吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)

吉田郡山城の基本情報

通称・別名

郡山城

所在地

広島県安芸高田市吉田町吉田

旧国名

安芸国

分類・構造

山城

天守構造

不明

築城主

毛利時親

築城年

延元元年〔南朝〕/建武3年〔北朝〕(1336)

主な改修者

毛利元就、毛利輝元

主な城主

毛利氏

廃城年

天正19年(1591)

遺構

曲輪、石垣、土塁、堀切、井戸

指定文化財

国史跡(毛利氏城跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

猿掛城(広島県安芸高田市)[3.9km]
五龍城(広島県安芸高田市)[4.5km]
鈴尾城(広島県安芸高田市)[5.9km]
日下津城(広島県安芸高田市)[7.9km]
松尾城(広島県安芸高田市)[8.6km]
仁後城(広島県安芸高田市)[12.6km]
阿賀城(広島県安芸高田市)[13.3km]
黒川城(広島県世羅郡)[17.6km]
七郎城(広島県広島市)[18.9km]
今田氏城館(広島県山県郡)[18.9km]

日本100名城・続日本100名城スタンプ情報

番号・名称

72 郡山城

設置場所

安芸高田市歴史民俗博物館[地図

吉田郡山城の解説文

吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)は、広島県安芸高田市吉田町吉田にあった日本の城。安芸国の戦国大名毛利氏の居城であった。城跡は「毛利氏城跡 多治比猿掛城郡山城跡」として多治比猿掛城と共に国の史跡に指定されている。

概要
城は可愛川(江の川)と多治比川に挟まれた吉田盆地の北に位置する郡山全山に及ぶ。築城初期は砦のような小規模な城だったが、毛利氏の勢力拡大とともに拡張され、山全体を要塞とする巨大な城郭となった。後に毛利輝元が広島城へ移るまでのあいだ居城としていた。

沿革
室町時代まで
吉田郡山城の築城時期は不明とされるが、城内にある祇園社(正中2年(1325年)より以前の創建。現在の清神社)より後に築城されたとされる。吉田荘(よしだのしょう)の地頭職として毛利時親が下向したのは建武3年(1336年)であるが、宝永2年(1705年)に書かれた「高田郡村々覚書」には「時親公より以後」に吉田郡山城に住んだと記述してある。

文和元年(1352年)に毛利元春が「吉田城」なる城に籠もったこと記録されていたり、応永4~7年(1371-1374年)の毛利親衡書状の宛先が「郡山殿」となっているため、元春が築城したと解説される場合もあるが、これが吉田郡山城のことを指すのかどうか、現存の吉田郡山城に直接繋がる城なのかどうかは定かではない。

当初の郡山城は砦程度の小規模な城で、一般的な国人領主や豪族の城と変わりなく、12代目にあたる毛利元就が入城する大永3年(1523年)までは大きな変化はなかった。元就は国人領主の盟主から戦国大名への脱皮を図り、郡山全体に城域を拡張していく。郡山全域の城郭化が始まったのは元就の晩年と考えられており、天文9年(1540年)から翌年正月まで続いた吉田郡山城の戦いの頃はまだ拡張前だった。ただし、尼子詮久(後の尼子晴久)率いる3万の大軍を撃退したこの合戦では、農民男女を加えた8000余りが籠城したとされるので部分的な拡張が始まっていた(もしくは、城郭化される前の全山に人を入れた)可能性も指摘される。少なくとも、南麓に堀が設けられたのは、天文20年(1551年)頃とされ、城域が拡張されたのも天文年間の後半とする見方もある。

