龍ヶ峰城
龍ヶ峰城([一乗寺城 周辺城郭])
一乗寺城 に投稿された周辺スポット(カテゴリー:周辺城郭)、「龍ヶ峰城」の地図・口コミがご覧頂けます。
※「ニッポン城めぐり」アプリでは、スタンプラリースポットとなっている3,000城それぞれの地図に、周辺城郭や史跡など、様々な関連スポットを自由に追加できます。
龍ヶ峰城の口コミ情報
2025年07月11日 内記かずりヾ(・ε・。)
さて、おいらはつい先日、以前から計画していた縦走ハイクを実行に移したよ。その計画とは、おいらの推し武将である木曽義仲様を顕彰、追慕するために、石川県河北郡津幡町から「倶利伽羅峠の戦い」の古戦場までを徒歩で登り、併せて関連史跡を廻りながら北陸道(北国街道)の古道を選んで富山県小矢部市へと抜けるもの。たぶん色々と寄り道しながらなんで総移動距離は13km位にはなってる筈だ。
…総括すればこの計画は完全に失敗…おいらは北陸道の古道を歩きたかったんだけど、新道との重複区間を除けば一部区間しか整備されておらず少々残念な結果に…行程の殆どは車両通行可能な舗装道路である源平ラインに頼っている。はっきり言って車で新道を登って要所を歩き廻った方が遥かに賢明だ。
龍ヶ峰城は一乗寺城の北北西約2.8km、現在の石川県と富山県の県境に跨る、両白山地から北方へと続く低山地帯を構成する一山、標高194.3mの城ヶ峰山頂部を中心に立地する要害です。北西麓のIRいしかわ鉄道線、あいの風とやま鉄道線の倶利伽羅駅からの比高は160m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。山城とはいえ「龍ヶ峰城跡公園」として開発されており、主郭の直下まで車が入り駐車場も付いている。
築城年代、築城者は不明です。平安時代の末期、該地の津幡は加賀国井家庄の内であった。寿永二年(西暦1184年)四月、井上(井家)、津鰭(津幡)等、越前国、加賀国の在地土豪を中心とする北国武士団は、平氏に叛いて越前国の燧(ひうち)城に入り籠城するが、平維盛勢によって打ち破られ、越中国まで退いて木曽義仲の下に参じたとの記述が「源平盛衰記」にはある。この時代に龍ヶ峰城が存在していたのかは知る由も無いが、交通の要衝、必争の地であるが故に、その発生を同時代に求める事も十分に可能であろう。その後も近世に至るまで、時の支配層の移り変わりを経ながらも要害として維持され続けてきたものと推測する。
お城は現地説明板に添付された縄張図を見ると5郭で構成されている。堀系の遺構は一切認められないが、急峻な要害地形の山頂部上を活用した堅固な造作であり、東辺から南辺に沿って西方へ抜ける北陸道を扼す要害としての規模が適当、その存在価値は極めて高いものとなっている。当日の訪問予定には含まれていなかったが個人的には十分楽しめた。
先人様の写真等を見るとしっかりと整備された公園城となっているが、先般発災した能登半島地震の影響なのか、城山の数箇所において斜面崩落の痕が見受けられ、登城路の一部分にあっても崩落によって道幅が狭められている等の被害が確認出来る。推測するにこれ以降の整備は現在放棄されているものと思われ、何のアナウンスも無いが主郭には虎ロープが張られており進入禁止の処置が取られているようだ。城址公園としての再整備は崩落箇所復旧後の話となるので、早期の再整備は現在のところ望めない状況にある。
※おいら、山登りは大嫌いだけど山地の古道を歩くのは大好きていう結構面倒な奴だ。
※北陸道に沿って設けられた駐車場とその西側の空地は、加賀藩が置いた道番人の屋敷跡である。口コミはしないので、同じ一乗寺城のリア攻めマップに史跡としてスポット登録し写真だけ置いておく。
※龍ヶ峰城の南西約0.3kmの位置には、加賀藩が北陸道上の要衝とした「一騎討跡」と呼ばれる場所がある。現在の道幅は拡げられたものらしいが、右手を谷地とし左手を山側の崖地とする一騎駆けの難所だったんだそう。口コミはしないので、同じ一乗寺城のリア攻めマップに史跡としてスポット登録し写真だけ置いておく。
※縦走ハイク〜結局、丸一日を費やした。当日は晴天、最高気温は33℃、平均湿度は実測で80%位、消費した水分は現地調達を含めて7.5ℓに及ぶ。この間、ホテルに帰るまでトイレに行く事が無かったのだから不必要な水分摂取ではなかった事になる。身体が欲する分は必ず摂取しよう。ちなみに水分はスポドリ等で摂るのが一番良いと思う。水中毒も防げるしね。
※燧城〜アプリの登録城である。ちなみに木曽義仲が籠城した事実は無い。籠城衆が義仲の下に参じたのはあくまでも戦いの後の事である。
※写真⑧は東麓から撮影した近景っす。舗装された道は北陸道である。