福光城(ふくみつじょう)
福光城の基本情報
通称・別名
- 福満城、福光館
所在地
- 富山県南砺市福光4948
旧国名
- 越中国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 石黒光弘
築城年
- 寿永2年(1183)
主な改修者
- -
主な城主
- 石黒氏
廃城年
- 文明13年(1481)
遺構
- 曲輪
指定文化財
- 市史跡(福光城址 栖霞園)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
城端城(富山県南砺市)[5.5km]
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福光城の解説文
[引用元:Wikipedia「福光城」の項目]
福光城(ふくみつじょう)、または福光館(ふくみつやかた)は、富山県南砺市福光にあった平安時代末から戦国時代にかけての日本の城。「福満城」とも書く。後世城跡に造られた「福光城址栖霞園」は、南砺市指定史跡[1]。
概要
福光町の市街にあたる小矢部川沖積地に造られた平城(居館)で、平安時代末期に石黒光弘が築城したと伝わる。城は堀に囲まれ東西27間(49メートル)×南北16間(29メートル)を測り[2]、周囲には城下町が形成されていた。以後300年に渡り越中石黒氏の拠点となった。
しかし、1481年(文明13年)に、石黒光義および天台宗医王山惣海寺と、浄土真宗瑞泉寺率いる越中一向一揆勢が衝突して「田屋川原の戦い」(山田川の戦い)が起ると、石黒氏配下で桑山城主だった坊坂四郎左衛門が一揆側に寝返り、福光城と惣海寺に火を放ったため、石黒光義は自刃して石黒軍も壊滅した。
これ以降、城跡は荒廃していたが、幕末の慶応年間(1865年 - 1868年)になって福光の豪商・前村礼蔵らが小矢部出身の漢学者である宮永菽園・宮永半仏の兄弟を招聘し、1869年(明治2年)に城跡の一角に郷学所「栖霞塾」を開設した[3]。現在は「福光城址栖霞園」として市の史跡になっている。
参考文献
- 平井聖 1980 「福光館」『日本城郭大系』第7巻(新潟・富山・石川)新人物往来社 pp.367-368
- 上田伸一 2004『ふくみつを築いた人たち(教育編)』pp.4-7
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