吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)

吉田郡山城の基本情報

通称・別名

郡山城

所在地

広島県安芸高田市吉田町吉田

旧国名

安芸国

分類・構造

山城

天守構造

不明

築城主

毛利時親

築城年

延元元年〔南朝〕/建武3年〔北朝〕(1336)

主な改修者

毛利元就、毛利輝元

主な城主

毛利氏

廃城年

天正19年(1591)

遺構

曲輪、石垣、土塁、堀切、井戸

指定文化財

国史跡(毛利氏城跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

猿掛城(広島県安芸高田市)[3.9km]
五龍城(広島県安芸高田市)[4.5km]
鈴尾城(広島県安芸高田市)[5.9km]
日下津城(広島県安芸高田市)[7.9km]
松尾城(広島県安芸高田市)[8.5km]
仁後城(広島県安芸高田市)[12.6km]
阿賀城(広島県安芸高田市)[13.3km]
黒川城(広島県世羅郡)[17.6km]
七郎城(広島県広島市)[18.9km]
今田氏城館(広島県山県郡)[18.9km]

日本100名城・続日本100名城スタンプ情報

番号・名称

72 郡山城

設置場所

安芸高田市歴史民俗博物館[地図
安芸高田市教育委員会生涯学習課(安芸高田市歴史民俗博物館の休館日のみ)[地図

吉田郡山城の解説文



吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)は、広島県安芸高田市吉田町吉田にあった日本の城。安芸国の戦国大名毛利氏の居城であった。城跡は「毛利氏城跡 多治比猿掛城跡 郡山城跡」として多治比猿掛城と共に国の史跡に指定されている[1]

概要 

城は可愛川(江の川)[2]と多治比川に挟まれた吉田盆地の北に位置する郡山全山に及ぶ。築城初期は砦のような小規模な城だったが、毛利氏の勢力拡大とともに拡張され、山全体を要塞とする巨大な城郭となった。後に毛利輝元が広島城へ移るまでのあいだ居城としていた。

沿革 

室町時代まで

吉田郡山城の築城時期は不明とされるが、城内にある祇園社(正中2年(1325年)より以前の創建。現在の清神社)より後に築城されたとされる[3]。吉田荘(よしだのしょう)の地頭職として毛利時親が下向したのは建武3年(1336年)であるが、宝永2年(1705年)に書かれた「高田郡村々覚書」には「時親公より以後」に吉田郡山城に住んだと記述してある[4]

文和元年(1352年)に毛利元春が「吉田城」なる城に籠もったこと記録されていたり、応永4〜7年(1371-1374年)の毛利親衡書状の宛先が「郡山殿」となっているため、元春が築城したと解説される場合もあるが[5]、これが吉田郡山城のことを指すのかどうか、現存の吉田郡山城に直接繋がる城なのかどうかは定かではない。

当初の郡山城は砦程度の小規模な城で、一般的な国人領主や豪族の城と変わりなく、12代目にあたる毛利元就が入城する大永3年(1523年)までは大きな変化はなかった。元就は国人領主の盟主から戦国大名への脱皮を図り、郡山全体に城域を拡張していく。郡山全域の城郭化が始まったのは元就の晩年と考えられており、天文9年(1540年)から翌年正月まで続いた吉田郡山城の戦いの頃はまだ拡張前だった。ただし、尼子詮久(後の尼子晴久)率いる3万の大軍を撃退したこの合戦では、農民男女を加えた8000余りが籠城したとされるので部分的な拡張が始まっていた[6]。少なくとも、南麓に堀が設けられたのは、天文20年(1551年)頃とされ、城域が拡張されたのも天文年間の後半とする見方もある。

安土桃山時代

拡張・整備が続けられた吉田郡山城内には、城主元就だけでなく、嫡子毛利隆元や一部の重臣たちの館も設けられたといい、戦時のみ城郭に籠もる従来型の山城から、平時の居館と戦時の城郭が一体化する近代的な性格を持つ城に変わった。元就の孫の毛利輝元の頃には石垣や瓦葺きなども使った近代的な城郭へと変貌した。天守は元就時代には無かったが、見張り用の櫓が本丸の最上段に建てられた。輝元時代には三層三階の天守があったともいうが詳細は不明である。天正12年(1584年)にも城の修築・城下の整備を輝元が指示しており、城下の上町を「しらかへ」にするように命じていたり、毛利氏が豊臣秀吉に従属した後に使用したと考えられる金箔瓦も出土している。

しかし、山間部の盆地に位置する吉田郡山城は交通の便も悪く、天正19年(1591年)に広島城がほぼ完成すると、吉田郡山城は毛利氏の本拠としての役割を終え、家臣や城下町の商人らは広島城下に移住した。廃城時期は、毛利氏の広島移住後の天正19年、関ヶ原の戦い直後の慶長5年(1600年)頃などと諸説あるが、毛利氏の本城としての役目を終えた天正19年が事実上の廃城時期と言って差し支えないと考えられる。この時に、山麓の堀は埋められたとも言われているが、大坂城天守閣[7]で保存されている穂井田元清書状内で、文禄3年(1594年)に元清が兄の小早川隆景とともに吉田に出頭したとあり、何らかの形で吉田郡山城が維持されていたことが確認できる。また、山城を重視する輝元が、完全な平城である広島城に対して、詰めの城として引き続き吉田郡山城を温存していたとの見方もある。

江戸時代

慶長20年(1615年)に江戸幕府が出した一国一城令により吉田郡山城も取り壊され、寛永14年(1637年)に島原の乱が起きると、キリシタンの決起を恐れた幕府によって、石垣や堀なども破却・撤去された。幕末には広島藩の支藩として広島新田藩が成立し、文久3年(1863年)に吉田郡山城の麓部分に陣屋が置かれた(吉田陣屋)。明治2年(1869年)に廃藩となり、陣屋の建物は廃され、もしくは移築された。

江戸時代中期には吉田郡山城とその城下を描いた絵図「吉田郡山御城下古図」が作成された(現在は毛利家文書として山口県文書館に収蔵)。また、幕末にも浅野氏による測量が行われた。

現代

明治初期に、毛利元就墓所の改修工事が行われ、二の丸跡の石垣から一部の石が運び出されたと記録がある[8]

1940年(昭和15年)に吉田郡山城跡が国の史跡に指定され、1988年(昭和63年)には多治比猿掛城跡を追加して「毛利氏城跡 多治比猿掛城跡 郡山城跡」となった。

1990年(平成2年)、郡山山麓に吉田町歴史民俗資料館(現・安芸高田市歴史民俗博物館)が開館、毛利氏関連資料が公開された。また郡山の西にある大通院谷の渓流砂防事業により公園が整備されているが、それに先だって1995年(平成7年)頃より発掘調査が行われている。この調査では、毛利氏時代より古いものを含めて、遺構・遺物が発掘された。2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(72番)に選定された。