安土桃山時代
拡張・整備が続けられた吉田郡山城内には、城主元就だけでなく、嫡子毛利隆元や一部の重臣たちの館も設けられたといい、戦時のみ城郭に籠もる従来型の山城から、平時の居館と戦時の城郭が一体化する近代的な性格を持つ城に変わった。元就の孫の毛利輝元の頃には石垣や瓦葺きなども使った近代的な城郭へと変貌した。天守は元就時代には無かったが、見張り用の櫓が本丸の最上段に建てられた。輝元時代には三層三階の天守があったともいうが詳細は不明である。天正12年(1584年)にも城の修築・城下の整備を輝元が指示しており、城下の上町を「しらかへ」にするように命じていたり、毛利氏が豊臣秀吉に従属した後に使用したと考えられる金箔瓦も出土している。

しかし、山間部の盆地に位置する吉田郡山城は交通の便も悪く、天正19年(1591年)に広島城がほぼ完成すると、吉田郡山城は毛利氏の本拠としての役割を終え、家臣や城下町の商人らは広島城下に移住した。廃城時期は、毛利氏の広島移住後の天正19年、関ヶ原の戦い直後の慶長5年(1600年)頃などと諸説あるが、毛利氏の本城としての役目を終えた天正19年が事実上の廃城時期と言って差し支えないと考えられる。この時に、山麓の堀は埋められたとも言われているが、大坂城天守閣で保存されている穂井田元清書状内で、文禄3年(1594年)に元清が兄の小早川隆景とともに吉田に出頭したとあり、何らかの形で吉田郡山城が維持されていたことが確認できる。また、山城を重視する輝元が、完全な平城である広島城に対して、詰めの城として引き続き吉田郡山城を温存していたとの見方もある。

江戸時代
慶長20年(1615年)に江戸幕府が出した一国一城令により吉田郡山城も取り壊され、寛永14年(1637年)に島原の乱が起きると、キリシタンの決起を恐れた幕府によって、石垣や堀なども破却・撤去された。幕末には広島藩の支藩として広島新田藩が成立し、文久3年(1863年)に吉田郡山城の麓部分に陣屋が置かれた(吉田陣屋)。明治2年(1869年)に廃藩となり、陣屋の建物は廃され、もしくは移築された。
...

吉田郡山城の口コミ情報

2020年09月20日 しょう備中守
天神山城[吉田郡山城  周辺城郭]

この城は、郡山合戦時に毛利方の援軍として大内氏重臣の陶隆房勢一万が天神尾に着陣したそうです。
本来、船山城側から登城するのですが、縄張図を見ると郡山城側から行けそうだったので、行ってみました。
郡山城登山口から少し行った所の道標を山部側に行きすぐに左側を尾根に向かって登ると、畝状の連続堀切があります。
そのまま、尾根に沿って進むと主郭に出ます。

2020年04月19日 野呂利左衛門督休三
青山城(Ⅰ群)[吉田郡山城  周辺城郭]



天文九(1540)年から天文十年の郡山合戦における尼子方の陣城の1つ。尼子方は郡山城の西から南にかけて陣城を築いて展開します。
その中で前期の本陣の風越山城を除いては青山城と光井山城の規模は一際大きく、普請においては風越山城をも凌駕しています(そうすると後期の本陣か)。
私有地の上、地権が錯綜していることから登山路もなく、整備もされていませんが下草は少ないので比較的登りやすいと思います。
「安芸高田お城拝見~山城60ベストガイド」に縄張図あり(安芸高田市歴史民俗博物館で販売。城跡登り口からは20分ほど。現金書留での販売も)。安芸高田市の広報(2015年7月)にも縄張図があります(市HPでDL可)。
バスでは吉田病院(安芸高田市役所の1つ前。広島バスセンター基準)か青迫(同2つ前。同)が最寄り。

「安芸高田お城拝見」をお供に2019年12月7日訪問。青迫のバス停で下車。時間が時間だったのでそばの定食屋で昼食(値段表示はラーメン定食以外は単品のなので注意)の後、そこから近くの進入路(国土地理院25000分の1地図で言うところの北から2番目の破線の道)を目指すが見つけられず。すぐ近くに登れそうな所があったのでそこから入り、派生する尾根を直登することになりました。地表は藪になっていないものの低い枝が少なからず、それなりに歩きにくい。曲輪にも見える地形が続いており、石積がある部分も。この辺りには浄安寺という寺があったそうでその関係か、それとも後世のものか。
(続く)

