一乗寺城(いちじょうじじょう)
一乗寺城の基本情報
通称・別名
- 一乗寺堡、一条寺城、一乗之城、蟹田一乗城、横根城
所在地
- 富山県小矢部市八伏/石川県河北郡津幡町
旧国名
- 越中国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 丹羽吉左衛門
築城年
- 正平年間(1346〜1370)
主な改修者
- 杉山小助
主な城主
- 桃井氏、杉山氏、村井氏(前田氏家臣)
廃城年
- 天正12年(1584)以降
遺構
- 曲輪、土塁、堀切、切岸、枡形虎口
指定文化財
- 市史跡(一乗寺城跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
安養寺城(富山県小矢部市)[2.8km]
松根城(石川県金沢市)[3.0km]
蓮沼城(富山県小矢部市)[5.2km]
道坪野城(富山県小矢部市)[5.9km]
御峰城(富山県南砺市)[6.5km]
切山城(石川県金沢市)[6.7km]
今石動城(富山県小矢部市)[7.0km]
津幡城(石川県河北郡)[7.4km]
柚木城(石川県金沢市)[8.6km]
堅田城(石川県金沢市)[9.1km]
一乗寺城の解説文
[引用元:Wikipedia「一乗寺城」の項目]
一乗寺城(いちじょうじじょう)は、富山県小矢部市八講田にあった日本の城(山城)。小矢部市指定史跡[1]。とやま城郭カードNo.45[2][3]。
特徴
越中国と加賀国との国境にある標高276メートルの升形山(枡山)の山頂に在った陣城。城域を加賀国河北郡から越中国礪波郡五郎丸へと抜ける「田近越」(北国街道の脇街道。また小矢部市末友にあった一向一揆勢の拠点、安養寺御坊に通ずるため「安養寺越え」とも呼ばれた)が貫通する構造となっており、街道の押さえとして使われていたようである。ちなみにこの「田近越」を加賀方面へ進むと、加賀国朝日山城がある。また至近には同様に国境越えの「小原越」を押さえる加賀国松根城が在り、主にその支城としての役割を担うことが多かった。規模は東西25間(約45メートル)、南北38間(約69メートル)と伝えられ、天正期の改修後には連続した枡形虎口を備えた織豊系城郭となっている。現在は本丸、土塁、堀切が残っている。
歴史
名前の由来は不明。南北朝時代の正平年間(1346年-1370年)、南朝方の有力者だった越中国守護桃井直常が居城とした庄ノ城の支城として重臣丹羽吉左衛門により築かれ、直常の子である松根城主桃井直和の管理下に置かれた。
康安2年(1362年)1月23日、征夷大将軍足利義詮が能登国の地頭、御家人らに桃井直常追討を下知、能登国の守護であった北朝方の吉見氏(吉見氏頼)と交戦状態となり、結果桃井勢は越中を離れ、全国を転戦することとなる。
応安元年(1368年)8月には対桃井強硬派の斯波義将が越中国守護に任じられる。ほぼ同時に桃井親子も越中へ戻っており、早速桃井氏討伐に着手する。
応安2年(1369年)6月、桃井直和が加賀国守護富樫昌家の居城である富樫城を攻めるも吉見氏の援軍により撤退、一乗寺城に篭る。
同年9月17日、吉見頼顕の軍勢によって一乗寺城は落城、直和は越中国千代ヶ様城へ退却した。ちなみに直和はこの翌年、義将の軍勢と交戦し敗死している。
天正12年(1584年)、佐々成政が前田利家に対する備えとして家臣杉山小助を配置して越中国源氏ヶ峰城、加賀国松根城、加賀国荒山城(石川県金沢市荒山にあった山城で、石川県鹿島郡中能登町原山にあった荒山城とは別個)らと共に大改修を施す。
同年7月、成政は一乗寺城から「田近越」を通って加賀国朝日山城へと攻め込むも撃退され、9月の末森城合戦の後には逆に朝日山城に拠っていた利家の重臣、村井長頼に攻められ落城した。
長頼は後に、同じく攻略した加賀国松根城を本城とし一乗寺城を支城として管理したが、前田家が加賀国と越中国を治めてしまっているために軍事的価値が無く、さほど時を置かずして廃城となったと思われる。
現在
案内板が設置されるなどしている。1977年(昭和52年)9月12日に小矢部市の指定史跡となった[4]。
