辛川城(からかわじょう)
辛川城の基本情報
通称・別名
- 西辛川城
所在地
- 岡山県岡山市北区西辛川
旧国名
- 備前国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 虫明市内、戸川達安
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、堀切、堅堀
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
賀陽氏館(岡山県岡山市)[2.8km]
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富山城(岡山県岡山市)[3.3km]
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鬼ノ城(岡山県総社市)[9.5km]
辛川城の解説文
辛川城の口コミ情報
2023年11月26日 RED副将軍
辛川城
宇喜多氏家臣の戸川達安と毛利氏家臣の小早川隆景が激突した辛川合戦の舞台⚔
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代や築城主は不詳。虫明氏の居城とされ、城主として虫明市内、虫明平次の名が伝わります。
虫明氏は浦上宗景に従っていましたが、宇喜多直家が勢力を拡大し浦上氏を離反すると、虫明氏は宇喜多直家に従属したとされます。
中国征伐で羽柴秀吉が備前に侵攻してくると、宇喜多直家は毛利氏を離反し織田信長に従います。
1580年に毛利氏の小早川隆景が攻め寄せてくると、宇喜多氏は迎え撃ち辛川で激突。宇喜多氏家臣の戸川達安が城主の辛川城で激戦が繰り広げられたとされます。
戸川達安は初陣で弱冠13歳。先陣がぶつかり合うと退却を開始し、辛川村に誘い込むと配備していた伏兵で背後から挟み撃ちにして一斉攻撃をしたとされ、小早川隆景は退却。
辛川崩れと呼ばれる毛利軍の大敗でした。
見所
大平山から南東に伸びる尾根先端に築かれています。
単郭の周囲に横矢掛けの折れが伴う土塁が巡ります。東側と北側に虎口が開口し、北側虎口は桝形を形成しています。
北側、東側、南側の尾根筋には横堀を設けて防御線が張られており、特に北側の横堀が大規模です。
行き方は、西辛川集落の北側裏山が城域です。水道施設に通じる道があり、そのまま北西に進み山陽道の高架橋も越えると辿り着きます。
比高は約70mほどで20分くらいで辿り着きました。
写真は全く映えませんが単郭ながらも面白い城郭でした。
2023年11月02日 胆振守ふわりんこ
辛川城
最寄り駅から歩きで配水場横の登城口に行く道のりです。
近くに八幡宮という神社の鳥居の右に細い獣道を道なりに真っ直ぐ進めば、左手に配水場があります。
ちなみに私は八幡宮の左にある坂道から登りましたがオススメしません。。
2023年09月13日 装鉄城大膳大夫乱怒
辛川城
高速上の橋を渡ってすぐのゴミ置き場横のスペースに駐車しました。そのまま車止めからアスファルトの道をいくと貯水タンクの奥に城山へ行く階段があります。歩いて15分ほどで城跡到着しました。
現在では僅かに曲輪と土塁が残るのみです。
2023年08月20日 安芸守 あきら
登城口[辛川城 その他]
配水タンク前の登城口です。人通りが少ないためか藪化が進みつつあります。一瞬、躊躇しますが少し奥に進むと普通に歩ける階段が出現します。山頂に向かい10~15分くらいで主郭に到着します。
2021年07月30日 【若】戦国左近将監
辛川城
主郭南の階段から登りました。
そこから登ると墓地が見えてきます。怖いのが苦手な方は先人の方の教えを伴って行けばいいでしょう。墓地からは傾斜を登る死闘です。しばらく行くと、主郭南の浅い堀切が現れます。もしかしたら、横堀にも見えるかもしれません。そのまま、北西の方向に進むと簡単な造りの主郭が顔を出します。そこから、すぐ東側を進むと平入り虎口が見えてきます。両端を土塁で囲んでいるので、他の遺構に比べて比較的に分かりやすいと思われます。さらに主郭から北に降りると立派な堀切が姿を現します。こちらも他の遺構と比べると分かりやすいと思います。遺構は少ないですが良い山城でした。 R.3 7月30日
2020年12月31日 ドクターイエロー大蔵大輔
辛川城
車は岡山市水道局西辛川配水場のタンクの近くの車止め付近に止めさせていただきました。タンクの横を進むと山陽自動車道下り城山トンネル直上の広いスペースの奥に階段が設置されています。さらに高速道路のフェンス沿いを登ります。
フェンスがなくなってからはブルーのリボンがエスコートして山頂を目指します。やがて右手に堀切が現れます。更に登ると内折れ虎口と土塁が出迎えてくれます。主郭周囲は土塁で囲まれ南側と北側にも堀切を設けていますが北側のは立派な堀切です。案内看板等は一切ありません。トイレ等は約1キロほど離れた山陽自動車道吉備サービスエリアにて。外部からも利用可能です。R2.12.31訪城
対毛利戦の前線拠点
歴史
築城年代は定かではないが、『御津郡史』によると、城主は虫明市内とされる。虫明市内は浦上宗景に従っていたが、後に宇喜多直家に属した。天正8年(1580)に小早川隆景率いる毛利軍を宇喜多軍が迎え撃った辛川合戦で知られ、この際に辛川城で激戦が繰り広げられたとされる。天正10年(1582)の羽柴秀吉の備中攻めの際には、備前・備中国境の監視や警戒のための拠点となり、秀吉の直臣が入城していたようだ。
遺構
大平山から南東へ派生する、標高約98.1mの山頂に築かれている。備前の西端にあり、備中の国境まで約1kmに迫る立地だ。岡山平野を眼下に見渡せ、南麓には山陽道を見下ろせる。東側には、砂川や中川などが南北に流れている。城域は東西70m、南北120mと小規模で、山頂に35m×55mの南北に細長い曲輪を置いた単郭構造だ。曲輪は周囲にいくつも折れや張り出しを設けて横矢を掛け、東辺、北辺、西辺北半には高さ50cm前後の低い土塁がめぐる。虎口は3か所(北側・東側中央・南東隅角)にあり、北側と南東隅角の虎口は喰違い虎口、東側中央の虎口は平虎口だ。
東斜面と南斜面の傾斜が緩いため、虎口の外側に堀切を設けて防御線としているようだ。東側には幅2m、深さ1mの堀切があり、西側には低い土塁を伴う。南側の堀切は幅3m前後で深さは50cm程度だが、西端は竪堀のように落ちている。北斜面にも幅4m前後の堀切があり、この両端もやはり竪堀のように落ちている。
小規模な単郭構造で曲輪の造成が甘いなど、周辺に築かれた陣城と共通性が見出せる。周辺の城が一体となって城塞群を形成し、備前の最前線として機能していたと推察される。
交通
・山陽自動車道吉備スマートICから車で約5分参考文献
・『岡山県中世城館跡総合調査報告書 第1冊-備前編-』、岡山県教育委員会、2020年。