神辺城(かんなべじょう)

神辺城の基本情報

通称・別名

神辺道上城、黄葉山城、紅葉山城、楓山城、麓城、村尾城

所在地

広島県福山市神辺町川北

旧国名

備後国

分類・構造

連郭式山城

天守構造

型式不明[3重/築年不明/解体]

築城主

朝山景連

築城年

建武2年(1335)

主な改修者

山名理興

主な城主

朝山氏、山名氏、杉原氏(毛利氏家臣)、福島氏

廃城年

元和8年(1622)

遺構

曲輪、石垣、横堀(空堀)、移築門

指定文化財

再建造物

周辺の城

福山城(広島県福山市)[5.7km]
志川滝山城(広島県福山市)[8.9km]
桜山城(広島県福山市)[10.9km]
相方城(広島県福山市)[11.1km]
笠岡城(岡山県笠岡市)[11.9km]
戸屋ケ丸城(広島県福山市)[13.5km]
高越山城(岡山県井原市)[14.5km]
鞆城(広島県福山市)[17.1km]
鴨山城(岡山県浅口市)[17.9km]
青佐山城(岡山県笠岡市)[18.7km]

神辺城の解説文



神辺城(かんなべじょう)は、広島県福山市神辺町にある南北朝時代から江戸時代初期まであった日本の城(山城)である。別名として村尾城、神辺道上城、紅葉山城、楓山城などがある。

概要 

本城は神辺平野を見通せる黄葉山に築城された、備後国を代表する城のひとつである。昭和時代までは、南北朝時代から備後国の守護所が置かれたとされていたが、近年は研究が進み神辺地方に守護所がなかったことが確実視されるようになり、現在では神辺城も備後国に於ける政治の中心からは外れた存在であったと看做されるようになっている。また、南北朝時代に築城された城は、現在の場所から北東約700mに位置する「古城山」にあったと考えられており、現在の位置(黄葉山)にあるものは、室町時代の1443年(嘉吉3年)に山名氏によって築かれたのが始まりと思われる。

黄葉山の神辺城は度重なる改修を受け、江戸時代になると福島氏により近世城郭として整備されるが、福島氏に替わり入封した水野勝成は新たな城(福山城)を築いて神辺城を廃城とした。このとき、建物や石垣の殆どが福山城に転用されるなどしたため、神辺城跡には山頂や尾根を削った曲輪や掘割などが現存するのみとなっている。なお、黄葉山に隣接した山上にある城郭風建築物は福山市神辺歴史民俗資料館で昭和時代後期に建てられた、城の遺構とは無関係の施設である。

なお、神辺城(黄葉山)の城名は廃城後(16世紀末以降)に付けたれたものであり、歴史上は「村尾城」が正確な呼称である[1]

沿革 

城山

城山の城は高屋川に隣接する丘陵上に位置する小規模な城で、「備後古城記」によると南北朝時代の建武2年(1335年)に備後守護職に任ぜられた朝山次郎左衛門尉景連によって築かれたとされる(ただし、備後古城記の成立は江戸時代に入ってからなので、南北朝時代に関する記述の信憑性は疑問視されている)。嘉吉の乱により1401年(嘉吉元年)から山名氏が備後守護代の地位に就き、1443年(嘉吉3年)に新たな城を築いたことにより、廃城となったようである。

黄葉山

黄葉山の城は1443年(嘉吉3年)に山名氏によって築かれたとされるが、当初の規模や様子はよくわかっていない。その後、「但馬村岡山名家譜」によると、山名煕之の嫡男山名氏明が神辺城主であったと伝わり、天文7年(1538年)までに山名理興が城主となっていることがわかっているが、氏明以外には理興以前の城主は明らかではない。天文12年(1544年)頃に神辺城は大内氏に攻められ(神辺合戦)、理興は約7年間持ちこたえるが、天文18年(1549年)に落城する。山名理興は逃亡し、大内氏は神辺城を直轄城とし青景越後守を城番に置くが、大内氏が滅亡し勢力基盤を毛利元就が継承すると毛利氏は臣従した山名理興に神辺城主復帰を認めた。弘治3年(1557年)に理興が死去すると、家老の杉原盛重が神辺城主となる。これに異を唱えた理興の旧臣藤井皓玄が謀反をおこし神辺城を占拠するが、すぐに鎮圧され皓玄は備中国に逃亡し自刃した。永禄7年(1564年)に盛重が西伯耆の尾高城に移ると、神辺城は盛重の二男杉原景盛が引き継ぐが、天正12年(1584年)に兄の元盛を謀殺したことで毛利氏に討ち取られたことから、神辺城は毛利氏の直轄城とされた。天正19年からは毛利元就の八男毛利元康が城主となる。

