撫川城(なつかわじょう)

撫川城の基本情報

通称・別名

沼城、芝場城、高下ノ城、小倉城、(撫川陣屋)

所在地

岡山県岡山市北区撫川

旧国名

備中国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

藤井久住

築城年

寛治年間(1087〜1094)

主な改修者

三村家親、戸川達冨

主な城主

藤井氏、三村氏、伊賀氏、上山氏(毛利氏家臣)、井上氏(毛利氏家臣)、戸川氏

廃城年

明治2年(1869)

遺構

曲輪、石垣、横堀、知行所総門

指定文化財

県史跡(撫川城跡(芝場城跡))

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

庭瀬城(岡山県岡山市)[0.2km]
賀陽氏館(岡山県岡山市)[2.3km]
早島陣屋(岡山県都窪郡)[4.6km]
富山城(岡山県岡山市)[4.9km]
辛川城(岡山県岡山市)[5.0km]
備中高松城(岡山県岡山市)[6.0km]
亀山城(岡山県総社市)[6.7km]
福山城(岡山県総社市)[8.0km]
岡山城(岡山県岡山市)[8.5km]
天城陣屋(岡山県倉敷市)[9.3km]

撫川城の解説文



撫川城(なつかわじょう)は、岡山県岡山市北区撫川にあった江戸時代の日本の城。または徳川政権下の旗本の知行所・旗本陣屋。別名芝場城。県の指定史跡第1号である。江戸時代に、戦国時代以前の庭瀬城跡に旗本戸川家の知行所、撫川陣屋が置かれた。

概要 

現在の撫川城跡は東西約85メートル、南北約55メートル、幅15メートルの濠と南側・北側と西側の一部に野面積の石垣が残る[1]。うち、北西端には櫓台と思われる石垣の張出しも見ることができる。また、東半分には土塁が現存している。撫川城址公園入口にある門は撫川陣屋総門を明治になって現在地に移築したものである。

現在の撫川城址公園から200メートルほど東に庭瀬城跡がある。これは戦国時代の庭瀬城跡に庭瀬藩戸川家が構えた陣屋の西側一角に、戸川家改易後に撫川郷5千石を与えられて家名存続を許された弟の戸川逵冨が、現在撫川城跡と呼んでいる区域(旧・庭瀬城二の丸)周辺に居所を置き自領の政庁としたが[2]、さらに1683年(天和3年)に久世重之が庭瀬が5万石で封じられた際、旧庭瀬城の放棄されていた東側(旧・庭瀬城本丸)に新たに居館・政庁となる陣屋(庭瀬陣屋)を置いたためである。両陣屋はほとんど隣接する形で明治まで存続した。

歴史 

戦国時代

1559年(永禄2年) 備中国の三村家親が備前国の宇喜多直家に備えるために築かせたと伝えられている。

1575年(天正3年) 三村氏が、毛利氏に滅ぼされてからは毛利氏の出城となり、配下の井上就正と桂景信が、この城を守備した。

1582年(天正10年) 羽柴秀吉の備中高松城水攻めの際に、毛利方の国境防備の城「境目七城(冠山城高松城、宮地山城、鴨庄城、日幡城、松島城、撫川城)」の一つとなり、城主の井上就正が800余人を率い守備した。撫川城は位置的に孤立した場所にあったため、吉川元春や小早川隆景に早々に撤退するように下命されていたが、就正はその命令に背いて織田方の羽柴勢と交戦し、井上勢は敗北した。城は羽柴勢に加勢していた宇喜多氏の所有となり、城は廃城となった。

江戸時代

1600年(慶長5年)宇喜多家から徳川家康に出奔していた元宇喜多秀家重臣の戸川達安は、関ヶ原の戦いでの功績を評価されて備中国都宇郡および賀陽郡のうち2万9千200石を与えられて入封した。戸川は庭瀬城跡を改修して陣屋を置き、居所とした。

1679年(延宝7年) 庭瀬藩4代藩主安風が早世したことにより、弟の戸川逵冨が名跡を継ぎ、交代寄合旗本として5千石を知行した。撫川陣屋と称された旗本戸川家在所の居館政庁は、この撫川城跡を中心とした場所に設けられ、東側は放棄された。この東側の跡地は戸川家改易から4年後の久世重之が入封してのち再度整備され、松平信通、さらに板倉重高以降は板倉家の庭瀬陣屋として整備され、再び利用されることとなった。