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一乗寺城の口コミ情報
2025年07月18日 内記かずりヾ(・ε・。)
倶利伽羅古戦場[一乗寺城 寺社・史跡]
⭐︎⭐︎「義仲・巴の〜伝承、伝説地探訪!」⭐︎⭐︎
帰って来たかずりの自己満足口コミシリーズ、おいらの推し武将である木曽義仲関連の伝承、伝説地を丁寧に御紹介〜ちなみに全国約600箇所に及ぶので終わるまで付き合ってもらいやす…
倶利伽羅古戦場は一乗寺城の北北東約3.0km、現在の石川県と富山県の県境に跨る、両白山地から北方へと続く低山地帯を構成する一山、標高263mの砺波山山頂から北西へ伸びる尾根上段上、標高約251m地点の平場を中心に繰り広げられた「倶利伽羅峠の戦い」の場です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。該地まで車が入り駐車場も付いている。ちなみに倶利伽羅峠自体は此処から西方へ約0.2kmの位置にあり、古戦場の中心地は平維盛勢が本陣を置いた猿ヶ馬場と呼ばれる場所である。
興奮するでしょ〜義仲様はこの山中の平場で平氏勢をぼこぼこにしたんすよ。おいらは色んな事を妄想して楽しくてしょうがなかったさ〜義仲様は勿論、巴、今井、根井、樋口、余田(依田)等が暴れまくった戦いの様相は以下のとおり…
寿永二年(西暦1183年)五月十一日、越前国の燧(ひうち)城を打ち破った平氏勢は加賀国から越中国の砺波山に進み張陣、人数に勝る同勢を倶利伽羅峠の隘路にて急襲する事に意を決した義仲勢と対峙する。昼は小競り合いに終始させて平氏勢の油断を誘った義仲勢は、夜に入ると樋口兼光が引率する人数を寝静まった平氏勢の背後に潜ませ、チート技、「火牛の計」を用いて夜襲を敢行!即ち、四百〜五百頭の牛の角に松明を結び付けて突進させ、退路を失い大混乱に陥った同勢を谷底へ突き落として大勝利!そう、義仲様は圧倒的に強ぇんすわ。生きてる牛の角に燃えてる松明を結び付けてしまう脳筋らしい発想も萌えポイントの一つ、ANIMAL LIBERATIONの観点からは絶対に出来ない事を平然とやってのけ、戦の中の礼節を忘れて勝つためなら何でもする真に強ぇえ漢なんすわ。
…え、ちょと眉唾な話だなって?
おいおい…ヾ(・ε・。)
…奴等に聞かれてしまうぞ…下手な事は口にするもんじゃない。義仲様の狂信的ファンを中心に結成された闇の実行部隊、「旭」の再教育プログラム、「火牛の刑」を強制的に受講させられてしまう…夜道を歩く時には十分注意しとくがいいさ。
実はおいら、今回の訪問で行方不明になっていた城友さんを発見する事が出来たんすわ…彼、日頃から義仲様を嘲笑うかのような発言が目立っていたんだけど、ある日を境に突如として姿を消したんす…着ている衣服はぼろぼろ、頭髪は焼け焦げ、身体は傷だらけ、何事かを唱えながら宙空を見据えて一心不乱に古戦場の草むしりをしている…おいらが声を掛けても全く反応が無い…
…しつこく肩を揺さぶって正気に戻そうとしていたら、「お仲間ですか…?」と突然背後から声を掛けられる…見れば、御嶽山Tシャツを着て木曽駒に跨ったMEN IN BLACK数名に取り囲まれちょる…咄嗟に、「いいえ、違いますけど…」と返すと、「それなら彼には関わらない方がよい。」との静かな忠告を受ける…もう、おいらには城友さんを見捨ててその場を立ち去る事しか出来なかった…たぶん、木曽駒に跨った彼等は「旭」の構成員なのだろう。この城友さんと同様の運命を辿りたくなければ兎に角、信じる事だ。
…木曽義仲は信濃から北陸道に跨る地域に勢力を伸長させていったが、在地勢力との関わり合いには細心の注意を払っており、義仲勢が越中入りした際に射水川を渡らず、対岸の越中国衙に着到を報せたのもこうした慎重な姿勢の現れだと考察されている。越中国は元々が平氏に対して反抗的な、摂津源氏や徳大寺家の影響力が大きい国であり、越中国衙の在庁官人等は義仲に協力的な立場を取りながらも従う事は無く、従来の国衙の機能を保持し続けていた事が指摘されている。事実、「倶利伽羅峠の戦い」における義仲勢の大半を占めていたのは信濃武士であり、越中の在地勢力は僅かな参陣に留まっている。一般的に後の都での失敗を理由に政治力に欠けていたとされる義仲だが、少なくとも入京以前の同名にはそのような気配が無い。
