンプ場まで行かなくてラッキー!天守石垣は素晴らしいですが撮影時は足元注意ご安全に。
御城印は備前長船刀剣の里で購入できます。博物館には備前長船の日本刀が展示されており、砥石城とセットでお薦めです。

2024年01月01日 わんにゃ備前守
砥石城



JR邑久駅から徒歩で約30分。
北登山口から上がって本丸→笠松神社→鉄塔→出丸→鉄塔→笠松神社付近→東登山口から帰りました。
道は整備されていますが、落ち葉が多くて滑りやすかったです。
笠松神社から出丸までの道は藪や倒木が多く、やや歩きづらかったですが、堀切や土塁を確認することが出来、本丸より見ごたえがありました。出丸の手前は急坂ですが、道の脇にロープが張られていて、それに捕まって登ることかできました。
東登山口へは、笠松神社から本丸へ向かう道の途中に「大雄山→」の案内板があるので、その方向に降りると行けます。
全体的にあまり写真が撮れてなくてごめんなさい。

2023年10月12日 ドクターイエロー左馬頭
宇喜多一門供養之塔[砥石城  遺構・復元物]



砥石城の東隣の大雄山山頂には宇喜多直家の祖父・能家をはじめ、宇喜多家一門縁者の墓があります。どれが能家のものかはわかりませんでした。また八浜合戦で戦死した直家の甥・与太郎基家と伝わる墓もあるようです。墓地の隣には能家菩提寺の大賀島寺があります。

なお付近にはフジバカマ園があり、秋になると旅する蝶アサギマダラの華麗な姿を見ることができます。

自動車でも山頂まで登れますが、東側の遠回りのルートの方がオススメです。R5.10.5訪問

2023年09月28日 RED副将軍
砥石城



宇喜多直家の生誕の城🏯

オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎

文明年間(1469年〜1487年)に備前国守護代の浦上氏によって築かれたとも、在地土豪に過ぎなかった宇喜多久家により築かれたとも云われます。
1523年、宇喜多久家の子である宇喜多能家は、宇喜多興家に家督を譲り、砥石城を隠居城とします。
1534年、同じ浦上氏家臣で高取山城の島村盛実に離反の疑いを掛けられたことにより夜襲を受け、宇喜多能家は自害。宇喜多興家とその子である宇喜多直家は落ち延びるも放浪。
砥石城には宇喜多能家の弟であるも島村盛実に協力をした浮田国定が入りました。
1559年、浦上宗景のもとで勢力を盛り返した宇喜多直家は、高取山城の島村豊後守を討ち取り、再興を果たします。奪い返した砥石城には弟の宇喜多春家を入城させました。
1573年に宇喜多直家が石山城を奪い、岡山城に改築すると、宇喜多春家は沼城へと移り砥石城は廃城となった様です。

見所
標高100mの砥石山頂部に主郭を配し、谷を挟んだ別尾根にも出丸を配する一城別郭の連郭式山城です。
主郭側面には野面積みの石垣が一部残存。但し、後世の神社建造による新しい石垣も混在しているので注意が必要です。
北側には段郭が連なるもヤブ化しています。
主郭から南へ尾根を下り、30分近くかけて別尾根に回り込むと堀切を隔てて土塁囲みの出丸に辿り着きます。高低差が大きく土塁も明瞭ですがあまり整備はされておらず写真では全く映えません。

開催中の地域限定イベント「宇喜多氏二代の足跡」を知るにはここも必須の城跡かと存じます。

写真
①主郭東側側面の野面積み
②③主郭
④主郭北側の段郭
⑤出丸南側の堀切
⑥堀切から出丸を見上げる
⑦⑧出丸を巡る土塁

2023年04月16日 ハマカズ
砥石城



雨上がりの登城です。おくの細道アルプスの中にあります。この先ツツジの小径がありこの時期は、ハイキングに多く訪れています。さらに高取城が奥にありそこから攻められ砥石城にいた宇喜多直家のお爺さんが殺られました。高取城は整備されてありませんが、本丸などの説明板があります。

2023年02月27日 あしこし内匠頭よし
宇喜多家スタンプラリーノボリ[砥石城  駐車場]

畠山製菓向かいに普通車5台程度置けるよう、ノボリが立ってました。

2022年12月18日 【国替準備】国府左京大夫城介
高取山城[砥石城  周辺城郭]



宇喜多氏の仇敵・島村貫阿弥の居城と伝わる

【歴史】
築城者・築城年代は共に不明。

城主として、高取備中守、島村豊後守貫(観)阿弥、島村弾正貴則(貫阿弥の父)、浮田宗勝(宇喜多秀家の又従兄弟)、今木高久。

文献によって、名称はまちまちで「高尾(雄)城」・「高取山」・「高山」・「長沼古城」などがあり、さらに高取山城の位置も「砥石城の出丸」に該当する記述もあるなど、名称や位置の比定がはっきりとしていない。

