賀陽氏館(かやしやかた)
賀陽氏館の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 岡山県岡山市北区川入
旧国名
- 備前国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 鎌倉時代?
主な改修者
- -
主な城主
- 賀陽氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀跡
指定文化財
- 県史跡(伝賀陽氏館跡)
再建造物
- -
周辺の城
-
撫川城(岡山県岡山市)[2.3km]
庭瀬城(岡山県岡山市)[2.3km]
辛川城(岡山県岡山市)[2.8km]
備中高松城(岡山県岡山市)[3.9km]
富山城(岡山県岡山市)[4.0km]
亀山城(岡山県総社市)[5.6km]
早島陣屋(岡山県都窪郡)[6.7km]
冠山城(岡山県岡山市)[7.2km]
福山城(岡山県総社市)[8.0km]
岡山城(岡山県岡山市)[8.3km]
賀陽氏館の解説文
賀陽氏館の口コミ情報
2024年01月06日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
楯築遺跡[賀陽氏館 寺社・史跡]
岡山県の倉敷市の矢部にある【楯築遺跡】♪今日は城郭ではありません♪
弥生時代後期(2世紀後半~3世紀前半)に造営された首長の墳丘墓となります♪
この場所からは、多くの土器片が出土しています♪木棺も出てきているのですが、棺からは身分の高い人物が用いる『朱』が検出されています♪但し、遺骨は出て来ていない様ですが、歯の欠片が2個出土しています♪
副葬品が外箱の中に置かれていて、鉄剣1本、首飾り2個、多数のガラス玉と小管玉が一括り出土しました♪
この場所は吉備国♪吉備国にも、北部九州や他の地域の様に多くの古墳群があり、古来から人々の暮らしや文化が、ココにもあったとを考えると感慨深いです♪
2世紀末に起こった倭国大乱★大乱が終わった後の瀬戸内海沿岸地方では、古墳造営の新しい兆しが見え、この地域でも同じ動きが見られる様になっていきました♪
削平された主墳の頂上には、木棺を取り囲む様に5個の巨石が立てられています♪ストーンサークル♪誰が?どの様に?何の為に?そこに配置した?信仰と祈りが強く用いられる時代であるが故に、非常に興味深いです♪
この巨石群、自然信仰が対象であったであろう往時♪連れて行ってくれた岡山の城友さんは、この巨石は山に見立てているのでは無いか?と考察しておりました♪それは、全てこの場所から見える龍王山、吉備の中山、常山、日差山、鬼城山♪もう何個か巨石は転がっていたので、もしかしたら他の山にも見立ていたのかもしれません♪近隣には多くの古墳群が♪有名どころでいくと、造山古墳とかが残る場所♪今でこそ、岡山の中心地は岡山城のある場所でありますが、遥か昔、古代は、この辺りが中心地だったのでは無いか?そんな妄想が浮かびました♪
因みに、山中には矢穴のある、残念石も転がっていました♪
2023年09月04日 織田上総介晃司
賀陽氏館
先人様がリア攻めマップに記した駐車スペースに停めて歩いて行きました。
田んぼの中の雑木林が賀陽氏館の土塁となります。
主郭は私有地で、家もあるので勝手に入るのはやめましょう。
周りの田んぼに最近見る機会が減ったタニシが生息してました。無農薬栽培かな?だとしたら収穫されたお米は美味しいだろうな…
賀陽氏館の近くに吉備津神社があります。
2023年04月17日 RED副将軍
日幡城[賀陽氏館 周辺城郭]
毛利氏が織田軍との最前線の国境沿いに備えた境目七城のひとつ🏯境目七城は、備中高松城、宮路山城、冠山城、加茂城、庭瀬城、日幡城、松島城の七城
オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。日幡氏の代々の居城であったと伝わります。織田信長の命による羽柴秀吉の中国侵攻において毛利氏が備えた境目七城のひとつで、日幡六郎兵衛が城主でした。1582年の備中高松城の戦いにおいては、毛利元就の娘婿である重臣の上原元祐も織田勢に備えて守備をしていましたが、羽柴秀吉に調略され寝返り。日幡六郎兵衛にも寝返りを勧めてきましたが拒絶します。日幡六郎兵衛は上原元祐を討とうとしますが返り討ちに遭い絶命。日幡城は羽柴勢に降伏しました。その後、小早川隆景は楢崎元兼を向かわせて日幡城を奪い返します。しかし、娘婿でもある重臣の謀叛は毛利勢に大きな影響を与えたとされます。
見所
足守川沿いの丘陵地に築かれていますが、現在は石材店の私有地となり立入禁止です。道路沿いに城跡碑が2基建てられています。道路から竹林の中に削平地を見ることができる程度です。
2023年03月19日 ドクターイエロー大蔵大輔
宮内城[賀陽氏館 周辺城郭]
主郭を伴う2面のみで構成された非常に小規模な城郭です。南側に薄い堀切と北側に腰曲輪があるくらいで造りは甘く、天正10年(1582年)の備中高松城水攻めの際には羽柴秀吉方の陣城として一時的に用いられたとされています。
古代吉備文化財センターの山続きに位置していて、センター内に断って車を駐車させていただきました。案内看板などは全くありませんが冬場は山道は整備されており、約10分ほどで迷うことなく堀切まで登ることができました。また隣の山には桃太郎伝説のヒーローとされている大吉備津彦命墓とされる中山茶臼山古墳が宮内庁陵墓課管轄の下でひっそりと佇んでいます。訪城ついでに是非お立ち寄りください。R4.12.15訪城
参考:岡山県中世城郭館総合調査報告書
2022年11月11日 RED副将軍
加茂城[賀陽氏館 周辺城郭]
毛利氏が織田軍との最前線の国境沿いに備えた境目七城のひとつ🏯
境目七城は、備中高松城、宮路山城、冠山城、加茂城、庭瀬城、日幡城、松島城の七城
オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。
備中高松城の南方4kmに位置する足守川中流の三角州に築かれた周囲は沼地の平城でした。
織田信長の命による羽柴秀吉の中国侵攻において毛利氏が備えた境目七城のひとつで、本丸には桂廣重、西の丸に上山元忠、東の丸に生石中務少輔が在城したと伝わります。
生石中務少輔は、羽柴秀吉からの調略により寝返りを計るも桂廣重の抵抗により失敗。
備中高松城の清水宗治の自刃と領地割譲を条件に毛利氏と羽柴秀吉との間で和議が成立すると加茂城は破却されたと云われます。
見所
周辺は田畑と民家となり消失。
二の丸跡だけが僅かに残り案内板が立ちます。
湿地帯であり土壇を築いた曲輪で周囲の低地は堀として機能した様です。
2021年08月03日 【若】戦国左近将監
日幡城[賀陽氏館 周辺城郭]
【日幡城跡】
丘城(40m)で日幡氏が城主を務めていた。遺構は石碑の近くに横堀が複数残っている。また、石碑の裏の山も気になる。
以下コピー
築城年代は定かではないが代々日幡氏の居城であった。
毛利氏と羽柴氏が対峙した高松の役では毛利元就の娘婿である上原元祐が羽柴方に寝返り城主日幡六郎兵衛にも寝返りを勧めた。 六郎兵衛はそれを断り元祐を討つべく本丸に帰った所を既に元祐に内通していた弟と元祐の兵に槍で突かれて絶命した。
現在は足守川の土手の道沿いにある石材屋さん?の所に石碑が2つ(新旧かな)ありその裏の丘が城址となっている。 城の西側に流れる用水路は本丸と出丸の間の堀切と云われる。
最寄り駅(直線距離)
2.1km 吉備津駅
2.9km 庭瀬駅
3.0km 備中高松駅
3.6km 備前一宮駅
4.3km 中庄駅
2021年04月29日 ドクターイエロー大蔵大輔
日幡城[賀陽氏館 周辺城郭]
足守川西岸にある備中国境目七城のひとつです。天正10年(1582)高松の役の際には毛利氏に与した城主の日幡六郎兵衛が立て籠り、秀吉軍と対峙しました。一旦は秀吉軍に内紛に乗じて城を奪われてしまいますが、その後見事に奪還に成功し、毛利軍の意地を示したとされています。
堤防沿いの道には石碑が立てられています。すぐ横にある石材店?の敷地内とその奥の小高い藪が城跡です。私有地につき立ち入りは遠慮しておきましょう(一部フェンスが張られています)。また駐車スペースも付近には見当たらないようです。
