城端城(じょうはなじょう)
城端城の基本情報
通称・別名
- 城ヶ鼻城、荒木館、荒木城
所在地
- 富山県南砺市城端(推定地)
旧国名
- 越中国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 荒木氏
築城年
- 戦国時代
主な改修者
- -
主な城主
- 荒木大膳、斎藤九右衛門、河内才右衛門(佐々氏家臣)
廃城年
- 天正13年(1585)以降?
遺構
- 移築大手門(万福寺)?、移築太鼓堂(善徳寺)?
指定文化財
- 県文化財(大手門)
再建造物
- -
周辺の城
-
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城端城の解説文
[引用元:Wikipedia「城端城」の項目]
城端城(じょうはなじょう)は、富山県南砺市にあった日本の城。荒木館、城ヶ鼻城とも呼ばれる。
規模
正確な跡地は未だ特定されていない。長年、現在真宗大谷派 廓龍山 城端別院善徳寺[1](南砺市城端西上、県指定文化財)が建つ場所に築かれていたと云われてきたが、善徳寺の周囲では城端城時代のものと断定できる遺物の類は発見されておらず[2]、『越登賀三州志』には城端の町の入り口に出丸が在って町の南に城があったと記されており、『三州測量図籍』には善徳寺の南東にあたる場所(やはり町の南側)に城が在ったと図示されている。また善徳寺が建った後も城主が存在していたと思われることから善徳寺と城端城が並存していた時期が在ると考えられ、城端城の城域をそのまま善徳寺が継承して建てられたとは考えにくいと思われる。
歴史
築城年代は不明。この辺りを治めていた土豪、荒木氏が拠っていた。荒木氏については史料に乏しく詳述するのは難しいが、永禄2年(1559年)か元亀3年(1572年)に城端城城主だった荒木大膳が現在の富山県南砺市山本にあった善徳寺に城の敷地、城門を寄進し、善徳寺を招致した(『寺伝』)。善徳寺は瑞泉寺や勝興寺と共に越中一向一揆の中心として活躍した寺であり、大膳は一向一揆勢力に属していたと思われる[3]。 のち斎藤九右衛門なる者が拠り、佐々成政が越中国を平定した後は家臣の河内才右衛門を入れたと云う。廃城年代は成政が豊臣秀吉に降った天正13年(1585年)以降か。
遺構
- 大手門 : 善徳寺の大門として使用された後、富山県砺波市苗加に在る万福寺の薬医門として移築されている(県指定文化財)。
- 太鼓堂 : 善徳寺の太鼓堂は城端城の遺構であるとする言い伝えが在る。
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