明禅寺城(みょうぜんじじょう)
明禅寺城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 岡山県岡山市中区沢田
旧国名
- 備前国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 宇喜多直家
築城年
- 永禄9年(1566)
主な改修者
- -
主な城主
- 宇喜多氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石垣
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
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明禅寺城の口コミ情報
2024年10月09日 RED副将軍
明禅寺城
宇喜多氏と三村氏による明禅寺合戦の舞台⚔
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
1566年に宇喜多直家により築かれたと云われます。
1566年、備中松山城の三村家親は毛利元就と結び勢力を拡大。更に勢力を拡大するために美作国や備前国へ侵攻したため、宇喜多直家は遠藤秀清・俊通の兄弟に三村家親の暗殺を命じます。興善寺に滞在していた三村家親を遠藤兄弟は狙撃し暗殺したとされ、三村氏は備中へ撤退となり、家督は次男の三村元親が継承しました。
三村氏撤退後に宇喜多直家が備前国の支配拡大を目指すために明善寺山に築いたのが明禅寺城です。
しかし、翌1567年には三村元親は弔い合戦として備前に侵攻。夜襲により明禅寺城を攻め落とすと根矢与七郎と薬師寺弥七郎を守将として配しました。
宇喜多直家は、まず三村氏に降伏した岡山城の金光宗高、中島城の中島元行、舟山城の須々木豊前守を調略し宇喜多氏に寝返らせ、明禅寺城を孤立させて包囲。
援軍として三村元親の大軍が押し寄せるも、宇喜多直家は速攻により明禅寺城を落城させると、明禅寺城の兵と挟撃を予定していた三村氏の援軍は瓦解。三村氏の先鋒隊、中軍、本隊ともに総崩れとなり宇喜多直家の大勝となりました。
最大の対抗勢力であった三村氏を備前国西域から撃退したことにより、宇喜多直家は浦上家中での発言力と独立性を確保。戦国大名としての地位を築き上げていきます。
その後の明禅寺城については定かではありませんが、宇喜多直家が石山城(岡山城)へ移るまでに廃城となった様です。
見所
標高110mの操山東尾根が北へ伸びた丘陵先端部に築かれています。
ピークに主郭を置き、尾根を削平した南北に長い主郭は中央東側に虎口にも空堀にも見える窪地があり、先端の巨石の下部側面には土留めの石積みが残っています。(写真①②③)
花崗岩の巨石が点在しており近代には石切場としても使用された様で、南尾根には石切場と土留めの石垣がありますが後世のものです。(写真⑧)
作り込んだ城というより自然地形を活用した城砦です。
行き方は、操山公園里山センターを目標に設定。駐車場を利用させていただき、里山センターに向かって左手、南東の山道の方へ進みます。遠ざかっていきますが、登り始めてしばらくすると尾根に出ますので、ここで明禅寺城への案内板が出てきます。案内板の通り整備されたハイキングコースを進むと辿り着きます。比高は100m程ですが距離があるのでご注意ください。駐車場から20分くらいでした。
他にも恩徳寺の北側にも登山道がある様ですが、分かりづらいとの情報もあり見送りました。
2024年10月01日 てっちゃん摂政@京都
明禅寺城
皆さんは実際に攻略する場合マップをクリックし行軍されているかと思いますが特に山城の場合とんでもないルートを示します。私も盲学校の横の道から攻略しようとしましたが途中チェーンがしてあり遮られていました。無理矢理進むと獣道のようになりこのルートを断念。結局里山センターの前の道をさらに進み進路が下りになるところを横断している横の道を右折し更に明禅寺城と書いた看板のところを直進したら辿り着きました。センターの前に車を停めていたお兄さんに尋ねたら親切に教えてくれました。日没スレスレの時間帯でしたのでイノシシも出るとのことでハラハラしました。路面も悪いのでコケないよう注意です。私も何回かコケました。
2024年09月22日 小太郎左衛門督南畿道19國守
明禅寺城
失敗談です。操山公園里山センターに駐車場もあり、略図も貰えるとの先人の教えにより立ち寄りましたが、改築中で休業しており、付近散策しましたが、登城口は見つけることができませんでした。情報収集を怠った報いと反省です。9月21日情報。
2023年08月05日 ぽちさん
明禅寺城
立派な大きな石がゴロゴロ、お城の規模の大きさを想像させる。
2023年03月04日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
正木城[明禅寺城 周辺城郭]
岡山県の岡山市にある【柾木城】♪岡山訪問の際に城友様の家に泊めて頂きました♪岡山に行くと、いつも泊めてもらう常宿ですw
そして、城友様が子供の頃に秘密基地を作って遊んでいたという柾木城♪
漢字は柾木城、更には正木城とも出てきます♪
さてさて、話は柾木城ですが、百間川の河口より北へ6.5キロ♪百間川がUの字にカーブし、三方を囲む場所に標高56m、柾木山が存在します♪この柾木山の山頂部を削平し城郭が築かれています♪
戦国時代に柾木大膳之輔が築城しています♪
岡山城の東の砦として機能したとされます♪
