志川滝山城(しがわたきやまじょう)
志川滝山城の基本情報
通称・別名
- 四川滝山城
所在地
- 広島県福山市加茂町北山145
旧国名
- 備後国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 宮(高尾)義兼
築城年
- 明応8年(1499)
主な改修者
- -
主な城主
- 宮氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、堀切、井戸跡
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
桜山城(広島県福山市)[7.3km]
戸屋ケ丸城(広島県福山市)[7.5km]
神辺城(広島県福山市)[8.9km]
相方城(広島県福山市)[9.1km]
九鬼城(広島県神石郡)[12.4km]
福山城(広島県福山市)[13.0km]
楢崎城(広島県府中市)[14.7km]
高越山城(岡山県井原市)[17.0km]
鷲尾山城(広島県尾道市)[19.2km]
小笹丸城(岡山県井原市)[19.2km]
志川滝山城の解説文
[引用元:Wikipedia「志川滝山城」の項目]
志川滝山城(しかわたきやまじょう)は、戦国時代に備後国(現在の広島県福山市)にあった日本の城(山城)。
概要
志川滝山城は戦国時代に備後国で一大勢力を誇っていた国人「宮氏」によって築かれたといわれ、神辺平野の北部、芦田川水系四川の水源地に近い急峻な山中に位置している。城郭は標高392mの山頂部の尾根に構築されたもので、神辺平野を一望できる位置にある。曲輪は山の山頂部を削平した長大な主郭を中心に周囲に帯郭、腰郭を配置し、更に東側には3条の堀切で隔てた出丸とも呼べる曲輪があり、この西端には櫓台が配されている。しかし、西側はなだらかな斜面であるにもかかわらず明確な防御施設が設けられず、この城の弱点となっており、実際、志川滝山城はこの部分から攻められて落城している。
歴史
江戸時代後期の地誌『西備名区』によると、志川滝山城は山野の戸屋ケ丸城主宮三郎義兼が明応元年(1462年)に築城し、以後3代にわたって居城としたとされる。天文21年(1552年)、中国地方の覇権を掌握しようとした毛利氏が備後国へ侵攻すると、尼子氏傘下であった宮氏は志川滝山城に篭城し、「志川滝山合戦」が勃発した。
江戸中期の軍記物語「陰徳太平記」によると、合戦は7月23日に行われ、籠城する宮光音以下380人に対し毛利元就は3800の兵で押し寄せ、1日で落城したという。宮光音は備中国に逃亡し、この結果、毛利氏は備後南部を勢力下に置くことになった。
現状
志川滝山城跡の南側にある渓谷には現在四川ダムが設置されており、当ダムの貯水湖は滅亡した当城にちなみ「城山湖」と名づけられた。なお四川ダムまでは大きな道路が整備されているが、そこから直接城跡に行くのは急峻な崖であり難しく、さらに上流の大谷池(明治期の貯水池)の土手に行きそこから目指すしかない。
参考文献
- 『福山の遺跡100選(http://bingo-history.net/archives/813)』備陽史探訪の会、2010年
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志川滝山城の口コミ情報
2023年01月04日 織田上総介晃司
小糸城[志川滝山城 周辺城郭]
住宅地内にあり城の駐車場はありません。今回、小糸城跡の向かいの荒神社に車を停めました。(荒神社の一帯も小糸城の城域と云われる)尚、狭い道なので軽自動車がいいです。
主郭の大部分にはソーラーパネルが設置されており城跡として行くとがっかりします。
小糸城は宮(法成寺)氏の居館で、北東の山城・掛迫城は詰城となります。武田信玄の躑躅ヶ崎館と要害山城の関係と同じです。
小糸城の北西部に位置する服部地区はゲンジボタルを育てており、5月末から6月中旬にはホタルが飛び交う姿を見ることができます。
2022年03月06日 織田上総介晃司
遍照寺山城[志川滝山城 周辺城郭]