2020年04月19日 野呂利左衛門督休三
青山城(Ⅰ群)[吉田郡山城  周辺城郭]



(続き)城のある南北に走る尾根筋に辿り着くと高さ1m程度の切岸を持った小規模な曲輪群が続きます。しばらくその曲輪群を辿って登っていくと、優に高さ5mあろうかという切岸に突き当たります。ここから中枢部です。ぱっと見たところ登り口はなく、とりあえず向かって左側を歩きました。足元はすぐに犬走り状になり、少し進むと左手に大きな一条の竪堀を見ることができます。さらに進むと上の曲輪の切岸も3mくらいになり、上にもう一段曲輪が見えます。
その辺りで一気に登り、曲輪の反対側へ。そちらの方にさらに奥の曲輪の入り口があります。この辺の曲輪は先程の切岸よりは低いですが、それでも2m程はあるでしょうか、しっかりとした造りです。さらに奥が一段高くなっており主郭と思われます。非常に浅いですが堀状のものがあり、縄張図を見ると馬出を彷彿とさせます。
時間がなかったのでここで折り返すことにしましたが、この城は西の光井山城へ向かってⅡ群、Ⅲ群と続きます。
さて帰路です。中枢部は下りにくいです。主郭手前の曲輪入り口付近の進行方向左手に腰曲輪が2つ続いている所があるので、そこから下りました。その左手には連続竪堀があります。
それらを見ながら尾根を元来た方向へ進んでいきます。登ってきた道は下りるのに怖いので、国土地理院25000分の1地図で言うところの一番北の破線の道を目指します。登ってきたところよりさらに尾根の先端の方へと向かいますが、やはり郡山城に近い曲輪は造りが甘いです。
一番北の道に直交する位置から斜面を降ります。比較的降りやすいですが、最後はごみの不法投棄?現場。さらに進み墓地前を通り国道54号へ。東側からはこちらを起点終点にするのが良いのかも。

2019年11月02日 野呂利左衛門督休三
小島雪そうの墓[吉田郡山城  寺社・史跡]



幕末に長州藩に備えるために吉田に陣屋が置かれ、浅野家分家が入りましたが、その家中で御物頭を勤めていました。
絵を江戸で宗紫岡に学び、浅野本家の絵師の岡岷山と並び称された画家です。
師の宗紫岡は南蘋派の絵師で、祖父の宋紫石(本名、楠本幸八郎。雅号に雪渓、雪湖など)は杉田玄白や平賀源内と親交があり、西洋画にも興味を持っていたとか。岡岷山の師でもあります。

[参考]
説明板
朝日歴史人物事典「宋紫石」

2019年11月02日 野呂利左衛門督休三
新町[吉田郡山城  碑・説明板]

南北に走る順礼道縄手にできた町で、たて縄手沿いの三日市や六日市から続く町並みで、十日市との繋ぎの場所に当たりました。

[参考]
説明板

2019年11月02日 野呂利左衛門督休三
安芸高田市歴史民俗博物館[吉田郡山城  スタンプ]



常設展示には吉田郡山城の模型もあります。
書籍・図録やグッズも売っています。

販売されている書籍の中でおすすめは「安芸高田お城拝見~山城60ベストガイド」(1200円)安芸高田市には存在が確認されただけでも100以上の城跡があります(旧高田郡がまるっと1つの市なので驚くことでもないのかもしれんが)。そのうちの60城について紹介しています。
同館学芸員の秋本哲治氏が実地踏査して、安芸高田市の広報に連載されていたのを一冊にまとめたものです。
幕末の浅野家の御本館以外は現況の縄張図が掲載されています(同館は遺構が残っていない)。