後に姫路城主・本田美濃守の軍勢5千と宇喜多直家の軍勢2千に取り囲まれ、対する柾木軍3千で敗戦☆落城したと云われています☆落城の前日に柾木大膳之輔の内室・玉尾の方が、姫君・初瀬を抱いて馬で柾木山を駆け下り、東の百間川の井戸に身を投じたという伝承が残っています☆後に僧が供養の経をあげたところ、水面に笄(こうがい)が浮き上がったので、その井戸は『笄の井戸』と呼ばれています☆柾木大膳之輔は信仰殊に厚く、天照皇大神を祀りましたが、落城と共に消滅し奥の豊受の神様のみが残り、現在は共に祀られています♪
柾木山に残る遺構としては山頂と麓に郭と井戸の遺構があります☆後、磐座♪古くから信仰の岩としていたのかもしれません♪が、時代の流れと共に改変された箇所がある様です☆
堀などは確認が出来ませんでしたが、往時の百間川は恐らく、もっと川幅は広かったでしょうから、柾木山の直ぐ下まで来ていたのでしょう♪百間川は天然の堀だったと考えます♪山の地質は花崗岩からなり、岩盤剥き出しの箇所が多く見受けられます♪操山山系の西側には明禅寺城があり、南東側には宇喜多氏の城郭、乙子城も望めます♪
因みに安房国(千葉の房総)の柾木氏との関係性がある様ですが、詳しくは判りませんでした☆安房国の柾木氏は元々は相模の三浦氏の後裔として三浦氏滅亡の時に安房に逃れて平群郡正木に拠り里見家に属した一族です♪また改めて調べてみようと思います☆
2022年02月13日 石工集団穴太衆【兒】
正木城[明禅寺城 周辺城郭]
☆正木城☆
標高約50mの山頂に立地。頂部の平坦面の削平度は高いが後世の地形改変の可能性あり。この平坦 面の南・北側には狭い平坦面が認められ、北側は わずかに北端が隆起する。北半は宅地造成などに より消失。近世地誌類には、正木大膳、岡信濃、 岡豊前、岡但馬、寺尾作左衛門などが居城と記す
(岡山県中世城館跡総合調査報告書)
石工の感想
幼き頃から遊んでた正木城♬
巨石がゴロゴロしてる磐座☆地質は堆積岩
子供の頃には気づかなかったけど
お城の事が詳しくなると見えてくる事がある
報告書にある頂部の平坦面の地形改変については、その可能性は低いと感じました
北側には三段に構成された曲輪が展開して
僕的には当時の物かと思いました。
一方
現在は宅地になってますが、かつて北側には千光寺のお寺があり正木山の山頂部にも墓地があり、東面のひな壇上に整地された場所は墓地の跡で場所により墓石もいくつか残り、中腹には
征木稲荷神社が鎮座してます
余談ではありますけど山頂駅の東側には子供の頃に作った基地の残骸も残ってました🤣
笄の井戸
正木城の麓、百間川の河川敷
「笄(こうがい)の井戸」がある
天正年間(1573年 - 1592年)城主の正木大膳康正が宇喜多直家に攻められ落城した。その際、康正の妻・玉尾の方は娘の初瀬を抱いてこの井戸に身を投げて、後年、この2人を供養したところ、井戸より笄と櫛が浮かび上がり、この井戸を「笄(こうがい)の井戸」と呼ぶようになったという伝承が伝わってます
現存する井戸の石組は、比較的大振りの自然石を多用した中世末期の野面積み石組井戸です
☆沖新田開発
いまから三百数十年ほども以前、津田永忠さんも正木山に登り、大岩から中川(旭川と吉井川の真中を流れる)と砂川の河口に広がる広大な沖積平野を眺めて広大な干拓新田の構想をここで練ったと言われてます
☆津田永田とは?
岡山藩主池田光政に見いだされ、その子綱政の代には藩の地方行財政のトップともいえる郡代として百間川・沖新田・後楽園など大がかりな事業を手掛けた人物
2020年10月16日 ドクターイエロー大蔵大輔
明禅寺城
駐車場の操山里山センターより徒歩約20分で本丸跡の到着します。山道も良く整備されています。添付写真の位置まで来ればもうすぐです。リア攻めのご準備を!本丸からは眼下に宇喜多直家が奮闘した明禅寺合戦の舞台が俯瞰できるはずなのですが、雑木だらけで視界不良でちょっと残念💀。明禅寺城のある操山一帯はバイキングコースが多く設定されていて、至るところに古墳が点在しています。R2.10.15訪城
2020年09月14日 山城征夷大将軍碑前守
明禅寺城
巨石郡は迫力が有りました、里山センターから登るのが楽です。
2019年02月04日 図書頭かねつら
明禅寺城
岡山平野から沼城(宇喜田直家当時の居城)へ向かう街道を監視できる立地。操山から北に伸びる尾根筋の先端なのだが、尾根は一旦標高が低くなってまた高くなり明禅寺城周辺は独立峰的な感じもアリ。
城域はさほど大きくなく、井戸等の水場もなさそうで、監視所兼戦時の砦だった感じ
2016年10月10日 石工集団穴太衆【兒】
明禅寺城
明禅寺城は、東に約8km離れた地に所在していた亀山城(岡山市東区沼)を居城にして、戦国大名への成長期にあった宇喜多直家が、永禄9(1566)年に岡山平野と西隣りの備中国への備えに築いた前衛基地の出城です。
翌年の永禄10(1567)年、備前国への侵攻を図った備中国の三村勢に占領されましたが、宇喜多直家は奪還を果たすと共に三村軍を迎え撃って完勝し、その大勝振りが明禅寺崩れと呼ばれました。
城構えは、操山山頂から北に延びた尾根の頂部に一段の腰曲輪を伴う中心郭(本丸)を構え、尾根筋に沿って北側に二段の腰曲輪と、西側に三段の腰曲輪を伴う準中心部(二の丸)を配置した小型の連郭式縄張りの山城となっています
城郭の構築は、各郭とも土壇築成で、現状では郭の段どりと背後を遮断する堀切が遺構として確認できる程度で、上部の建築物は柵や掘立柱建物を主体とした臨戦用城砦の構造であったと考えられます、簡単なマップは操山里山センターでもらえます。