福岡城(ふくおかじょう)
福岡城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 岡山県瀬戸内市長船町福岡
旧国名
- 備前国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 頓宮四郎左衛門
築城年
- 鎌倉時代後期
主な改修者
- 小鴨大和守、赤松政則
主な城主
- 頓宮四郎左衛門、赤松氏、小鴨大和守、浦上氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
沼城(岡山県岡山市)[4.8km]
大廻小廻山城(岡山県岡山市)[6.3km]
砥石城(岡山県瀬戸内市)[7.0km]
保木城(岡山県岡山市)[7.2km]
乙子城(岡山県岡山市)[9.9km]
富田松山城(岡山県備前市)[10.0km]
明禅寺城(岡山県岡山市)[12.8km]
岡山城(岡山県岡山市)[14.8km]
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金川城(岡山県岡山市)[17.8km]
福岡城の解説文
福岡城の口コミ情報
2024年11月02日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
長船城[福岡城 周辺城郭]
岡山県瀬戸内市の長船町長船にある【長船城】♪別名を兼光屋敷(城の内)とも呼ばれる居館跡は、備前長船博物館南側の平地に築かれました♪現在は土塁が残り、堀の名残りを残します♪備前長船兼光と云えば、名刀というイメージでしょうか?または人物として、備前の刀工集団をイメージするかなぁ〜?
長船兼光の始まりは、文永年間(1264年-1275年)頃に初代・備前長船住兼光となります♪そこから代々(5代目・備前長船兼光)、名刀を世に輩出し、数多くの大名に使用されています♪
数々の名刀として『一国兼光』土佐山内家のモノや『太閤兼光』小田原征伐の際に駆けつけた、出羽角館城主戸沢盛安に与えた兼光や『明智兼光』明智光秀から家康、小牧・長久手の戦い後に成瀬隼人正正成に与えられたモノに『城井兼光』黒田家伝来のモノ♪更には『竹俣兼光』(※鉄砲の筒を切り落としたモノ)上杉景勝から秀吉に献上されたモノや『波泳ぎ兼光』上杉から小早川秀秋へ♪のちに立花家へに渡ったモノ♪更に更に『福島兼光』銘は備州長船住兼光や福島正則所持、前田家伝来されたモノ♪『石破り兼光』浅井長政が婚姻の際に信長に贈ったものなどなど、まだまだあります♪坂本龍馬の脇差も備前長船兼光作となっています♪いずれも重要文化財となっている物が多く、その美しさは今でも見る人を魅了します♪
さて♪この長船城、刀工集団ですが、足利尊氏の番鍛冶として活躍しています♪備前長船兼光は室町幕府を開いた尊氏に召しだされ、太刀を鍛えたと伝わります♪その褒美として城の内築地(兼光屋敷)を賜ったと云われます♪一丁四方の広さに濠を巡らし、四方に櫓を立て、土塁で区画♪長船城には代々この地の鍛冶が住しました♪
長船城での出来事として、文明15年(1483年)、金川城主松田元成が赤松氏から離反して、赤松方の備前・福岡城を攻めた際(福岡合戦)、長船城や周辺の民家も焼き払われたと伝わります(備前軍記より)。
その後の長船城や刀工集団や長船家の動きには、不明な点が多いです。因みに戦国時代末期には、小笠原氏の一族とされる長船貞親が宇喜多直家に仕え、宇喜多三老の1人として活躍していますが、この長船氏と長船城との関連は不明なのです。。ただ、同じ長船氏を名乗っている為、何らかの繋がりはあったんではないか?とは思いますが…不明なのです。。