2019年11月02日 野呂利左衛門督休三
宮崎神社[吉田郡山城  寺社・史跡]



南北朝時代の観応元(1350)年に毛利師親が勧請した神社です。幕府の命令で石見(島根県西部)の佐波善四郎の討伐に赴く際に、江の川で先祖の地である相模国(神奈川県)の宮崎の八幡宮に先勝を祈願しました(毛利氏の苗字の地は相模国の毛利荘[神奈川県厚木市])。そして抜群の戦功を挙げたことから、この地に八幡宮を勧請したのが始まりだそうです。
大永三年の元就と弟の相生元綱との戦い、天文十(1540)年の郡山合戦での毛利と尼子の戦闘で炎上しています(尾根続き西南西600mに尼子方の宮崎城があった)。
現存する棟札や、棟札の記載の写しから戦国時代以降6回の再建または改修が確認されます。そのうちの最古の物が永禄十一(1568)年の物です。

同社には毛利氏ゆかりの物が他にも伝わっているそうで、その中の鐙石が先程の由緒に関わるもので、師親が川を渡っているときに浮かび上がって鐙に引っ掛かったとされる石です。そのまま戦い、勝利を収めた師親はその石を宮崎神社に納めます。
以来、吉田郡山では小石に見立てた餅を食べる風習が生まれ、それが「川通り餅」と呼ばれるようになったそうです。

またかつては創建以来、八月十五日の大祭に流鏑馬を行っていたそうですが、太平洋戦争での馬匹不足で廃れてしまっています。

[参考]
説明板
安芸高田市「宮崎神社(吉田町)」
御菓子処 亀屋「『川通り餅』の由来」

2019年11月02日 野呂利左衛門督休三
郡山公園[吉田郡山城  その他]



大正四(1915)年に造られた公園ですが、ここは毛利氏時代に興禅寺があった場所です。永禄十(1567)年に毛利元就は観世太夫宗雪を招いて、ここで能興行をしたそうです。
興禅寺は毛利氏の広島移転と一緒に移転しています。

公園内に土生(はぶ)玄硯の顕彰碑があります。玄硯は吉田郡山の生まれで、徳川家斉の御典医にもなっています。その生家は高林坊や福泉坊の近くにあり、今は田原菓舗(もなか「毛利公」)になっています。

2019年11月01日 野呂利左衛門督休三
食い違い交差[吉田郡山城  その他]

北西から南東方向に延びる、たて縄手は食い違っていませんが、これに交差する巡礼堂縄手が食い違っています。これも防御上の工夫です。

[参考]
じゃらん安芸高田パンフレット

2019年11月01日 野呂利左衛門督休三
食い違い交差[吉田郡山城  その他]

防御上の理由からわざと食い違いに造られており、すごく変則的な見た目の十字路になっています。
ここから清神社の方に延びる道が祇園縄手(祇園は清神社がスサノオノミコトを祀っていることに因る)、反対方向への南西に延びる道が油縄手で、北西方向から南東方向に延びる道が、たて縄手です。

[参考]
じゃらん安芸高田パンフレット

2019年11月01日 野呂利左衛門督休三
浅野藩御本館跡[吉田郡山城  寺社・史跡]

文久三(1863)年に着工され翌年に完成した陣屋で浅野一族の長厚が入りました。敷地は吉田高校になっています。遺構の痕跡はないそうです。
表と裏の二つの門があったそうですが、裏門が日野家に移築されているそうです。また西南の物見櫓が市内の法円寺に移築されているそうです。
なお、陣屋築造と同時に吉田郡山城跡の要塞化の計画もあったようで、火薬庫などが造られたそうです。

[参考]
安芸高田市歴史民俗博物館「安芸高田お城拝見」

2019年11月01日 野呂利左衛門督休三
福泉坊[吉田郡山城  寺社・史跡]



