高越山城(たかこしやまじょう)
高越山城の基本情報
通称・別名
- 高越城
所在地
- 岡山県井原市神代町
旧国名
- 備中国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 宇都宮貞綱
築城年
- 弘安4年(1281)
主な改修者
- -
主な城主
- 宇都宮氏、伊勢氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、堀切
指定文化財
- 市史跡(高越城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
鴨山城(岡山県浅口市)[8.7km]
小笹丸城(岡山県井原市)[10.0km]
猿掛城(岡山県倉敷市)[10.8km]
笠岡城(岡山県笠岡市)[11.7km]
戸屋ケ丸城(広島県福山市)[13.7km]
神辺城(広島県福山市)[14.5km]
青佐山城(岡山県笠岡市)[15.7km]
鬼身城(岡山県総社市)[16.2km]
志川滝山城(広島県福山市)[17.0km]
鶴首城(岡山県高梁市)[19.0km]
高越山城の解説文
高越山城の口コミ情報
2024年04月01日 織田上総介晃司
才崎城[高越山城 周辺城郭]
才崎城の南にある円地公民館に駐車可。
公民館に利用者が居ればひとこと断りを言ったほうがいいでしょう。
比高40mの小振りな城ですが主郭を取り囲む帯曲輪・竪堀群と堀切を配した中世山城の典型的な構造です。
才崎城のある井原市木之子町は「東洋のビール王」と言われた馬越恭平(大日本麦酒株式会社社長)の出身地。日本のビールの発展は彼あってのものです。
木之子といえば「♪きのこのこのこげんきのこ」もしくは「♪パパパパパーマ パーマのパーマ」を思い浮かべる…わかるかなぁ~わかんねぇだろうなぁ〜
2024年04月01日 織田上総介晃司
亀迫城[高越山城 周辺城郭]
亀迫城山公園として整備され駐車場があり、トイレと公衆電話も設置されてます。
駐車場から見える風景は後年に削平されたもので曲輪ではありません。城跡は頂上の主郭と主郭北東と南の曲輪のみです。写真では曲輪跡のみ撮影してます。
南の曲輪から箱式石棺が発掘されて、復元された石棺があります。
毛利元清(元就の四男)が備中侵攻のため築いた砦規模の城。後に元清は猿掛城の城主となり穂井田元清と名乗る。
元就の四男といえど正室・妙玖との間に生まれた三兄弟(隆元・元春・隆景)が大切にされたのに対し、側室との間の子なので「虫けらなるような子どもたち」と、どちらかといえば冷遇されていた。
2023年10月29日 御影大膳大夫岳剣
高越山城
山頂の曲輪群のそばまで車で行けますし、駐車場も十数台停めれる十分なスペースがあるので、とても行きやすいです。また、本丸はじめ整備が行き届いているので、本丸から見下ろすと、直下の曲輪がよく見えて、縄張の位置が目視しやすく、景色も良く、生誕地として早雲に思いを馳せる良い城だと思いました。
2023年04月09日 織田上総介晃司
小菅城[高越山城 周辺城郭]
主郭下に駐車場があり車で行けますが先人さんのおっしゃるとおり林道は狭く、林道により三重堀切が分断されてしまいました。
車でのアクセスは福山・笠岡からだと興譲館高校グランドより北上。高梁からだと国道313号から青野農道へ左折。どちらとも「葡萄浪漫館」を目指します(武道館ではありません。念のため)葡萄浪漫館から東進すると小菅城説明板があり、小菅城へつながる林道となります。
扇の的で有名な那須与一が源平合戦の功績で荏原郷を地頭職の一つとして賜る。
地頭として荏原郷に来たのは与一の弟とされており、小菅城を築城。
2023年01月22日 ドクターイエロー大蔵大輔
瀧山古城[高越山城 周辺城郭]
周囲を流れる星田川が蛇行して周囲を取り囲むような形で突き出した尾根上に位置しています。先端部に主郭を配して、手前の尾根上に長細い曲輪を2面有し、入口付近には土橋と竪堀を伴った高さ約4mの巨大な土塁で遮断されています(幅は狭いですが)。祠を伴った主郭は約20m四方と規模は小さいですが周囲には犬走りや腰曲輪と思われる小さな平坦地も見られ、一部では石列も認められます。
通称星の里街道の道からすぐの場所あり、手前にスペースがあるものの、チェーンが巻かれています。交差点から分岐する側道の道べりに停めさせていただきました。R5.1.22訪城
