宮崎神社
宮崎神社([吉田郡山城 寺社・史跡])
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宮崎神社の口コミ情報
2019年11月02日 野呂利左衛門督休三
南北朝時代の観応元(1350)年に毛利師親が勧請した神社です。幕府の命令で石見(島根県西部)の佐波善四郎の討伐に赴く際に、江の川で先祖の地である相模国(神奈川県)の宮崎の八幡宮に先勝を祈願しました(毛利氏の苗字の地は相模国の毛利荘[神奈川県厚木市])。そして抜群の戦功を挙げたことから、この地に八幡宮を勧請したのが始まりだそうです。
大永三年の元就と弟の相生元綱との戦い、天文十(1540)年の郡山合戦での毛利と尼子の戦闘で炎上しています(尾根続き西南西600mに尼子方の宮崎城があった)。
現存する棟札や、棟札の記載の写しから戦国時代以降6回の再建または改修が確認されます。そのうちの最古の物が永禄十一(1568)年の物です。
同社には毛利氏ゆかりの物が他にも伝わっているそうで、その中の鐙石が先程の由緒に関わるもので、師親が川を渡っているときに浮かび上がって鐙に引っ掛かったとされる石です。そのまま戦い、勝利を収めた師親はその石を宮崎神社に納めます。
以来、吉田郡山では小石に見立てた餅を食べる風習が生まれ、それが「川通り餅」と呼ばれるようになったそうです。
またかつては創建以来、八月十五日の大祭に流鏑馬を行っていたそうですが、太平洋戦争での馬匹不足で廃れてしまっています。
[参考]
説明板
安芸高田市「宮崎神社(吉田町)」
御菓子処 亀屋「『川通り餅』の由来」