途中から急坂になりますが神辺墓苑を目指して進み、墓苑の駐車場に停めます。
墓苑のそばにある遍照寺の裏山一帯、コの字を描くように城域があります。
備後屈指の中世山城ですが、残念ながら墓苑造成などにより遺構の一部が破壊されてしまった…
そして本丸も改変されている…
遍照寺の旧山号や文献から正式名称は「今大山城」と判明したのですが、俗称の遍照寺山城の方で知られています。
2022年02月27日 織田上総介晃司
掛迫城[志川滝山城 周辺城郭]
駐車場はありません。福山北産業団地を目指し2つ目を右折。さらに進むと調整池があるので停車。池のほとりに登城口があります。
宮(法成寺)氏の居城です。
2021年03月14日 ドクターイエロー大蔵大輔
志川滝山城
県道21号線から四川ダム方面に折れてダムのある城山湖を目指します。湖の背後に見えるのが目的地の志川滝山城です。次に更に上流にある大谷池を目指しますが、ここから道は非常に悪くなります。離合しづらくガードレールのない細い山道を約2キロ、大谷池の淵、改修記念碑の前に2台ほど駐車スペースはあります。この先は舗装路ながら更に道幅は狭くなり、また工事用大型車両が行き来するためおススメできません(先の約2キロの区間も要注意です!)。
池沿いから分岐して山方向に登る道を約500mほど進み、切通しにある高架の下をくぐって直ぐに右に折れて更に400mほど登ると、小さな電波塔の先にやっと滝山城の案内看板が現れます。ここからは未舗装路。100m奥に進み左に折れて下ります(直進すると行き止まりです💀)。
案内看板を横目にアップダウンを繰り返し倒木を跨ぎ潜りしながら約400mほど、気が付くと二重堀切上に到達しています。目前には櫓台の切岸がそびえます。城内には地元学生さんたちお手製の看板が出迎えてくれますが損傷が激しくてちょっと残念です。眼下には城山湖が、遠くには瀬戸内海もかすかに見えます。ここまで駐車場からはゆっくり歩いて約30分弱です。山道によくあるピンクのリボンはありませんが道はある程度整備されており、迷うことはなさそうです。R3.3.14訪城
2020年05月05日 織田上総介晃司
志川滝山城
まずは四川ダムを目指しましょう。
四川ダムから見える山が志川滝山城です。
ダムカードを集められてる方はダムカードを貰い、次は大谷池を目指します。
(ここからは悪路となるので運転に自信のない方は遠望を見て引き返してもいいと思います)
大谷池の堰堤に着くと大谷池改修記念碑のある場所に車を停めて歩いて行くのが無難です。
何故なら今、掘削作業が行われダンプがひっきりなしに通ってます。車で上がり、帰るときダンプと鉢合わせするとオーマイガーだからです。
城までの道には地元の広瀬中学校の生徒さんが作成した案内板がナビゲートしてくれます。写真にいくつか投稿してます。
地元愛のつまったお城でした。
志川滝山城の城主・宮氏に仕え、毛利氏との戦いに敗れ岡山県井原市芳井町に落ち延びた家臣の子孫が千鳥のノブさんです。
2019年05月26日 幸運兎治部卿
標識(滝山城跡まで3.1km)[志川滝山城 その他]
広瀬地区側からの案内です。
車がなんとか通れる道ですが、運転に自信のない方は、大谷池側から歩かれた方がいいと思います。
2017年05月10日 まるき〜陸中守
志川滝山城
たまたまダムカードを貰いに四川ダムを訪れ、そこでポチったら志川滝山城が攻略できました。(^o^)/
城跡は四川ダムの真上に見える山の上とダム管理所の方が教えてくれました
城跡に行くにはダムの道からは行けず、山の裏(ひと山向こう)からでないと道がないらしいです。詳しくは聞いてませんが…
またこの地域に住んでらっしゃる方は毛利系の家臣が先祖って方が多いらしいですよ。
管理人さんは尼子氏の末裔だとか…
志川滝山城の周辺スポット情報
案内板(碑・説明板)
説明板(碑・説明板)
古代山城 茨城(うばらのき)推定地案内板(碑・説明板)
掛迫城(周辺城郭)
遍照寺山城(周辺城郭)
小糸城(周辺城郭)
駐車スペース(駐車場)
標識(滝山城跡まで3.1km)(その他)
登城口(その他)