黒山城(くろやまじょう)
黒山城の基本情報
通称・別名
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所在地
- 岡山県倉敷市浦田
旧国名
- 備前国
分類・構造
- 山城
天守構造
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築城主
- 内田丑之助
築城年
- 天正年間(1573〜1592)
主な改修者
- -
主な城主
- 内田氏、塩津氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)、堀切、竪堀、切岸
指定文化財
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再建造物
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周辺の城
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天城陣屋(岡山県倉敷市)[5.7km]
早島陣屋(岡山県都窪郡)[8.2km]
福山城(岡山県総社市)[8.9km]
猿掛城(岡山県倉敷市)[11.4km]
撫川城(岡山県岡山市)[12.3km]
庭瀬城(岡山県岡山市)[12.5km]
亀山城(岡山県総社市)[12.7km]
常山城(岡山県玉野市)[13.3km]
賀陽氏館(岡山県岡山市)[13.8km]
下津井城(岡山県倉敷市)[14.6km]
黒山城の解説文
黒山城の口コミ情報
2022年05月06日 ドクターイエロー大蔵大輔
流山城[黒山城 周辺城郭]
別名八幡山城とも称される標高139mの山頂にある山城です。この城は岡山県中世城館跡総合調査報告書にも地図上にマーキングされているのみで記述は一切ありません。山頂には立札と国土地理院の三角点が立っているものの明確な平坦地もわからずじまいでした。天然石による石組みらしきものはありました。
倉敷大橋北側より看板を頼りに酒津八幡宮を目指してください。神社への階段下に数台分の駐車場があります。神社までは立派な階段をひたすら登ります。参拝を済ませたら社殿右奥の山道を進みます。黄色の目印の小枝より先が山頂への登城道です。道は整備されており、城の南側の曲輪(?)は展望台と化しています。遠くに黒山城越しに水島工業地帯を望むことができます。R4.5.4訪城
2022年05月04日 ドクターイエロー大蔵大輔
大平山城[黒山城 周辺城郭]
地元では連島(つらじま)と称されている山並みの最高峰(標高162m)に位置している山城です。岡山県中世城館跡総合調査報告書によると東西に約300mにわたって細長い尾根筋状に遺構があるとされていますが茂みでよくわかりませんでした。中央付近の平坦地が主郭と考えられているようです。ここの南北側の斜面には石垣が、頂部付近には石組が残っています。東に100m弱の位置にある大平山山頂の看板の設置されている曲輪にもいくらか石積みの遺構が残っています。西側にも平坦地が点在しています。石垣は後世のものか?全体的に平坦地が極端に少ないのが気になりました。
探鳥コースとしてよく整備されています。大平山トンネルの北側の道べりに比較的広い箇所があり、そこに車を停めさせていただきました。自販機もあります。登城口付近まで小型車も通れますが離合する場所は限られます。案内看板に従って迷いことなく約15分でリア攻めできます。主郭付近のみ見晴らし良好で南側は水島工業地帯越しに瀬戸内海を望み、北側は倉敷市中心部から遠く鬼の城まで見ることができます。R4.5.3訪城
2022年01月06日 【若】戦国左近将監
備中片島城[黒山城 周辺城郭]
城友さんに連れられてリア攻めしました。お寺の裏側に畝状竪堀が見事に残ってます。急な傾斜が多いですが、竹も多いので掴まって進みやすいです。分かりにくいですが石垣も残っていました。
2021年12月03日 ドクターイエロー大蔵大輔
梁場山城[黒山城 周辺城郭]