※「火牛の計」〜中国の戦国時代における斉の田単の故事に託けたものとされる。「源平盛衰記」にしか見られない記述だが、人数に劣る義仲勢が夜討ちに及んだ事は間違いが無いようだ。
※闇の実行部隊、「旭」〜最近、城友さん達の一部はかずりを構成員の一人として疑っている。そんな事ある訳が無いが…おいらの前で義仲様への否定的発言は厳に慎んだ方がよいだろう…
※写真⑧は平氏勢が追い落とされた地獄谷の方向を撮影した物、何処だか判らん…
2025年07月15日 内記かずりヾ(・ε・。)
倶利伽羅城[一乗寺城 周辺城郭]
倶利伽羅城は一乗寺城の北北東約2.9km、現在の石川県と富山県の県境に跨る、両白山地から北方へと続く低山地帯を構成する一山、標高276.5mの国見山山頂部を中心に立地する砦の類いです。北麓の石川県道、富山県道286号、苅安安楽寺線からの比高は160m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は同じく位置登録がある、南側の「倶利伽羅公園」の駐車場に捨てられる。ちなみに該地の国見山は、高野山真言宗の別格本山、倶利伽羅山不動寺の山頂本殿の境内に隣接している。
築城年代、築城者は不明です。てか、おいらは限り無く色物物件に近いと思っている。不勉強で申し訳無いけど、国見山の山頂部を城跡とする根拠は果たしてあるのかな。加賀の城館に踏み込むつもりは無いので御教授をお願いしたいところ…
立地としては倶利伽羅峠を直下に控える。国見山は、広義の砺波山を構成する山稜群の中では最も標高が高く、名称にもあるとおり展望は開けており、狼煙台や物見台としての適地である。倶利伽羅城が存在したと仮定するならば、番所的機能を併せ持つ物見台といったところであろうか。
難しいお城だ。国見山の山頂には河北郡津幡町の指定文化財、「倶利伽羅権現石殿」が鎮座し、南東隅には機能不全に陥った防火水槽が設置されている。城域も不明だが、広く見れば不動寺の和光塔を含んでもよいと思う。
腰郭様の地形も見られるが、後世の改変と見るべきであろうか。該地を中世の城跡とする確たる根拠は全く見出せない。但し、このお山に人数を入れれば、何らかの砦として成立してしまうのも事実、肯定も否定も出来ないてのが正直なところなんだろう。
倶利伽羅峠縦走ハイクの途中で国見山が城跡だと知り訪ねてみた。当日、お城のリア攻めは予定に含まれていなかったんだけど、最終的には3城を探索…やっぱし我慢が出来なかったなぁ…
現在は源平ラインて呼ばれる舗装道路によって誰でも簡単に峠を越える事が出来るが、新道自体は本来の山尾根を切り崩して造成されている。結果として現代に至るまでに重複区間をそれぞれに介しながら3筋の道筋が存在する北陸道だが、個人的に歩きたかったのが古代北陸道の道筋だ。
知らないてのは恐ろしいもので、古代の北陸道はそもそも論で極一部しか残っておらず、残された部分も道形が不明瞭、藪漕ぎが必須となっていた。同道の道筋は秒で諦めるのに十分な光景だったが、現在の富山県側では、山麓の長坂口から概ねで最短距離となる直線で高度を上げ、細尾根に近い山尾根上を倶利伽羅峠まで緩やかに登るものだったように思う。源平の戦いが繰り広げられた倶利伽羅峠の隘路とは、そうした中の正に山中の一点であった筈だ。
※舗装道路に惑わされてしまうけど、周囲の見通しが効かない夏場の縦走ハイクは結構怖いよ。おいらは行程の途中、富山県側の源氏ヶ峰城登城口付近で重量感のあるガサゴソ音を聞いた。シカ類だったら果てしなく逃げて行ってしまうところだけど、明らかに藪の中に身を潜めたそれは熊さんだった可能性が十分にある。おいら、後ろ向きでその場を静かに離れたんだけど、鉄製の階段で滑ってコケてしまい逆に騒がしかった…
※高野山真言宗の別格本山、倶利伽羅山不動寺〜参拝客が絶えない北陸の名刹だ。口コミすると果てしないので、同じ一乗寺城のリア攻めマップにスポット登録し写真だけ置いておく。