構造 

城の遺構は、標高約390メートル(比高190メートル)の山頂部から放射状に延びる尾根とその支尾根や谷部に大小270以上の曲輪がある。複数の尾根(尾根ごとに多数の曲輪があるため、それぞれが小城のような造りになっている)を組み合わせた複雑な縄張りは、他の国人領主たちの城とは大きく異なる特徴である。

城の南には内堀、西には大通院谷、北の尾根には裏手の山(甲山)と区分する堀切があり、これら城域部分の総面積は7万m2に及ぶ。 山頂部が本丸で一段下がり二の丸、さらに三の丸と続く。石垣が使われたのは、本城の中枢部分である本丸から三の丸周辺までである。

曲輪

本丸
郡山山頂に位置する一辺が約35メートルの曲輪[9]。元就の屋敷があった。北端に一段高くなった櫓台(長さ23メートル、幅10メートル)がある。前述の吉田郡山御城下古図や、天正15-16年(1587-1588年)頃に描かれた絵図には、本丸に三層の天守閣が描かれている。
二の丸
高さ0.5メートル幅1メートルの石塁や石垣で囲まれ、27メートルと15メートルの方形に区画されている。二の丸の南側には石垣跡が残っているが、往年は東側・西側にも石垣があったと推定される。
三の丸
城内最大の曲輪で、石垣・土塁・掘削などによって四段に分けられている。石塁・石垣などが現存する。西側の虎口には、石垣の中に階段が組み込まれて内枡形となっており、近世城郭的な構造である。三の丸から連なる帯曲輪には御蔵屋敷あった。

釜屋(かまや)の壇
本丸から15メートル下がった北側に位置し、炊事場があった。6つの段で形成される曲輪群。ここから北へ向かうと羽子の丸へ出る。
厩(うまや)の壇
三の丸の東から東南に400メートル伸びる尾根の基部で、壇の下に馬場があった。厩の壇は11段、馬場は9段の曲輪群である。
妙寿寺の壇
郡山南側を守る13段の曲輪。
勢溜(せだまり)の壇
御蔵屋敷の下段を堀切で区画して独立させた大小10段の曲輪から成り立つ。この壇のすぐ側を通る道が、本丸から城下に続く大手筋と考えられており、本丸守備兵が滞在するなど厳重な防御線を形成していたと思われる。
釣井(つりい)の壇
本丸の西側にある1段の曲輪。直径2.5メートルの石垣で組まれた井戸があるが、現在は埋もれており深さは4メートルに止まる。
姫の丸
本丸の北にある7段の曲輪群で、本丸北側の石垣の基部にあたる。「一日一力一心(百万一心)」と書かれた礎石が埋められていると伝わる。
満願寺の壇
満願寺を含む6段から成る曲輪群。
矢倉の壇
勢溜の壇からさらに南西に進んだ尾根にある8段の曲輪群。
一位の壇
矢倉の壇の北側にある10段の曲輪群。
尾崎丸
旧本城と新城の間を繋ぐ位置にあり、堀切で区画されている。独立的な性質を持つ17段の曲輪群であり、毛利隆元の居館があったと推定されている。
旧本城
尾崎丸の尾根から南東の麓に位置し、元就が城郭域を拡張するまでの本城。戦国時代初期の山城の形態をよく残している。尾崎丸との間(旧本城から見ると裏手側)には2つの堀切がある。旧本城の本丸にあたる曲輪には、西側の高台に物見台、隆元が一時期居住していたとされる屋敷などがあった。旧本城に相当する部分は、本丸・二の丸・三の丸など16の曲輪で構成され、曲輪の面積は4000平方メートル前後である[10]。標高293メートル(比高90メートル)。
羽子の丸
本丸の北東(艮)の方角にあり、詰めの丸的な役割を与えられた独立的な曲輪。釜屋の壇とは幅7メートル、深さ3メートルの堀切で隔てられている。曲輪数は9段。
千浪郭群(せんろうかくぐん)
郡山の背後にある甲山(かぶとやま)との間を守る9段の曲輪群。

堀・縄手

大通院谷(だいつういんだに)
郡山城の西にある大通院谷川には、旧石器時代から近代までの複合遺跡として大通院谷遺跡があり、高宮郡衙関連遺跡と共に元就・輝元時代に作られたと思われる薬研堀や屋敷跡などが発見されている。薬研堀は、谷から南西に向けてに作られた内堀の起点となり、郡山南麓を回り込んで掘られていた。

内堀
大通院谷から南麓を取り巻いて、旧本城のあった東の尾根まで内堀が続いていた。現在の安芸高田少年自然の家前から県立吉田高等学校・市立吉田小学校の方向に堀があったと推定される。これらの堀の内側は、吉田郡山城を守備する里衆の居住区である。

外堀
吉田盆地を流れる可愛川と多治比川が、天然の外堀的な役割を果たしていた。

縄手
内堀の外側には道路(縄手)が整備されていた。城内の大手筋を下って祇園社(清神社)付近から南西方向に抜ける「祇園縄手」・大通院谷を下った方向から続く「香取縄手」などの山麓から里に向かって延びる7本の縄手と、これらの縄手を横に繋ぐ「竪縄手」がある。

屋敷・寺院

御蔵屋敷跡
三の丸から連なる帯曲輪(釣井の壇と勢溜の壇の間)にあったとされる兵糧庫。近くには江戸時代初期に崩された石垣が現在も残っている。
御里屋敷伝承地
毛利元就の屋敷があったと伝わる(安芸高田少年自然の家「輝ら里」の敷地内)。ただし、1991年-1992年(平成3年-平成4年)の試掘調査では遺構などが見つからなかったことから、屋敷の所在地としては再検討されている。同所の敷地内には、毛利元就像と三矢の訓碑が建てられている。
満願寺
勢溜の壇の南東部にあった寺。毛利氏の郡山入部前からあったとされ、現在は境内跡に2つの蓮池跡などが残っている[11]

その他、城内には、毛利元就墓所、毛利隆元墓所、伝元就火葬場跡、毛利氏歴代墓所(毛利時親から毛利豊元迄合葬墓、毛利興元、毛利幸松丸、尾崎局)、嘯岳禅師墓、百万一心碑などがある。

現地情報 

所在地
広島県安芸高田市吉田町郡山
(安芸高田市歴史民俗博物館から本丸跡まで徒歩45分)

山麓にある公共施設
  • 安芸高田市歴史民俗博物館(駐車場・トイレあり、100名城スタンプの設置場所)
    • 広島県安芸高田市吉田町吉田278-1
  • 大通院谷公園(駐車場・トイレあり)
  • 清神社・郡山公園(トイレあり)

吉田郡山城の口コミ情報

2022年05月26日 てんこ
吉田郡山城



歴史民俗博物館で事前に全体と詳細を勉強して、山城へ登りました。堀切菖蒲園駅や廓、本丸、二の丸跡とか分かりやすくて良かったです。一時間強で登頂下山、出来たので比較的、負担なくリア攻めができました。展望台からの風景も良かったです。

