高越山城(たかこしやまじょう)

高越山城の基本情報

通称・別名

高越城

所在地

岡山県井原市神代町

旧国名

備中国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

宇都宮貞綱

築城年

弘安4年(1281)

主な改修者

主な城主

宇都宮氏、伊勢氏

廃城年

遺構

曲輪、堀切

指定文化財

市史跡(高越城跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

鴨山城(岡山県浅口市)[8.7km]
小笹丸城(岡山県井原市)[10.0km]
猿掛城(岡山県倉敷市)[10.8km]
笠岡城(岡山県笠岡市)[11.7km]
戸屋ケ丸城(広島県福山市)[13.7km]
神辺城(広島県福山市)[14.5km]
青佐山城(岡山県笠岡市)[15.7km]
鬼身城(岡山県総社市)[16.2km]
志川滝山城(広島県福山市)[17.0km]
鶴首城(岡山県高梁市)[19.0km]

高越山城の解説文

高越山城(たかこしやまじょう)は、岡山県井原市東江原町にある山城。

歴史
築城年代は定かではないが、宇都宮貞綱が弘安4年(1281)の蒙古襲来に備えて築いたとも伝わる。

享徳2年(1453)には伊勢新左衛門が居城としたといわれ、天文・永禄年間の戦いを記した軍記物には、備中諸将とともに伊勢氏の名が登場する。

元亀2年(1571)までは、毛利氏の支配下にあったと考えられる。

遺構
標高約 170mの高越山山頂に築かれている。南には山陽道と小田川を眼下に望み、笠岡から矢掛方面へ北上する往還が山陽道に合流する地点も見下ろせる。

後世の改変が著しいため全容は不明だが、山頂の主郭には一辺約15mの高まりがあり、そのまわりを曲輪がめぐっている。高まり部分の西側には石積みがあった。

主郭を中心に、北西側、東側、南側の3方向に曲輪を配置。北西側の尾根の鞍部には堀切が設けられ、現在は消滅しているが、堀切の北側にも曲輪があったようだ。主郭から東・南側にのびる尾根筋にも曲輪が広がり、東側尾根の2段下の曲輪北側谷部には石組みの井戸がある。

交通
山陽自動車道笠岡ICから車で約30分

参考文献
『岡山県中世城館跡総合調査報告書 第2冊-備中編-』、岡山県教育委員会、2020年。

文:萩原さちこ

高越山城の口コミ情報

2021年06月03日 ドクターイエロー
井原陣屋[高越山城  周辺城郭]



寛永19年(1642)池田長信によって築かれました。 長信は備中国松山藩主・池田長幸の三男で、池田修理家を新たに興して旗本となって当地に陣屋を構えたとされています。

現在は井原小学校と化しており当時の面影を忍ぶことは残念ながらできません。校庭の片隅に石碑と案内看板がひっそりと立っています。R3.6.3訪問

2021年06月03日 ドクターイエロー
西荏原陣屋[高越山城  周辺城郭]



築城の年代は明らかではないものの森長継(津山藩2代藩主)によって築かれたようです。津山藩は4代長成が嗣子なく断絶となり、 長継は何とか西荏原に陣屋を移し森氏は存続しましたが宝永3年(1706)長直の時に播磨国赤穂へ転封となりました。森氏転封の後は、徳川一橋家の所領となり代官所が設けられ、後の興譲館となる教諭所が一橋家の有志により設けられました。

ちなみに興譲館は現在は女子陸上部で有名な高等学校として存続しています。初代館長の阪谷朗蘆(さかたにろうろ)。一橋家に仕えていたあの渋沢栄一とは親交が深い間柄でした。当時一橋家には兵備がほとんどなく、領主・一橋慶喜(後の徳川慶喜)が京都守衛総督となったことから急遽領内で農兵を募ることとなり慶応元年(1865)渋沢自ら当地に赴いて募集活動を行いました。当初は難渋していましたが、阪谷と面会後には領内より200名余の志願者があり大成功を収めたとされています。開校当時から残る校門には渋沢栄一が揮毫した「興譲館」の扁額が掲げられています。

