鴨山城(かもやまじょう)

鴨山城の基本情報

通称・別名

鴨方城、加茂山城、清滝山城、石井山城

所在地

岡山県浅口市鴨方町鴨方

旧国名

備中国

分類・構造

山城

天守構造

不明

築城主

細川満国

築城年

応永14年(1407)

主な改修者

細川通菫

主な城主

細川氏

廃城年

慶長5年(1600)

遺構

曲輪、石垣、土塁、堀切、櫓台

指定文化財

再建造物

石碑

周辺の城

青佐山城(岡山県笠岡市)[8.3km]
笠岡城(岡山県笠岡市)[8.4km]
高越山城(岡山県井原市)[8.7km]
猿掛城(岡山県倉敷市)[8.9km]
黒山城(岡山県倉敷市)[15.8km]
鬼身城(岡山県総社市)[17.7km]
小笹丸城(岡山県井原市)[17.8km]
神辺城(広島県福山市)[17.9km]
福山城(岡山県総社市)[19.9km]
真鍋城(岡山県笠岡市)[20.8km]

鴨山城の解説文



鴨山城(かもやまじょう)は、岡山県浅口市鴨方町鴨方にあった日本の城。

概要 

城跡は浅口市北部の鴨山(標高167.7m)に存在する。遺構としては何段かの削平地と、石積、堀切が認められ、山頂付近の一の段には「鴨山城趾」の碑石、二の段には石組みの井戸が残っている。なお南側の麓には鴨方藩(岡山新田藩)の陣屋跡がある。

築城の時期については不明であるが、正平6年(1351年)細川頼之が備中守護職に任じられて以降に、細川氏によって築かれたとの伝承がある。応永14年(1407年)に細川満国が領有し、以後細川氏一門による備中国浅口郡の経営拠点となっていたと思われる。満国は他にも伊予国宇摩郡などを領有していたらしい。

地理 

鴨山の周囲の地形については、現在の新倉敷(玉島)地区から笠岡に沿った国道2号、JR山陽線が通る付近は、古代には海(水道)であり、14世紀頃まではかなりの大型船舶の航行が可能であったとされる。そして鴨山の周囲には、占見(うらみ)郷、川村(かわむら)郷、小坂(おさか)郷、林(はやし)郷、そして海を挟んで大島(嶋)が存在した。備中国西南部の郡制では、高梁川以西の山陽道筋を、畿内側から下道郡、小田郡、後月郡と分け、山筋を南側に越えた沿岸部を浅口郡としており、鴨山は備中沿岸部の要衝と言えなくもない位置に存在したのである。

細川氏と備中の関わり 

細川氏は足利家の一門として、室町幕府成立に深く関わり、またその発展に寄与したことはよく周知されている。細川満国の祖父頼春は足利尊氏に忠実であり、尊氏が九州へ落ちる際には四国へ分遣され平定を行っている。叔父である細川頼之は幕府管領に就き、幼少の足利義満を補佐するが、斯波家を中心とするクーデター「康暦の政変」で失脚し、父である頼元とともに四国に下る。後に義満により赦免を受け頼元は管領となった。頼元のあとは満元が細川宗家にあたる京兆家の後継として管領となった。満国は分家の形となり浅口郡、宇摩郡などの守護に任じられている。満国の子持春、孫の教春は下野守を名乗り、この一族を野州家と呼ぶこともある。なお細川氏は近畿一円、四国に勢力範囲を広げており、さらに中国地方への浸透の足掛りとして瀬戸内海沿いの備前国児島、備中国浅口の地などを選び築城したものと思われる。

備中守護は、細川頼之の末弟である満之の一族(備中守護家)が任じられていた。ただし備中守護家の支配基盤は脆弱であったとされる(国衙領、守護代への京兆家支配浸透、国人勢力の割拠)。また浅口郡を中心とした瀬戸内の海運の差配などは、引き続き野州家(京兆家の分家の性格を有している)が担っていたようである。応仁の乱では細川氏は一族をあげて東軍の一翼を担ったが、乱後には対抗勢力である有力守護が相対的に減少したこともあり、京兆家(政元)による一族支配が強化され始め軋轢を生んだようである。