2022年05月05日 幸村₮√
吉田郡山城



山の上にあります!景色が素晴らしいです。下には毛利資料館がありますので、良かったら行ってみてください

2022年04月30日 摂政ナンバー【7】讃常美
吉田郡山城

大毛利の山城♪姫の丸、羽子の丸方面は道が崩落とのことで立ち入り禁止でした。羽子の丸の堀切に再訪したかった😵

2022年04月03日 九曜紋東市正
吉田郡山城



快晴の春、昼下がり、国指定史跡の郡山城に登頂。車を、歴史民族博物館の駐車場に停めさせて頂き、ここから徒歩でスタート。

大通院谷遺跡部に内堀推定ライン沿いに整備された桜の咲く公園を抜け、隆元墓所から東に、麓から山肌にクッキリと見える一文字に三つ星の家紋が掲げられた展望台、尾崎丸跡、勢溜の壇の脇を抜けて本丸へ登頂(約40min.)。

二の丸跡付近では、石垣が崩れた跡なのか、多くの石が転がっていた。釣井の壇に立ち寄った後、御蔵屋敷跡から西へ、元就(百万一心碑),一族墓所を通って、大通院谷遺跡へ下る、約3kmの行程。本丸だけを目指すなら、百万一心碑のある西回りルートの方が歩行は楽な気がする。

2021年11月07日 天河水宮内卿
吉田郡山城



異動で広島へ戻ったので広島バスセンターから早朝出発で訪問。林間学校でリア攻めして以来○十年ぶりとなりました。土日祝日の2便目までのバスは吉田小学校前に行きますが、こちら側からだとガイドペーパーがポストに置かれていません。時節柄仕方ありませんが、なくても整備がされているので迷うことはありません。歴史民俗資料館側には十分な枚数が置いてあります。林間学校で登るくらいなので小学生でも大丈夫です。とはいえ山中なので夜間の登城はお勧めしません。

全山1時間から2時間ほどでくまなく見て回れると思います。体力に余裕があれば周辺の城跡をまわるのも良いかと。情報は歴史民俗資料館で入手できます。
2021年は元就公没後450年、また2023年に元就公郡山城入城500年となるため、イベントなど予定されています。都合を合わせて参加したいと思います。

2021年10月18日 RED副将軍【新宮党】
光井山城[吉田郡山城  周辺城郭]



4方に広がる尾根筋に無数の段曲輪が連なる尼子氏の巨大陣城🏯

オススメ度 ★★★★⭐︎

1540年に尼子晴久が郡山合戦のために築いた陣城です。
毛利氏の本拠地である吉田郡山城に侵攻するため多治比川を挟んだ対岸にある青山三塚山に光井山城と青山城を築き布陣。
尼子氏は3万の兵に対し、毛利氏の兵力は大半が農民の僅か8千と伝わります。
籠城戦の中、同年12月3日に毛利の援軍として大内義隆の後詰1万の兵が遂に到着。
尼子氏は冬の厳しさもあり翌月に撤退。
この敗戦を機に尼子氏は弱体化、毛利氏が台頭に立つキッカケに✨

陣城とは思えない土木量です。
3万の尼子氏に勝利したという毛利氏の誇張とも言われていますが、実際に訪城してみると3万の兵は誇張とは思えない規模と土木量です。加えて青山城の存在もあります。いかに尼子氏の軍勢が凄かったのかを証明してます。

縄張りは主郭を中心に東、西、南、南東の4方向に尾根が伸び、無数の段郭群が連なります。
山頂の主郭は小規模な神社の基礎の様なものが残り、帯郭が付されています。
南尾根、南東尾根は尾根筋に無数の小規模な段曲輪が連なりますが、雑木でヤブ化。
東尾根は広く削平された郭が連なりますが、途中で高低差のある鞍部を挟み、延々と城域が続きます。
オススメなのは西尾根です。雑木が少なく開けた尾根です。主郭から鞍部を挟み、まず明瞭な土橋が現れます。その先に小高い郭があり背後は二重堀切と竪堀が付されており、この周辺が見所と思います✨

行き方について
ゴリゴリに気合いの入った備前の城友さんオススメの城だけあって、登城口は分かりにくく、登城路も無く、携帯の電波も入りにくい山城です。城域もカナリ広く、アップダウンも相当あるので気合いを入れて覚悟ください💪

光井山の南側を走る峠道から尾根に張り付き登城しました。登城口は地点登録しておきましたのでご参考に!
この尾根を雑木を掻き分け直登すると、南東尾根の郭群に辿り着きます。

2時間近く山中を歩き続けて、更に大きいもうひとつの陣城、青山城に行く気力は無くなってしまいました💦青山城は次の機会に!

写真
①西尾根の城域端部の堀切
②西尾根の鞍部からの土橋
③④西尾根の竪堀
⑤⑥主郭は土塁が巡る
⑦南東尾根の段郭群
⑧主郭近くの土橋

2021年10月03日 若狭守新九郎
吉田郡山城



尼子の大軍を退けた名城。堀の規模は小さいながらも、山は険峻で石垣を用いていた痕跡も確認できます。歴史資料館で資料をゲットし、その上の駐車場まで登って登城するのが良いと思います。毛利元就、隆元のお墓参りも忘れずに〜

2021年05月08日 真田右衛門督三代
吉田郡山城



毛利家の居城、吉田郡山城です。
ふもとの安芸高田市歴史民俗博物館で資料を見て、良心的な価格の毛利グッズを家族のお土産にしました。

2021年05月06日 山内弾正忠通康
吉田郡山城

本丸へ登る際は毛利隆元墓所側の登山道が整備されていて登りやすい。元就墓所側の道は土嚢で補修されているものの、比較的登りづらい。

2021年03月07日 KAZ中務卿正勝
高塚山城[吉田郡山城  周辺城郭]



今日は高塚山城にやって来ました。前回と同じく吉田郡山合戦時の大内方の陣城です(^-^)

教育委員会の秋本さんレポートではテレビ塔への道から楽に上がれる様になってましたが、めっちゃ狭い!(◎_◎;)県道29号のPエリアに止めて歩きました。
まずは前回の吉常ヶ城の続きを見たかったのでテレビ塔手前のカーブより山に入り高塚山城南側にある写真の堀切に出ました。この辺りは、甲田町側に抜ける山道の様で単独っぽい砦になってる様に見えます。南側には写真の大きい方の堀切がありました。四等三角点(山田)を目指して歩くと、手前の高台からツノの様に曲輪が下りてる様に見えるし、無数の削平地に見えますが【お城拝見】にはのってないっす(=゚ω゚)ノそいえば、田淵ヶ城の峠側にも出丸っぽいトコに堀切からの2条の短い竪堀に見えたトコがあったのに、認定はされてなかった…まいっか
戻って北側の高塚山城に行って見ました。高台が3ヶ所あってどれも削平されてるみたいで距離もあります。三等三角点(会下山)をリア攻めマップのポイントにしました。ここの一つ先の高台東側に比較的広い尾根と広い谷があり、ここからなら軍が山を降りて吉田側に運用出来そうです。江の川を渡河する直前までは進軍が隠せるし…