長元年中(1028-1037)に近江坂本の永礼という僧が奈良に創建したのが始まりとか。応永年間に焼失したので甲立(五龍城のあるところ)に移ったとか。
天文年間(1532-1555)に覚正が吉田村内東島で中興したときに浄土真宗に改宗し、二世の祐正が毛利輝元から土地を賜ったときにここに移転したとか。ちなみに祐正は石山合戦の時に兵糧を献納した功績で親鸞座像(安芸高田市重要文化財)を顕如から賜ったそうです。
三世祐慶の時に毛利氏の防長移転と、続く寺領没収により一時は山口に移りましたが、四世空玄はこの地に寺を戻しました。本堂と庫裏、山門、鐘楼が登録有形文化財になっています。本堂は昭和二十三年の築ですが、この地の名工の西谷庄一の手によるもの。庫裏は江戸時代後期(1830-1868)年のどこか)の築と見られており、この地の真宗寺院の庫裏の様式を示しているとのこと。山門は文政十二(1830)年の築、鐘楼は年代不明ですが江戸時代の築です。

境内の幹回り5.7mのイチョウは樹齢500年の古木です(500年ということは…)。

[参考]
浄土真宗本願寺派安芸教区高田西組「福泉坊」
文化遺産オンライン「福泉坊本堂」「福泉坊庫裏」「福泉坊山門」「福泉坊鐘楼」
安芸高田市「大銀杏(福泉坊)(吉田町)」

2019年11月01日 野呂利左衛門督休三
酉谷地点石垣[吉田郡山城  遺構・復元物]



16世紀後半に築かれたと見られる石垣です。この石垣のある曲輪の上の曲輪からは鍛冶炉の跡が見つかっています。

[参考]
説明板

2019年11月01日 野呂利左衛門督休三
近世の石敷遺構[吉田郡山城  碑・説明板]



吉田郵便局前の石敷は、ここの工事の際に出土した江戸時代の石敷を再利用したものです。
ここからは古代の高田郡衙に由来する遺跡も見つかっており、この辺りの町割の起源が古代に遡ることがわかっています。

[参考]
説明板

2019年11月01日 野呂利左衛門督休三
船山城[吉田郡山城  周辺城郭]



毛利元就の異母弟の相生元綱が住んでいたといわれていますが、あくまで伝承です。元綱は毛利家の家督を元就と争い、討たれています。
登り口としては船山城跡・船山社の説明板のそばの墓地からになります。
城は堀切で東と西に分けられます。堀切は南の裾を回ることで越えられますが、滑落しないよう注意。
西の曲輪の西端からも出入りできますが、道が一部崩れていたので(2018年11月)、そこも要注意。

[参考]
安芸高田市歴史民俗博物館「安芸高田お城拝見」

2019年11月01日 野呂利左衛門督休三
法専寺[吉田郡山城  寺社・史跡]



今は浄土真宗の寺ですが、創建当初は真言宗でした。この寺を開いた法専は毛利元就の庶子で俗名を元為と言うそうです。
天文五(1535)年の開創時は青山の麓にあったそうです。福島正則が広島城主の時に寺領を没収されたため、浄土真宗に改宗したそうで、その時に今の場所に移転したとか。

[参考]
浄土真宗本願寺派安芸教区高田西組「法専寺」

2019年11月01日 野呂利左衛門督休三
六日市[吉田郡山城  碑・説明板]



六日、十六日、二十六日に市が開かれました。市自体は江戸時代に衰退したようですが、幕末までは胡神が市場であった区域の中央に祀られていたそうです。

[参考]
説明板

2019年11月01日 野呂利左衛門督休三
船山城跡・船山社説明板[吉田郡山城  碑・説明板]