参考 岡山県中世城郭館総合調査報告書
2022年07月11日 幸運兎治部卿
高越山城
国道486号を井原方面から東に進むと、荏原駅を過ぎて「高越山城跡」のちいさな看板があります。
分岐点にその看板があるので、看板の指示に従えば、高越山城跡直下の駐車場まで車で行けます。
広い駐車場に停めて400メートルほど歩くと城跡に着きます。
石垣とかは残っておらず、本丸跡に牌が建てられていました。
2022年05月28日 つか征夷大将軍ぽ
北条早雲の像[高越山城 碑・説明板]
駅前に北条早雲の像と説明板があります。独特な像ですね。
2022年05月28日 つか征夷大将軍ぽ
摩利支天の説明板[高越山城 碑・説明板]
こちらの説明板から林に入っていくとあります。入ってすぐにも導線看板が有り道になっています。
2022年05月28日 つか征夷大将軍ぽ
摩利支天[高越山城 寺社・史跡]
伊勢氏の守り本尊の摩利支天がこちらに祀られています。手前に塚村氏の祠がありますが間違えないように。祠から更に進んだ所にあります。
2022年05月15日 宮内卿ねねぷぅ
高越山城
小さいかまぼこ板くらいの道案内を頼りに、山道を不安になるほど登ります。車を停めてから頂上まで、まあまあの登山でした。
2022年01月13日 ドクターイエロー大蔵大輔
白実城[高越山城 周辺城郭]
白実(しらざね)城
小田川に向かって延びる尾根筋上に築かれています。岡山県中世城館跡総合調査書によると寺院跡地や畑跡地と化しており、遺構はほとんど失われているようです。ただし石垣を伴なった段差など、元々あった曲輪や切岸を利用した可能性も考えられるとしています。
麓から続く足次神社の参道からアクセスしました。途中からは藪コキ必至です💀R4.1.13訪城
2022年01月03日 ドクターイエロー大蔵大輔
戸木荒神山城[高越山城 周辺城郭]
隣国・備後に近い旧山陽道を見下ろす標高130mの山城です。山頂の主郭の北側には帯曲輪2面を有し、南側には堀切が配されています。更にその南には尾根上に細長い曲輪があり谷底に向けて竪堀が見られます。ハイキングコースとして整備されているので堀切にも階段が設置されておりちょっと残念ですが、主郭には展望デッキもあり眺望は良好です。
トイレは近くの井原鉄道いずえ駅を利用させていただきました。また登城口直ぐの東側谷裾には刈山古墳があります。山裾をよく見てみてください。R4.1.2訪城
2021年12月10日 ドクターイエロー大蔵大輔
太郎丸城櫓門[高越山城 遺構・復元物]
県道155号線が裾を通る後山。戦国時代の天正年間(1573~1591年)には毛利元清(猿掛城最後の城主)の部下多賀野善三郎が城主を務めた浅海中山城(別名太郎丸)があったとされ、南麓には砦のような館が今も残っています。太郎丸櫓門と考えられおり、築城当時のものと推測される石垣の中央に門、その上に長屋の様な白壁の櫓が左右ほぼ20mにわたって豪壮な姿を見せています。個人宅のようで非公開となっています。なお山頂には古墳群らしき遺構(?)があるのみです。R3.12.9訪城(矢掛町散策ガイドより抜粋)
2021年12月10日 ドクターイエロー大蔵大輔
才崎城[高越山城 周辺城郭]
小田川よりほど近い尾根の先端部の標高92mの山頂に位置しています。山頂の主郭部はにはテレビアンテナらしきものが放置されていますが30×15m程の規模です。これを取り巻くように帯曲輪があり更に北方向の尾根続きにはやや広い曲輪があります。また東方向のにも3面の曲輪が連続し、その先は巨大な堀切で東に続く山並みから見事に遮断しています。更に曲輪の北側には畝状竪堀を配して東方面からの備えを万全にしているようです。地元の方に伺った折には井戸跡らしき窪みもあるとのことでしたが、発見には至りませんでした。
城山の西側の道路がやや広くなっている所に車は停めさせていただきました(一応地元の人に許可を得ました)。麓を取り巻くように道はありますが頂上には至りません。比高40m程なので適当な軟斜面より直登すると帯曲輪まで何とかたどり着けます。切岸等の遺構も比較的良く残っています。また麓の道を半周すると東側の堀切に出ます。但しその付近に「立入禁止」の札が掛かっているのを山から下りて初めて気がつきました。何処までが立入禁止エリアになるのか良くわかりませんでした。不法投棄防止のためでしょうか?