【ここからは僕の妄想です】
大内軍が郡山城の西側、天神山に転進したのもここの谷からでは?白豆峠から天神山の移動では敵に近すぎ、ずーっと側面をさらしてしまう。この谷は郡山本城のすぐ東側にあたり、本城の真下を進軍すれば、多治比川を挟んでる尼子軍にもワザと見せ付けながら転進できそうです(=゚ω゚)ノ
宮崎尾長の戦いでは、大内軍は大きく迂回して青山の南側から攻め上った事になってますが、毛利軍の動きに呼応してから移動したのでは距離があり過ぎでは?霧に隠れるにしても、お昼前には無くなってしまいます。僕は2千ぐらいを田淵ヶ城に残していると思います。当時の街道は今の国道54号筋では無く、今の白木街道が主要だった様です。であれば白豆峠は重要拠点だから転進時に兵を割くはず。又、尼子軍は数々の前哨戦で敗色濃く士気が低ければ、2〜3千の田淵ヶ城を突破するには、前衛部隊の人数が不足する程の人数が必要と思います。大内本隊が多治比川を挟んで意識させておいて、田淵ヶ城の兵力を青山に前進させる『啄木鳥』では?
なーんてね!

2021年03月04日 KAZ中務卿正勝
田淵ヶ城・吉常ヶ城[吉田郡山城  周辺城郭]



吉田郡山合戦の大内方の陣城にやって来たっす(=゚ω゚)ノ
お城の名前は、お城EXPOでも有名な秋本さんが【お城拝見】を執筆された当時の名前を使用しました。当時から『この辺り一体を全て同じ陣城と考えるべき』と言われていて、現在では別の名称にされてます。んー…なんだったか…忘れました(//∇//)城域が広いので僕は旧名称で2分割で訪問しようと思います。

田淵ヶ城は、池ノ内古戦場の近くで白豆峠を睨んでる感じです。峠側の曲輪先端には土塁を備えてます。東側には吉常ヶ城があり、ご近所さんです(^-^)てか、お城間や尾根に堀切などの障害物が全く無く、『防御無視!進撃あるのみ!』って感じでしょうか?『陶さんが考えそうだなぁー』って妄想してますo(^▽^)o写真の土橋なんかで連絡してます。
位置的にも尼子軍が陣取った青山の東側面、江の川を挟んで対峙していて、威圧感満載!って感じです(≧∇≦)吉田の街並みもよく見渡せるので、両軍の動きがよくわかる!将棋の盤面を見てる様だなぁ…と妄想に浸れます。
しかし、見渡しも良く威圧は出来るのですが、直接的に出陣は出来無さそうです。吉常ヶ城の西側に尾根があり、裏の谷筋も含めて探索しましたが、大軍はやはり白豆峠側になるのでは(・・?)あるいは、高塚山城は未訪問なのでそちら側に有るかもです。吉常ヶ城の南側、かなり降りた所には3本の短い竪堀がありましたが、陣床山城と同じ様に敵からは真裏!(◎_◎;)どーゆー意味があるのでしょうか?

車は池ノ内古戦場近くの道沿いに広い場所があるので、そこに止めて山を上がりました。
10分ぐらいで田淵ヶ城の南側土塁につけますが、道は無いので事前に地形図を見て予習が必要です。予習があれば見通しが良いので直ぐにたどり着けると思います。色々探索しながら吉常ヶ城の端迄は、1時間半くらい…

ゆし!次回は高塚山だぁ!*\(^o^)/*

2021年01月31日 KAZ中務卿正勝
風越山城跡[吉田郡山城  遺構・復元物]



吉田郡山合戦時、青山・光井城に転進するまでの尼子軍の陣城になります。

吉田郡山城から見ると北西方向、直線距離で約4km離れており、当時の毛利軍拠点とされている本城は全く見えない位置なので、後方司令部的な役割でしょうか(・・?)
陣城の構造も、吉田郡山城方向及び麓集落方向である東から南東方向には土塁や横堀が確認できるので、そちら方向を意識しているお城だと思います。横堀には横矢がかかっている箇所も確認できますが、西側は…自然地形に近い構造です。2〜3週間で青山・光井に転進している事から、未完成って事でしょうか?だとしたら縄張りを確定し、普請をする順番が垣間見れていると考えます(^-^)

縄張りは広いとは思いますが、3万は無理かと…羽衣石城の秀吉軍救援の十万寺・番城を3万だとすると、1万5千…って妄想しますσ(^_^;)

城域にたどり着くには、かなり難易度高めで行き当たりばったりでは確実にロスト→遭難が待っています(>_<)以前あった麓集落から人口池に進む道は獣除けフェンスで立ち入り禁止になってます。集落と山の境界フェンスはかなり緻密に設置されていて、越える場所を探す労力が必要です。また、そこから城域までの道は、全くありません。行った事がある人に同行するか、GPSアプリが必須です。GPSアプリがあったとしても、事前に地図と城域形状、空撮写真で徹底的な予習が必要と思います。僕も『もう一回行って』って言われても、GPSアプリの軌跡が無いと無理だと思います(>_<)

2020年11月15日 織田上総介晃司
吉田郡山城

安芸高田市歴史民俗博物館脇のポストでパンフをゲットして登城。

駐車場は麓から順に安芸高田市歴史民俗博物館前・大通院谷遺跡駐車場・毛利元就墓所前駐車場がありますが墓所前は5〜6台しか停めれないので満車の可能性大。

途中、少年自然の家近くの毛利元就公像を写真に納め、運良く墓所前に停車。

まずは毛利元就・一族墓所と百万一心碑。
そこから山道を登る。(比較的整備されているが雨上がりは滑りやすいので注意)
御蔵屋敷から放射状に広がる釣井の壇・姫の丸・釜屋の壇・厩の壇から三の丸・二の丸・本丸へ。
三の丸には僅かに石垣跡があり、石垣で構築した城が存在した事が伺える。
(全ての曲輪を見ると時間がかかるので各壇の曲輪は上から眺めるだけでした。)

その後、勢溜の壇から満願寺跡・尾崎丸を経て駐車場で約1時間半(旧本城は諦めました)

新しくできた道の駅「三矢の里あきたかた」でマンホールカードを貰うことができます。

安芸高田市に行くと私は必ず「青の青鬼(辛口)」という焼き肉のタレを購入します。(広島市内や福山では売ってないので…)