備中でも守護細川勝久の時代、 延徳3年(1491年)には備中守護代の庄氏一族でもあり、京兆家内衆であった伊豆守庄元資が備中で兵を起こし、守護の郎党、被官、五百余人を討ち取り守護方の倉を略奪した。備中大合戦と呼ばれる戦乱が始まったのである。在京していた勝久は、翌年の明応元年(1492年)に軍勢を引き連れて備中に入国し、庄元資らと合戦におよびこれを打ち破った。その後勝久と元資の間には和議がなされたようであり、乱は一旦治まった。明応2年(1493年)頃に勝久は死去したようである。その勝久は後継に阿波守護家から細川成之の次子である之勝を迎えていたが、之勝は長享2年(1488年)の実兄・政之の死去により阿波守護家の家督を継ぎ、延徳3年には義春と称している。備中守護家に生じた後継問題に、やがて庄元資らも介入し、戦乱は再開され守護権威はさらに揺らいだのである。 庄元資は文亀2年(1502年)7月頃に死去したらしく、戦乱は下火となっている。永正8年(1511年)頃、義春の子之持が、備中守護を兼ねる形で混乱は収束に向かったようだが、翌9年(1512年)に之持は死去している。

さて永正4年(1507年)末に、足利義稙を戴き大内義興が中国・九州勢を率いて上洛を開始すると、永正5年(1508年)春には、野州家から京兆家の猶子となっていた細川高国は義興に呼応し共に入京した。これにより将軍足利義澄は追放され、義稙が将軍に復職、高国は管領に就任し、そして義興は管領代として幕政を執行した。この過程の中で野州家(浅口郡守護)の細川政春(高国の実父)が備中守護となったが、 戦国時代においては既に守護としての実権はなく、庄氏や三村氏などの有力国人がそれぞれ自立し覇を争う状況であった。政春は備中に下向することもなく、積極的に領国経営を行った痕跡はない。永正15年(1518年)には、その政春も死去している。政春死後は、政春の弟・細川春倶の子である細川国豊が備中守護となったとされる[1]

天文5年(1536年)、出雲の尼子晴久が備中に侵入し、国人衆を支配下においた。野州家家督を継いでいた細川輝政(通政)は尼子氏らの圧迫に抗することができず伊予国へ退いた。同23年(1554年)晴久は名目上ではあったが(守護補任は尼子氏の戦略上重要な手段であった)、備中守護に任じられている。ただし天文10年(1541年)の吉田郡山城の戦いを境に尼子氏の勢力は弱まり、その後は毛利氏の影響が備中に伸びることになる。

伊予の川之江城に在った細川通董は通政の養子となり、やがて毛利氏の援助を受けて失地回復に乗り出した。永禄2年(1559年)、まず現在の笠岡市大島に青佐山城を築き、次に浅口市南部に竜王山城、そして天正3年(1575年)に鴨山城へ入った。通董は本城を改修しさらなる勢力回復に努めるが、次第に毛利氏傘下の一武将として遇されるようになる。この間の元亀元年(1570年)に、宇摩郡などは同じく毛利氏の同盟者となった河野氏に譲渡(併呑)されている。毛利氏は織田氏と対立を深めるようになり、通董も高松城の水攻めに参陣している。しかし本能寺の変の後は一転し、後継となった羽柴秀吉と同盟した。通董は豊臣政権下では九州征伐の毛利氏先鋒を勤めるにいたるも、帰国途中の赤間関で死没す。天正15年(1587年)のことである。通菫の子元通は毛利輝元の配下として朝鮮出兵に出陣し軍功を収めた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後に、西軍の毛利氏が周防国、長門国2ヶ国に削封されると元通も鴨山城を去り、この地の細川氏の支配は終焉を迎えた。元通の子孫は長州で明治維新を迎えている。

備考 

理解の補助として、以下に細川氏の系図(実子関係を主にした抽出形式)と頼之以降の歴代の備中守護職を示す。

頼春 ┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ 頼之  詮春  頼有   頼元(頼之嗣)   満之     ┃   ┃ ┣━━━━━━━━━┓  ┣━━━┳━━━┓ 備中守護家       義之 頼長  満元 満国 基之 満久  頼重 阿波    ┃ ┣━━┳━━┓   ┃ (頼長?嗣)(義之嗣)┃ 守護家  持有 持元 持之 持賢 持春   頼久 教祐  氏久     和泉     ┃   典厩家 ┣━━┳━━┓ 和泉   ┃    ┃       上守護家  勝元 教春 政国 賢春 下守護家 成之   勝久       ┃   ┃ ┃   ┣━━┓ 政元    政春  政賢     政之 義春(之勝) 京兆家    ┏━━━╋━━━┓    ┏━━━╋━━━┓       高国 晴国 輝政 之持 氏久 澄元       ┃  (通政)         通菫        ┃       元通 野州家 備中守護職 1.細川 頼之 1390年~1392年 2.細川 満之 1393年~1405年 3.細川 頼重 1405年~1430年 4.細川 氏久 1430年~1460年 5.細川 勝久 1460年~1493年 6.細川 之持 1511年~1512年 7.細川 政春 1515年~1518年 8.尼子 晴久 1552年~1561年 9.毛利 隆元 1562年~1563年