西隣の山頂には縣主神社が鎮座しています。素敵な御朱印を授かることができるそうですが受付時間等に制限があるようです。ホームページ等でご確認ください。運が良ければ可愛いネコちゃんに会えるかも?R3.12.9訪城
2021年11月28日 ドクターイエロー大蔵大輔
神戸山城[高越山城 周辺城郭]
神戸山(こうどさん)城
標高120mの神戸山山頂にある城で、山頂部に楕円形の主郭を造成し、周囲には帯曲輪を一周させる極めてシンプルな構造となっています。石垣らしき遺構はあるようですが、土塁や堀切は見られないようです。更に東方向の尾根筋には二の丸、馬場、三の丸等の曲輪が続くと現地の見取り図には記載されていますが、確認には至りませんでした。また北方向の尾根には八幡宮が祀られていますが、曲輪の可能性もあるとされています。
麓にある小田公民館に車を停めさせていただきました。登城口は案内看板が要所に設置されており、道に迷うことはなさそうです。山道も八幡宮の参道として整備されているので安心して登れます。但し参道から分岐してからのラスト100mは結構急勾配になります。また途中には五代目城主・小田政清夫婦の供養塔や横穴式石室を有する熊二号古墳が佇んでいます。R3.11.28訪城
2021年06月03日 ドクターイエロー大蔵大輔
井原陣屋[高越山城 周辺城郭]
寛永19年(1642)池田長信によって築かれました。 長信は備中国松山藩主・池田長幸の三男で、池田修理家を新たに興して旗本となって当地に陣屋を構えたとされています。
現在は井原小学校と化しており当時の面影を忍ぶことは残念ながらできません。校庭の片隅に石碑と案内看板がひっそりと立っています。R3.6.3訪問
2021年06月03日 ドクターイエロー大蔵大輔
西荏原陣屋[高越山城 周辺城郭]
築城の年代は明らかではないものの森長継(津山藩2代藩主)によって築かれたようです。津山藩は4代長成が嗣子なく断絶となり、 長継は何とか西荏原に陣屋を移し森氏は存続しましたが宝永3年(1706)長直の時に播磨国赤穂へ転封となりました。森氏転封の後は、徳川一橋家の所領となり代官所が設けられ、後の興譲館となる教諭所が一橋家の有志により設けられました。
ちなみに興譲館は現在は女子陸上部で有名な高等学校として存続しています。初代館長の阪谷朗蘆(さかたにろうろ)。一橋家に仕えていたあの渋沢栄一とは親交が深い間柄でした。当時一橋家には兵備がほとんどなく、領主・一橋慶喜(後の徳川慶喜)が京都守衛総督となったことから急遽領内で農兵を募ることとなり慶応元年(1865)渋沢自ら当地に赴いて募集活動を行いました。当初は難渋していましたが、阪谷と面会後には領内より200名余の志願者があり大成功を収めたとされています。開校当時から残る校門には渋沢栄一が揮毫した「興譲館」の扁額が掲げられています。
現在の興譲館高校付近が陣屋跡で、西江原郵便局近くの川沿いの道にひっそりと案内看板が建てられていますが、残念ながら他に遺構は残っていないようです。R3.6.3訪問
2021年04月29日 ドクターイエロー大蔵大輔
小菅城[高越山城 周辺城郭]
グレープ愛ランド「葡萄浪漫館」なる岡山ぶどう王国を象徴する直販所の山続きにひっそりと佇む小菅城。車で主郭すぐ下まで簡単に行くことができますが、説明板からの道700mは狭く大型車には向きません。またこの道路建設によって二重堀切は残念ながら大半が破壊されています。
