笠岡城(かさおかじょう)
笠岡城の基本情報
通称・別名
- 笠岡山城、高松の城山、笠岡古城、笠岡西浜の城
所在地
- 岡山県笠岡市笠岡
旧国名
- 備中国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 陶山義高
築城年
- 元弘元年(1331)
主な改修者
- 村上隆重
主な城主
- 陶山氏、村上氏、毛利元康、小堀正次、池田長幸
廃城年
- 元和5年(1619)
遺構
- 曲輪、石垣
指定文化財
- 市重要文化財(古城山稲富稲荷神社の本殿及び拝殿)
再建造物
- 説明板(古城山公園)
周辺の城
-
青佐山城(岡山県笠岡市)[6.9km]
鴨山城(岡山県浅口市)[8.4km]
高越山城(岡山県井原市)[11.7km]
神辺城(広島県福山市)[11.9km]
福山城(広島県福山市)[13.4km]
猿掛城(岡山県倉敷市)[17.1km]
鞆城(広島県福山市)[17.3km]
真鍋城(岡山県笠岡市)[17.4km]
志川滝山城(広島県福山市)[19.6km]
戸屋ケ丸城(広島県福山市)[20.8km]
笠岡城の解説文
笠岡城の口コミ情報
2024年08月29日 日本海近江守1号
笠岡城
サテライト笠岡横の細い道からアクセスできます。普通車で上がれますが、離合は注意です。遺構は全く残っていません。
2024年07月06日 織田上総介晃司
有田城[笠岡城 周辺城郭]
車は有田公会堂の駐車場に停める。
有田城の詳細は不明。遺構も井戸とあるが確認できず。城主は小見山氏。主郭と思われる場所に現在、在田神社が建つ。
登城口に鳥居があるが、この鳥居が中途半端な低さなのです。(投稿写真で確認を…)
2023年03月19日 ドクターイエロー大蔵大輔
入田番所[笠岡城 遺構・復元物]
県道沿いに案内看板が立てられています。奥に進むと平坦地は確認できましたが、他に遺構はなさそうでした。詳細は看板を読んでください。R5.1.8訪問
2022年07月03日 織田上総介晃司
鳶尾城[笠岡城 周辺城郭]
(とびのお)と読みます。別名鳶尾山城。
(何処かで同じフレーズが…きっとデジャヴでしょう…)
里庄美しい森を目指して進むと銀寿観世音菩薩礼拝所入口に大きな看板と広い駐車場とトイレが…
さらに進み、主郭下にも駐車場があり、山城ですが車だと気軽に行けます。
主郭北側に模擬櫓がある他は説明碑と想像図碑があるくらい。
主郭には銀寿観世音菩薩礼拝所があります。
2022年04月04日 ささみん讃岐守狸の守
笠岡城
山の上にある小さな公園。桜の名所。こじんまりとしていますがよく整備され、笠岡の市街地と干拓地が一望できます。天気のいい日はお弁当でも持ってぜひ。お猿さんもいて癒されますよ。ただし、駐車場までの道がやや狭いので、徒歩の方も車の方も気をつけて行ってくださいね。
2021年10月28日 織田上総介晃司
笠岡代官所[笠岡城 周辺城郭]
妹尾陣屋長屋門は笠岡小学校にあるため駐車場は無く、許可なく立ち入りできませんが、門は自由に見る事ができます。車は笠岡市役所来庁者駐車場を間借り。
笠岡は天領となり代官所を設置。明治維新後代官所跡に小田県県庁を設置。その時備前の旗本・戸川氏の妹尾陣屋長屋門を移築して正門とする。その後小田県は岡山県と合併し、県庁は廃止。笠岡小学校が現在地に移転して学校の正門となる。よって笠岡代官所と妹尾陣屋長屋門は直接の関係はありません。
笠岡は天然記念物のカブトガニの生息地で保護・繁殖のためのカブトガニ博物館があります。ちなみに博物館の建物のレイアウトはカブトガニをモチーフにしてます。
2021年08月01日 幸運兎治部卿
笠岡城
城郭遺構らしきものはありませんでしたが、展望台もあり、笠岡の干拓地が一望できます。何故かお猿さんの檻があり、三匹飼育されていました。
2021年07月28日 弾正尹 山城守pi_pua
笠岡城
山頂のお城跡まで、自動車で楽々攻略出来ます。城跡は公園に整備されており、遺構はほとんど消滅していますね。展望台が設置されており、ここからの眺望は満足出来ると思います。お城が機能していた頃は、瀬戸内海航路の監視において抜群のロケーションを誇ったお城として存在感があったと感じました。
2021年06月22日 ドクターイエロー大蔵大輔
笠岡代官所[笠岡城 周辺城郭]
笠岡は慶長5年(1600)に徳川氏の直轄領となり、元和5年(1619)に備後福山藩の水野氏の所領になるものの再び元禄11年(1698)幕府直轄領になり、その後元禄13年(1700)初めて代官所が造営されました。幕末まで42代170年にわたり代官支配が続きましたが、明治4年(1871)廃藩置県布告により新たに小田県庁が設置されます。その際に県庁の門として備中妹尾陣屋(早島陣屋周辺城郭)にあった戸川氏陣屋門が移築されました。しかし明治8年(1875)小田県は岡山県に合併され、翌年小学校舎が移転されてからは笠岡小学校の校門として現在に至っています。
