井波城(いなみじょう)
井波城の基本情報
通称・別名
- 礪波城、瑞泉寺城
所在地
- 富山県南砺市井波字古城跡
旧国名
- 越中国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 蓮乗
築城年
- 文明16年(1484)頃
主な改修者
- 前野勝長
主な城主
- 一向一揆勢、前野小兵衛(佐々氏家臣)
廃城年
- 天正13年(1585)以降
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)、櫓台、枡形虎口、井戸
指定文化財
- 市史跡(井波城址)
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
庄城(富山県砺波市)[3.7km]
寺家新屋敷館(富山県南砺市)[6.2km]
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城端城(富山県南砺市)[8.1km]
大道城(富山県富山市)[8.7km]
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井波城の解説文
[引用元:Wikipedia「井波城」の項目]井波城(いなみじょう)は富山県南砺市井波(旧・井波町)に在った城。「礪波城」「瑞泉寺城」ともいう。市史跡。
【規模】
八乙女山の裾(標高143m)に築かれた平山城。本願寺勢力下の瑞泉寺によって建てられた城郭伽藍で、城域は東西250m、南北230m。三つの曲輪を有し、中央部には枡形虎口が残る。北側を除く三方は巨大な土塁で囲まれており、その上には要所ごとに櫓台が建てられていた。南北には幅20mにも及ぶ広大な堀が在った事が確認されている。
【歴史】
・明徳元年(1390年)、本願寺5世綽如によって瑞泉寺創建。
・文明13年(1481年)2月、礪波郡に勢力を誇った越中国福光城主石黒光義が医王山惣海寺と組んで瑞泉寺らと戦うが敗退(田屋川原の戦い)。これによって石黒氏は力を失い、それに代わって瑞泉寺率いる一向一揆勢の影響力が強まった。
・文明16年(1484年)頃、瑞泉寺3代蓮乗(本願寺8世蓮如の次男)が周辺の武士団に対する防衛手段として寺を城塞化した。が、この時蓮乗は加賀国二俣本泉寺にて病床にあり、実際は後の4代蓮欽の指揮によるものと思われる。
・永禄年間(1558年-1569年)、瑞泉寺6代証心が上杉謙信と争う。
・天正3年(1575年)、謙信と和睦。この頃には三百七十寺を擁し、礪波郡南部を実質的に支配していた。井波の町も大いに栄え「町屋三千軒」と称されたという。
・天正5年(1577年)、『上杉家家中名字尽』に瑞泉寺の名が見える。
・天正9年(1579年)、瑞泉寺7代顕秀の時、織田信長揮下の佐々成政に攻められて落城。城下も焼亡した。敗れた一揆勢は五箇山へと逃れた。成政は配下の前野勝長を配置してこれを守らせた。この頃に大改修が施されているが、阿弥陀堂跡が本丸となり、祖師堂跡が二の丸、太鼓堂跡が三の丸になったと伝えられている。三方を囲む土塁もこの頃に作られたという。
・天正13年(1585年)、富山の役。成政は兵力を集中させる策を採った為、勝長は戦前に井波城を出て成政の本城である越中国富山城へと退いた。因みに勝長は富山城で戦死したという。成政が降伏した後には前田家の管理下に置かれるもこの時点で既に城としての戦略的価値は無くなっており、時を置かずして廃城となったと思われる。...[続きを見る]
井波城の口コミ情報
しゅう2権大納言様[2018年08月09日]
近くの道の駅「庄川」で販売している出汁醤油は非常に美味しいです。冷奴等にかけると、絶品です。また、特選コーヒーもお薦めです。
コロ助様[2014年10月02日]
加越能バス・瑞泉寺前バス停から徒歩5分程です。(砺波駅前から乗車だと、乗車時間20分程で\480 高岡駅前から乗車だと、乗車時間1時間弱で\770 どちらも1時間に1本程度)
招魂社、井波八幡宮の周囲に土塁があります。地獄谷と呼ばれたらしい外堀の水落口付近は、大門川河川公園になっています。瑞泉寺と井波八幡宮の間の道を行くと、八幡宮の土塁裏に外堀跡があります。臼狼水の所にキジが居ました。
藤乃左近衛少将Ryu jean様[2013年05月12日]
越中礪波一向一揆の総本山瑞泉寺の程近くにあります。 瑞泉寺に向かう八日町通りの入り口には大型駐車場完備です。