鍛冶山城(かじやまじょう)
鍛冶山城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 岡山県岡山市北区大井
旧国名
- 備前国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 大森盛清
築城年
- 建武年間(1334〜1336)
主な改修者
- 木下氏
主な城主
- 大森氏、信原氏(宇喜多氏家臣)、木下氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石垣、竪堀、堀切
指定文化財
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再建造物
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周辺の城
-
冠山城(岡山県岡山市)[2.0km]
鬼ノ城(岡山県総社市)[3.9km]
備中高松城(岡山県岡山市)[5.2km]
亀山城(岡山県総社市)[7.0km]
辛川城(岡山県岡山市)[7.2km]
賀陽氏館(岡山県岡山市)[9.0km]
徳倉城(岡山県岡山市)[9.2km]
富山城(岡山県岡山市)[10.4km]
福山城(岡山県総社市)[11.1km]
撫川城(岡山県岡山市)[11.2km]
鍛冶山城の口コミ情報
2023年12月31日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
足守陣屋[鍛冶山城 周辺城郭]
岡山県の北区、足守にある【足守陣屋】♪江戸時代の足守藩の陣屋となります♪
関ヶ原の戦いに際して、2万5千石を領有し姫路城主であった木下家定です♪
この戦の際には北政所を守護し中立を貫き、関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601年)同2万5千石で備中国・足守に所領替となりました♪ココに足守木下家が始まり、一時中断しながらも、木下家定の子孫13代目に渡り、藩主を勤めて明治維新まで続きました♪
元々、木下家は平氏の出身で、杉原姓を称して、織田信長の家臣である杉原家定の妹『ねね』が、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に嫁ぎ、秀吉の天下統一に伴って『北政所』となっています♪この為、北政所の実家は秀吉一族として、木下姓を名乗る事が許され、更には豊臣の称号も与えられています♪
陣屋周りに構えられた、侍屋敷♪
足守藩の国家老を勤めた杉原家の居宅が残ります♪この家老屋敷は往時の形を留めています♪
2023年12月30日 ドクターイエロー大蔵大輔
植之町東陣[鍛冶山城 周辺城郭]
尾根上の東側先端に位置し、頂上に2面の曲輪を有しています。背後には堀切などの遺構は見られません。構造的には非常に甘く陣城としての役割だった可能性もと岡山県中世城郭館跡総合調査報告書では述べられています。詳細は↓「植之町西陣」をご覧ください。
山道の終点、水道局施設は立入禁止なので直前の崖を無理やり這い上がると施設裏手上方にある低い方の曲輪に何とか出ます。R5.12.30訪城
2023年12月30日 ドクターイエロー大蔵大輔
植之町西陣[鍛冶山城 周辺城郭]
鍛冶山城より派生する尾根筋の先端部に位置している標高約80mの頂上に築かれており、足守川を挟んだ対岸には宮路山城があります。主郭1面のみの曲輪で背後を土橋を伴った堀切で遮断されています。堀切に接した部分のみ1m程度の幅広い土塁の形成が見られます。主郭周辺は後世の改変を受けていると考えられ、評価が難しいと岡山県中世城郭館跡総合調査報告書には記載されています。ロケーション的には備中高松城水攻めの際に利用された可能性は強いものの、史料、文献、伝承などは一切確認できないとのことです。