毛利元康は慶長3年(1598年)に神辺城から南に位置する海辺に新たな城(王子山城)を築いて移り住んだ。しかし、慶長5年に関ヶ原の戦いの戦後処理により元康の所領が没収されると、替わりに福島正則が入封して、神辺城には筆頭家老であった福島丹波守正澄が3万石で置かれた。福島氏は元和5年(1619年)に改易され、水野勝成が入封する。水野氏は西国の外様大名を監視するために配置された譜代大名であったため、その役割を担う城としては神辺城は規模が小さく不便であるとして、芦田川河口の常興寺山に新たな城(福山城)を築いて神辺城は廃城とされた。

遺構 

神辺城は最終的に石垣を用い多数の櫓と天守を有する近世城郭として整備されていたが、福山城築城の際に解体され、石垣や櫓の多くは福山城に移されたといわれている。このため、現在、山上部に残される遺構は曲輪跡や部分的な石垣、堀切、井戸などのみである。平野部は発掘調査により堀の石垣などが検出されている。福山城に移された櫓は神辺一番櫓(三層)、神辺二番櫓(二層)、神辺三番櫓(二層)、神辺四番櫓(二層)などであるといわれている。ただし、これらはいずれも明治初期に解体されたため現存せず、事実の確認は困難である。現在まで残る神辺城の建築物の遺構といわれているのは、福山市北吉津町の実相寺の山門のほか、明王院の書院、庫裏などである。

1970年代に神辺町により本丸上に天守を模した形状(模擬天守)の資料館を建設する計画が持ち上がり、これに先行して二の丸(第二、第三郭)に事前調査のないまま公園整備が開始された。このため、二の丸の遺構は記録を残すことなく破壊されたが、これを見た地元住民が県教育委員会に通報したため本丸部分の整備は中断された。模擬天守計画は地元郷土史会などから、神辺城の遺構を破壊し歴史的経緯を無視するものであるとして、反対運動がおこり、実際に本丸で行われた事前発掘調査で建物跡などの遺構が検出された。このため、神辺町は計画を見直し、資料館は神辺城に連続する吉野山の山頂部に建設されることになった。しかし、神辺城と資料館の間の空堀(堀切)にコンクリート製の歩道橋が建設され、この部分の遺構の一部が破壊されることとなった。

文化財 

城跡そのものは史跡には指定されていないが、城跡に生えているアベマキが市指定天然記念物となっている[2]

参考文献 

  • 『神辺城跡発掘調査報告』「神辺町文化財シリーズ No.4」神辺町教育委員会、1977年
  • 『芸備地方史研究 110・111号』芸備地方史研究会(http://home.hiroshima-u.ac.jp/geishi/index.html)、1977年)
  • 立石定夫 『神辺城と藤井皓玄』内外印刷、1980年
  • 田口義之 『備後戦国紀行(http://www.fukuyama-kanko.com/topics/001802.html)』福山市観光客誘致協議会、2012年
  • 『福山の遺跡100選(http://bingo-history.net/archives/813)』備陽史探訪の会、2010年

神辺城の口コミ情報

2022年05月29日 つか征夷大将軍
神辺城移築門[神辺城  遺構・復元物]



福山藩主が阿部家の時に移築されたようです。そうなると神辺城が廃城後に福山城等に使われてたということでしょうかね。

2022年03月19日 ドクターイエロー
すくも山城[神辺城  周辺城郭]



約1キロ離れた滝山城の出城であった可能性について現地の案内看板には記されています。独立した丘の山頂にある主格は現在観音堂と化しています。また南側に帯曲輪と犬走りの跡とみられる段差が遺構として残っています(現地の説明板に記載)。

山道は良く整備されており、あっという間に主郭に到着します。周囲には駐車スペースはなさそうです。R4.3.13訪城

2022年03月19日 ドクターイエロー
滝山城[神辺城  周辺城郭]



備中と備後の境界に位置する城郭ですが、その後の改変などで当時の遺構は一部失われていると岡山県中世城館跡総合調査報告書には記されています。曲輪は全部で5面存在し、主郭には一部土塁と石積みが残っています。また国界石も案内看板と共に見られます。また付近には永禄11年(1568年)に城主・宍戸孫六が敗戦を喫した滝山合戦の死者の首を葬ったとされる頭塚(こうべい様)の遺構が残されています。

ハイキングコースとして整備されているようで、案内看板が設置されていて道に迷うことはなさそうです。尾根筋上と北側山麓には大きな横穴式石室古墳があります。困るのは駐車場。今回はお願いして登城口近くの民家の方に無理を聞いてもらいました。R4.3.13訪城

