楢崎城(ならざきじょう)
楢崎城の基本情報
通称・別名
- 楢崎山城、朝山二子城、二子城
所在地
- 広島県府中市久佐町
旧国名
- 備後国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 楢崎(宇多)豊武
築城年
- 元弘3年〔南朝〕/正慶2年〔北朝〕(1333)
主な改修者
- -
主な城主
- 楢崎氏
廃城年
- 慶長5年(1600)
遺構
- 曲輪、石垣、堀切、畝状竪堀群
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑
周辺の城
-
桜山城(広島県福山市)[9.2km]
相方城(広島県福山市)[9.6km]
鷲尾山城(広島県尾道市)[11.9km]
上下陣屋(広島県府中市)[12.3km]
九鬼城(広島県神石郡)[14.6km]
有福城(広島県府中市)[14.7km]
志川滝山城(広島県福山市)[14.7km]
勝山城(広島県三原市)[15.6km]
神辺城(広島県福山市)[20.1km]
福山城(広島県福山市)[20.4km]
楢崎城の解説文
楢崎城の口コミ情報
2024年05月01日 気分爽快陸奥守
楢崎城
畝状竪堀と石垣が見られそうなので出かけてきました。
安全寺手前に城跡まで向かう細い道があります。
畝状竪堀は、畝がわりと大きいのと藪が多かったこともあり、写真にはうまく収まりませんでした。
①登城路にある石積み
②登城路の先にある堀切
③堀切南の謎の石列
④主郭北の竪堀
⑤主郭南の腰郭
⑥藪でよくわからない南斜面の竪堀
⑦腰郭の石積み
⑧主郭南の石垣
2023年12月07日 菊姫
楢崎城
安全寺に向かい突き当りを右が寺、左(城とは逆方向)に向かうと右(山側)に山頂まで続く参道があります。
2023年05月28日 織田上総介晃司
山伝城[楢崎城 周辺城郭]
山伝城と書いてさんで城と読みます。
駐車場はありません。(先述した円寿寺山城と同じく現地説明会に参加)
投稿写真に説明板を乗せているのでここでの説明は省略。
南側の主郭に向かうには民家の真横を、北側の出丸に向かうには田んぼのあぜ道を通るため個人での登城には気が引けます。
世羅町には松茸に形と食感が似ている「松きのこ」なるキノコが特産品として販売しております。
2023年05月28日 織田上総介晃司
円寿寺山城[楢崎城 周辺城郭]
駐車場はありません。今回、世羅町主催の現地説明会に参加で世羅町宇津戸自治センターに停めました。(後述する山伝城も同じ)
説明会のためある程度枝打ちされてましたが、雑木林と化しているので個人での登城は厳しいかと…
円寿寺山城には毛利元就の九男・元綱(後に小早川秀包と改名)が居たとされてます。
円寿寺山城から県道56号で府中へ向かうと八田原ダムに架かる吊り橋「夢吊橋」があります。1996年(H.8年)に建設された吊り橋で、支間の長さ(歩行者用)でギネスに登録されたそうです。
2018年11月17日 織田上総介晃司
楢崎城
前の方も言っているように県道56号線の無人販売所のある駐車スペースに停めて歩いて目指します。
安全寺には駐車できません。
楢崎城から西に進むとキャンプや川遊びができる河佐峡があります。
2018年11月17日 青き巨星弾正少弼かみ
楢崎城
楢崎城の南側に走っている県道56号線に駐車スペースがあります。無人販売所と自動販売機が2台あり分かりやすいです。
日本城郭大系13巻には楢崎氏が地頭職として8代約270年続いたとあります。
城域は半島状の広い丘陵中でも頂部周辺だけとあります。
半島状全域を見て回りましたが城跡から北西方向に向けて石垣跡や平坦地、礎石があるので実際にはかなり広い山城ではないかと思います。
立地
