天城陣屋(あまぎじんや)

天城陣屋の基本情報

通称・別名

お茶屋

所在地

岡山県倉敷市藤戸町天城1908

旧国名

備前国

分類・構造

陣屋

天守構造

なし

築城主

池田由成

築城年

寛永16年(1639)

主な改修者

主な城主

池田氏

廃城年

遺構

移築門(静光寺)

指定文化財

再建造物

石碑

周辺の城

早島陣屋(岡山県都窪郡)[4.6km]
黒山城(岡山県倉敷市)[5.7km]
常山城(岡山県玉野市)[8.1km]
撫川城(岡山県岡山市)[9.3km]
庭瀬城(岡山県岡山市)[9.4km]
福山城(岡山県総社市)[10.3km]
賀陽氏館(岡山県岡山市)[11.4km]
亀山城(岡山県総社市)[12.7km]
富山城(岡山県岡山市)[13.8km]
下津井城(岡山県倉敷市)[13.9km]

天城陣屋の解説文

児島が島嶼だった頃、当地は広田島(標高34m)と呼ばれる島であった。広田島は小規模の漁業集落が古くからあり、それが次第に発達していった。藤戸と天城(広田島)の間は、前述の通り海峡で、これが倉敷川の前身となった。

『藤戸町誌』には、広田島の西部の桜山に清海大膳なる者が元久年間(1204〜1205)に城を築城しており、嘉吉2年(1442年)には尼子氏家臣の天野六左右衛門が居城し、天城と称したとある。鎌倉時代より内海航路の要衝を押さえる水城のようなものが当地にあり、天野氏の居城が地名の由来としている。

江戸時代になると、当地は岡山藩の領分となる。児島郡下津井にある岡山藩の所有する下津井城にいた岡山藩家老・池田出羽守由成は、一国一条令の影響による下津井城廃城に伴い、天城に陣屋を構え(天城陣屋)て移り、さらに領地を領有(3万2千石)し天城知行所を開いた。天城陣屋は広田山の西北端に設け、通称「お茶屋」とも呼ばれた。267畳半の建物が一群をなした構えで、これを基準に家老屋敷、侍屋敷を定め、山下を流れる川の対岸には寺院を配した屋敷町があった。また桜山の南麓には従来からあった農家が片原町を形成、片原町と侍屋敷(武家町)との間に商人町と職人町を置き、各地から商人・職人が呼び寄せられた。このようにして天城陣屋町が形成され、その規模は城下町に匹敵するほどであった。陣屋町から郊外へ出ると、周囲は海域で、干潮時には干潟や葦原、湿地帯などが広がる状況で、新開地にある陣屋町というべき景観であった。

『吉備温故』には、享保7年の改帳により、侍屋敷を除いて田畑25町2反、家115軒、男女733人を挙げている。

正保4年には天城側から汐川(倉敷川)に突堤を築き、中洲をまたいで大橋と小橋を架け、藤戸と天城が連絡され、両地域の間を船で渡る必要がなくなった。現在は、大橋(盛綱橋)のっみとなっている。

寛永年間から北部は干拓されてゆき、寛永年間から延宝年間に開墾された川子岩(こうごいわ)新田、柳田新田、楳之浦新田、外新田などの新田が生まれ、本土と陸続きとなる。なお、六間川に沿う長浜新田や倉敷川に沿う片原新田などは明治になってからの開発である。

当地には藤戸合戦に所縁のある藤戸海峡関連の遺跡である笹無山や経ヶ島があり、経ヶ島には佐々木盛綱建立と伝わる鎌倉時代の宝塔が残る。また、天城陣屋の正門が地区内の静光寺に移築され現存する。

近年は、地方県道倉敷玉野線を天城街道と呼ばれ、県道沿いに商店(特にロードサイド型店舗)が多く立地し、天城銀座と通称も生まれた。倉敷・岡山のベッドタウンとして宅地化が進展。丘陵部一帯は宅地造成が著しく、新たに天城台1〜4丁目の大字が新設された。

本解説文(基本情報を除く)は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「天城」を素材として二次利用しています。