現在の興譲館高校付近が陣屋跡で、西江原郵便局近くの川沿いの道にひっそりと案内看板が建てられていますが、残念ながら他に遺構は残っていないようです。R3.6.3訪問

2021年04月29日 ドクターイエロー
小菅城[高越山城  周辺城郭]



グレープ愛ランド「葡萄浪漫館」なる岡山ぶどう王国を象徴する直販所の山続きにひっそりと佇む小菅城。車で主郭すぐ下まで簡単に行くことができますが、説明板からの道700mは狭く大型車には向きません。またこの道路建設によって二重堀切は残念ながら大半が破壊されています。

主郭部は本丸と二の丸の二段構造になっており、更に東方向に少し離れて雛壇状に曲輪が続く連郭式山城です。二の丸には小さな神社が祀られていて、本丸には有難いことにベンチが設けられています。訪城時には綺麗に整備されていました。ただ残念なことに周囲の景観はほとんど見えません。

元暦2年(1185)源平屋島合戦にて扇の的を見事に射て名を上げた那須与一は恩賞としてここ備中国荏原郷を与えられたとされ、弟の宗晴が鎌倉時代初期にここ小菅城を築城したと伝えられています。

せっかくなので西江原町の山の中にひっそりと佇む那須与一公憤にも行かれてみてはいかがでしょうか?こちらもかなり細い道を進むことになりますが(約600m)・・・。リア攻めマップをご参照ください。
那須与一は山城国伏見において死去されたとされています。荏原那須氏がその祖与一を忍んで建てた供養塔とされています。扇の的一射必中の故事にあやかって願い事がかなうと古くから伝えられてきました。受験合格を祈願すれば直ちに叶えられるといわれ、受験生にも人気とのことです。また与一公を「公(きみ)に一(ひとつ=志望校)を与える」と名の示すとおりに読めば大願成就するとも言われています。なるほど!R3.4.29訪城

2021年04月20日 三ツ鱗▲陸奥守(仮)
新九郎薬師[高越山城  寺社・史跡]



薬師如来像の背には”祈願主新九郎”の銘と花押が書かれている。伊勢新九郎盛時=宗瑞によって文明3年(1471年)頃伊勢氏の根小屋(館城)があった土井地区に近い落神子の地に祀られていた。

2021年04月16日 ドクターイエロー
亀迫城[高越山城  周辺城郭]



元亀元年(1570)にこの地に侵攻してきた毛利元清は敵を防ぐ要路に位置するこの地に亀迫城(砦のような小さい城)を築いたとされています。関ヶ原合戦後は徳川幕府の支配地となり、この頃廃城になったと思われます。

城としての遺構はほとんど見られず現在は亀迫城山公園として整備されています。専用の駐車場も広く、トイレも併設されています。東屋とベンチのある頂上まで雛壇状に整備されていますが、曲輪跡とは思えません。見晴らしも南側には良好で、ピクニック気分で訪城できそうです。

また上から2番目の曲輪?上には昭和35年(1960)発掘調査により城内より発見された箱式石棺(板状の石を箱のように組み合わせて古墳の石室としたもの)が説明版と共に移設されています。井原圏域ではこの手の箱式石棺が多く出土しているようです。R3.4.15訪城

2021年04月16日 ドクターイエロー
折敷山城[高越山城  周辺城郭]



旧山陽道と小田と笠岡を結ぶ矢掛往還が交わる標高60mの山頂に位置に築かれた折敷山城は天文年間(1532~1555)には有岡氏の居城であったと記されていますが、徳川の時代になると一国一城制により廃城になったもようです。

北川小学校の南西部の山なのですが駐車場はなく、訪城時には旧道沿いの岸公民館に停めさせていただきました(1台分しかスペースありません)。民家の間から路地を進み、いざ山の中に突入!とたんに竹藪だらけの状態となりますが、何とか道は確保できます。右手の北の丸と左手の本丸の堀切を抜けると、今度は西の丸が右手に見えてきます。再び堀切を抜けると摩利支天が祀られている祠の曲輪に到着します。山頂に本丸を配し堀切を隔てて北の丸と西の丸を配する構造になっています。更に本丸南側には帯曲輪が2段続きます。本丸には説明版があり、一部石垣も残っています(案内看板あり)。西の丸にも石積の遺構がありました。