国道429号線洪庵トンネル横から山に上がる墓地と水道局施設へ続く舗装道を進み、ヘアピンカーブ手前のクラフトテープから山にとりつきます。ほぼ直登して尾根筋頂上を南に進むとやがて土橋に辿り着きます。駐車場&トイレは宮路山城、足守陣屋と同じ足守観光用駐車場へ。トンネル手前には緒方洪庵誕生地の石碑と像がひっそりと佇んでいます。是非お立ち寄りください。R5.12.30訪城
2023年02月11日 讃岐守堺市民
鍛冶山城
城壁らしきものはgoogleナビでは発見できず。山へ登る道が落ち葉が堆積して滑るので車での侵入はしてはいけない。また、行き止まりなので近くに来ただけでよしとするのが吉。単車でもオフロードタイヤ必要。普通のタイヤで行って死にかけた
2022年09月07日 RED副将軍
足守陣屋[鍛冶山城 周辺城郭]
豊臣秀吉の正室であるねね(北政所)の兄が藩祖である足守藩の陣屋跡🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。
足守藩は豊臣秀吉の正妻であるねね(北政所)の兄である木下家定によって立藩されました。
木下家定は、元々は杉原性を称していましたが、秀吉の立身出世に伴い一族に所遇されて木下性を名乗ることと、豊臣家の菊花紋、五七桐紋の家紋を使用することが認められていました。
秀吉が没し、1600年の関ヶ原の戦いの時は姫路城の城主で、北政所の警護にあたり中立の立場であったため、合戦後は備中賀陽郡と上房郡に同じ石高で移封となり足守藩を立藩しました。
1608年に家定が没すると家督の相続で揉めたため所領は没収され足守藩は幕府直轄領となりましたが、1615年の大坂夏の陣の功績により、次男の木下利房が再び足守藩主に封じられて足守木下家が復活。
それ以後は明治維新に至るまで13代が藩主として存続しました。
現在に残る遺構は、17世紀後期に5代藩主の木下利貞により整備された足守藩陣屋町と考えられています。
見所
現在の陣屋跡は、芝生が敷かれた更地ですが、周囲を囲む水堀と石垣が残っています。
また、近くには江戸時代中期の足守藩木下家の家老職の武家屋敷があり、長屋門、母屋、御成門、内蔵、土蔵などが完全な形態で残っています。
近くに観光駐車場があり、入場料も無料です。
2022年07月18日 生駒讃岐守江現蔵✿
宮路山城[鍛冶山城 周辺城郭]
宮路山城は備前備中の境目にあり、岡山市北区の足守陣屋の背後にそびえる標高166mの山に築かれています。築城年代は不明ですが、1573年〜1592年に毛利方の備中境目七城の一つであったと伝わります。
今回は7月の2daysプチオフ会のラスト、2日目の3城目として初登城しました。忍山城、勝尾山城と同様に1週間前に下見に行ってくれた阿波の城友さん、宮路山城のためだけに合流して案内役をしてくれた播磨の城友さんに感謝です。今回は遅めのお昼を食べて十分な休憩を取り、暑い中15時前から登城しました。
駐車場は足守陣屋付近に無料の観光駐車場がいくつかあります。先人のめぐらーさんが口コミしているお墓の所から登るのが分かりやすいです。
7月だったので、山への目印の鉄塔付近は藪ヤブですが、自分を信じて山に突入、登山道はないですが、GPSを利用して上を目指しましょう。
立派な畝状竪堀群、複数の三重堀切と二重堀切、広大な城域は山城好きのめぐらーさんを十分満足させるものです。じっくり見て2時間半、疲れも吹っ飛ぶ素晴らしい宮路山城。是非縄張り図見ながら訪城してくださいませ。
2022年01月30日 織田上総介晃司
足守陣屋[鍛冶山城 周辺城郭]
足守陣屋付近に駐車場があります。今回旧足守藩侍屋敷の前の駐車場に停めました。
石垣と近水園(庭園)と吟風閣が陣屋跡となります。
足守藩の藩祖・木下家定は豊臣秀吉の正室ねね(北政所)の実兄。秀吉の出世で家定も恩恵を受けた。
昔ながらの町並みを残す足守をブラ散歩するも有り。
2022年01月30日 織田上総介晃司
鍛冶山城
駐車場は無く、先人さんの口コミにある池のほとりの少し広くなった路肩に停めました。
そこから電波塔までなんとか車でも行けるみたいですが、とにかく狭い!落ち葉もたっぷり枝も張り出して、ミニバンだと天井&サイドガリガリ。一度止まるとスリップしそうなので上まで車で行くのはやめましょう。