世羅台地を水源とする芦田川は、甲山盆地から幾つかの小盆地を経て備南の穀倉神辺平野へ出る。この芦田川中流の小さな谷あいの平野のひとつ、府中市の久佐盆地を見下ろす標高341mの朝山に築かれたのが、戦国時代、この付近一帯を支配した楢崎氏の本拠、楢崎城跡である。城は、北から南に半島状に突き出た朝山の山頂部に四段に削平し、北方山続きを三条の堀切によって画しただけの比較的単純な構造である。
遺構
山頂の主郭は、東西57mに達する長大な曲輪で幅22mから18mを測り、中央南側に7メートル四方の櫓台を築いている。Ⅱ郭は、その南に1.5m切り下げて築かれたほぼ同規模の平坦地で、南端と東端に虎口が残っている。Ⅲ・Ⅳの郭は、主郭北西と東に、各々3mと1.5m切り下げて築かれた平坦地で、その規模から主郭に付属する腰郭と思われる。
さらに、これらの主要部を守るように南から東にかけて長さ約100mに達するⅤ郭と、その南に長さ60mのⅥ郭を築いて南方からの攻撃に備えている。Ⅴ郭は南端と東端がやや広がり、南端部の山側には、直径2.5mの石組井戸の跡が残っている。
搦め手は、北方の尾根続きで、Ⅲ郭西北に三条の堀切が見られる。規模は幅3m前後で、両側は竪堀となって20mほど伸びている。
構造
この城の大きな特徴は、石垣・礎石の存在と、竪堀の使用である。石垣は、主郭周辺に集中して見られ、高さは1.5m前後で、特に主郭中央の櫓台は、高さ1mの石垣によってほぼ全周が取り囲まれている。礎石は、主郭の南縁とⅡ郭の西南部に見られる。石の大きさは20~30cmで、一部には径10cmの柱穴を有するものもある。竪堀は、北側を除いた城郭主要部のほぼ全周にわたって見られ、東・西・南側では、竪堀が連続したいわゆる『畝状空堀群』となっている。
また、この城跡で注目されるのは、城跡西北の鞍部を通る古道との関連である。現在、甲山から府中へ抜ける主要道は、城跡直下を通る川沿いの道であるが、土地の人の話によると、30年ほど前までは、この城跡西北の鞍部を越える道が備北から備南に通じる街道であったという。
実際に歩いて見ると、道沿いには転々とかつての電信柱が残り、近年まで主要動として使用された形跡が残っていた。さらに峠の部分では道が直角に曲がり、その屈曲点を見下ろすように郭跡と推定される平坦地が残っている。つまり、楢崎城は街道の関所としての役割も担っていたのである。
歴史
この城に拠った楢崎氏は、元来近江国犬上郡楢崎村を名字の地とした武士団と伝わり、鎌倉時代最末期の正慶2年(1332)、足利尊氏より芦田郡久佐村の地頭職に補任されたのが、この地に勢力を持つようになったきっかけだと言われている。伝承は別として、戦国時代の天文年間(1532~55)になると同氏の活躍が史上に現れるようになり、弘治3年(1557)の毛利元就他17名の連署起請文案(毛利家文書225号)には、杉原・三吉氏などと並んで楢崎彦左衛門尉信景の名が見られ、既にこの時期には備後の国人衆として確固たる地位を築いていたことが分かる。
同氏歴代の内、特に活躍が知られるのは、信景の父三河守豊景と、信景の嫡男の嫡子弾正忠元兼である。共に戦国大名毛利氏旗下の勇将として知られ、豊景は毛利氏の備前制覇の過程でその先鋒として活躍し、永禄11年(1568)8月の神辺合戦では、子息を失いながらも毛利氏のために、藤井氏から神辺城を奪回するのに功があった。また、元兼は天正年間(1573~1592)、毛利氏の武将として美作月田山城を守り、羽柴・宇喜多氏との合戦で功を立てている(『萩藩閥閲録』巻53楢崎与兵衛)。城はこうした楢崎氏の盛衰の中で整備され、慶長5年(1600)、同氏の過去と共に廃されたものと思われる。
交通
楢崎城跡を訪ねるには、JR福塩線を利用して河佐駅で下車する。駅前に立つと右手(東)に行く手を阻むような山容が目に入る。これが別名朝山双子城とも呼ばれる同城跡である。集落の北側にかつての街道が残り、東に上り詰めた峠で道を右手にとれば10分程で山頂主郭に達する。福山周辺では登り易い山城のひとつである。参考文献
・『山城探訪 福山周辺の山城30選』備陽史探訪の会、1995年。