写真①が文中にある和光塔、ご覧のとおり歴史的な価値は殆ど無い。
※写真②が文中にある「倶利伽羅権現石殿」となる。加賀藩五代藩主、前田綱紀によって延寶五年(西暦1677年)に四社が建立された。ちなみにこちら側は背面っす。
※写真④は南側の倶利伽羅公園駐車場から撮影した近景っす。階段を登れば辿り着く。
2025年07月11日 内記かずりヾ(・ε・。)
龍ヶ峰城[一乗寺城 周辺城郭]
さて、おいらはつい先日、以前から計画していた縦走ハイクを実行に移したよ。その計画とは、おいらの推し武将である木曽義仲様を顕彰、追慕するために、石川県河北郡津幡町から「倶利伽羅峠の戦い」の古戦場までを徒歩で登り、併せて関連史跡を廻りながら北陸道(北国街道)の古道を選んで富山県小矢部市へと抜けるもの。たぶん色々と寄り道しながらなんで総移動距離は13km位にはなってる筈だ。
…総括すればこの計画は完全に失敗…おいらは北陸道の古道を歩きたかったんだけど、新道との重複区間を除けば一部区間しか整備されておらず少々残念な結果に…行程の殆どは車両通行可能な舗装道路である源平ラインに頼っている。はっきり言って車で新道を登って要所を歩き廻った方が遥かに賢明だ。
龍ヶ峰城は一乗寺城の北北西約2.8km、現在の石川県と富山県の県境に跨る、両白山地から北方へと続く低山地帯を構成する一山、標高194.3mの城ヶ峰山頂部を中心に立地する要害です。北西麓のIRいしかわ鉄道線、あいの風とやま鉄道線の倶利伽羅駅からの比高は160m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。山城とはいえ「龍ヶ峰城跡公園」として開発されており、主郭の直下まで車が入り駐車場も付いている。
築城年代、築城者は不明です。平安時代の末期、該地の津幡は加賀国井家庄の内であった。寿永二年(西暦1184年)四月、井上(井家)、津鰭(津幡)等、越前国、加賀国の在地土豪を中心とする北国武士団は、平氏に叛いて越前国の燧(ひうち)城に入り籠城するが、平維盛勢によって打ち破られ、越中国まで退いて木曽義仲の下に参じたとの記述が「源平盛衰記」にはある。この時代に龍ヶ峰城が存在していたのかは知る由も無いが、交通の要衝、必争の地であるが故に、その発生を同時代に求める事も十分に可能であろう。その後も近世に至るまで、時の支配層の移り変わりを経ながらも要害として維持され続けてきたものと推測する。
お城は現地説明板に添付された縄張図を見ると5郭で構成されている。堀系の遺構は一切認められないが、急峻な要害地形の山頂部上を活用した堅固な造作であり、東辺から南辺に沿って西方へ抜ける北陸道を扼す要害としての規模が適当、その存在価値は極めて高いものとなっている。当日の訪問予定には含まれていなかったが個人的には十分楽しめた。
先人様の写真等を見るとしっかりと整備された公園城となっているが、先般発災した能登半島地震の影響なのか、城山の数箇所において斜面崩落の痕が見受けられ、登城路の一部分にあっても崩落によって道幅が狭められている等の被害が確認出来る。推測するにこれ以降の整備は現在放棄されているものと思われ、何のアナウンスも無いが主郭には虎ロープが張られており進入禁止の処置が取られているようだ。城址公園としての再整備は崩落箇所復旧後の話となるので、早期の再整備は現在のところ望めない状況にある。
※おいら、山登りは大嫌いだけど山地の古道を歩くのは大好きていう結構面倒な奴だ。
※北陸道に沿って設けられた駐車場とその西側の空地は、加賀藩が置いた道番人の屋敷跡である。口コミはしないので、同じ一乗寺城のリア攻めマップに史跡としてスポット登録し写真だけ置いておく。
※龍ヶ峰城の南西約0.3kmの位置には、加賀藩が北陸道上の要衝とした「一騎討跡」と呼ばれる場所がある。現在の道幅は拡げられたものらしいが、右手を谷地とし左手を山側の崖地とする一騎駆けの難所だったんだそう。口コミはしないので、同じ一乗寺城のリア攻めマップに史跡としてスポット登録し写真だけ置いておく。
