猿掛城(さるかけじょう)

猿掛城の基本情報

通称・別名

所在地

岡山県倉敷市真備町/小田郡矢掛町

旧国名

備中国

分類・構造

連郭式山城

天守構造

築城主

庄家長

築城年

平安時代後期

主な改修者

主な城主

庄氏、三村氏、穂井田(毛利)氏

廃城年

慶長5年(1600)

遺構

曲輪、石垣、土塁、堀切、井戸

指定文化財

市史跡(猿掛城跡)

再建造物

説明板

周辺の城

鴨山城(岡山県浅口市)[8.9km]
鬼身城(岡山県総社市)[9.1km]
高越山城(岡山県井原市)[10.8km]
福山城(岡山県総社市)[11.9km]
小笹丸城(岡山県井原市)[14.9km]

猿掛城の解説文

猿掛城(さるかけじょう)は、備中国小田郡(岡山県倉敷市真備町から小田郡矢掛町にかけて)に存在した山城。

概要
猿掛城は現在の倉敷市から矢掛町にまたがる標高243mの猿掛山に存在した連郭式の山城である。

その歴史は平安時代末期に遡るといわれ、武蔵七党の一角を占める児玉党の旗頭であった庄家長が備中国に領地を与えられ、ここに城と居館を築いたことに始まると伝えられている。以後、戦国時代に至るまで庄氏の居城となった。
南北朝時代初期には南朝の北畠親房に属し、足利尊氏配下の高師直と戦火を交えた。

戦国時代中期の天文2年(1533年)当時の城主であった庄為資は松山城の上野頼氏を攻め滅ぼし備中半国を配下に収め、為資は松山城に移った。猿掛城には一族の穂田(穂井田)実近が入った。天文22年(1553年)尼子氏と結んでいた庄氏に対し、鶴首城主で備中に覇を争っていた三村家親は毛利氏と結び猿掛城を攻略した。為資と家親は家親の長男の元祐を穂田実近の養子とし猿掛城主に据えることで和睦した。永禄11年(1568年)為資の子・庄高資は備中に侵攻した宇喜多直家に呼応したため、宇喜多氏が一時、猿掛城を落とした。これに危惧を感じた毛利元就は六男の元清を遣わし猿掛城を奪取した。のちに元就の命で元清は元祐の養子となった。この年、毛利氏の援軍により家親の子の三村元親は庄高資を追い落として松山城主となり備中に覇を唱えた。

天正2年(1574年)三村元親は織田信長と結んだため、毛利氏と三村氏が争う備中兵乱が起こり猿掛城は三村氏攻略の前線基地となった。天正3年(1575年)5月に松山城が陥落し備中兵乱は終結、三村元親は自刃した。天正10年(1582年)には羽柴秀吉による高松城水攻めの際、毛利輝元本陣となった。天正11年(1583年)元清は猿掛城の西部にある茶臼山に中山城を築いて移った。猿掛城には重臣の宍戸隆家を城代として置いた。天正17年(1589年)広島城の建設が始まると元清は普請奉行として広島に常住するようになった。慶長5年(1600年)毛利輝元が関ヶ原の戦いにおいて西軍総大将として敗将となったため、防長2国に大幅に減封された。このため、城の周辺は天領となり猿掛城は廃城となった。

参考文献
岡山県高等学校教育研究会社会科部会歴史分科会/編 『新版 岡山県の歴史散歩』 山川出版社 1991年 152ページ

猿掛城の口コミ情報

この家は滅亡しました様[2013年08月16日]
庄氏の屋敷跡は矢掛町横谷にあり、庄屋福武家屋敷前にあります。但し私有地(畑の中)にあるため無断の立ち入りはご遠慮くださいm(__)m

「発見!ニッポン城めぐり」を始めるには?

「発見!ニッポン城めぐり」は、iPhone・Androidの両アプリに対応。
利用料金は無料、アプリ内の課金も一切ナシ!いますぐ城めぐりを始めてみよう!

スマートフォンからのアクセス方法

app store app store  ■iPhone
 AppStore で「発見!ニッポン城めぐり」を検索。

google play ■Android
 Google play で「発見!ニッポン城めぐり」を検索。

スマホを持って城をめぐろう!スマホでお城スタンプラリーゲーム「発見!ニッポン城めぐり」 発見!ニッポン城めぐりとは? GooglePlay Appstore