主郭部は本丸と二の丸の二段構造になっており、更に東方向に少し離れて雛壇状に曲輪が続く連郭式山城です。二の丸には小さな神社が祀られていて、本丸には有難いことにベンチが設けられています。訪城時には綺麗に整備されていました。ただ残念なことに周囲の景観はほとんど見えません。
元暦2年(1185)源平屋島合戦にて扇の的を見事に射て名を上げた那須与一は恩賞としてここ備中国荏原郷を与えられたとされ、弟の宗晴が鎌倉時代初期にここ小菅城を築城したと伝えられています。
せっかくなので西江原町の山の中にひっそりと佇む那須与一公憤にも行かれてみてはいかがでしょうか?こちらもかなり細い道を進むことになりますが(約600m)・・・。リア攻めマップをご参照ください。
那須与一は山城国伏見において死去されたとされています。荏原那須氏がその祖与一を忍んで建てた供養塔とされています。扇の的一射必中の故事にあやかって願い事がかなうと古くから伝えられてきました。受験合格を祈願すれば直ちに叶えられるといわれ、受験生にも人気とのことです。また与一公を「公(きみ)に一(ひとつ=志望校)を与える」と名の示すとおりに読めば大願成就するとも言われています。なるほど!R3.4.29訪城
2021年04月20日 三ツ鱗▲钁湯無冷所
新九郎薬師[高越山城 寺社・史跡]
薬師如来像の背には”祈願主新九郎”の銘と花押が書かれている。伊勢新九郎盛時=宗瑞によって文明3年(1471年)頃伊勢氏の根小屋(館城)があった土井地区に近い落神子の地に祀られていた。
2021年04月16日 ドクターイエロー大蔵大輔
亀迫城[高越山城 周辺城郭]
元亀元年(1570)にこの地に侵攻してきた毛利元清は敵を防ぐ要路に位置するこの地に亀迫城(砦のような小さい城)を築いたとされています。関ヶ原合戦後は徳川幕府の支配地となり、この頃廃城になったと思われます。
城としての遺構はほとんど見られず現在は亀迫城山公園として整備されています。専用の駐車場も広く、トイレも併設されています。東屋とベンチのある頂上まで雛壇状に整備されていますが、曲輪跡とは思えません。見晴らしも南側には良好で、ピクニック気分で訪城できそうです。
また上から2番目の曲輪?上には昭和35年(1960)発掘調査により城内より発見された箱式石棺(板状の石を箱のように組み合わせて古墳の石室としたもの)が説明版と共に移設されています。井原圏域ではこの手の箱式石棺が多く出土しているようです。R3.4.15訪城
2021年04月16日 ドクターイエロー大蔵大輔
折敷山城[高越山城 周辺城郭]
旧山陽道と小田と笠岡を結ぶ矢掛往還が交わる標高60mの山頂に位置に築かれた折敷山城は天文年間(1532~1555)には有岡氏の居城であったと記されていますが、徳川の時代になると一国一城制により廃城になったもようです。
北川小学校の南西部の山なのですが駐車場はなく、訪城時には旧道沿いの岸公民館に停めさせていただきました(1台分しかスペースありません)。民家の間から路地を進み、いざ山の中に突入!とたんに竹藪だらけの状態となりますが、何とか道は確保できます。右手の北の丸と左手の本丸の堀切を抜けると、今度は西の丸が右手に見えてきます。再び堀切を抜けると摩利支天が祀られている祠の曲輪に到着します。山頂に本丸を配し堀切を隔てて北の丸と西の丸を配する構造になっています。更に本丸南側には帯曲輪が2段続きます。本丸には説明版があり、一部石垣も残っています(案内看板あり)。西の丸にも石積の遺構がありました。