2022年01月03日 ドクターイエロー
匠ヶ城[神辺城  周辺城郭]



鎌倉時代末期、笠置山合戦に足利尊氏軍勢として参加し活躍した陶山吉次の居城として伝えられています。

標高130m、本丸更に西方向に延びる二段の郭で構成されており、二番目の郭の東端には土塁の跡も残っています。また本丸の東方向と南方向には腰郭が張り出し南方向の腰郭は四段で構成されています。

戦国時代の典型的な山城で、本丸からは周囲一帯が一望でき、現在も当時の状況を良く留めています(現地の説明板より)。ただし西の郭は藪コキ必至です。

県道3号線沿いに登城口の看板が設置されています。県道290号線との交差点付近の道路改修工事により使われなくなったスペースに駐車させていただきました。R4.1.2訪城

2022年01月03日 ドクターイエロー
小見山城[神辺城  周辺城郭]



隣国・備後に近い旧山陽道を遠くに望む尾根上に位置しています岡山県中世城館跡総合調査報告書によると北端の最高部に位置する主郭より南に向けて尾根上に4つの曲輪を配し、その間には連続する四重の堀切と3本の竪堀によって見事に遮断されています。曲輪上には小さな看板もあります。主郭部は観光農園として利用されており今回は立ち入っていません。また曲輪群の下方の尾根筋にも曲輪群が存在しているようですが未踏破です。

主郭の北側から廻り込むように進むとやがて連続堀切にたどり着きます。私有地を通過しますので必ず観光農園の方に声掛けしてからが良いでしょう。駐車スペースも端っこをお借りしました。R4.1.2訪城

2021年03月20日 織田上総介晃司
要害山城[神辺城  周辺城郭]

神辺旭高校の北側・要害山にある陣城。
神辺旭高校を横目に北上すると案内板があります。
徳田天満神社に駐車場があり、徒歩5分で本丸に着きます。

南北朝時代に宮氏一族が築城。
現在の城跡は戦国時代に大内氏に属した毛利氏が尼子氏に属した山名氏の神辺城を攻めるため改築した陣城。

円形の本丸に3つの虎口、二重の土塁と空堀が残りコンパクトながら見ごたえのある城です。

本丸から埴輪が出土したらしく元々は古墳だったと思われる。

神辺にある要害山城の別名は天神山城。
どちらも全国のどこかにある名前ですねぇ〜

2021年02月15日 ささみん讃岐守
神辺城

とにかく眺めがいいです。
そして、山道を歩き回るのでいい運動になります。土が程よいクッションになり、足にも優しいです。
それゆえ、住宅街も近くにあるせいか、狭い道ですがサイクリングやウォーキングをしている方がわりといらっしゃいます。
それだけならまだしも、自分も近隣者なのでよくわかるのですが、「田舎あるある」で「こんなとこ誰も来やしねーよ」とばかりに狭い山道を飛ばしてくる車もいます。現に、帰り道でそんな対向車に遭遇して肝を冷やしました。
車でお越しの際は、人や車に気をつけてくださいね。

2020年12月13日 織田上総介晃司
正戸山城[神辺城  周辺城郭]

正戸山城跡の東側に駐車スペースがあるので停めました(専用駐車場ではありません)

標高49m 比高34mの小さな山で5分もあれば頂上に着きます。

南北朝時代には存在しており戦国時代には志川滝山城の出城として宮氏の居城。毛利元就により落城。以後毛利氏の支配下となる。

1930(S.5)年に昭和天皇が行幸。正戸山山頂で陸軍演習を視察したという。
その後4村合併で天皇行幸を記念して御幸村と命名。
現在の福山市御幸町となる。

2020年11月09日 ドクターイエロー
神辺城



車利用の場合、吉野山公園福山市神辺歴史民俗資料館を目指してください。国道313号にも案内看板出ています。山道は細いですが、駐車場まで到着したらもう一息!堀切跡を横目に「残存石垣跡へ(本丸跡への近道)」の案内に沿って進むと、わずかに残る貴重な石垣が目前に。見上げると本丸が…。このあたりでリア攻め可能になります。アベマキの巨木のある本丸跡より一段下がった二ノ丸跡の乾櫓跡や鬼門櫓跡付近からの方が眼下の眺望は良好のようです。また荒布櫓跡付近には井戸跡も残っています。R2.11.8訪城

2020年09月22日 ゆきにこふ修理大夫
神辺城

歴史民俗資料館の手前まで自動車で行くと、かなり楽に回れると思います。鬼門櫓跡からの福山市神辺の景色はすばらしいです。

2020年05月23日 OROKA参議
要害山城[神辺城  周辺城郭]