2020年11月14日 ブーベ
吉田郡山城



数ある山城中でもまさに難航不落という言葉が当てはまるお城だと思います。登城するにはある程度覚悟の上で望んだ方がいいかと...個人の感想です。毛利元就のお墓から登城した場合、最後に旧本丸跡に行くとアップダウン
の連続で高齢者の私にとっては地獄でした。小谷城や月山富田城、七尾城も登城しましがここ安芸高田、吉田郡山城がいままで一番キツかった(≧∀≦)

2020年10月27日 則天図書頭無功
吉田郡山城

よく整備された遺跡で、誰にも会わず、獣や蜂、蛇等にも会わず、黙々と歩きました。本丸からの眺望は望めませんが、山麓の展望台で町並みが見え、野球練習の声がよく聞こえました。

2020年09月20日 しょう備中守
天神山城[吉田郡山城  周辺城郭]

この城は、郡山合戦時に毛利方の援軍として大内氏重臣の陶隆房勢一万が天神尾に着陣したそうです。
本来、船山城側から登城するのですが、縄張図を見ると郡山城側から行けそうだったので、行ってみました。
郡山城登山口から少し行った所の道標を山部側に行きすぐに左側を尾根に向かって登ると、畝状の連続堀切があります。
そのまま、尾根に沿って進むと主郭に出ます。

2020年04月19日 野呂利左衛門督休三
青山城(Ⅰ群)[吉田郡山城  周辺城郭]



天文九(1540)年から天文十年の郡山合戦における尼子方の陣城の1つ。尼子方は郡山城の西から南にかけて陣城を築いて展開します。
その中で前期の本陣の風越山城を除いては青山城と光井山城の規模は一際大きく、普請においては風越山城をも凌駕しています(そうすると後期の本陣か)。
私有地の上、地権が錯綜していることから登山路もなく、整備もされていませんが下草は少ないので比較的登りやすいと思います。
「安芸高田お城拝見~山城60ベストガイド」に縄張図あり(安芸高田市歴史民俗博物館で販売。城跡登り口からは20分ほど。現金書留での販売も)。安芸高田市の広報(2015年7月)にも縄張図があります(市HPでDL可)。
バスでは吉田病院(安芸高田市役所の1つ前。広島バスセンター基準)か青迫(同2つ前。同)が最寄り。

「安芸高田お城拝見」をお供に2019年12月7日訪問。青迫のバス停で下車。時間が時間だったのでそばの定食屋で昼食(値段表示はラーメン定食以外は単品のなので注意)の後、そこから近くの進入路(国土地理院25000分の1地図で言うところの北から2番目の破線の道)を目指すが見つけられず。すぐ近くに登れそうな所があったのでそこから入り、派生する尾根を直登することになりました。地表は藪になっていないものの低い枝が少なからず、それなりに歩きにくい。曲輪にも見える地形が続いており、石積がある部分も。この辺りには浄安寺という寺があったそうでその関係か、それとも後世のものか。
(続く)

2020年04月19日 野呂利左衛門督休三
青山城(Ⅰ群)[吉田郡山城  周辺城郭]



(続き)城のある南北に走る尾根筋に辿り着くと高さ1m程度の切岸を持った小規模な曲輪群が続きます。しばらくその曲輪群を辿って登っていくと、優に高さ5mあろうかという切岸に突き当たります。ここから中枢部です。ぱっと見たところ登り口はなく、とりあえず向かって左側を歩きました。足元はすぐに犬走り状になり、少し進むと左手に大きな一条の竪堀を見ることができます。さらに進むと上の曲輪の切岸も3mくらいになり、上にもう一段曲輪が見えます。
その辺りで一気に登り、曲輪の反対側へ。そちらの方にさらに奥の曲輪の入り口があります。この辺の曲輪は先程の切岸よりは低いですが、それでも2m程はあるでしょうか、しっかりとした造りです。さらに奥が一段高くなっており主郭と思われます。非常に浅いですが堀状のものがあり、縄張図を見ると馬出を彷彿とさせます。
時間がなかったのでここで折り返すことにしましたが、この城は西の光井山城へ向かってⅡ群、Ⅲ群と続きます。
さて帰路です。中枢部は下りにくいです。主郭手前の曲輪入り口付近の進行方向左手に腰曲輪が2つ続いている所があるので、そこから下りました。その左手には連続竪堀があります。
それらを見ながら尾根を元来た方向へ進んでいきます。登ってきた道は下りるのに怖いので、国土地理院25000分の1地図で言うところの一番北の破線の道を目指します。登ってきたところよりさらに尾根の先端の方へと向かいますが、やはり郡山城に近い曲輪は造りが甘いです。
一番北の道に直交する位置から斜面を降ります。比較的降りやすいですが、最後はごみの不法投棄?現場。さらに進み墓地前を通り国道54号へ。東側からはこちらを起点終点にするのが良いのかも。

2019年11月02日 野呂利左衛門督休三
小島雪そうの墓[吉田郡山城  寺社・史跡]



幕末に長州藩に備えるために吉田に陣屋が置かれ、浅野家分家が入りましたが、その家中で御物頭を勤めていました。
絵を江戸で宗紫岡に学び、浅野本家の絵師の岡岷山と並び称された画家です。
師の宗紫岡は南蘋派の絵師で、祖父の宋紫石(本名、楠本幸八郎。雅号に雪渓、雪湖など)は杉田玄白や平賀源内と親交があり、西洋画にも興味を持っていたとか。広島浅野本家の岡岷山と並び称される画家だそうです。

[参考]
説明板
朝日歴史人物事典「宋紫石」

2019年11月02日 野呂利左衛門督休三
新町[吉田郡山城  碑・説明板]

南北に走る順礼道縄手にできた町で、たて縄手沿いの三日市や六日市から続く町並みで、十日市との繋ぎの場所に当たりました。

[参考]
説明板

2019年11月02日 野呂利左衛門督休三
安芸高田市歴史民俗博物館[吉田郡山城  スタンプ]



常設展示には吉田郡山城の模型もあります。
書籍・図録やグッズも売っています。

販売されている書籍の中でおすすめは「安芸高田お城拝見~山城60ベストガイド」(1200円)安芸高田市には存在が確認されただけでも100以上の城跡があります(旧高田郡がまるっと1つの市なので驚くことでもないのかもしれんが)。そのうちの60城について紹介しています。
同館学芸員の秋本哲治氏が実地踏査して、安芸高田市の広報に連載されていたのを一冊にまとめたものです。
幕末の浅野家の御本館以外は現況の縄張図が掲載されています(同館は遺構が残っていない)。


2019年11月02日 野呂利左衛門督休三
宮崎神社[吉田郡山城  寺社・史跡]



