御峰城(おみねじょう)

御峰城の基本情報

通称・別名

土山城、土山館、土山塁、土山堡、(土山御坊)

所在地

富山県南砺市土山

旧国名

越中国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

蓮誓?、向田孫右衛門尉?

築城年

文明年間(1469〜1486)以降

主な改修者

佐々成政

主な城主

一向一揆勢、神保氏、佐々氏

廃城年

天正13年(1585)頃

遺構

曲輪、土塁、堀切、枡形虎口

指定文化財

市史跡(土山御坊跡)

再建造物

庭園(土山御坊跡)、碑、説明板

周辺の城

柚木城(石川県金沢市)[4.3km]
松根城(石川県金沢市)[4.6km]
切山城(石川県金沢市)[5.9km]
福光城(富山県南砺市)[6.1km]
安養寺城(富山県小矢部市)[6.2km]
一乗寺城(富山県小矢部市)[6.5km]
堅田城(石川県金沢市)[9.5km]
蓮沼城(富山県小矢部市)[9.7km]
野尻城(富山県南砺市)[10.0km]
寺家新屋敷館(富山県南砺市)[10.1km]

御峰城の解説文



御峰城(おみねじょう)は、富山県南砺市土山にあった日本の城。土山城(どやまじょう)ともいう。城跡としては史跡未指定だが[1]、市指定史跡「土山御坊跡」と場所が重なる[2]。とやま城郭カードNo.49[3][4]

規模 

富山県と石川県の県境にほど近い御峰山(標高261メートル)の頂上部から麓の平坦地にかけて築かれた山城。四方を谷に囲まれており、曲輪、土塁、北には大きな堀切が残り、西には「ゴモン」という地名と枡形虎口、堀切が確認されている。この辺りにはそれ以前に一向一揆の拠点「土山御坊」があった時期があり、両者の遺構は重複している。

御坊跡とされる平坦地は東西30メートル、南北25メートル程度であるが、その南には付近を治め、本願寺の支援者でもあった土豪、杉浦万兵衛の屋敷と伝わる「万兵衛屋敷」と呼ばれる場所があり、これは東西約70メートル、南北約60メートルの方形で、周囲には空堀を備えていた。また、当時の本願寺連枝系寺院特有の施設の名称である「オチン(御亭)」と呼ばれる場所もある[5]

歴史 

戦国時代

  • 文明年間初頭、加賀二俣本泉寺住持であった如乗(本願寺6世巧如の次男)の妻、勝如尼(本願寺5世綽如の3男周覚の娘)によって創建され、本願寺8世蓮如の四男である蓮誓が入った。なお、蓮如が杉浦万兵衛[6]宅に寄寓していた時に建てられたという説もある。土山御坊は越中瑞泉寺や越中善徳寺と共に越中一向一揆の最重要拠点として発展していく。
  • 土山御坊の創建時期については諸説あるが、(文明8年)11月11日付光闡坊(蓮誓)宛書状に「其方造作事」との記述があり、この「造作」こそが土山御坊の建設を指すものと見る説がある。また、勝興寺の寺伝(『勝興寺系譜』)では蓮乗が土山坊に居住していた時期を文明9年に充てており、草野顕之は文明9年こそが土山御坊の完成年であると推定している。
  • 文明13年(1481年)2月、礪波郡に勢力を誇った越中福光城主石黒光義が同族の加賀守護富樫政親の要請を受けて、医王山惣海寺と組んで瑞泉寺らと戦うが敗退(田屋川原の戦い)。これを契機に礪波郡は徐々に一向一揆衆の支配下に組み込まれていく。この時土山御坊は直接的な参戦はしていないようであるが、加賀の門徒に働きかけて背後から惣海寺、福光城を攻撃させたのではないかと考えられている。
  • 明応3年(1494年)、蓮誓によって礪波郡蟹谷荘高木場御坊(現・南砺市高窪)に移転。
  • 永正・大永年間(1504年 - 1527年)、「土山ノ古城」に向田孫右衛門尉が家臣の稗田甚助と共に拠り、向田孫右衛門尉は一向宗に帰依したという。
  • 永禄・天正年間(1558年 - 1591年)、神保氏の家臣、上田左近なる侍大将が拠って敵を防いだという。
  • 天正12年(1584年)前後、佐々成政が前田利家に対する防衛拠点の一つとして御峰城を築き、稗田善助、青木孫右衛門を入れてこれを守らせた。