江戸時代には池田氏の支配地となり、鴨方藩が成立するが麓に陣屋を構えており、新たな城は築かれていない。なお陣屋付近には、細川氏の菩提を弔う寺院(曹洞宗)がある。

沿革 

  • 正平6年/観応2年(1351年)に、細川氏が築城。

支城 

鴨山城の口コミ情報

2023年03月29日 日向夏隠岐守
鴨山城



曲輪や切岸などが残ってます。南側の山道の摩崖仏がなかなか凄いです。

2023年01月05日 カズ
鴨山城

直下の駐車場まで車で上りました。先人の口コミのとおり狭い道ですが、すれ違いが出来るスペースも随所にあり、不安なく通行出来ました。城跡そのものも、城跡からの眺めも良く、おすすめです。

2022年05月11日 ドクターイエロー左馬頭
城山城[鴨山城  周辺城郭]



城山(じょうやま)城は別名加賀山城と称される標高190mの山頂に築かれた山城です。岡山県中世城館跡総合調査報告書には山頂の主郭西方に雛壇状の曲輪の記載があるものの雑木により不明瞭となっています。平坦地は何とか確認できますが土塁などの遺構は見られないようです。

なお報告書にはこの付近の山城にはこのような自然地形を生かした簡単な造りのものが多く、その関連性についても言及しています。

備南街道から天文台のある遥照山に向かう道べりに車を停めてから山道を登ります。丸山公園方面に進むと40分ほどで山頂です。訪問時はかなり荒廃していました。R4.5.8訪城

2022年04月21日 ドクターイエロー左馬頭
亀崎城[鴨山城  周辺城郭]



独立した丘陵を利用して築かれた小さな城です。現在は亀崎神社として整備されています。岡山県中世城館跡総合調査報告書によると鳥居のある平坦な箇所と50mほど南側にある尾根上の祠周囲が曲輪である可能性について言及しています。

城の南方にある亀崎公会堂に駐車させていただきました。神社への参道は手入れが行き届いています。R4.4.21訪城

2022年04月21日 ドクターイエロー左馬頭
森本松山城[鴨山城  周辺城郭]



玉島港を見下ろす栢島の東岸で湾の入り口に築かれています。単郭の小さな城ですが非常に残念なことに県道398号線(通称水玉ブリッジライン)によって城内は南北真っ二つにされています。

南側の城内にはほとんどが藪と化していますが2箇所突出した部分があり横矢掛りの構造となっています。これらの箇所には土塁が他よりも頑丈に築かれているようです(岡山県中世城館跡総合調査報告書参照)。

北側の城内も大半は竹藪となっています。北西側は少し低くなり境界部に石列のような遺構も見られます。また廃屋の裏手には土塁も少しですが残っています。

この地は寿永2年(1183年)10月に源平合戦が行われています(水島合戦)。森本松山城のある栢島には平家方、湾を挟んだ反対側の乙島には木曾義仲の客将率いる源氏方が布陣して壮烈な海上戦となりました。折しも正午頃から皆既日食が起きて、それを予測していた平家軍が海戦に不慣れで動揺した源氏軍に圧勝し5か月前の俱利伽羅峠での雪辱を果たしたとされています。城内北側には古戦場の石碑が建立されていますが、黒い丸は日食があったことを表しているとのこと。なるほど!

城内を横切る県道には源平合戦の案内看板はあるものの駐車スペースはなく、湾沿いの玉島みなと公園の駐車場が広くて近くて便利です。県道の橋梁真下より階段が設置されていて、南北どちらの城内にも簡単に登城可能です。R4.4.21訪城

2022年04月01日 ドクターイエロー左馬頭
佐方城[鴨山城  周辺城郭]



瀬戸内海沿岸の山脈から派生した尾根先端にある山城です。やや段差のある程度の2面の曲輪の前後に小さな腰曲輪を伴った連郭式構造となっています。尾根筋上には3重堀切と竪堀が少々残っていますが、かなり埋もれていてわかりづらくなっています。主郭は雑木だらけながら何とか確認は可能ですが、土塁はわかりませんでした。岡山県中世城館跡総合調査報告書によると北西の尾根先端にある石鎚権現社も曲輪だった可能性について言及しています。