皆さん大好き要害山城です。とはいえ、今回は山梨県にあるあの城ではなく、まさかの広島県にある要害山城でござる。

この要害山城は神辺城の川を挟んだ北部に位置し、何と毛利勢が山名氏の神辺城を攻めるためにこの山に陣を敷いたというではありませんか。(元就さんが建てて、かつ使用したかは不明)

アクセスですが、麓の徳田天満神社に参拝ついでに車を停めさせてもらい、そこから本殿奥の道を進むことたった5分で到着します。

陣城とあって、規模も小さくシンプルで可愛いものですが、楕円形の郭を二重の空堀と土塁で守っています。また、こんなミニチュアのくせに生意気にも枡形虎口も設置されております。

あっさり見れる割にはガッツリ遺構、可愛さの中にもしっかり者の面もありギャップにやられます。

神辺城に行くなら、絶対に行った方が良いですよ~、損はさせません。(何なら神辺城よりオススメ…)

2018年07月03日 カーネル
神辺城

福塩線 神辺駅から

東口に降りましょう。東の正面に見えるこんもり山が神辺城です
時計回りに山を半周して反対側に行かねばなりません。近いけど遠い

駅から東に100mくらいで、国道313号線を左折。右に山肌を見ながら歩くのですが、国道が山から離れるところに「吉野山公園歴史民俗資料館入口」の白い看板があるので斜め右の生活道路へ

100mほど先にまた「吉野山公園→」の看板があるので、右折して南下。あとは舗装路の1本道を黙々と登る

途中から車道を外れ、山道を登れるはずが、完全に藪に覆われてたので、車道を歩きました。

本丸下まで車道があり車で来れます

駐車場からはすぐに、堀と曲輪に出ます。他にも井戸跡がいい感じで残っております

帰りは来た道を戻り、城の北側の天別豊姫神社に寄ってから、駅に戻って90分でした


2017年11月13日 織田上総介晃司
神辺城

福山市内から国道313号線を北上し、神辺駅を過ぎた辺りから神辺歴史民俗資料館の看板があります。そこを右折してください(見落しやすいので気をつけてください)
駐車場は公園前とさらに上の神辺歴史民俗資料館前にあります。

福山城築城の際、神辺城の櫓や石垣を転用したので建物はありません。石垣がほんの僅かに残る程度です。

惣門が福山市北吉津町実相寺に移築されてあります(広島県重要文化財)

神辺本陣や廉塾が神辺の観光になります。

神辺城リア攻めの際「ラジャ」のステーキを!
並んで待つようにはなりますが、リーズナブルで美味しいステーキが食べれます。

席によっては泳いでいる人を横目に食べるようになりますが…

2016年09月04日 ( *¯ ³¯)っ旦
神辺城

電車で行かれる方は要注意です。
駅前を直進されますと神社に突き当たり、
「神邉城順路」とありますが、
人が登った形跡の無い、落ち葉に埋もれたプラスチックの丸太階段があり、
どう見ても猪か獣が通った跡を見ないフリして登っていくと、
丸太階段の終わりは草ボーボーでした。

どうしてもリア攻めしたい方は
アプリの神辺城からMAPを信用して行くのが無難です。
その代わり車のための道路ですので、蛇腹道でクネクネ曲がりながら登って行きます。
歩きで疲れたら、歴史博物館で休憩されると良いと思います。

もう1箇所、登り口がありますが、
そちらの方が良いように思えますが、書き方が難しいのと、この道が一番無難に思えます。


2011年03月01日 きたぴょん治部卿
神辺城

神辺城から北吉津町の日蓮宗実相寺に移設された城門をアップしました

神辺城の周辺スポット情報

 堀切(遺構・復元物)

 僅かに残る石垣(遺構・復元物)

 神辺城移築門(遺構・復元物)

 要害山城跡登城口(遺構・復元物)

 頭塚(こうべえ様)(遺構・復元物)

 説明板(碑・説明板)

 要害山城跡(碑・説明板)

 案内看板(碑・説明板)

 要害山城(周辺城郭)

 正戸山城(周辺城郭)

 小見山城(周辺城郭)

 匠ヶ城(周辺城郭)

 滝山城(周辺城郭)

 すくも山城(周辺城郭)

 神辺本陣(寺社・史跡)

 天満塚古墳(寺社・史跡)

 滝山古墳(寺社・史跡)

 ワールドワイド371神辺(御城印)

 公園トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 駐車場(駐車場)

 小見山城駐車スペース(駐車場)

 駐車スペース(駐車場)

 徳田天満神社 駐車場(駐車場)

 小見山城登城口(その他)

 登城口(その他)

 正戸山城跡登城口(その他)

 登城口(その他)

 登城口(その他)

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