因みにこの長船貞親ですが、戦国時代の長船氏として宇喜多氏に従い、宇喜多三老の1人、重臣として活躍しています♪長船貞親は宇喜多直家の創業の初期からの家臣として従い、備中三村元親との戦い(明善寺合戦)では荘元祐を討ち取ったとも伝わります。さらに美作三浦氏との戦いや、宇喜多直家の元主君である浦上宗景を攻略(天神山城の戦い)するなど、宇喜多家にとって欠かせない人物となっています♪播磨上月城の戦いでは、毛利氏に味方した宇喜多直家の命で、上月城の救援に来た織田氏配下の将である、羽柴秀吉方の黒田孝高らと戦い、これを撃破。宇喜多直家が羽柴秀吉の薦めで織田氏に味方すると、宇喜多直家の命令で毛利氏と戦いました。刀工集団の家系がいつしか宇喜多家家臣として、さらに城を持ち武将化していたとしたら…ロマンがあります♪
因みにこの長船氏は、宇喜多直家の死後は子の秀家に仕え、宇喜多秀家の名代として四国征伐などに従軍しています。
城跡は墓地となっている部分が土塁で残り、その手前はかつて水路があり、濠の名残となっています♪畑となっている辺りも土取で低くなっていますが『築地』と呼ばれ、土塁が築かれています♪
2023年10月12日 ドクターイエロー大蔵大輔
宇喜多直家生母の墓[福岡城 遺構・復元物]
幼少期の宇喜多直家を支えてきた実母の墓地です。周辺には案内看板などはありません。墓地の南側に2台ほど駐車スペースありますが、道路は激狭です。R5.10.5訪問
2021年04月23日 ドクターイエロー大蔵大輔
福岡城
現在は吉井川河川敷内にある福岡城は長船カントリークラブの敷地中に位置しています。私有地になりますので、訪城前にはクラブハウスに立ち入り許可をいただきましょう。「プレーではなくて城目的」であることを伝えると、丁寧に河川敷へ降りる場所や駐車スペースを教えてくれます。コースの横を通るので、できれば人の居ない時間帯を狙って訪れたいものです(私は平日の16時頃お邪魔しました)。
コースに面した小山が城跡とされていて上には稲荷神社が祀られており、麓の鳥居の脇には城跡の石碑が設置されています。他に目立った遺構は認められないようです。コースには入らないように気をつけて見学しましょう。
九州「福岡」の名称の由来となったとされるここ備前福岡の地には宇喜多家や黒田官兵衛ゆかりの妙興寺や備前長船刀剣博物館(有料)などもあります。城郭攻略のついでに是非お立ち寄りください。R3.4.22訪城
2021年02月21日 オチチ小僧近江守
福岡城
吉井川の河川敷にある、長船ゴルフ場の17番ホール ティーグランド横の小高い山が城跡。車だと上流側堤防から河川敷へコース横を通って行けます。
必ずゴルフ場のフロントで許可を取って下さい!係の人が親切に道順を教えてくれます。
ただし
ゴルフボールが当たっても責任は取らないとの事、くれぐれもも注意して下さいお願いします。
2021年02月17日 石工集団穴太衆【兒】
堀城[福岡城 周辺城郭]
刀剣の里として知られる岡山県瀬戸内市長船町磯上にあるとある集落の田畑の中に奇跡的に残された方形居館跡の【堀城】
周辺の山城と違って平地にある居館跡は、後に神社仏閣にもなり近代では開発によって宅地や工場に姿を変えたりして消滅していった居館跡がほとんどで地元の方々がその貴重性に気づき代々、保存してきたなかなって感じさせます
堀城に最初に在城したのは備前浦上氏で後に浦上氏の重臣でもあり宇喜多能家殺害事件で一躍名を馳せたあの島村観阿弥(盛貫)が城主として入城し代々在城した伝承が残る後に後世の子孫がこの土地に土着して現在に至る
この堀城に関して詳しく書かれてる方のサイトを見て、館の北に祀られている湯次神社にお邪魔してみるとサイトに書かれていた通り神社の氏子の名に島村姓と、そして浦上姓が多いことに気づく社内にある奉納札を見ても島村姓は約40はあり神社の玉垣にも、島村姓を見る事がでた
この堀城の遺構はと言うと80m〜90m四方の方形居館跡が残り、西側と北側の土塁は良好に残り、北側の土塁の外周には今でも水をたたえる水堀が確認でき、土橋?って思える畑への入口もあります東側の土塁に関しては微かに残る高まりが見てとれた当時の城域がどれほどの規模かは分かりませんけど、もしかすると二重の堀で囲まれてた可能性もあります