麓の戸神社が登城口になります。社殿南側より中腹の石鎚権現社までは立派な山道が迷うことなくエスコートしてくれます。権現社の裏手からは何とか尾根筋上を登っていくとやがて目前に切岸が立ちはだかります。なお権現社付近にあった木製の案内看板には長山城と表記されていますが、前述の報告書によると長山城は国道2号バイパスを挟んだ北側の山頂とのことです(約1キロ離れています)。駐車場は戸神社周辺と登城口近くにも十分あるようです。R4.3.31訪城

2022年03月19日 ドクターイエロー左馬頭
片山城[鴨山城  周辺城郭]



単郭な小さな城で主郭は50×20mで両端にそれぞれ腰曲輪を設けています。現在は道と化していますが堀切は深く7m前後に及びます。堀切手前から何とかよじ登ることができます。少し道幅が広いところに駐車しました。R4.3.13訪城

2022年02月21日 ドクターイエロー左馬頭
益坂城[鴨山城  周辺城郭]



小さな城ですが主郭の北に小規模の曲輪を有し、その背後は深~い堀切で遮断されています。

麓の公民館に車は置くことができます。登城道は途中から消えていますが、何せ小さな城なので藪コキ前進するとやがて堀切にたどり着きます。R4.2.20訪城

2022年01月13日 ドクターイエロー左馬頭
安芸守山城[鴨山城  周辺城郭]



安芸守山(あきのかみやま)城
鴨方ICの南東の標高199mの山頂に位置しています。西隣の鴨山城を見下ろすロケーションにあります。北端の主郭から南に雛壇状に曲輪を並べる連郭式構造となっています。主郭の北西には腰曲輪もあります。南北それぞれの両端の切岸の下には堀切によって遮断されています。また南端の曲輪の北側の切岸には自然石を利用した列石も見られました。

山麓の団地の奥が登城口となります。ちょっとわかりにくいところですが、マップをご参考に。山道は急坂が多く多少荒廃してますが、時折山陽新幹線の通過音を聞きながらリボンを目安に約20分で主郭の祠まで行けます。R4.1.13登城

2021年11月06日 織田上総介晃司
杉山城[鴨山城  周辺城郭]

最初に断っておきますが最近人気の武州埼玉の杉山城でなく備中・岡山の杉山城です。

県道286号に2〜3台停めれる駐車場があります。
(ここより先は生活道路のため侵入はしないでください)

軍神社からの登城口(西側ルート)にパンフレットと杖があります。西側ルートが整備されており1番安全です。というか他のルートはあまり勧めておりませんでした。西側ルートを進むと主郭に行く分かれ道で東口と西口ルートがありますが迷わず東口ルートにしましょう。西口はハードです。

巨岩と石積に守られた山城です。

鴨方は手延べそうめんと手延べうどんがあります。手打ちうどんじゃないんですか?はい。手延べうどんです。つるっとしたのどごしで美味しいですよ。

2021年06月22日 ドクターイエロー左馬頭
鴨方陣屋[鴨山城  周辺城郭]



鴨方藩は岡山藩の支藩として寛文12年(1672)25000石を与えられて新田藩として立藩しました。初代藩主は池田光政の次子・政言です。藩御用場はこの地にありましたが代々藩主は岡山城下の天神山(現岡山美術館)にある鴨方藩邸で生活し、藩としてはたいへん簡素なものでした。

現在は黒住教鴨方大教会所になっており、石垣や井戸が当時の面影を残しています。幕末には御用場の北側に陣屋が造営されたと案内看板には記されています。R3.6.17訪問

2021年04月12日 ドクターイエロー左馬頭
杉山城[鴨山城  周辺城郭]



標高226mの杉山山頂に位置する杉山城。麓は狭い生活道路になっていますので車の侵入は控えて下さい。県道286号線沿いに小さな看板のある駐車場が3~4台分用意されています。登城口は駐車場からも良く見える軍神社社殿の横から登っていきます。案内看板に導かれて神社に到着、先ずは無事を祈願してから登りましょう。

登城道入口にはありがたいことにパンフレットと杖が置かれています。時間があったら麓の杉谷地区の散策もしてみたいものですね。山道は地元の保存会の方々の努力により綺麗に整備されています。堀切などの案内看板が設置されているので初心者でも解かりやすくなっています。山頂へはいくつかのルートがあるようですが、軍神社より直登の西側ルートのみ整備が進んでいて歩きやすいとのことでした。