また折敷山城の東側の山には弓場、的場なる地名が今なお残っていて、弓場の最高峰部には直径約10mの弓場山古墳(案内看板付)があり、墳丘上に箱式石棺の蓋石が露出しています。R3.4.15訪城
2020年11月08日 九曜紋東市正。
高越山城
車で山中の駐車場まで移動可能。道路は広いとは言えないが、途中の分岐路には、親切な案内板があり、迷うことは無い。曇りがちだったが、朝早く一人占めできたので、山頂からの眺めも、爽快感があった。駐車場から、山頂までは、5分程度。駐車場にも、山頂にもトイレ有り。
2020年11月01日 ドクターイエロー大蔵大輔
高越山城
車利用では途中の高越城址公園の駐車場(トイレあり)まで看板を頼りに国道486号から簡単に行けます。山道は一部細い箇所あります。そこから舗装された山道を数分で旗の立つ郭(現地の地図では四の郭)に到達します。このあたりでリア攻め可能です。ここにもトイレがあります。石碑の立つ一の郭(早雲ひろば)までもう少しです。見晴らしは良く、眼下には旧山陽道や出城の横畑、山上山も良く見えます。また二の郭北東の山道を少し下ったところには井戸も残っているのでお見逃しないように❗R2.11.1訪城
2018年07月24日 カーネル
高越山城
井原線 早雲の里荏原駅から
駅前に北条早雲のファンシーな石像があり駅前には高越城への地図もあります。車だと遠回りの道のりを、歩行者用の近道が書かれている親切設計です
なので看板に従い、駅から北上すると歩行者用に「歩く人(近道)」の案内があります。案内に従うと、角之池を超えたあたりから道が狭くなり、緩やかに登り始めます。駅から見えていた山の左裾を回りこんで奥の山へ山道を歩きます。5分ほどで舗装路になり高越城の南端に出ます
北上すると本丸で、いくつかの曲輪をへ経て冠門まで行けます。一段下の道から南下して駅へ戻りました
城は公園として整備されております。案内図にあった堀は、言われれば堀に見えますが、よくわからなかった。駅に戻って70分ほどでした
2018年02月25日 織田上総介晃司
高越山城
国道486号線からも看板があり迷う事なく行けると思います。
城跡は高越城跡公園になっており駐車場もトイレもあります。
冠門を抜け少し歩くと主郭に到着します。主郭付近にもトイレがあります。
主郭には北条早雲(伊勢新九郎)誕生の地の石碑。
一段下がると井戸跡があります。
地元で矢掛の壇と呼ばれる郭に向かう途中に堀切らしき跡があります。
矢掛の壇にも石碑がありますが古いため書かれてある文字は残念ながら読めません。
主郭下トイレ手前付近の斜面に石垣らしき跡がありました。
石切跡らしきものがありましたので私は高越山城の石垣かと勝手に思ってます。
なお急斜面になってるので決して無理はしないでください。
2015年12月17日
高越山城
早雲の里荏原駅から徒歩で30分程
駐車場・トイレ完備、周辺には城址への案内板も多く設置されていました。
遺構は各郭が残る他、駐車場から冠木門をくぐり三の郭へ至る道の途中に空堀が見られます。