現在は地元方の整備か市の整備による物なのかは不明ですけど竹藪や下草も刈られ土塁や水堀や居館の外周の形が見て取れる状態になり北側の道路の広い路肩には案内板も設置されてました
堀城所在地は岡山県瀬戸内市長船町磯上で湯次神社を目指し神社手前の畑の中の鉄塔が堀城の目印で車は案内板のある広い路肩に駐車するのがいいでしょう最寄駅はJR赤穂線長船駅で堀城からは距離もありバスも通っていないので、車か自転車で行く事をオススメします
2020年05月21日 虫明備前守
備前長船刀剣博物館[福岡城 その他]
備前長船刀剣博物館は刀剣の一大生産地である瀬戸内市長船町長船にあります。
鎌倉期の刀剣から現代刀工の作品まで展示してあります。
2020年05月16日 虫明備前守
妙興寺[福岡城 寺社・史跡]
妙興寺には黒田官兵衛孝高の高祖父高政の墓や宇喜多直家の父とされる興家の墓もあります。
黒田家が筑前国に移封された際に父祖伝来の地である備前国福岡にちなんで筑前国の中心地を福岡と名付けたと言われている。
2019年06月13日 石工集団穴太衆【兒】
福岡城
長船カントリークラブ付近にある、福岡城跡の丘、この場所は現在、河川の堤体の一部になってますが地山の粘板岩が露出してる箇所があり
河川敷の福岡城の一部かも知れないです。
福岡城の比定地は左岸側のゴルフ場内本稿の場所と対岸の小山(寺山)の二説があります
ゴルフ場内にある現在の福岡城の規模は小さく、これは度重なる大洪水に見舞われて、現在残る小規模な小山になってると思います
この2つの福岡城は元々は1つの繋がった城郭を形成したのでは無かったのかと思います
2018年08月30日 石工集団穴太衆【兒】
福岡城
(案内) 福岡城は長船カントリークラブ内のゴルフ場内にあるので、長船カントリークラブの許可が必要
(周辺情報) この辺りは山陽道と吉井川の交わるこの一帯で物資の集散地として大変にぎわい備前福岡の市や平安時代から刀剣の生産で有名で鎌倉時代に福岡一文字派や長船派と呼ばれる刀工集団がいたことでも知られ、多くの名工を輩出している。
また、黒田官兵衛の曾祖父・高政と息子の重隆が備前福岡に移住し黒田長政が筑前国に封じられた際に黒田氏ゆかりの備前福岡より取って、福岡城と命名しこれが今日の福岡県の由来となった。
2018年08月30日 石工集団穴太衆【兒】
福岡城
(歴史) 福岡城は、鎌倉時代末期に頓宮四郎左衛門によって築かれ室町時代、赤松氏が嘉吉の乱で没落すると、備前は山名教之の分国となり小鴨大和守が守護代となり福岡城を大修築した。応仁の乱後に備前守護に返り咲いた赤松政則が、文明元年に福岡城を攻略し福岡千軒を城内に取り込んだ城へと修築。赤松・浦上氏と松田氏の対立により福岡城をめぐって両者の合戦(福岡合戦)が行われたが大永年間の大洪水により吉井川が流れを変えた為福岡城は廃城となった。福岡城跡の場所については二説1つは、吉井川にかかる備前大橋手前の吉井川右岸沿いの道を南へ下った所の小山、寺山が城跡とする説ともう一つは、吉井川河川敷にある長船カントリークラブの中央の小丘が城跡とする説の二説そして2つの福岡城はもともと繋がった城域を形成し東西に600m程度伸びる規模ではなかったと思われ、その機能は城館と守護所を兼ねたもので、この地において備前国の守護職政務が執り行われていたのではないかと考えられる。現在の福岡城は度重なる洪水と河川の流れが変わる事で城郭部が削られ今の姿になったと思います、福岡城を訪れた際はこの2つの福岡城をセットで見てほしい
2011年09月19日 中務大輔播磨の将軍
福岡城
備前福岡の町内に妙興寺があって寺内に黒田高政公(黒田官兵衛の曾祖父)と宇喜多興家公の墓所があります
また、備前福岡は、現在の福岡の地名の起源と言われています