富山の役

天正13年(1585年) しかし、その後の戦局の変化(豊臣秀吉との直接対決が不可避となり、佐々軍は兵力を集中させ敵を領内で迎え撃つ戦術へと移行した)に伴って放棄されたと思われる。(富山の役)

江戸時代

前田氏領となってからは再び杉浦氏が居住し、江戸時代にわたって栄えたという。

土山御坊は高木場から富山県小矢部市末友へ移転(安養寺御坊)、戦火による焼亡を経て富山県高岡市伏木古国府の地に落ち着いた(勝興寺)。前田氏の手厚い保護を受け隆盛を極め、現在に至る。

現在 

当時あったといわれる庭園が復元されている。元々は蓮如が作ったとされているが、確証は無い。本泉寺にある庭園と同時期に作られたと言われている。碑と案内板が建てられている。

参考文献 

  • 村田一也、土山御坊と杉浦万兵衛屋敷に関する考察2、石川工業高等専門学校、2017年
  • 【書籍】「 医王は語る」

御峰城の口コミ情報

2026年06月17日 曲輪加賀守削平
高木場御坊[御峰城  周辺城郭]



南砺市高窪の現在は集落や水田となっている丘陵裾部に高木場御坊跡と伝わる場所があります。

高窪地区の東側は渋江川が流れ、西側は加賀と越中の国境となります。福光、蓮沼、加賀方面につながる交通の要衝にあります。

2026GW二日目、西勝寺城の次にやって来ました。国道から旧国道に入ってすぐ路駐…。

渋江川沿いにある満行寺から高木場御坊跡に向かって旧道を歩いてみました。坂道を登って行くと御坊跡が見えて来ます。
縄張図の西側まで旧道を歩き、一旦国道に出て看板から土塁?に取り付き、さらにカンツキドまで行ってみました。
昭和50年代に区画整理が行われ、さらに平成17年には高窪バイパスが開通しておりかなり改変があると分かります。御坊に由来するという地名が残っていますがおよその位置しか分かりません。
東側、南側に高低差があり福光方面に備えた立地に見えます。背後には加賀一向一揆の存在を感じます。

滞在時間は約30分でした。
午後から雨予報だったので本日はこれにて撤退。

※資料により呼称はたかきば、たかこば、が出て来ましたがどちらが正しいかは勉強不足ゆえ不明です。

①渋江川(高砂橋)、天然の堀になっていたと思います。
②坂の途中に八幡宮があります。
③奥の田んぼの中央左側辺りがチョウズダン(谷川があったとか)、田んぼの真ん中辺りがシャナイ(お供田)かな?。
区画整理で大きな水田に変わっており大体の位置関係しか分かりません…。
④看板です。二俣本泉寺から土山御坊、高木場御坊、安養寺御坊へ勢力拡大してゆく状況が興味深い。
⑤手前の田んぼがカンツキド(鐘撞き堂)。元は奥の土塁?が手前まで続いていたそうです。
⑥③の向かい側から。2軒の家の中央手前辺りがジョジャダ(寺跡と伝わる)、写真左端辺りがシャナイ、写真手前側がチョウズダンかな?。
⑦バイパスが通っているところは区画整理前には小川が流れる谷があり天然の堀のようになっていたようです。

参考:富山県中世遺跡総合調査報告書
  :医王は語る

2026.5.3

2023年03月07日 チャッピー右兵衛督ミア
御峰城



石川県と富山県の県境で304号線から土山と言う所を目指します。山全体を見れば遺構らしき物もみれますが、本丸には水道施設、曲輪も畑や民家でよく分からない。竪堀のような所に車が捨ててあるびっくり。あまりお勧めしません。

2022年08月10日 後藤右兵衛督康家
御峰城



夏草が茂ってたどり着くのに一苦労。戦国期の見事な堀切。

御峰城の周辺スポット情報

 高木場御坊(周辺城郭)

 潜木戸城(周辺城郭)

 土山御坊跡(寺社・史跡)

 トイレ(トイレ)

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