【遺構】
砥石城とは谷を挟んで南西約1.1kmの山頂(標高163m)に築かれている。
主郭を中心に複数の腰曲輪が配置され、北尾根に二の丸、東尾根に三の丸がある。主郭の南側、二の丸の北側、三の丸の東側に堀切がある。また、斜面に井戸が三つ残っている。

【感想】
かつては整備されていたようですが、現在は自然に帰りつつある状態です。なんとか人が通った痕跡は分かるので登ることができます。一応、登城道の途中に看板はありますが、時期によっては藪により見えない可能性もありそうです。更に城内は完全に藪化しており、写真を撮っても… 北側と東側の堀切はなんとか見つけられましたが、南側は低木が密集しており断念しました。また、斜面にある井戸も、ガイドロープがあるとのことですが、藪でロープ自体を見つけることが出来ませんでした。

さて、備前軍記などで、宇喜多能家を襲撃し殺害した島村貫阿弥が居城としていた城ですが、砥石城と1km程しか離れていない指呼の距離にあります。両者の仲が悪い上に、あまりにも両城は近くにあるので、このような配置をした主君の浦上氏が悪いような気がします。もっとも、この事件自体があくまでも軍記物の説話であって史実ではありませんが、島村氏の家臣により嫡男の興家が殺害されたという事件はあったようです。

【アクセス】
赤穂線・大富駅より徒歩30~40分ほどで、登城口に着く。登城口から城域まで15~30分ほど登る。
また、砥石城の登城口からは徒歩20分。
車の場合、公民館あたりに停車可能と思われる。

【写真】
①遠景(左の細長い山が砥石城で、右手前の山が高取山城)
②案内板(背後が公民館)
③登城口
④説明版
⑤東の堀切(藪しかない…)
⑥主郭
⑦北の堀切

2022年12月02日 六文銭右兵衛佐
砥石城



砥石城址は、畠山製菓前に5台ほど駐車できる場所があり、南方向に歩いてすぐ登山口があります。100メートル登ると頂上で見晴らしは抜群です。

2022年08月03日 るん丹波守⛄⁠
砥石城



宇喜多直家さんにゆかりのある岡山県瀬戸内市にあるこじんまりした山城です✨

登山道は、北と東にありますが、車で行かれるなら、東側に1台置けそうなスペースがありました🙂

東側の登山道は、あまりお手入れされてない感じで、クモの巣がすごかったので、落ちていた棒を武器にして、クモの巣退治をしながら行きました😀

本丸までは、約15分、野面積みの石垣があったので、素敵な写真を撮りたかったのですが、暑さと肩の痛みに耐えられず、なんとなーくの撮影だけしておきました💦

北側に向かって降りましたが、曲輪が多くあり、つづらおれ?になっていて、各場所に兵隊を配置して敵を迎えうっていたのかな?という感じです😆

お手洗いは、北側登山口に簡易トイレを設置してありましたが、怖そうだったので、近くのコンビニでお手洗いは済ませたほうがよさそうです😊

2022年02月08日 備前守りかのおじ
砥石城



再び北側の登山口から。
「宇喜多家と砥石城を語る会」の方たちが、いろいろ整備作業などされているようです。

登山口に、昨年10月にはなかった「本丸まで約15分」の看板、郵便受けとその中に入っている資料、手作りの杖などがありました。また登る途中にも「曲輪」の看板が4か所と「本丸まで50m」の看板が新たに設置されていました。

足元の落ち葉も昨年10月よりかなり少なくなり、枯れた松を切り倒すなどの作業もされていました。
ありがたいことです。

2022年01月25日 備前守りかのおじ
砥石城



今回は、東側登山口から。
カメラ用の一脚を杖代わりにすると助かりました。
駐車スペース周辺のアスファルトの上にイノシシの足跡が多数あり、登山道にもイノシシが地面を掘り返した跡がありました。
「兒」の幟と「本丸」「野面積み石垣」の看板を新たに設置したり、木の枝を剪定したりしていました。
咲き始めた椿をメジロが訪れていました。

2021年10月22日 備前守りかのおじ
砥石城



自転車を北側の登り口近くに置いてからリア攻め。駐車場がないので、自動車の場合は、もう少し先に行くと、駐車場がある別の登り口から。

2021年02月14日 副将軍こうちゃん播守
砥石城



写真の登城口から10分〜15分程度で本丸跡迄行けます☝️道中、落葉だらけで普通の運動靴では滑るのでご注意を😱

2021年01月03日 織田上総介晃司
砥石城

岡山ブルーライン瀬戸内ICから南に進むと登城口(大手道)がありますが車を停める場所がないので左(南東)へ進み、登城口兼笠松神社参拝道に車1台停めれるスペースがあります。