西日本豪雨で決壊した小田川の付け替え工事の進む船穂町柳井原貯水池に隣接する標高42mの丘陵頂部に位置しています。頂上には小さな平坦地がわずかに残るのみで、一部に土塁らしき高まりが確認されたものの荒廃が著しく城全体を捉えることはできませんでした。
現在は柳井原集会所になっていますが、かつて廃校と思われる山腹の敷地までは小型車で何とか行くことが出来ます。山沿いには城跡を記す碑が建っています。集会所横の神社の奥から登り、山頂の土塁まではすぐです。眼下には山陽新幹線柳井原橋梁が良く見えます。R3.12.2訪城
2021年11月18日 ドクターイエロー大蔵大輔
備中片島城[黒山城 周辺城郭]
国道2号線と山陽本線に挟まれた高梁川沿いに位置する片島城は、標高わずか28mの山頂に築かれた小さな城です。地元の豪族の二階堂氏により築城、戦国時代には細川氏が城主を務めたとされています。
現在は大半が妙任寺と片島神社の敷地となっており、ほとんど遺構は残っていないようですが、妙任寺北側の斜面には畝状竪堀群が当時の名残を残してくれています。山頂の寺へ続く階段の途中西側から細い階段を上がって奥に入り、更に奥下方に廻り込むようになります。
付近の道はたいへん狭く、駐車スペースも限られます。今回は妙任寺の駐車場をお借りして、ちゃんと境内へ参拝してからリア攻めさせていただきました。R3.11.18訪城
2021年10月02日 【若】戦国左近将監
黒山城
【黒山城】2021.10.02
登城口は先人様の口コミ投稿を参考にしてください。僕は相変わらずのバカモノでいくら探しても登城口が見つからず、仕方なく竹藪の中に突撃していきました(笑)
大手は南、搦手は北西です。遺構は土塁が目立ちますが、主郭とⅣ郭(曲輪④)を分断する堀切や大手枡形を形成する喰違虎口も中々の見どころです。Ⅱ郭(曲輪②)のL字型の竪堀とそれを形成する竪土塁は本当に凄かったです!!
主郭は分厚い土塁で囲まれていて、高さ3メートルはあろう土塁を頑張って登ろうとしましたが無理でした(笑)当時の足軽さんの気持ちがめっちゃ分かります。
この城に行ってみてⅣ郭(曲輪④)の存在がとても大切だと分かりました。主郭とⅣ郭(曲輪④)は土橋(竪土塁)で繋がれていて、ここから連絡を取り合ったと思われます。特に主郭南東の堀はⅣ郭(曲輪④)から横矢が掛かり、防御が完璧です。
竹藪の城は岡山には沢山ありましたが、この城は県内TOP5には入ります。ですから長袖長ズボン、虫除けスプレー等の準備は怠らずに!!馬鹿者の僕は半袖半ズボンで入って30箇所くらい刺されてやっと生還しました(笑)
2021年09月26日 Ak
黒山城
登り口まで、徒歩10分。ニシナにて、飲料調達。274号を、ニシナ方面へ。ヘアピンカーブを曲がり、心配になるくらいの急で細い坂道を100メートルほど登ると、極小のスペース有。
お墓裏手の藪をかき分ける。藪は、入口のみ。倒木はあるものの、歩き易い。
お地蔵さまはあるものの、分かりにくい。下山時、まよって、浄水場側に出てしまう。浦田黒山公園の脇に車を止め、浄水場側から登る方が良いかも。
2021年06月01日 ドクターイエロー大蔵大輔
倉敷代官所[黒山城 周辺城郭]
岡山県を代表する観光スポットの倉敷は天正10年(1582)高松の役後より毛利氏の領地となりましたが、慶長5年(1600)関ヶ原合戦以降は小堀家(備中松山藩)が治めることとなりました。高梁川の河口に位置する重要な港であることから寛永19年(1642)には代官所が置かれて幕府直轄地(天領)となりました。
その後幕末の元治元年(1864)禁門の変の際に京都見廻り役として長州藩勢を撃退したことを逆恨みされ、慶応2年(1866)に浅尾陣屋(総社市)と共に焼き払われてしまいました(倉敷浅尾騒動)。
現在は倉敷代官所跡というより倉敷アイビースクエアとして有名です。明治時代には倉敷県庁が置かれ、その後倉敷紡績所(クラボウ)を経て現在に至っています。なお駐車場内に佇む稲荷神社には、かつてこの地に小野氏の居城があったと記されています(小野ヶ城砦)。リア攻めマップご参照ください。
ほとんどが紡績所と化していますが僅かに残る堀と井戸の跡、石碑と案内看板により当時の面影を忍ぶことができそうです。せっかくですので大原美術館などの倉敷美観地区観光にも時間を費やしてください(注:只今緊急事態宣言下にて多くの施設は休業中です)。R3.5.27訪問
