明禅寺城(みょうぜんじじょう)
明禅寺城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 岡山県岡山市中区沢田
旧国名
- 備前国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 宇喜多直家
築城年
- 永禄9年(1566)
主な改修者
- -
主な城主
- 宇喜多氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石垣
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
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明禅寺城の口コミ情報
2022年02月13日 石工集団穴太衆【兒】
正木城[明禅寺城 周辺城郭]
☆正木城☆
標高約50mの山頂に立地。頂部の平坦面の削平度は高いが後世の地形改変の可能性あり。この平坦 面の南・北側には狭い平坦面が認められ、北側は わずかに北端が隆起する。北半は宅地造成などに より消失。近世地誌類には、正木大膳、岡信濃、 岡豊前、岡但馬、寺尾作左衛門などが居城と記す
(岡山県中世城館跡総合調査報告書)
石工の感想
幼き頃から遊んでた正木城♬
巨石がゴロゴロしてる磐座☆地質は堆積岩
子供の頃には気づかなかったけど
お城の事が詳しくなると見えてくる事がある
報告書にある頂部の平坦面の地形改変については、その可能性は低いと感じました
北側には三段に構成された曲輪が展開して
僕的には当時の物かと思いました。
一方
現在は宅地になってますが、かつて北側には千光寺のお寺があり正木山の山頂部にも墓地があり、東面のひな壇上に整地された場所は墓地の跡で場所により墓石もいくつか残り、中腹には
征木稲荷神社が鎮座してます
余談ではありますけど山頂駅の東側には子供の頃に作った基地の残骸も残ってました🤣
笄の井戸
正木城の麓、百間川の河川敷
「笄(こうがい)の井戸」がある
天正年間(1573年 - 1592年)城主の正木大膳康正が宇喜多直家に攻められ落城した。その際、康正の妻・玉尾の方は娘の初瀬を抱いてこの井戸に身を投げて、後年、この2人を供養したところ、井戸より笄と櫛が浮かび上がり、この井戸を「笄(こうがい)の井戸」と呼ぶようになったという伝承が伝わってます
現存する井戸の石組は、比較的大振りの自然石を多用した中世末期の野面積み石組井戸です
☆沖新田開発
いまから三百数十年ほども以前、津田永忠さんも正木山に登り、大岩から中川(旭川と吉井川の真中を流れる)と砂川の河口に広がる広大な沖積平野を眺めて広大な干拓新田の構想をここで練ったと言われてます
☆津田永田とは?
岡山藩主池田光政に見いだされ、その子綱政の代には藩の地方行財政のトップともいえる郡代として百間川・沖新田・後楽園など大がかりな事業を手掛けた人物
2020年10月16日 ドクターイエロー
明禅寺城
駐車場の操山里山センターより徒歩約20分で本丸跡の到着します。山道も良く整備されています。添付写真の位置まで来ればもうすぐです。リア攻めのご準備を!本丸からは眼下に宇喜多直家が奮闘した明禅寺合戦の舞台が俯瞰できるはずなのですが、雑木だらけで視界不良でちょっと残念💀。明禅寺城のある操山一帯はバイキングコースが多く設定されていて、至るところに古墳が点在しています。R2.10.15訪城
2020年09月14日 山城征夷大将軍碑前守
明禅寺城
巨石郡は迫力が有りました、里山センターから登るのが楽です。
2019年02月04日 図書頭かねつら
明禅寺城
岡山平野から沼城(宇喜田直家当時の居城)へ向かう街道を監視できる立地。操山から北に伸びる尾根筋の先端なのだが、尾根は一旦標高が低くなってまた高くなり明禅寺城周辺は独立峰的な感じもアリ。
城域はさほど大きくなく、井戸等の水場もなさそうで、監視所兼戦時の砦だった感じ
2016年10月10日 石工集団穴太衆【兒】
明禅寺城
明禅寺城は、東に約8km離れた地に所在していた亀山城(岡山市東区沼)を居城にして、戦国大名への成長期にあった宇喜多直家が、永禄9(1566)年に岡山平野と西隣りの備中国への備えに築いた前衛基地の出城です。
翌年の永禄10(1567)年、備前国への侵攻を図った備中国の三村勢に占領されましたが、宇喜多直家は奪還を果たすと共に三村軍を迎え撃って完勝し、その大勝振りが明禅寺崩れと呼ばれました。
城構えは、操山山頂から北に延びた尾根の頂部に一段の腰曲輪を伴う中心郭(本丸)を構え、尾根筋に沿って北側に二段の腰曲輪と、西側に三段の腰曲輪を伴う準中心部(二の丸)を配置した小型の連郭式縄張りの山城となっています
城郭の構築は、各郭とも土壇築成で、現状では郭の段どりと背後を遮断する堀切が遺構として確認できる程度で、上部の建築物は柵や掘立柱建物を主体とした臨戦用城砦の構造であったと考えられます、簡単なマップは操山里山センターでもらえます。