砥石城から南に進むと瀬戸内のエーゲ海といわれる牛窓があります。オリーブが栽培されていてオリーブの実のスライスが乗ったオリーブソフトクリームを食べた事があります。

2020年11月17日 りょうさき
砥石城



車だと、東側に進めば、登山口入口に、一台止められるスペースあり。

2020年02月28日 石工集団穴太衆【兒】
砥石城

砥石城攻防戦の跡、仁生田(荷蓋)畠

天文3年(1534)6月、砥石城主、宇喜多能家は、峰続きにある高取山城主、島村盛実に夜討ちをかけられて自害して果て、その遺骸は大賀島寺に葬られた。

能家の孫、直家は智勇に優れ18歳の時に和気天神山城主、浦上宗景に仕え、戦功をたて浦上氏から乙子城をもらった。

天文14年当時の砥石城主、浮田国定に謀反の様子があり、宗景はこれを討つよう直家に命じた。大将直家は三百騎ばかりで砥石城を攻めたが、戦況不利でいったん乙子城へ退いた。

その翌日、浮田国定は反撃して乙子城を攻め、直家はこれを迎え討った。
戦況不利となっ浮田国定軍は二手に分かれて退いた、北地村(北島)の方向に退いていく一隊を
直家の部下、池田太郎三郎の一隊が追撃し、北地村字仁生田(荷蓋)畠で大合戦が行われた。

浮田国定の児小姓に馬場岩法師という武勇に優れた若武者がいた、池田と岩法師は槍を交えて戦い、岩法師が疵を受け、浮田国定の一隊は砥石城へと退いた。
乙子、砥石の二城の攻防戦は、その後3年に及び行われた。

天文18年春、天神山勢と共に砥石城を襲い、ついにこれを陥れた、直家は砥石城攻略の後、
これまでの智勇に優れて岩法師の戦いぶりを見込んで自分の部下に招き、馬場次郎四郎職家と名乗らせた、職家18歳の時の事であった。

直家はその後、奈良部城(新庄山城)の城をもらい、これに移り
永禄2年(1559)2月、祖父能家の仇敵、島村盛実を沼城におびき寄せ、これを斬殺し祖父の仇を報じた。

その後直家は岡山城に入り、その勢力を備前一円に広げていった。

2018年06月03日 GAGA関白百万石
砥石城

砥石城は、浦上家臣、宇喜多能家または久家が築いたとされる、尾根上の五連郭で成り立っている山城です。
宇喜多秀家の父、直家の生まれた城でもあります。
登城口から約20分で本丸に到達します。
登城口には駐車スペースがあります。
本丸には神社がありますが、神社の石垣は廃城後の江戸時代のものです。
本丸からは、備前の平野が一望できます。
砥石城の麓にある平野は、豊原荘と呼ばれ、戦国時代から備前有数の米どころでした。
宇喜多と同じく浦上家臣の島村氏の居城である高取山城は、同じ尾根にあります。

2017年02月25日 石工集団穴太衆【兒】
砥石城

豊原地区南側の丘陵を見ると、左側から大雄山城、砥石城 本城、砥石城出丸、高取城があり 宇喜多直家の祖父能家を自刃させた島村豊後守の居城高取城と砥石城が峰続きの城であった、今回は南側からの登城南側は駐車スペースありで北側大手道側は駐車スペースは無し登り口から約10分程で本城の峰に出るそこから北にナイフエッジの様な道を進むと本丸 砥石城は、谷を挟んだ2つの尾根上に連郭式縄張りで築かれた本城と出丸から成る一城別郭の城郭、本丸の北側に三段の曲輪本丸の北側に出曲輪、谷を隔てて出丸側は出丸の先端(西側)に三段の小郭を配し北側には堀切りも確認出来る、本丸には石垣が確認出来るがこれは江戸時代末期に本丸にあった金毘羅宮の石垣

砥石城の周辺スポット情報

 出丸(遺構・復元物)

 宇喜多一門供養之塔(遺構・復元物)

 本丸跡、野面積み石垣(遺構・復元物)

 砥石城跡入口(碑・説明板)

 宇喜多直家生誕之地石碑(碑・説明板)

 本丸まで50m、曲輪(碑・説明板)

 高取山城(周辺城郭)

 餘慶寺(寺社・史跡)

 宇喜多家スタンプラリーノボリ(駐車場)

 砥石城跡登山道(その他)

 本丸との分岐点(その他)

 出丸への分岐点(その他)

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