切通の東(吉田郡山城と尾根続きの方)に船山社、西に船山城跡があります。

毛利元就に討たれた相生元綱は船山城に住んでいたと言われます。その元綱の霊が祟りをするので、住民が元綱の霊を祀るために建てた祠が船山社です。

船山社の上に天神山城があります。直登も不可能ではないでしょうが、郡山城から行くのが無難と思われます。

船山社と船山城の間の切通は細声峠と呼ばれ、元就が元綱を攻めるときに手勢に声を落とすよう命令したことからその名があるとされています。元は天神山城と船山城の間の谷を利用した堀切が道路としても使われ、利便性を増すために掘削したものと見られています。

[参考]
説明板
安芸高田市歴史民俗博物館「安芸高田お城拝見」

2019年11月01日 野呂利左衛門督休三
高林坊[吉田郡山城  寺社・史跡]



ここの寺の鐘は郡山合戦の際に宍戸氏(宍戸氏は五龍城主)が陣鐘として用いたと言われています。鐘楼門の鐘がそれです。南河内などを中心に作品を残した鋳物師の丹治友重が南北朝時代初期の建武二年に造った物で、広島県の重要文化財に指定されています。事前連絡があれば見学できるそうです。

宍戸氏の本拠の五龍城近くにも高林坊があるとのことですが、そこと関係あるのでしょうか?

[参考]
広島県教育委員会ホットライン教育ひろしま「広島県の文化財 - 銅鐘(安芸高田市吉田町)」
安芸高田市「高林坊梵鐘(銅鐘1口)(吉田町)」

2019年11月01日 野呂利左衛門督休三
藤森神社[吉田郡山城  寺社・史跡]



小早川隆景の屋敷がここにあったとされます。吉川元春の屋敷は不明ですが吉田郡山城の峰続きの天神山の麓にあったとされます。

[参考]
説明板

2019年11月01日 野呂利左衛門督休三
住吉神社[吉田郡山城  寺社・史跡]



元々は多治比川の左円(吉田町吉田左円か。安芸高田市歴史民俗博物館の少し西)というところに祀られていたそうですが、元就の頃に吉田郡山に船着き場が造られた際に可愛川(江の川)対岸の住吉山に遷されたそうです。天文十七(1547)年の毛利隆元の棟札が残されているそうです。
その後、現在地に遷されたそうですが、この場所は古い時代の毛利氏の館跡ともされるそうです。

[参考]
説明板

2019年05月04日 KAZ治部卿正勝
清神社[吉田郡山城  寺社・史跡]



『すがじんじゃ』と読みます。
毛利家が戦勝祈願した神社です。サンフレッチェも!
手前の杉の木5本は、樹齢800年とも
1000年とも言われてます。
ここの破魔矢は、弓1つに対して矢が3本付いてます(^O^)/

2019年05月04日 KAZ治部卿正勝
展望台[吉田郡山城  関連施設]



大内氏援軍の攻め口方面(池の内古戦場)が良く見えます。尼子陣所の青山方面はちょっと木が邪魔してますが、合戦当時を妄想するには、もってこい!です
(≧∀≦)

2018年06月14日 たれめパンダ安芸守maki
吉田郡山城

展望台・清神社から本丸を目指すコースと歴史民俗博物館を通り毛利隆元墓所から本丸を目指すコースがあります。
展望台・清のからの道の方が 楽なので初心者さんにはこちらからをオススメですが、元就様墓所でお参りしてからの本丸コースは、山城味わいたい方には こちらからをオススメします

2017年07月17日 まるき〜上野介
吉田郡山城

吉田郡山城…山の頂上にヒトデを置いたような?星型の縄張りとなっていて本丸から五方向に伸びる壇と呼ばれる廓が特徴
各壇の奥に段差のある廓が連続していて家臣の屋敷を置いたり炊事場を置いたり、生活ができるようにしていたみたいです