また折敷山城の東側の山には弓場、的場なる地名が今なお残っていて、弓場の最高峰部には直径約10mの弓場山古墳(案内看板付)があり、墳丘上に箱式石棺の蓋石が露出しています。R3.4.15訪城

2020年11月08日 九曜紋東市正
高越山城



車で山中の駐車場まで移動可能。道路は広いとは言えないが、途中の分岐路には、親切な案内板があり、迷うことは無い。曇りがちだったが、朝早く一人占めできたので、山頂からの眺めも、爽快感があった。駐車場から、山頂までは、5分程度。駐車場にも、山頂にもトイレ有り。

2020年11月01日 ドクターイエロー
高越山城



車利用では途中の高越城址公園の駐車場(トイレあり)まで看板を頼りに国道486号から簡単に行けます。山道は一部細い箇所あります。そこから舗装された山道を数分で旗の立つ郭(現地の地図では四の郭)に到達します。このあたりでリア攻め可能です。ここにもトイレがあります。石碑の立つ一の郭(早雲ひろば)までもう少しです。見晴らしは良く、眼下には旧山陽道や出城の横畑、山上山も良く見えます。また二の郭北東の山道を少し下ったところには井戸も残っているのでお見逃しないように❗R2.11.1訪城

2018年07月24日 カーネル
高越山城

井原線 早雲の里荏原駅から

駅前に北条早雲のファンシーな石像があり駅前には高越城への地図もあります。車だと遠回りの道のりを、歩行者用の近道が書かれている親切設計です

なので看板に従い、駅から北上すると歩行者用に「歩く人(近道)」の案内があります。案内に従うと、角之池を超えたあたりから道が狭くなり、緩やかに登り始めます。駅から見えていた山の左裾を回りこんで奥の山へ山道を歩きます。5分ほどで舗装路になり高越城の南端に出ます

北上すると本丸で、いくつかの曲輪をへ経て冠門まで行けます。一段下の道から南下して駅へ戻りました

城は公園として整備されております。案内図にあった堀は、言われれば堀に見えますが、よくわからなかった。駅に戻って70分ほどでした

2018年02月25日 織田上総介晃司
高越山城

国道486号線からも看板があり迷う事なく行けると思います。

城跡は高越城跡公園になっており駐車場もトイレもあります。
冠門を抜け少し歩くと主郭に到着します。主郭付近にもトイレがあります。

主郭には北条早雲(伊勢新九郎)誕生の地の石碑。
一段下がると井戸跡があります。

地元で矢掛の壇と呼ばれる郭に向かう途中に堀切らしき跡があります。
矢掛の壇にも石碑がありますが古いため書かれてある文字は残念ながら読めません。

主郭下トイレ手前付近の斜面に石垣らしき跡がありました。
石切跡らしきものがありましたので私は高越山城の石垣かと勝手に思ってます。
なお急斜面になってるので決して無理はしないでください。

2015年12月17日 león☆鷹党
高越山城

早雲の里荏原駅から徒歩で30分程
駐車場・トイレ完備、周辺には城址への案内板も多く設置されていました。
遺構は各郭が残る他、駐車場から冠木門をくぐり三の郭へ至る道の途中に空堀が見られます。

麓に広がる荏原庄は北条早雲こと伊勢宗瑞の生誕地とされ、周辺には宗瑞が祀ったとされる新九郎薬師堂や、宗瑞と父・伊勢盛定の墓と伝わる宝篋印塔が残る法泉寺があります。
また本郭には周辺の史跡を記した井原市観光協会のパンフレットが置いてあり、巡る際とても役にたちました。





2012年04月24日 この家は滅亡しました
高越山城

北条早雲ゆかりの城跡です。城山東側の麓には早雲が寄進した薬師如来が祀られたお堂があります。

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