麓に広がる荏原庄は北条早雲こと伊勢宗瑞の生誕地とされ、周辺には宗瑞が祀ったとされる新九郎薬師堂や、宗瑞と父・伊勢盛定の墓と伝わる宝篋印塔が残る法泉寺があります。
また本郭には周辺の史跡を記した井原市観光協会のパンフレットが置いてあり、巡る際とても役にたちました。
2012年04月24日 この家は滅亡しました
高越山城
北条早雲ゆかりの城跡です。城山東側の麓には早雲が寄進した薬師如来が祀られたお堂があります。
高越山城の周辺スポット情報
興譲館(遺構・復元物)
太郎丸城櫓門(遺構・復元物)
川面館(遺構・復元物)
三の郭(遺構・復元物)
二の郭(遺構・復元物)
井戸(遺構・復元物)
五の郭(遺構・復元物)
四の郭(遺構・復元物)
説明板(碑・説明板)
説明板(碑・説明板)
説明板(碑・説明板)
説明板(碑・説明板)
案内看板(碑・説明板)
説明板(碑・説明板)
小田政清夫妻の墓(碑・説明板)
説明板(碑・説明板)
摩利支天の説明板(碑・説明板)
北条早雲の像(碑・説明板)
亀迫城(周辺城郭)
折敷山城(周辺城郭)
小菅城(周辺城郭)
西荏原陣屋(周辺城郭)
井原陣屋(周辺城郭)
神戸山城(周辺城郭)
才崎城(周辺城郭)
戸木荒神山城(周辺城郭)
白実城(周辺城郭)
岩屋山城(周辺城郭)
諏訪山城(周辺城郭)
政所山城(周辺城郭)
龍山城(周辺城郭)
瀧山古城(周辺城郭)
米持城(周辺城郭)
青蔭城(周辺城郭)
中堀城(周辺城郭)
横手山城(周辺城郭)
弓場山古墳(寺社・史跡)
新九郎薬師(寺社・史跡)
那須与一公墳(寺社・史跡)
熊二号古墳(寺社・史跡)
神戸山八幡宮(寺社・史跡)
古墳(寺社・史跡)
摩利支天(寺社・史跡)
トイレ(トイレ)
トイレ(トイレ)
トイレ(トイレ)
トイレ(トイレ)
駐車場(駐車場)
駐車場(駐車場)
駐車場(駐車場)
駐車場(駐車場)
駐車スペース(駐車場)
駐車場(駐車場)
円地公民館(駐車場)(駐車場)
登城口(その他)
登山口(その他)
登城口(その他)
登城口(その他)
登城口(その他)
登城口(その他)
登城口(その他)
登城口(その他)
登城口(その他)
登城口(その他)
登城口(その他)
登城口(その他)
歴史
築城年代は定かではないが、宇都宮貞綱が弘安4年(1281)の蒙古襲来に備えて築いたとも伝わる。享徳2年(1453)には伊勢新左衛門が居城としたといわれ、天文・永禄年間の戦いを記した軍記物には、備中諸将とともに伊勢氏の名が登場する。
元亀2年(1571)までは、毛利氏の支配下にあったと考えられる。
遺構
標高約 170mの高越山山頂に築かれている。南には山陽道と小田川を眼下に望み、笠岡から矢掛方面へ北上する往還が山陽道に合流する地点も見下ろせる。後世の改変が著しいため全容は不明だが、山頂の主郭には一辺約15mの高まりがあり、そのまわりを曲輪がめぐっている。高まり部分の西側には石積みがあった。
主郭を中心に、北西側、東側、南側の3方向に曲輪を配置。北西側の尾根の鞍部には堀切が設けられ、現在は消滅しているが、堀切の北側にも曲輪があったようだ。主郭から東・南側にのびる尾根筋にも曲輪が広がり、東側尾根の2段下の曲輪北側谷部には石組みの井戸がある。
交通
・山陽自動車道笠岡ICから車で約30分参考文献
・『岡山県中世城館跡総合調査報告書 第2冊-備中編-』、岡山県教育委員会、2020年。