本丸の周りは石垣が崩壊し苔が何とも良い感じ
破城され、朽ちて行く感漂うひっそりとした雰囲気、今まで行った城跡には無い独特の雰囲気に時間の経つのも忘れそうでした…。
資料や縄張り図を見てるとかなり広いと感じていましたが、実際歩いてみると案外楽勝で約2時間強で要所要所、旧城跡(元就が拡張する前の元々の城跡)まで見学できました。
歩いていて感じた事、
山自体が赤土で結構コケが綺麗に付いてる
赤と緑のコントラストが目に優しい…
日の当たる部分が少なく夏場でも涼しく感じられた
確かに西日本最大の山城だけあって見所、遺構はたくさんあり破城の様子が伺える貴重な山城だと思います。
整備はされていますが足元にゴロゴロと石が落ちているため、分厚い靴底の靴で来るのが良いかと…
尾崎丸〜旧城跡付近は少し険しいです。


2017年05月11日 スーパーキャット
吉田郡山城

麓にある歴史民俗博物館に無料駐車場とトイレがあります。100名城のスタンプもそこにあります。中では甲冑をバックに写真を撮ることができます。施設の横に貸し出し用の杖があります。
そこからもう少し上がったところにも無料駐車場とトイレがあります。
三矢の訓の石碑は安芸高田少年自然の家の敷地内にありますが、鍵はかかっておらず自由に入ることができます。
午前6時よりも早く城攻めをすると何頭もの野生の鹿に遭遇します。
建物は残っていませんが、曲輪の跡がたくさんあり、見ごたえのある城跡です。

2017年05月08日 小早川安芸守ケンケン
吉田郡山城

麓に資料館があり、百名城スタンプが設置されてます。山頂本丸跡までは約30分。駐車場は、資料館に無料駐車場があります!


2017年03月04日 大納言織田晃司
吉田郡山城

安芸高田市歴史民俗博物館脇のポストでパンフをゲットして登城。

途中、少年自然の家近くの毛利元就公像を写真に納め、大通院谷遺跡の駐車場(いちばん奥の駐車場)から徒歩。

まずは毛利元就・一族墓所と百万一心碑。
そこから山道を登る。(比較的整備されているが雨上がりは滑りやすいので注意)
御蔵屋敷から二の丸・本丸へ。
その後三の丸へ。三の丸には僅かに石垣跡があり、ここに城が存在した事が伺える。

今回はこの後、広島城に向かうためこれで終了したけど、本丸から山全体、放射状に城郭が築かれているので次は時間をかけてみたい。

2016年11月06日 青き巨星弾正少弼かみ
吉田郡山城

日本100名城スタンプに併せて、お城メダルを集めていますが、吉田郡山城のお城メダルは売っていません。無念

2016年03月28日 野呂利左衛門督休三
吉田郡山城

百名城スタンプのある安芸高田市の歴史民俗博物館で2015年11月23日から「安芸高田お城拝見 山城60ベストガイド」を販売しています(1200円)。安芸高田市には100を超える城があるといわれ、その中で学芸員さんがリアルに遺構を確認した60城が収録されています。
歴史民俗博物館では、城の案内図などが配布されていますが、フリーペーパーの「じゃらん 安芸高田版」には町中の見所が紹介されています。

町中には、元就以前の毛利氏の館があったとされる住吉神社、小早川隆景の館跡といわれる藤森神社、郡山籠城戦の際、毛利家臣の宍戸氏が用いたとされる鐘が伝わる高林坊、合戦を見つめたのかも、樹齢五百年のイチョウが今も葉を茂らす福泉坊があります。
メインストリートと思われる、たて縄手には鍵の手の辻が何カ所かあります。城下の防御性を高めるためです。

城の南西2kmに郡山籠城戦の尼子方本陣の青山城・光井山城があります。二番目の本陣(最初は北西4kmの風越山城)で技巧的な城だそうです。
南2kmには救援軍の大内勢が陣を敷いた高塚山城があります。