現代

1957年(昭和32年)5月13日、「撫川城跡(芝場城跡)」として岡山県史跡(第1号)に指定された。

現在の敷地内北側には三神社が鎮座し、撫川城址公園として周辺住民の憩いの場所となっている。

近隣施設 

アクセス 

  • JR西日本 山陽本線庭瀬駅

撫川城の口コミ情報

2024年09月22日 あしこし刑部大輔よし
撫川城



道が細くて車で辿り着くのは大変ですが、庭瀬城の北側に駐車させていただき、撫川城ともにリア攻めできました。

2023年11月12日 RED副将軍
撫川城



石垣が残り周囲を水濠が巡る沼城🏯

オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎

寛治年間(1087年〜1094年)に藤井久任により築城されたと伝わります。
1559年には有力国人領主で鶴首城の三村宗親の子である三村家親が改修し居城とした様です。
備中国守護の細川氏が衰退すると国人衆の勢力争いが熾烈となる中、三村家親は毛利元就と結び勢力を拡大します。そして備前に続いて備中で勢力を広げようとしていた宇喜多直家の侵攻に備えて築き支城としたのが撫川城でした。
三村家親は1561年に備中松山城に侵攻し居城を移し更に勢力拡大をしましたが、1566年に宇喜多直家の配下により暗殺。
家督を継いだ次男の三村元親が宇喜多直家と対立を続ける中、1574年に同盟関係であった毛利輝元は宇喜多直家とも同盟を締結。これを不満として三村元親は毛利氏から離脱し織田信長と通じます。これにより毛利輝元は小早川隆景を総大将として8万の大軍で備中へ侵攻。三村氏の属城は次々と落とされて撫川城も落城。1575年三村元親は備中松山城で自害し三村氏は滅亡しました。
その後、撫川城には毛利氏の城代として上山兵庫介・植民部大輔らの名が残り、1582年の羽柴秀吉による備中高松城の戦いの際には井上有影が守備し激戦となるも落城したと云われます。
その後は宇喜多氏方の武将が城番として入城。
関ヶ原の戦い後は、宇喜多氏を離反した戸川達安が入封し庭瀬藩を立藩。庭瀬陣屋を築いてその一部として取り込まれました。
1679年に四代当主の戸川安風が没すると戸川氏は改易となりましたが、弟の戸川達冨に五千石を与えられ、東側の庭瀬陣屋は放棄し撫川城本丸に撫川陣屋を設けました。庭瀬陣屋には板倉重高が二万石で入封。その後、明治を迎えるまで続きました。

見所
足守川河口に広がるに沼沢地に築城された典型的な沼城です。
北側と西側に野面積みの石垣が残り、周囲を水濠が巡り、北西隅部は櫓台が張り出しています。
南側入口には移築された撫川知行所総門が残っています。

撫川城址公園として整備されており数台の駐車スペースもあります。

2023年10月29日 さっきー
撫川城



車で庭瀬城行きつもりが、迷い込んで到着。駐車スペースはあるが、庭瀬城に止めた方が良い。まあ、道が迷路&狭路の為、車で来ない方がいいですよ。

2023年09月17日 小太郎左衛門督南畿道19國守
撫川城



庭瀬城より徒歩5分の距離です。近くに公園駐車場があるようですが、狭路があり、車の方は注意が必要です。

2022年12月23日 琉球守風のこうちゃん播守
撫川城



庭瀬城の西側直ぐに有るので、立ち寄りました🤭現地、無料駐車場に、綺麗な🚻有ります🤚

2022年01月09日 ドクターイエロー大蔵大輔
平松城[撫川城  周辺城郭]



民家のある水田地帯の一角に石碑がポツリと立っているのみです。碑文にはひと言「天正8年(1580年)落城」と記されています。備中高松城水攻めは天正10年なので、この時には備中境目城にはなっていなかったことになります。地元の方にお聞きしたところ、撫川城の出城ではなかったか?とのことでした。

遺構は全く残っていないようです。周囲には至る所に水路が張り巡らされています。かつては沼城だったのかもしれません。

石碑周辺の道は狭く、駐車スペースはありません。R4.1.9訪城

2021年10月14日 四間飛車左衛門佐とみー
撫川城



2021年10月10日 庭瀬城攻略に勢いを得て隣の撫川城にも攻め込んできました。隣とはいえ小道が入り組んでいてアプリを見ながら慎重に進みました。徒歩で5分ほどで着きます。かつては庭瀬城と一つの城だったとか?本城自体は堀、土塁に囲まれたシンプルなものですが、地勢も考えると地域で守るという思想で作られた城、城域とも言えます。城址は公園となっており、子ども達が鬼ごっこして駆け回っていて、少しタイムスリップした気分になりました。