南北朝時代の観応元(1350)年に毛利師親が勧請した神社です。幕府の命令で石見(島根県西部)の佐波善四郎の討伐に赴く際に、江の川で先祖の地である相模国(神奈川県)の宮崎の八幡宮に先勝を祈願しました(毛利氏の苗字の地は相模国の毛利荘[神奈川県厚木市])。そして抜群の戦功を挙げたことから、この地に八幡宮を勧請したのが始まりだそうです。
大永三年の元就と弟の相生元綱との戦い、天文十(1540)年の郡山合戦での毛利と尼子の戦闘で炎上しています(尾根続き西南西600mに尼子方の宮崎城があった)。
現存する棟札や、棟札の記載の写しから戦国時代以降6回の再建または改修が確認されます。そのうちの最古の物が永禄十一(1568)年の物です。

同社には毛利氏ゆかりの物が他にも伝わっているそうで、その中の鐙石が先程の由緒に関わるもので、師親が川を渡っているときに浮かび上がって鐙に引っ掛かったとされる石です。そのまま戦い、勝利を収めた師親はその石を宮崎神社に納めます。
以来、吉田郡山では小石に見立てた餅を食べる風習が生まれ、それが「川通り餅」と呼ばれるようになったそうです。

またかつては創建以来、八月十五日の大祭に流鏑馬を行っていたそうですが、太平洋戦争での馬匹不足で廃れてしまっています。

[参考]
説明板
安芸高田市「宮崎神社(吉田町)」
御菓子処 亀屋「『川通り餅』の由来」

2019年11月02日 野呂利左衛門督休三
郡山公園[吉田郡山城  その他]



大正四(1915)年に造られた公園ですが、ここは毛利氏時代に興禅寺があった場所です。永禄十(1567)年に毛利元就は観世太夫宗雪を招いて、ここで能興行をしたそうです。
興禅寺は毛利氏の広島移転と一緒に移転しています。

公園内に土生(はぶ)玄硯の顕彰碑があります。玄硯は吉田郡山の生まれで、徳川家斉の御典医にもなっています。その生家は高林坊や福泉坊の近くにあり、今は田原菓舗(もなか「毛利公」)になっています。

2019年11月01日 野呂利左衛門督休三
食い違い交差[吉田郡山城  その他]

北西から南東方向に延びる、たて縄手は食い違っていませんが、これに交差する巡礼堂縄手が食い違っています。これも防御上の工夫です。

[参考]
じゃらん安芸高田パンフレット

2019年11月01日 野呂利左衛門督休三
食い違い交差[吉田郡山城  その他]

防御上の理由からわざと食い違いに造られており、すごく変則的な見た目の十字路になっています。
ここから清神社の方に延びる道が祇園縄手(祇園は清神社がスサノオノミコトを祀っていることに因る)、反対方向への南西に延びる道が油縄手で、北西方向から南東方向に延びる道が、たて縄手です。

[参考]
じゃらん安芸高田パンフレット

2019年11月01日 野呂利左衛門督休三
浅野藩御本館跡[吉田郡山城  寺社・史跡]

文久三(1863)年に着工され翌年に完成した陣屋で浅野一族の長厚が入りました。敷地は吉田高校になっています。遺構の痕跡はないそうです。
表と裏の二つの門があったそうですが、裏門が日野家に移築されているそうです。また西南の物見櫓が市内の法円寺に移築されているそうです。
なお、陣屋築造と同時に吉田郡山城跡の要塞化の計画もあったようで、火薬庫などが造られたそうです。

[参考]
安芸高田市歴史民俗博物館「安芸高田お城拝見」

2019年11月01日 野呂利左衛門督休三
福泉坊[吉田郡山城  寺社・史跡]



長元年中(1028-1037)に近江坂本の永礼という僧が奈良に創建したのが始まりとか。応永年間に焼失したので甲立(五龍城のあるところ)に移ったとか。
天文年間(1532-1555)に覚正が吉田村内東島で中興したときに浄土真宗に改宗し、二世の祐正が毛利輝元から土地を賜ったときにここに移転したとか。ちなみに祐正は石山合戦の時に兵糧を献納した功績で親鸞座像(安芸高田市重要文化財)を顕如から賜ったそうです。
三世祐慶の時に毛利氏の防長移転と、続く寺領没収により一時は山口に移りましたが、四世空玄はこの地に寺を戻しました。本堂と庫裏、山門、鐘楼が登録有形文化財になっています。本堂は昭和二十三年の築ですが、この地の名工の西谷庄一の手によるもの。庫裏は江戸時代後期(1830-1868)年のどこか)の築と見られており、この地の真宗寺院の庫裏の様式を示しているとのこと。山門は文政十二(1830)年の築、鐘楼は年代不明ですが江戸時代の築です。

境内の幹回り5.7mのイチョウは樹齢500年の古木です(500年ということは…)。

[参考]
浄土真宗本願寺派安芸教区高田西組「福泉坊」
文化遺産オンライン「福泉坊本堂」「福泉坊庫裏」「福泉坊山門」「福泉坊鐘楼」
安芸高田市「大銀杏(福泉坊)(吉田町)」

2019年11月01日 野呂利左衛門督休三
酉谷地点石垣[吉田郡山城  遺構・復元物]



16世紀後半に築かれたと見られる石垣です。この石垣のある曲輪の上の曲輪からは鍛冶炉の跡が見つかっています。

[参考]
説明板

2019年11月01日 野呂利左衛門督休三
近世の石敷遺構[吉田郡山城  碑・説明板]



吉田郵便局前の石敷は、ここの工事の際に出土した江戸時代の石敷を再利用したものです。
ここからは古代の高田郡衙に由来する遺跡も見つかっており、この辺りの町割の起源が古代に遡ることがわかっています。

[参考]
説明板

2019年11月01日 野呂利左衛門督休三
船山城[吉田郡山城  周辺城郭]



毛利元就の異母弟の相生元綱が住んでいたといわれていますが、あくまで伝承です。元綱は毛利家の家督を元就と争い、討たれています。
登り口としては船山城跡・船山社の説明板のそばの墓地からになります。
城は堀切で東と西に分けられます。堀切は南の裾を回ることで越えられますが、滑落しないよう注意。
西の曲輪の西端からも出入りできますが、道が一部崩れていたので(2018年11月)、そこも要注意。

[参考]
安芸高田市歴史民俗博物館「安芸高田お城拝見」

2019年11月01日 野呂利左衛門督休三
法専寺[吉田郡山城  寺社・史跡]



今は浄土真宗の寺ですが、創建当初は真言宗でした。この寺を開いた法専は毛利元就の庶子で俗名を元為と言うそうです。
天文五(1535)年の開創時は青山の麓にあったそうです。福島正則が広島城主の時に寺領を没収されたため、浄土真宗に改宗したそうで、その時に今の場所に移転したとか。

[参考]
浄土真宗本願寺派安芸教区高田西組「法専寺」

2019年11月01日 野呂利左衛門督休三
六日市[吉田郡山城  碑・説明板]