2016年01月11日 カーネル
吉田郡山城

芸備線の甲立駅から1km北上すると国道54号にぶつかり、右前に鳥居がありそこから五龍城へ登り、往復1時間弱で下山します

ここから国道54号をひたすら南下。遠い。1時間くらい歩くと、信号名が外堀で地域名が内堀。少しうれしい

大浜信号で右折し吉田高校前を通過したら清神社へ。登って100mのところでポストに入った縄張り図をゲット。ここは広く分岐も多数なので地図がないとつらいです

旧本城へ往復する道は寂しい感じ。尾崎丸を経由して本丸の下に放射状にいくつも伸びる曲輪群を見ます。ここも曲輪の先端に行くにつれ、道が寂しくなる

その後、三の丸、二の丸、本丸を経て毛利元就墓所に降りて、安芸高田市役所前のバス停に着いたのが、甲立駅をでて4時間半後でした

ここは100名城めぐりで最初に来たお城で、その時は全然よさがわからなかったけど、色々経験してから再訪すると、規模とか整備のされ具合などの偉大さが、よくわかりました


歩き計画されている方の時間目安になれば幸いです


2015年06月23日 178ックス副将軍
吉田郡山城

資料館で本丸跡までの地図とパンフが
もらえます
登城ルートは整備され歩きやすいですが
雨上がりは滑りやすくなってますので
気をつけてください
本丸までの道のりには
高野山を思わせるような雰囲気のある
毛利一族のお墓や
堀切や石垣など解りやすくなっています



2014年11月11日 青き巨星弾正少弼かみ
吉田郡山城

JR三原駅から国道486号線、国道375号線、県道29号線を通って郡山城の南西角にある歴史民俗資料館まで車で1時間半で行き、郡山城の案内マップを元に元就火葬場伝承地、毛利隆元墓所、大通院谷遺跡、毛利元就一族墓所、百万一心碑、御蔵屋敷、釣井の壇、姫の丸、釜屋の壇、羽子の丸、厩の壇、三の丸、二の丸、本丸、勢溜の壇、満願寺跡、妙寿寺曲輪、尾崎丸、旧城の本丸、二の丸、三の丸、興禅寺跡、三矢の訓跡碑、酉谷地点石垣跡、常栄寺跡と歩き巡りました。
全部で3時間半ほどかかりました。
保存状態は大変良く全て見応えがあります。
個人的には3箇所をお勧めします。
第1は旧城の二の丸から旧城の本丸を見上げること、7メートルほどの高低差があるので、攻略の難しさを実感できるから。
第2は尾崎丸(隆元は尾崎殿と呼ばれていて、この曲輪に居住していた)
の北西にある堀切の底が丸みを帯び、綺麗に見えること。
第3は三の丸の石垣跡、綺麗に積まれているところもあれば、崩れているところもあって、それがまた良いのです。



2013年11月27日 左衛門督ピロシキ
吉田郡山城

広島駅から可部駅まで約50分。320円。可部駅からバスで約45分。770円で安芸高田市役所停留場下車。
降りたら、進行方向とは逆にある郵便局のある方向へ歩くと5分ちょっとで、資料館に着きます。

2012年11月04日 尾張守ひろっちぃ
吉田郡山城

最寄り駅の吉田口から出てるバスは日祝日はバス運休になっていたため注意が必要です。本丸までの道は文字通りの登山で整備されている道もあればゴツゴツした岩の道もありかなり歩きにくいところも有ります。なかには道なき道もありますが道しるべの矢印を頼りに登っていけば問題有りません。本丸まで途中に元就の像、隆元墓所、毛利一族の墓などをへて山道を歩いていくと二の丸そして山の山頂の本丸に至ります本丸には城主の館があったそうで山頂部には櫓台が残っています。本丸と二の丸には石垣は残っていませんが三の丸にはかつての姿を思わせる石垣跡があります。
展望台からは安芸の町並みを一望できます。ところどころにマムシに注意 スズメバチに注意の標識があるため登る季節はある程度考慮する必要があると思います。

2010年09月25日 堀久太郎秀政
吉田郡山城

吉田町!は、良いところですね!

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