城跡はとにかく竹藪に覆われているので常に藪漕ぎ。手袋必須です。
案内板や目印が無いので縄張り図をダウンロードしておいたほうが良いと思います。
石垣はありますが、旧日本軍の手も入っているのでどこまでが城の遺構かハッキリしません。
鍛冶山城の近くに足守陣屋跡と足守の町並みがあります。
2021年04月13日 ドクターイエロー大蔵大輔
宮路山城[鍛冶山城 周辺城郭]
毛利方の備中境目七城の最北端に位置する標高170mの宮路山城。駐車場は近水園や足守陣屋付近の観光駐車場をご利用ください。トイレも併設されています。登城ルートはいくつかあるようですが、今回は山麓にある新選組・安冨才介夫婦の墓がある田上寺の裏側から登りました。鉄塔のある場所まではある程度山道は整備されていましたが、ここを過ぎるとかなりわかりづらくなります。
尾根上をひたすら進むとやがて眼の前に立派な畝状竪堀群が現れます。やっと城域に入りました。竪堀群の上方が曲輪になりますが、ここは畝状竪堀群の両脇に三重堀切を配する防御の要に相当する場所のようです。いずれも保存状態良く残っています。山頂部には3つの曲輪があり、最高峰部には祠らしきものが祀られていました。また各々の曲輪にも竪堀群や連続堀切等を配して防御力を高めているのが良く解かります。R3.2.28訪城
参照:岡山県中世城館跡総合調査報告書
2021年03月01日 ドクターイエロー大蔵大輔
鍛冶山城
毛利氏による対織田氏への最前線、境目7城のひとつである宮路山城に対峙した位置に立つ織田(宇喜多)氏側の山城です。
やはり先人様同様に、城跡のある山の北東部にある池の淵に車を置いてから山道を登る方が無難でしょう。2台程駐車可能です。そこから城内にある電波塔の横まで500m程の舗装路がありますが(車も2台程度なら駐車可能)、荒廃が著しくおススメではありません(写真1)。
今回は岡山県中世城館跡総合調査報告書を参考にさせていただきました。電波塔までの道すがらにⅥの郭、Ⅴの郭があり、更にⅤの郭直下には畝状竪堀群も残っています。電波塔のあるⅣの郭周辺にも竪堀群がわずかに確認できます。
ここから主郭方面に南下して行きますが(写真2)、ほとんど荒廃した竹藪状態です。かろうじて道はありますがくれぐれも迷わないようご注意ください。Ⅲの郭に入り竹藪の中を進むと小さな堀切を渡り切岸を登ります。そこには巨大な防空監視哨聴音壕なる井戸状の昔の軍事施設が残されています。切岸を下り細い一本道を進むといつの間にか石垣の上を歩いていることに気が付きます。横の郭に降りて眺めると結構の長さの石垣によって構成されていることが分かります。
雛壇状に下り南下すると眼の前には二重の堀切とその背後には高い切岸がそびえます。ロープ等もないので城攻め感覚で切岸をよじ登ってください。ほどなくⅠの郭、堀切を挟んでⅡの郭が続きます。最南端には竹藪から解放され、一瞬ですが視界良好な箇所があります。足守川を挟んで対岸には宮地山城、南には冠山城が一望できます。ここより下方には堀切があります。
城跡は南北にわたり300m近く郭が連なっている構造なので、じっくりと見学するのは時間は要すると思われます。要所にはピンクのクラフトテープの目印がありますが、何せ竹藪だらけなので見失わぬようご注意ください。なお案内看板等は全くありません。R3.2.28訪城
参考:岡山県中世城館跡総合調査報告書
2020年09月13日 大納言Z周防守369
足守陣屋[鍛冶山城 周辺城郭]
足守藩主の陣屋で、藩祖は秀吉の正室ねねの実兄木下家定。家定の死後、一旦領地は没収となったが、家定の二男利房が大坂夏の陣の功により再封され、明治の廃藩置県まで続いた。
訪れたのは2019年9月15日だったが、人気がなく、静かすぎた。
2016年01月11日 石徹城弾正忠和秋
鍛冶山城
溜池の横にある歩道から登れます。
数々の電波塔がある場所まで道が舗装されていますが、そこから竹藪の中へ入らなくてはなりません。
石垣までは遠くないですが、完全に道がないので時間帯や装備を考えなくてはならないかと。