天城陣屋の口コミ情報

2024年10月14日 やまてつ伊予守
天城陣屋



岡山の宇喜多氏関連の城巡りを兼ねてリア攻め。グランド裏に石碑がありました。

2024年09月28日 RED副将軍
天城陣屋



岡山藩六家老のひとり天城池田氏の拠点🏯

オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎

1639年に池田由成により築城。
天城池田氏は、播磨姫路藩主の池田輝政の甥にあたり、池田元助の嫡男である池田由之が初代とされ、岡山藩池田氏の六家老のひとりに数えられました。
1615年の一国一城令により城代を務めた下津井城が廃城となり、池田由之の嫡男である池田由成が新たに構えたのが天城陣屋とされ、幕府に配慮し通称「お茶屋」と呼ばれました。
以後、天城池田氏が代々領有し、十一代当主の池田政和まで続いて明治を迎えました。

因みに、池田由成の娘の子が忠臣蔵で有名な大石内蔵助です。赤穂事件が起こった際には縁者であることから四代当主であった池田由勝は減封されています。

見所
広田山の西北端に築かれていましたが、現在は倉敷天城高校のサブグラウンドとなっています。
小高い丘陵上にあり、グラウンド入口に天城陣屋跡の標柱と御茶屋跡の石碑が建っています。

2024年09月22日 小太郎左衛門督南畿道19國守
天城陣屋



駐車場はなく、近くの路上に寸止めして訪問。目立つ遺構はなく、坂の上方に陣屋お茶屋跡の石碑がありますが、道路からは見えず、少し接近して確認です。本年9月21日訪問。

2023年02月13日 あしこし刑部大輔よし
経ヶ島[天城陣屋  碑・説明板]



もとは藤戸寺が管理していた海中の島だった。佐々木盛綱に浅瀬を教えた「浦の男」の供養に建てられ、盛綱が藤戸寺で大法要を営んだ際、書写した経文をこの小島に埋めたことからその名がついた。

2023年02月13日 あしこし刑部大輔よし
浮洲岩[天城陣屋  碑・説明板]



浮洲岩は潮の干満にかかわりなく常に海面に浮き出て見えたのでこの名がある。京都の醍醐寺三宝院の主人石である藤戸石はこの浮洲岩であると言われている。藤戸石は歴史的な経緯から「天下人が所有する石」とも呼ばれる。

2022年05月26日 つか征夷大将軍
下津井城の移築門[天城陣屋  遺構・復元物]



下津井城の城門が移築されて正福寺の山門として使われています。下津井城が廃城になり天城陣屋に移った時にでも移築されたんでしょうか。下津井城の貴重な遺構ですね。

2020年12月10日 ドクターイエロー大蔵大輔
天城陣屋



岡山県立倉敷天城高等学校の東側の坂道の上、お茶屋グラウンド付近です。陣屋のお茶屋跡ですが遺構は全く残っていません。学校西側の静光寺には陣屋門が移築されています。駐車場はなく、付近の道路に寸止めさせていただいて坂を登ります。R2.12.10訪城

2018年11月25日 織田上総介晃司
天城陣屋

天城陣屋は現在倉敷天城高校の野球部グラウンド。
天城陣屋総門が同じ天城地区の静光寺に移築されてます。

歩いてすぐの正福寺には下津井城の城門が移築されてます。

徒歩約2〜3分でリア攻め2ヶ所完了!(笑)

2010年10月09日 備中守とめ吉
天城陣屋

倉敷天城高校沿いをぐるっと回って陣屋と反対側の山に池田家墓所があります。歩いてすぐなので、セットで参ってみるのもいいかも。御墓だけですが10程あります。

天城陣屋の周辺スポット情報

 移築門(遺構・復元物)

 下津井城の移築門(遺構・復元物)

 石碑(碑・説明板)

 池田氏墓所(碑・説明板)

 浮洲岩(碑・説明板)

 佐々木盛綱像(碑・説明板)

 経ヶ島(碑・説明板)

 石造五重層塔(碑・説明板)

 廣田神社(寺社・史跡)

 静光寺(寺社・史跡)

 正福寺(寺社・史跡)

 正覚寺(寺社・史跡)

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