JR笠岡駅から北に約300m、突き当たりに立派な門と塀が復元されていて、それらしい雰囲気を感じることが出来ます。駐車場は隣の笠岡市役所を利用させていただきました。R3.6.17訪問
2021年05月09日 ドクターイエロー大蔵大輔
鳶尾城[笠岡城 周辺城郭]
虚空蔵山からの尾根上に位置しています。里庄美しい森を目指して登っていくと大きな鳶尾城古城の案内看板が出てきます。城跡は銀寿観世音菩薩礼拝所として整備されており、ほとんど城郭としての遺構は認められていません。駐車場の付近には堀切もあったと思われますが破壊されています。お堂の南側は岡山県中世城館跡総合調査報告書によると5つの曲輪が連続するとされていますが下りられなくなっています。
唯一、駐車場に近い曲輪に模擬櫓が復元されていてかつてここに城郭があったことを知らしめています。脇には説明板も設置されています。また南側にはベンチも設置されていますが、現在は雑木により景色は見えません。むしろ駐車場の方が良く眼下を見下ろせます。R3.5.9訪城
2020年11月19日 ドクターイエロー大蔵大輔
笠岡城
車利用でしたら国道2号線沿いの山陽マルナカ笠岡店の東側(一方通行にご注意ください!)から城跡のある古城山公園に上がる細い道があります。途中離合可能な箇所はほとんどないので大型車はご注意ください。上りきって平坦な場所に出たら笠岡城の説明看板があります。ここでリア攻めも可能です。一帯は平坦化されており遺構は失われています。城山山頂からは眼下の干拓地が遠くまで見通せます。桜咲く季節が一番のようです。R2.11.19訪城
2020年09月08日 [隠岐守]たびたび
笠岡城
頂上は何もありませんでしたが、眼下に見える瀬戸内海に旅愁を感じます。
車で上まで、安全に上がれます。
(ライト上向きと、時々警笛を鳴らしたほうが良いです)
めったに対向車に会いませんが、用心のため。
(55年前、父に連れてきてもらいましたが、その時の売店や、シーソーは、ありませんでした。そりゃそうですね。(^○^))
2018年07月26日 織田上総介晃司
笠岡城
電車を利用される方はJR笠岡駅を降りてすぐになります。
車は国道2号線から侵入出来ず、笠岡駅南側から侵入してください。
(私は笠岡駅前のショッピングモールに駐車して歩いて登城)
笠岡干拓の為、古城山を切削利用したので遺構は無し。「今は昔」状態です。
古城山公園として山頂には展望台とトイレ。鯉の泳ぐ池。ニホンザルの檻があります。
展望台からの眺めは干拓地が広がっているので築城当時の景色とは異なってると思います。
干拓地にある道の駅笠岡ベイファームでは魚の詰め放題が行われてるそうで、上手くすれば市場より安く、元が採れると思います。
笠岡市は干拓地が多いので道路はストレートが多く、ネズミ取り(パトカー率)が多いのでマイカー城めぐの方は十分注意してください。
立地
標高210m級の応神山から西に下った山塊先端部付近にあたり、笠岡湾と接している。かつては陸地から島状に分離する描き方をしていた絵図も存在する。現在でも、北側、東側、南側は海に接しており、東側のみ陸地と繋がっている半島状の立地である。概要
かつては本丸・二の丸・三の丸が築かれていたようだが、現在は公園として整地されており、その存在を把握することは困難である。公園内には最高点68mの高まりが展望所として残されている。ここが本来長さ約60m、幅約50mの規模を持つ主郭であったと思われる。この地点から見て、北東側に長さ約100m、幅約50m、南側の長さ約60m、幅約40mの2つの平坦面が存在し、当時は曲輪であったと考えられ、主郭を中心に「く」字形の平面形状になる。南側平坦地の南端部分には、長さ10m弱で幅約40mの曲輪が1面残されている。この曲輪のさらに先は、現在崖面になっており曲輪が先端まで連なるかどうかはわからい。北東側曲輪の先には現在稲富稲荷神社が建っており、ここまで本来は曲輪であった可能性が高い。そうすると、この稲荷神社から南側先端部分曲輪が城館範囲になり、全長350mを超える規模であったことが推定される。
当城の側面にあたる北西部分は、急峻な地形のため、遺構は存在しない。南東部分はやや緩やかな斜面地である。この部分には、現在段々に後世の改変が見られる。これらの段が帯曲輪を基に改変された可能性もある。また3段の石垣が帯曲輪状を呈して残っている。しかし石垣自体は後世のものである可能性が高く、段差のある地形が当時からのものかどうか判然としない。
いずれにしても当城は、笠岡湾内のどこからでも望める絶好の占地であり、また城館自体も大規模になることが想定されるなど、地域の代表的な城であった可能性が高い。
文献・伝承
元徳年間に陶山藤三義高によって築城と言われ、永正年間ごろまで同氏が在城したようである。大内氏が当地を支配していた時には、その配下の井上伯耆守春忠が城主であった。また弘治年間ごろから村上水軍の村上隆重が宗家の掃部のために改築し、以後同氏が慶長年間まで在城したと伝えられる。参考文献
・『岡山県中世城館跡総合調査報告書 第2冊-備中編-』岡山県教育委員会、2020年