六日、十六日、二十六日に市が開かれました。市自体は江戸時代に衰退したようですが、幕末までは胡神が市場であった区域の中央に祀られていたそうです。

[参考]
説明板

2019年11月01日 野呂利左衛門督休三
船山城跡・船山社説明板[吉田郡山城  碑・説明板]



切通の東(吉田郡山城と尾根続きの方)に船山社、西に船山城跡があります。

毛利元就に討たれた相生元綱は船山城に住んでいたと言われます。その元綱の霊が祟りをするので、住民が元綱の霊を祀るために建てた祠が船山社です。

船山社の上に天神山城があります。直登も不可能ではないでしょうが、郡山城から行くのが無難と思われます。

船山社と船山城の間の切通は細声峠と呼ばれ、元就が元綱を攻めるときに手勢に声を落とすよう命令したことからその名があるとされています。元は天神山城と船山城の間の谷を利用した堀切が道路としても使われ、利便性を増すために掘削したものと見られています。

[参考]
説明板
安芸高田市歴史民俗博物館「安芸高田お城拝見」

2019年11月01日 野呂利左衛門督休三
高林坊[吉田郡山城  寺社・史跡]



ここの寺の鐘は郡山合戦の際に宍戸氏(宍戸氏は五龍城主)が陣鐘として用いたと言われています。鐘楼門の鐘がそれです。南河内などを中心に作品を残した鋳物師の丹治友重が南北朝時代初期の建武二年に造った物で、広島県の重要文化財に指定されています。事前連絡があれば見学できるそうです。

宍戸氏の本拠の五龍城近くにも高林坊があるとのことですが、そこと関係あるのでしょうか?

[参考]
広島県教育委員会ホットライン教育ひろしま「広島県の文化財 - 銅鐘(安芸高田市吉田町)」
安芸高田市「高林坊梵鐘(銅鐘1口)(吉田町)」

2019年11月01日 野呂利左衛門督休三
藤森神社[吉田郡山城  寺社・史跡]



小早川隆景の屋敷がここにあったとされます。吉川元春の屋敷は不明ですが吉田郡山城の峰続きの天神山の麓にあったとされます。

[参考]
説明板

2019年11月01日 野呂利左衛門督休三
住吉神社[吉田郡山城  寺社・史跡]



元々は多治比川の左円(吉田町吉田左円か。安芸高田市歴史民俗博物館の少し西)というところに祀られていたそうですが、元就の頃に吉田郡山に船着き場が造られた際に可愛川(江の川)対岸の住吉山に遷されたそうです。天文十七(1547)年の毛利隆元の棟札が残されているそうです。
その後、現在地に遷されたそうですが、この場所は古い時代の毛利氏の館跡ともされるそうです。

[参考]
説明板

2019年05月04日 KAZ中務卿正勝
清神社[吉田郡山城  寺社・史跡]



『すがじんじゃ』と読みます。
毛利家が戦勝祈願した神社です。サンフレッチェも!
手前の杉の木5本は、樹齢800年とも
1000年とも言われてます。
ここの破魔矢は、弓1つに対して矢が3本付いてます(^O^)/

2019年05月04日 KAZ中務卿正勝
展望台[吉田郡山城  関連施設]



大内氏援軍の攻め口方面(池の内古戦場)が良く見えます。尼子陣所の青山方面はちょっと木が邪魔してますが、合戦当時を妄想するには、もってこい!です
(≧∀≦)

2018年06月14日 たれめパンダ筑前守maki
吉田郡山城

展望台・清神社から本丸を目指すコースと歴史民俗博物館を通り毛利隆元墓所から本丸を目指すコースがあります。
展望台・清のからの道の方が 楽なので初心者さんにはこちらからをオススメですが、元就様墓所でお参りしてからの本丸コースは、山城味わいたい方には こちらからをオススメします

2017年07月17日 まるき〜主殿助
吉田郡山城

吉田郡山城…山の頂上にヒトデを置いたような?星型の縄張りとなっていて本丸から五方向に伸びる壇と呼ばれる廓が特徴
各壇の奥に段差のある廓が連続していて家臣の屋敷を置いたり炊事場を置いたり、生活ができるようにしていたみたいです

本丸の周りは石垣が崩壊し苔が何とも良い感じ
破城され、朽ちて行く感漂うひっそりとした雰囲気、今まで行った城跡には無い独特の雰囲気に時間の経つのも忘れそうでした…。
資料や縄張り図を見てるとかなり広いと感じていましたが、実際歩いてみると案外楽勝で約2時間強で要所要所、旧城跡(元就が拡張する前の元々の城跡)まで見学できました。
歩いていて感じた事、
山自体が赤土で結構コケが綺麗に付いてる
赤と緑のコントラストが目に優しい…
日の当たる部分が少なく夏場でも涼しく感じられた
確かに西日本最大の山城だけあって見所、遺構はたくさんあり破城の様子が伺える貴重な山城だと思います。
整備はされていますが足元にゴロゴロと石が落ちているため、分厚い靴底の靴で来るのが良いかと…
尾崎丸〜旧城跡付近は少し険しいです。


2017年05月11日 スーパーキャット
吉田郡山城

麓にある歴史民俗博物館に無料駐車場とトイレがあります。100名城のスタンプもそこにあります。中では甲冑をバックに写真を撮ることができます。施設の横に貸し出し用の杖があります。
そこからもう少し上がったところにも無料駐車場とトイレがあります。
三矢の訓の石碑は安芸高田少年自然の家の敷地内にありますが、鍵はかかっておらず自由に入ることができます。
午前6時よりも早く城攻めをすると何頭もの野生の鹿に遭遇します。
建物は残っていませんが、曲輪の跡がたくさんあり、見ごたえのある城跡です。

2017年05月08日 小早川安芸守ケンケン
吉田郡山城

麓に資料館があり、百名城スタンプが設置されてます。山頂本丸跡までは約30分。駐車場は、資料館に無料駐車場があります!


2016年11月06日 青き巨星弾正少弼かみ
吉田郡山城

日本100名城スタンプに併せて、お城メダルを集めていますが、吉田郡山城のお城メダルは売っていません。無念

2016年03月28日 野呂利左衛門督休三
吉田郡山城

百名城スタンプのある安芸高田市の歴史民俗博物館で2015年11月23日から「安芸高田お城拝見 山城60ベストガイド」を販売しています(1200円)。安芸高田市には100を超える城があるといわれ、その中で学芸員さんがリアルに遺構を確認した60城が収録されています。
歴史民俗博物館では、城の案内図などが配布されていますが、フリーペーパーの「じゃらん 安芸高田版」には町中の見所が紹介されています。

町中には、元就以前の毛利氏の館があったとされる住吉神社、小早川隆景の館跡といわれる藤森神社、郡山籠城戦の際、毛利家臣の宍戸氏が用いたとされる鐘が伝わる高林坊、合戦を見つめたのかも、樹齢五百年のイチョウが今も葉を茂らす福泉坊があります。
メインストリートと思われる、たて縄手には鍵の手の辻が何カ所かあります。城下の防御性を高めるためです。

