庄城(しょうじょう)
庄城の基本情報
通称・別名
- 庄ノ城、庄の城、壇城、段の城
所在地
- 富山県砺波市庄川町庄
旧国名
- 越中国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 桃井直常
築城年
- 正平年間(1346〜1370)以前
主な改修者
- 石黒氏(壇石黒氏)?
主な城主
- 桃井氏、石黒氏、神保氏?
廃城年
- 天正4年(1576)以降
遺構
- 曲輪、土塁
指定文化財
- 市史跡(壇城跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
井波城(富山県南砺市)[3.7km]
寺家新屋敷館(富山県南砺市)[6.9km]
野尻城(富山県南砺市)[7.5km]
増山城(富山県砺波市)[8.1km]
大道城(富山県富山市)[8.3km]
城端城(富山県南砺市)[11.6km]
福光城(富山県南砺市)[11.7km]
尾畑城(富山県富山市)[12.4km]
富崎城(富山県富山市)[12.5km]
木舟城(富山県高岡市)[13.2km]
庄城の解説文
庄城の口コミ情報
2022年06月08日 まじんB00B00
庄城
温泉宿?の駐車場に車を停めて見学。田んぼっすね。害獣よけの電気柵がありました。気をつけてね(^◇^;)
2022年06月05日 曲輪但馬守削平
隠尾城[庄城 周辺城郭]
富山市方面から来られる方は県道346の冬季閉鎖(12月1日~4月28日)にご注意を。夢の平スキー場から上には行けなくなります。反対側の庄川側からは除雪次第で隠尾まで入れます。城址の見える所まで道路ありますが、隠尾集落内の道は狭いので車は八幡宮付近に置いていく方が良いと思います。あと、隠尾集落内は携帯電波が届きにくいです(城址は崖上にありますので大丈夫です)。今回は鉢伏山も目的地の一つでしたのでスキー場の駐車場から歩きました。ゲレンデを登り、隠尾城まで50分でした。主郭と一段下の郭までは刈り払ってありました。砦程度の大きさしかないので、どのように使われた城なのか気になります。熊対策必要。2022.4.3
(写真の説明はスポット写真から見れます)
2022年04月12日 雪那
隠尾城[庄城 周辺城郭]
春風亭昇太師匠も訪れられた隠尾城。隠尾集落の入口にある隠尾八幡宮を目指します。隠尾城は、集落南端の高台にあり、本丸は三方が断崖に守られ、北側の水田は堀の跡と伝えられます。今はその集落はもうありません。本丸跡には城主の悲運を泣き続けたという伝説の「啼石(なきいし)」と呼ばれる石があります。
1月末日はまだ除雪が隠尾八幡宮近くまでしかされておらず、お城、集落は雪の中でした。
2021年01月01日 曲輪但馬守削平
千代ヶ様城[庄城 周辺城郭]
山名は三条山、庄城から直線で800m程の場所にあり、その詰城とされる。
水記念公園に駐車して歩きました。舗装された道路で結構上まで行けます。三条山入口の看板があり、登山道へ。
登山道は階段が土砂に埋まっていたり無残な有り様。それでも縄張図通り土塁や堀切を見つける事が出来ます。主郭まで(土塁見に藪入ったりで)25分でした。
大堀切は幅広&草木で写真が撮り難かったです。最後に藪漕ぎして水の手曲輪に向かいました。しかし崩れて埋もれてしまったのか良く分からず…。庄城の詰城と言う割に北側尾根に防御施設が無いようなのがどういう導線だったのか気になります。2020.10.18
2020年09月04日 キラキラ光る山城守きなこ姫
教育委員会の説明板[庄城 碑・説明板]
駐車場は弁天温泉のおかみさんに声掛して旅館の駐車場に駐めさせていただきました。
2019年07月12日 あきおこ
庄城
ネット、書籍には壇城あるいは壇の城の名で記載されている事が多い城です。登城口は弁天温泉背後の田園を左手にまわり込むと踏跡があります。田園の周辺に低い電気鉄線が張り巡らされているので歩行には注意が必要です。田園前に看板がありますが、その前に檻があり番犬?がいます。この番犬、激しく吠えますので弁天温泉の宿主さんに一言登城を伝えておいた方がいいです。山の中腹まで登ってもまだ吠えてました(汗)。優秀な番犬であることは間違いありません。遺構は山麓に見事に削平された段郭、山上の主郭に削り残しの長大な土塁を見ることが出来ます。土塁は館のあった田園とは反対側にあります。堀切もありますが自然地形の鞍部に多少手を加えただけで防御性は殆どありません。車の場合は急な坂道を登りきった弁天温泉に広い駐車場があるのでこちらに駐車可能です。宿主さんに理由を伝えた所、快く承諾いただきました。
2013年05月12日 藤乃左近衛少将龍神
庄城
麓にある弁財天公園から見上げる庄城はナイスです。
この平坦地は標高130m、現在は水田になっています。
城跡は室町時代末から戦国時代のものと考えられ、現在も東側の山上には規模の小さい簡単な中世城館遺構(ちゅうせいじょうかんいこう)がいくつも確認でき、主郭(しゅかく)(城の中で建物を建てたり、軍勢を集めたりするために造られた広場)は西麓の「だん」と呼ばれる平坦面に遺存していたと思われます。
昭和58年の試掘調査では、溝・柱穴(ちゅうけつ)・礎石(そせき)・石敷・石列などの遺構が確認され、遺物包含層(いぶつほうがんそう)からは炭化物が出土したことから、幾度か落城したと推測できます。
この郭(くるわ)からは、南東方向に三条山を望むことができ、同山上には同じ南北朝時代の千代ヶ様城(ちよがためしじょう)がありました。距離的にはかなり離れていますが、壇城とは尾根伝いの連絡路があり、平常時の居館が壇城で、千代ヶ様城が緊急時に立てこもる詰城(つめじろ)であったと考えられます。
城主は、国人を集めて挙兵した桃井直常が居城としていましたが、南北朝時代の応安2年(1369)に直常追討のため管領斯波義将の命で派遣された二宮次郎左衛門に攻められ落城したとされています。その後、永正7年(1510)には、長尾為景が上杉顕定を敗死させた後、ここに居住し、また、天正4年(1576)頃、石黒与三右衛門が居住の時、上杉謙信に攻められ退城したとされています。この両城は、共に庄川扇状地の扇頂部に位置する要衝であったことから、南北朝の争乱時には重要な役割を果たしていたと推測されます。