15分程登り尾根上に出たあたりから曲輪と切岸が出てきます。三の郭、二の郭を通り過ぎて主郭下で分岐になります。右に行くと距離は長くなりますが、石積のある曲輪や虎口、竪堀(3箇所)など見どころ満載です。主郭(頂上)には巨石が据えられていて圧倒されます。また眼下には山陽自動車道鴨方ICを挟んで鴨山城や安芸守山城が対峙しており、好天だと瀬戸大橋も見えます。軍神社の奥の院が祀られていますが、元々は山頂に奉祀してあったものがその後現在地の麓に奉遷したとのことです。

山道はこれより奥に堀切を挟んで標高269mの出丸のあった高丸まで続いています。時間と体力のある方は是非ともチャレンジしてみてください。また体力回復を…という方には近くに採卵所経営の美味しい🐣たまごかけご飯店や手延べうどん店がありますよ。グルメにも満喫してくださいね。R3.2.18訪城

2020年11月01日 ドクターイエロー左馬頭
鴨山城



車利用では、かもがた町家公園付近から城跡のある鴨山中腹まで行くことはできます。駐車場もありますが道幅は狭く、大型車には向きません。そこから階段の山道を数分で南の曲輪と北の曲輪の境目の堀切に到達します。このあたりでリア攻めは可能ですが、せっかくなので両方の曲輪にも攻め入ってみてください。北の曲輪には腰曲輪を擁する大曲輪があり堅固な構えにしています。南の曲輪には巨石を回って進み、曲輪最先端の岩下には江戸時代に彫られたと思われる磨崖仏や石積みが見られます。また眼下の眺めも良好です。R2.11.1訪城

2019年01月26日 織田上総介晃司
鴨山城

かもがた町家公園の駐車場に停めて西へ進むと鴨方藩陣屋跡の石垣があります。(黒住教の駐車場前)
その脇を山に向かって進むと磨崖仏のある南曲輪にたどり着きます。
さらに北に進むと北曲輪にたどり着きます。

巨岩の南曲輪に対して土の北曲輪と一粒で二度楽しめる城です。

浅口市鴨方町は手延べ素麺の生産地で「麺蔵人」では夏(6月中旬〜盆前頃)の土日、1日2回無料で素麺流しが食べれます(1人5分間)
店内には足湯もあります。

2018年07月31日 カーネル
鴨山城

山陽線鴨方駅から北へ

25分ほどで、東西に走る県道60号線沿いの鴨西公民館の角の交差点に到着。ここに周辺地図があります

この地図の上方に鴨山城跡へとあるので、そっちへ向かいましたが、地図左にも『鴨山城跡・磨崖仏へ』とあり、城へはこっちが近いです

それに気づかず北上して鴨神社経由で山へ。階段を登りながら、たぶん関係ないんだろうと思いつつ、道脇の石積の写真を撮りながら登る。下山してから、やっぱり関係なかったことを認識する

尾根にでたら、左に鴨山城の矢印がありますが、右へ10秒の稲荷山山頂へ往復し、戻って左に進むと舗装路にでて、その先にある『鴨山城跡』の看板に従い、再び山道へ突入し尾根に出る

ここで道に迷い右(北)に行ってしまい、何もないので戻る。後に北曲輪であったことを知る
戻って南へ下ると本丸。さらに下ると階段状の曲輪があり、4の曲輪に城址碑があります

ここにある地図でとんでもなく遠回りしてきたことに気付く。かつ本丸裏の石積みを見てないことにも気付き、本丸へ往復してから、長川寺に下り、道中の磨崖仏に圧倒された
往復110分でした

2011年04月17日 治部大輔摩李
鴨山城

鴨方ICを広島方面へ過ぎたとこで高越山城と同時に落城。

鴨山城の周辺スポット情報

 説明板(碑・説明板)

 源平合戦水島古戦場跡石碑(碑・説明板)

 杉山城(周辺城郭)

 鴨方陣屋(周辺城郭)

 安芸守山城(周辺城郭)

 益坂城(周辺城郭)

 片山城(周辺城郭)

 佐方城(周辺城郭)

 森本松山城(周辺城郭)

 亀崎城(周辺城郭)

 城山城(周辺城郭)

 道越要害山城(周辺城郭)

 軍神社(寺社・史跡)

 仮設トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 かもがた町家公園駐車場(駐車場)

 杉山城駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 駐車スペース(駐車場)

 玉島みなと公園駐車場(駐車場)

 駐車スペース(駐車場)

 杉山城登城口西側ルート(その他)

 登城口(その他)

 登城口(その他)

 北曲輪登城口(その他)

 登城口(その他)

 登城口(その他)

 登城口(その他)

 登城口(その他)

 登城口(その他)

 登城口(その他)

 登城口(閉鎖中)(その他)

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