福山城(ふくやまじょう)
福山城の基本情報
通称・別名
- 備中福山城
所在地
- 岡山県総社市清音三因
旧国名
- 備中国
分類・構造
- 連郭式山城
天守構造
- -
築城主
- 荘兼祐
築城年
- 建武2年(1335)
主な改修者
- -
主な城主
- 荘氏、大井田氏
廃城年
- 延元元年(1336)
遺構
- 曲輪、石垣、横堀(空堀)、井戸跡
指定文化財
- 国史跡(福山城跡)
再建造物
- 石碑
周辺の城
-
亀山城(岡山県総社市)[4.2km]
備中高松城(岡山県岡山市)[7.7km]
早島陣屋(岡山県都窪郡)[7.8km]
撫川城(岡山県岡山市)[8.0km]
賀陽氏館(岡山県岡山市)[8.0km]
庭瀬城(岡山県岡山市)[8.2km]
黒山城(岡山県倉敷市)[8.9km]
冠山城(岡山県岡山市)[9.2km]
鬼ノ城(岡山県総社市)[9.2km]
鬼身城(岡山県総社市)[9.8km]
福山城の解説文
[引用元:Wikipedia「福山城」の項目]福山城(ふくやまじょう)は日本の城。国の史跡。
【概要】
福山城は総社市南部の福山(標高302メートル)山上に存在した山城である。南北朝時代に『太平記』に記された福山合戦の舞台となった。
奈良時代より平安時代にかけて山岳寺院「福山寺」が存在していた。鎌倉時代末期の建武2年(1335年)に荘兼祐がこの山岳寺院を改造し城郭とした。築城主は真壁是久とも言われる。城は一の段、二の段、三の段が連なって配されていた。現在の遺構として一、二の段の間に城門跡の石垣が確認できる。また空堀、石列、井戸跡などがある。昭和11年(1936年)12月16日、国の史跡に指定された。
【福山合戦】
建武3年(延元元年、1336年)2月、九州に敗走していた足利尊氏が30万人とも言われる軍勢を擁し東上を開始した。備後国鞆の浦で軍は海上を行く尊氏軍7,500隻と、陸上を行く足利直義軍20万人の二手に分かれた。
4月3日、後醍醐天皇方の新田義貞軍の先鋒隊大井田氏経は足利方に加担していた城主の荘兼祐を追い、足利軍の東上を阻止すべく籠城した。足利軍は5月上旬に備中国に達し、5月14日にはこの地に到着し城を包囲した。直義の率いる足利軍20万人に対し、大井田軍は僅か1,500人であったとされる。5月15日夕刻より攻城戦が始まった。籠城軍はよく奮戦し、足利軍は2万の死傷者を出した。
しかし、大軍を前には抗しきれず17日には火をかけられ落城した。氏経は僅かに400人ばかりとなった将兵と共に足利軍の布陣を突破した。20回以上の戦闘を繰り返しながら本陣のある播磨国との国境にほど近い備前国三石城に逃れた。
この戦いの7日後には楠木正成が戦死した湊川の戦いが行われた。
【アクセス】
JR伯備線清音駅よりタクシー[続きを見る]
福山城の口コミ情報
2020年11月21日 内大臣織田晃司
南山城[福山城 周辺城郭]
2019/01/26の現地説明会に参加、登城。
南北に竪堀群。西側に堀切と毛利氏の城の特徴が顕著。
生活品も発掘されており日常的に城を利用していた。
2018年の西日本豪雨で高梁川系水域の小田川が氾濫。倉敷市真備町が浸水被害に遭う。
災害の未然防止のため小田川の河川合流地点の変更工事により破城。
住民の安全のためとはいえ残念…
説明会の時自らの運命を予感したのか、少し小雪が舞っていた。
2020年11月20日 3000ロス征夷大将軍マイリバ
南山城[福山城 周辺城郭]
平成30年7月豪雨災害をきっかけに実施された小田川合流点付け替え事業により消滅してしまった『城跡跡』です(>_<)
~以下、令和元年9月 南山城現地説明会資料より~
岡山県古代吉備文化財センターでは、小田川合流点付替え事業に伴い、南山城跡の発掘調査を平成29年4月から行っています。
この城跡は倉敷市船穂町柳井原・真備町川辺に所在し、小田川と柳井原貯水池(旧西高梁川)に挟まれた標高約67mの低丘陵上に立地します。
城跡からは、北側に高梁川・小田川沿いの平野を広く見渡すことができます。
南山城跡は戦国時代(16世紀)に築かれた山城で、頂部に曲輪、頂部南側に腰曲輪を構え、曲輪には虎口、土塁、横矢を設けています。
さらに、曲輪の周りに急勾配の切岸、城域の西端に三重の堀切、北斜面と東斜面に複数の竪堀、傾斜の緩やかな南斜面には畝状竪堀群を設けており、敵の侵入を防ぐための多様な工夫がこらされています。
今年度は頂部の曲輪と、南側斜面の諸施設を中心に調査を行っています。調査によって、土塁や畝状竪堀群など防御施設の実態が判明したほか、城内からは複数の掘立柱建物が見つかり、城内の生活を物語る遺物も多く出土しています。
2020年11月15日 安芸守 あきら
福山城
自家用車で来られる場合は、清音ふるさとふれあい広場の駐車場を利用すると便利です。グラウンドの奥に福山の登山口があり、案内板もあるので分かりやすいです。
2020年09月14日 ドクターイエロー
福山城
登城の最短コースは麓の歴史広場(総社市清音三因)から1234段の直登り。さすがに脚は疲れます。でも山頂(城跡)からの眺望は抜群です。歴史広場周囲には駐車可能です。三因峠古墳群をすり抜けての登山になります。R2.9.13訪城
2018年07月24日 カーネル
福山城
JR伯備線清音駅から直線で2.4km
東口ローターリーから真っすぐ田んぼに挟まれた生活道路をのんびり歩きます
10分くらい歩いたら「福山城2km」の看板があります。さらに10分進むとT字交差点にある「1.2km福山城→」の看板で右折し、左1.1km福山城の看板で左折すると歴史広場着。古墳がいっぱいあります
県道469号を挟んで登山口があります。階段1234段を登る直登コース。最初はなだらかに登り、左右にある古墳を横目でみつつ登り続けると、途中に『左が幸山城跡』の看板があるけど見なかったことにする
直登の階段は、本日30km近く歩いておりさすがに厳しい。登り切ったところにも左幸山城址の看板ありました。見なかったことに
山頂はハイカーの方々が多く、城の面影はあまりありませんでした。散策すると土塁や門跡とかすかに堀がありました
清音駅に戻って110分
2017年03月19日 石工集団穴太衆㊻
福山城
備中福山城は鎌倉末期に真壁小六是久によって築かれ 九州に敗走した足利尊氏を追撃する新田義貞の軍が陣を張った 一方九州で諸将を集めた尊氏が陸路と海路に別れて東上を開始する 福山城に籠った官軍もおおいに善戦するが兵力差は歴然で落城した(福山合戦)城は福山の山頂にあり北から南に直線で一の段、二の段と五の段まで続く縄張りで一の段と二の段の間には門跡の列石があり二の段西側には土塁と空堀の跡が残るが状態は余り良くありません、二の段に建つ石碑の多さに驚く備中福山城の北側の突出した尾根に備中幸山城があります、備中福山城はハイキングコースになっていて休日には多くの家族連れが訪れピクニックをされてます、景色もいいですよ、登城口はいくつか有りますが駐車場が有るのは山腹の和霊神社、ふれあい広場、安養寺、歴史広場、今回は和霊神社からの登城で徒歩20分でした。