※縦走ハイク〜結局、丸一日を費やした。当日は晴天、最高気温は33℃、平均湿度は実測で80%位、消費した水分は現地調達を含めて7.5ℓに及ぶ。この間、ホテルに帰るまでトイレに行く事が無かったのだから不必要な水分摂取ではなかった事になる。身体が欲する分は必ず摂取しよう。ちなみに水分はスポドリ等で摂るのが一番良いと思う。水中毒も防げるしね。
※燧城〜アプリの登録城である。ちなみに木曽義仲が籠城した事実は無い。籠城衆が義仲の下に参じたのはあくまでも戦いの後の事である。
※写真⑧は東麓から撮影した近景っす。舗装された道は北陸道である。
2023年03月03日 チャッピー大宰大弐ミア
一乗寺城
石川県と富山県の県境で田近越えと言う歴史街道を進めば有るのですが現在雪で竹が倒れ通れません。看板の所から20分くらい歩けば到着します。結構な土木作業で見応えあります。雪が降ってきましたので退散します。
2021年04月21日 内灘守
一乗寺城
加越国境にあり、街道沿いに造られた、云わば砦と言った方が良い山城。最近、整備されとてもキレイに、歩き易くなった。見晴らし最高、みぎてに、小矢部が一望、左に津幡が、近場に、松根城があり、抱き合わせ山城攻めも、また乙な楽しみなのでは。
2020年08月02日 雪那
源氏ヶ峰城[一乗寺城 周辺城郭]
源平倶利伽羅合戦で平家軍が陣取ったとされる「源氏ヶ峰」一帯の史跡三ヶ所に地元の方が標柱を設置されました。その一つに佐々成政が越中、加賀国境を守るために築いた山城の主郭があった「源氏ヶ峰城跡」にも標柱が立てられました。
その為に地元の方が整備され、下草は刈られていましたが、荒々しいというか、草を狩っただけな印象でした。
縄張図をちゃんと見ながらでないと、先の道があるのか無いのか等、難しかったです。
城全体縦長で広く起伏もあります。前に進み登った先の櫓台に石碑が立っています。
少し戻り、横にもずっと進めます。主郭に標柱が見えてきます。今度は降りていくようになりますが、奥の方の階段は一段と狭く段が甘く滑りました。ズボンも肘も泥がつき、スマホも飛び、、メゲて戻りました。。
案外広範囲なので、入り口に縄張図が貼ってあるのを写メ撮っていくと良いと思います。
山が好きな方はワクワクしそうです。
城跡までの道はグーグルマップですんなり行きました。
2020年05月16日 越中守松宙右衛門
一乗寺城
先人様の補足をします。
214号線から行かれた場合、山道を走ると一乗寺城と手書きっぽい看板が出てきますが、それではなくもう少し走ると写真②の交差点に出ます。
そこで、看板通り214号線からだど左側、359号線側だと右側に曲がりしばらく行くと写真①の場所着きます。
写真①に車を停められます。
一乗寺城は加越国境三主要城郭の一つです。現存する遺構は、佐々成政が改修したものと考えられます。
遺構もしっかり残っており道も整備されてお勧めです。
松根城とセットでリアをお勧めします。
一乗寺城から松根城まで車で15分程度で着きます。
山城をリアして居る方々には、道は普通に大丈夫だと思います。
2019年01月14日 雪那
一乗寺城
グーグルマップナビで向かうと、入っては行けない養鶏場に行ってしまいます。先人様の通り214号線から入って下さい。
それからは看板が誘導してくれますが、古い感じの矢印の付いた看板よりまだ先です。
地元町内会の方々が、標柱と案内看板を設置され、砂利を敷き雑草を刈って歩きやすくなっています。路面に水がたまらないよう水を流す溝も設けられました。
2014年02月03日 藤乃左近衛少将龍神
一乗寺城
小矢部市方面から214号線へ。道幅は軽四1台分の難所。携帯電波弱いです(>_<)
八伏の看板過ぎれば四角に出ます。そこを左折し山道登れば左手に石碑あります。
四角が大事です。
小矢部市からは『一乗寺城跡』『松根城まで3・㎞』の小さい看板も見落としそうです。
リア攻め+新規攻略では県内西部最難関のお城です(((^_^;)
2012年06月10日 北川幸人
一乗寺城
県道214号の県境の石川県よりの交差点に小さな案内板があり、約1㎞進んだ左手に石碑がある。その傍の未舗装の道を50m進むと解説板がある。地図の旗印は間違いで圏外になる。