城跡の北約500mの山頂には楯築遺跡という弥生時代後期の日本最大級の墳丘墓(国史跡)があります。NHKブラタモリでも紹介された古代吉備王国を彷彿させるパワースポットにも是非お立ち寄りください。こちらは駐車場&トイレが用意されています。R3.4.29訪城
2021年04月29日 ドクターイエロー大蔵大輔
加茂城[賀陽氏館 周辺城郭]
いわゆる備中国境目七城のひとつで、中国地方の雄・毛利氏が天正10年(1582)高松の役の際には織田軍との戦いに備えて備前国との国境に整備した防衛ラインの一翼を担っていました。桂広繁・上山元忠・生石治家が立て籠るも秀吉軍の攻撃の最中に内紛が勃発し落城しました。毛利と羽柴が和睦した後は破却されたもようです。
現在周囲は田畑と住宅地になっていますが、往時は湿地帯が取り囲んでいる沼城でした。細い道沿いにある民家に囲まれた路地を抜けると少し高くなった土塁らしき遺構が説明板と共に残されています。ここが二の丸跡で西に本丸、東に三の丸を配した連郭式縄張りだったそうです。他に遺構は失われているもようです。なお駐車場はなく、少しだけ広い場所にちょこっとだけ停めさせていただきました。R3.4.29訪城
2021年02月18日 水野山城守祐利【7】
賀陽氏館
ほぼ畑ばかりの中、背の高い草が生い茂っているあたりがそうです。軽自動車でギリギリのかなり細い道が頼りなく続いた先ですが、どうも現地に住宅があるようで注意が必要です。
遠巻きに見るとちょっと土塁らしきものが見られます。
讃岐香西氏が攻めたと伝わりますが、あまりに内陸のため記述と合わず、攻めたのはここではなく水島の本太城だったようです。
2021年02月04日 ドクターイエロー大蔵大輔
賀陽氏館
県道245号線で川入交差点より板倉方向に北進して、道幅狭くてすれ違い不可能区間を過ぎたところで「真如院➡️」の看板に沿って斜め右の御崎神社の方向に細い道を100mほど進むと、駐車スペースが水門の横にわずかながらあります。
更に徒歩にて直進すると周囲に堀を伴った館跡はもう目の前です。一部で土塁も残っているようです。館跡の一部は現在民家になっています。訪城時、お留守だったので残念ながら今回は中に立ち入ることはできませんでした。見学の際には十分に気をつけてください。
なお、お帰りの際には賀陽氏と深い関係のあった近くの備中國一宮・吉備津神社に是非ご参拝ください(館跡からも見えます!)。立派な本殿は見ごたえ十分です。R3.2.4訪城
2011年09月01日 正和
賀陽氏館
地元の人に訪ねて行きました。沼「お堀か…」に囲まれ、草木の繁る高台との事…。賀陽氏は吉備津神社神官五家の一家との事…。
歴史
吉備津神社に近接していることや城館の規模や形式から、吉備津神社と深い関係があった在地豪族・賀陽氏の館跡と伝わる。賀陽一族は9世紀末には郡内の行政や神祇の要職、国内あるいは中央の武官の地位を占めていたとみられる。中でも備中唯一の明神大社である吉備津神社との関わりは深く、平安時代には神務を世襲した豪族の中でも中心的な家筋だったらしい。吉備津神社は全国的にも厚い尊崇を受けており、賀陽氏の備中での存在の大きさがうかがえる。なお、開祖し建仁寺を開山した栄西は、賀陽氏の出身である。
遺構
備前と備中の国境、吉備中山の西裾付近に位置する。所在地の小字は「城」で、付近一帯は「城廻り」と呼ばれる。館を含む中山西麓には東山遺跡があり、発掘調査で中世集落の跡が確認されている。現在は宅地化され上面はかなり削られているが、南北61m×東西76mの長方形の館があり、周囲には幅26~31mの堀がめぐっていたと考えられる。かつては館の西側を足守川が流れていたともいわれ、堀は足守川とつながっていた可能性もある。
南端中央付近に高さ1m、幅1m、長さ1m程度の土塁と見られる高まりが残るのみだが、かつては土塁が全周していたと考えられる。
交通
・JR吉備線吉備津駅から車で約8分参考文献
・『岡山県中世城館跡総合調査報告書 第2冊-備中編-』、岡山県教育委員会、2020年。