2021年09月09日 HS兵部大輔
撫川城



住宅の中に突然出てくる水堀。城跡は公園になっているけれど 石垣や土塁はおそらく往時のままで見応えがあります。

2021年08月01日 【若】戦国左近将監
撫川城

撫川城は庭瀬城との連携がある城であります。城自体は小さいですが遺構が複数残っております。特に『野面積み石垣』『土塁』は魅力があります。土塁は門を入り、すぐ右に大きな物が残っています。また、本丸北側の右半分にも大きな物が残っています。

野面石垣をまるまる堪能したい方は城址公園に繋がる道をまっすぐ進み、右に曲がります。すると、城全体の左半身の石垣が見えてきます。とても見応えがあり迫力満点です。石碑や井戸も残っているので歴史が感じられます。案内板もあります。

【駐車場】城址公園の手前に駐車スペースがあります。(無料)

【リア攻め地点】門を通り過ぎた所の周辺

【行き方】庭瀬駅から徒歩10分(約800m)
①庭瀬駅から大きな分岐点まで進み、左に曲がる。
②左に進んだ道を直進できなくなるまで進み、右に曲がる。
③すぐ左に曲がり、直進できなくなるまで進み、左に曲がる。
④同じく直進できなくなるまで進み、右に曲がる。
⑤そのまま進み、城址公園に到着。

2021年05月11日 首藤但馬守通宗
撫川城



巡る水路、組み上げられた石積み。こんなにたくさんの遺構に出会えると思っていませんでした。地図を見るだけでも萌えます。
南東側以外は全て綺麗な石積みで守られています。

2021年01月11日 いしたりん土佐守
撫川城

軽自動車ではカーナビの誘導通りに行けると思いますが、普通車の場合は通れない道を案内される場合があるので、事前に道を十分に調べてから訪問するとよいです。

車を停め、西側道路からの石垣も当時の姿を想起させて趣があると感じました。

2020年12月10日 ドクターイエロー大蔵大輔
撫川城



🏯庭瀬城跡より西へ更に細い道を約300m進んだところに位置しています。撫川城址公園として整備されており、入口に駐車場が3台ほど用意されています。周囲に堀が廻らされており、堀を渡ったあたりでリア攻め可能になります。城内には案内看板やパンフレットが用意されています。奥に三神社が祀られており、西方には野面積み石垣が、東方には土塁が現存しています。また井戸跡も残っています。R2.12.10訪城

2020年09月27日 宇陀雅楽頭うっほほ〜い
撫川城

車で行く場合は道が狭いのでお気を付け下さい。すぐ手前に公園があり、駐車することができます。

2018年11月05日 織田上総介晃司
撫川城

撫川城前に数台停めれる駐車スペースがあります。

城跡は広くないですが水堀に石垣、土塁と陣屋総門と凝縮されてます。

歩いてすぐの庭瀬城とWリア攻めができます。

撫川城と庭瀬城は元々ひとつの城だったそうです。

2017年07月16日 橘若狭守次郎吉
撫川城

野面積石垣の一つ一つの石垣石のデカさが見処。水堀に映る石垣の姿も美しい。
城跡の南面西側には土塁と石垣、南面東側には土塁が残る。西面は全体的に石垣が積まれている。
城跡(三神社)には撫川陣屋の総門が移築されている。
小規模ながらに見応えのある城跡だった。



2017年02月12日 石工集団穴太衆【兒】
撫川城

築城年代は定かで無く寛治年間1087年~1094年に藤井久任が築城したといわれ三村氏の持城となったあと毛利方の備中境目七城の一つとしての役割を担う天正10年1582年羽柴秀吉の中国侵攻によりこの地でも激戦が行われ落城し戦後は宇喜多氏の部将が城番として置かれ江戸時代に庭瀬を利用した戸田達安は、庭瀬陣屋を築き、その一部として取り込まれていた撫川城は現在の三神社境内に築かれて東西に長い方形の曲輪を高石垣と堀が巡っており、北西隅部は櫓台のようで張り出しがあり南側にある入口には明治以降に現在地に移築された撫川知行所総門が残っています撫川城と庭瀬城と分けられてますがもともとは一つの城郭とされた様です

2011年02月12日 ナオキチ備後守
撫川城

現地に行くと庭瀬城とは元々、1つの城であったのだなあと実感できます。

撫川城の周辺スポット情報

 撫川陣屋総門(遺構・復元物)

 本丸(遺構・復元物)

 撫川城跡説明板(碑・説明板)

 平松城(周辺城郭)

 三神社(寺社・史跡)

 トイレ(トイレ)

 駐車場(駐車場)

 撫川城址公園(関連施設)

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