2020年12月10日 ドクターイエロー大蔵大輔
黒山城
車は県道275号線を倉敷市内方向に北進して下り坂途中からUターンして細い山道を登ります。お墓の近くに何とか小型車ならギリ2台駐車可能ですが方向転回に自信ない方は麓からの徒歩がオススメです。ここから山道の入口はちょっと分かりにくいですが山の中に入るとお地蔵様が道案内してくれます。藪に入って2つ目のお地蔵様付近でリア攻め可能になります。やがて立派な竪堀や枡形虎口が見えてきます。道は更に奥に進み本丸北側の虎口まで通じています。登って本丸内には巨石の祠があります。4つの曲輪に土塁や堀が比較的分かりやすい状態で残っています。R2.12.10訪城
2018年11月07日 織田上総介晃司
黒山城
黒山城としての駐車場はありません。
今回は県道脇の坂道をバックで登り、僅かなスペースに停車。
堀切、虎口、土塁などしっかりと遺構が残ってます。
太平洋戦争時、水島の軍需工場に水を供給するためのタンクもありました。
ちなみに軍需工場では零戦が製造されていて、工場長は故・星野仙一さんのお父様だそうです。
2018年04月06日 石工集団穴太衆【兒】
黒山城
☆黒山城は水島臨海鉄道の福井駅の南東に聳える標高60mほどの小山に築かれ、当時は眼下に穴海と呼ばれた遠浅の海が広がっていたそうです
登城口は西側山裾にあるお堂から登るコースは100体近くのお地蔵様が主郭部までお出迎えしてくれます、東側の登城口は県道275号線から電波塔へ登る道があり、その途中にある墓地の所に若干の駐車スペースがあり、草木に覆われて分かり難いですがここから竹林を抜けるとすぐ城内に行けます、現在の黒山城の遺構は、非常に良好に残っていて、山頂部の主郭を中心としほぼ単郭式に構成され、主郭を取り囲むように高い土塁が配置されて、横矢掛けを駆使した出曲輪を備えて主郭には虎口が2ヶ所あり南側の虎口は立派な外枡形で西側は食い違い虎口になってます、東南部分には櫓台が見受けら、所々に石積みがあるがこれは後世の神社の時に使われたものと思われる手水鉢もある、小降りながら技巧に富んだ城跡です
歴史
築城年代、築城者は定かではない。天正2~3年(1574~1575)の備中兵乱の際、三村方の内田牛介が毛利方の攻撃を受けて戦死し、その後は毛利方の城になったとされる。一方、『新修倉敷市史2』では、天正7年(1579)からの宇喜多氏と毛利氏との軍事的緊張により築かれたとされている。
遺構
児島半島の最北西部に突き出した、標高60mほどの小山に築かれている。現在は埋め立てられているが、戦国時代には城の東側のみが陸続きで、北・西・南側は海に面していた。城からは北~北東側がよく見渡せ、備前最北西部の境目の城として機能していたと考えられる。最高所に置かれた主郭は、高さ約2mの土塁で囲まれている。北西側と南東側は大きく屈曲し、切岸直下の堀底に向けて横矢が掛かる。
虎口は北西端と南側の2か所あり、いずれも喰違い虎口だ。南側の虎口は土塁を駆使したL字型で、2度折れて土橋を通過する間、くまなく横矢が掛かる構造になっている。外枡形のような空間にも見え、さらに虎口の外側には武者溜まりのような出撃拠点となる空間が設けられ、厳重に守りが固められている。
主郭東側は巨大な堀切を経て、分厚い土塁で囲まれた曲輪が置かれ、L字型の竪堀が南東方向に掘られている。曲輪を囲む土塁は屈曲して横矢が掛かり、曲輪南西側直下の横堀も鍵折れになって死角を完全になくしている。横堀は東端の竪堀及び武者走り東側の竪堀と連動しながら、横矢が掛かるよう設計している。
主郭西側にはやや広い曲輪があるが、西側と比較すると防御性が低く、駐屯地か居住空間と考えられる。主郭との間を分断する堀切も高さ1mほどしかない。
堀切や土塁、竪堀や横堀を駆使して高低差と屈曲をつくり出した戦闘的な縄張で、戦国時代末期の様相を示す城といえそうだ。
交通
・瀬戸中央自動車道早島ICから車で約20分参考文献
・『岡山県中世城館跡総合調査報告書 第1冊-備前編-』、岡山県教育委員会、2020年。