城の南西2kmに郡山籠城戦の尼子方本陣の青山城・光井山城があります。二番目の本陣(最初は北西4kmの風越山城)で技巧的な城だそうです。
南2kmには救援軍の大内勢が陣を敷いた高塚山城があります。

2016年01月11日 カーネル
吉田郡山城

芸備線の甲立駅から1km北上すると国道54号にぶつかり、右前に鳥居がありそこから五龍城へ登り、往復1時間弱で下山します

ここから国道54号をひたすら南下。遠い。1時間くらい歩くと、信号名が外堀で地域名が内堀。少しうれしい

大浜信号で右折し吉田高校前を通過したら清神社へ。登って100mのところでポストに入った縄張り図をゲット。ここは広く分岐も多数なので地図がないとつらいです

旧本城へ往復する道は寂しい感じ。尾崎丸を経由して本丸の下に放射状にいくつも伸びる曲輪群を見ます。ここも曲輪の先端に行くにつれ、道が寂しくなる

その後、三の丸、二の丸、本丸を経て毛利元就墓所に降りて、安芸高田市役所前のバス停に着いたのが、甲立駅をでて4時間半後でした

ここは100名城めぐりで最初に来たお城で、その時は全然よさがわからなかったけど、色々経験してから再訪すると、規模とか整備のされ具合などの偉大さが、よくわかりました


歩き計画されている方の時間目安になれば幸いです


2015年06月23日 178ックス永遠の副将軍
吉田郡山城

資料館で本丸跡までの地図とパンフが
もらえます
登城ルートは整備され歩きやすいですが
雨上がりは滑りやすくなってますので
気をつけてください
本丸までの道のりには
高野山を思わせるような雰囲気のある
毛利一族のお墓や
堀切や石垣など解りやすくなっています



2014年11月11日 青き巨星弾正少弼かみ
吉田郡山城

JR三原駅から国道486号線、国道375号線、県道29号線を通って郡山城の南西角にある歴史民俗資料館まで車で1時間半で行き、郡山城の案内マップを元に元就火葬場伝承地、毛利隆元墓所、大通院谷遺跡、毛利元就一族墓所、百万一心碑、御蔵屋敷、釣井の壇、姫の丸、釜屋の壇、羽子の丸、厩の壇、三の丸、二の丸、本丸、勢溜の壇、満願寺跡、妙寿寺曲輪、尾崎丸、旧城の本丸、二の丸、三の丸、興禅寺跡、三矢の訓跡碑、酉谷地点石垣跡、常栄寺跡と歩き巡りました。
全部で3時間半ほどかかりました。
保存状態は大変良く全て見応えがあります。
個人的には3箇所をお勧めします。
第1は旧城の二の丸から旧城の本丸を見上げること、7メートルほどの高低差があるので、攻略の難しさを実感できるから。
第2は尾崎丸(隆元は尾崎殿と呼ばれていて、この曲輪に居住していた)
の北西にある堀切の底が丸みを帯び、綺麗に見えること。
第3は三の丸の石垣跡、綺麗に積まれているところもあれば、崩れているところもあって、それがまた良いのです。



2013年11月27日 蔵人頭ピロシキ
吉田郡山城

広島駅から可部駅まで約50分。320円。可部駅からバスで約45分。770円で安芸高田市役所停留場下車。
降りたら、進行方向とは逆にある郵便局のある方向へ歩くと5分ちょっとで、資料館に着きます。

2012年11月04日 尾張守ひろっちぃ
吉田郡山城

最寄り駅の吉田口から出てるバスは日祝日はバス運休になっていたため注意が必要です。本丸までの道は文字通りの登山で整備されている道もあればゴツゴツした岩の道もありかなり歩きにくいところも有ります。なかには道なき道もありますが道しるべの矢印を頼りに登っていけば問題有りません。本丸まで途中に元就の像、隆元墓所、毛利一族の墓などをへて山道を歩いていくと二の丸そして山の山頂の本丸に至ります本丸には城主の館があったそうで山頂部には櫓台が残っています。本丸と二の丸には石垣は残っていませんが三の丸にはかつての姿を思わせる石垣跡があります。
展望台からは安芸の町並みを一望できます。ところどころにマムシに注意 スズメバチに注意の標識があるため登る季節はある程度考慮する必要があると思います。

2010年09月25日 堀久太郎秀政
吉田郡山城

吉田町!は、良いところですね!

吉田郡山城の周辺スポット情報

 三の丸石垣(遺構・復元物)

 石垣(遺構・復元物)

 薬研堀(遺構・復元物)

 本城(遺構・復元物)

 尾崎丸(遺構・復元物)

 酉谷地点石垣(遺構・復元物)

 堀切(遺構・復元物)

 風越山城跡(遺構・復元物)

 羽子の丸跡(遺構・復元物)

 釜屋の壇跡(遺構・復元物)

 厩の壇跡(遺構・復元物)

 御蔵屋敷跡(遺構・復元物)

 勢溜(せだまり)の壇跡(遺構・復元物)

 姫の丸壇跡(遺構・復元物)

 釣井の壇跡(遺構・復元物)

 宮崎城の堀切(遺構・復元物)

 宮崎城の堀切と土塁(遺構・復元物)

 百万一心碑(碑・説明板)

 元就公火葬場跡(碑・説明板)

 隆元公墓所(碑・説明板)

 常栄寺跡(碑・説明板)

 池の内古戦場(碑・説明板)

 船山城跡・船山社説明板(碑・説明板)

 新町(碑・説明板)

 六日市(碑・説明板)

 近世の石敷遺構(碑・説明板)

 祇園縄手(碑・説明板)

 本城(碑・説明板)

 船山城(周辺城郭)

 青山城(Ⅰ群)(周辺城郭)

 天神山城(周辺城郭)

 田淵ヶ城・吉常ヶ城(周辺城郭)

 高塚山城(周辺城郭)

 光井山城(周辺城郭)

 宮崎城(周辺城郭)

 清神社(寺社・史跡)

 毛利元就公墓所(寺社・史跡)

 住吉神社(寺社・史跡)

 福泉坊(寺社・史跡)

 藤森神社(寺社・史跡)

 高林坊(寺社・史跡)

 宮崎神社(寺社・史跡)

 小島雪そうの墓(寺社・史跡)

 浅野藩御本館跡(寺社・史跡)

 法専寺(寺社・史跡)

 博物館受付(御城印)

 安芸高田市歴史民俗博物館(スタンプ)

 トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 光井山城登城口、駐車スペース(駐車場)

 展望台(関連施設)

 食い違い交差(その他)

 食い違い交差(その他)

 郡山公園(その他)

 青山城登城口(その他)

 宮崎城ー尾根合流ポイント(その他)

 宮崎城登城口(墓地)(その他)

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