猿掛城(さるかけじょう)

猿掛城の基本情報

通称・別名

多治比猿掛城、多治比城

所在地

広島県安芸高田市吉田町多治比

旧国名

安芸国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

毛利弘元

築城年

明応年間(1492〜1501)

主な改修者

主な城主

毛利氏

廃城年

慶長年間(1596〜1615)?

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)、竪堀、井戸

指定文化財

国史跡(毛利氏城跡)

再建造物

説明板

周辺の城

吉田郡山城(広島県安芸高田市)[4.2km]
鈴尾城(広島県安芸高田市)[5.0km]
松尾城(広島県安芸高田市)[5.8km]
五龍城(広島県安芸高田市)[8.3km]
日下津城(広島県安芸高田市)[10.3km]
阿賀城(広島県安芸高田市)[11.0km]
仁後城(広島県安芸高田市)[13.5km]
今田氏城館(広島県山県郡)[14.8km]
南朝方毛利氏城館(広島県山県郡)[15.3km]
七郎城(広島県広島市)[18.3km]

猿掛城の解説文



多治比猿掛城(たじひさるがけじょう)は、広島県安芸高田市にあった日本の城。「毛利氏城跡 多治比猿掛城跡 郡山城跡」として、吉田郡山城と共に国の史跡に指定されている[1]

概要 

築城年は不明。吉田郡山城の支城として造られた山城。1500年(明応9年)に家督を毛利興元に譲った毛利弘元が隠居するために築城したという説もある。

歴史・沿革 

1500年に毛利氏の当主毛利弘元は、家督を嫡男の毛利興元に譲り、次男の松寿丸(後の毛利元就)らを連れてこの多治比猿掛城に入城する。1506年(永正3年)に弘元が没すると、幼少の松寿丸が城主となる。松寿丸はこの城で成長し、元服後、多治比元就と名乗り、分家の多治比毛利氏として活動する(この時期元就は「多治比殿」と呼ばれている)。

この城で毛利隆元や五龍局が生まれている。

1523年(大永3年)に元就が宗家を継ぎ、多治比猿掛城は城主不在となる。その後についての詳細は不明だが、その重要性は変わらず、戦国末期まで維持されたと思われる。実際、1563年(永禄6年)に毛利隆元が元就が遠征している出雲へ向かう途中で、多治比猿掛城に1泊。その際に息子の毛利輝元が来城し、面会している(その後、隆元は佐々部で急死)。廃城年は不明。

構造 

城跡は多くの郭が残り、比高120メートルの山頂の物見丸、丘陵先端の中心部郭群、斜面中腹の寺屋敷郭群、平野部の出丸に分けられる。

出丸は平時の生活を重視した館的な区画であり、中心部郭群や物見丸が戦時の避難所となる役割だったと考えられている[2]

所在地 

広島県安芸高田市多治比。近隣には杉大方の墓、毛利夫妻の墓がある。

参考文献 

  • 『戦乱中国の覇者 毛利の城と戦略』(成美堂出版、1997年)

猿掛城の口コミ情報

2025年09月07日 たいよう大好き阿波守龍&海
猿掛城



猿掛城の看板通りに車一台通れるくらいの道を進んで行くと猿掛城第二駐車場が一般墓地の前にあり、そこを素通りして更に200メートルくらい進むと車が数台駐車できて切り返しもできる広場があり、民家?お寺?がありその横に登城口の看板があります。本丸まで20分くらいです。

勾配はキツく9月で残暑もあり途中止まって呼吸を整えたりしました。道は整備してありますが倒木とクモの巣を避けながらの登城でした。竹藪はなかったので蚊はあまりいませんでした。トカゲを数匹見かけただけです。道は分からなくなる事はなかったです。

2024年10月23日 気分爽快兵部卿
猿掛城



登城口から物見までの比高は150m程度ですが、急坂となっています。小雨の中で登城したので、主郭に登るのと、主郭南の堀切に降りるのは手間取りました。
主郭から物見に向かう尾根には、複雑な堀が存在し見応えがあります。
寺屋敷から60m登ると主郭に到達、更に60m登ると物見に到達します。物見から下った先に弘元公の墓がありますが、登山アプリのお陰で迷うことなく辿り着けました。

①土塁が残る出丸
②寺屋敷から主郭への登り
③細長い主郭
④主郭南の堀切。気を抜くと滑り落ちそう
⑤堀切から見た主郭の切岸
⑥尾根には複数の竪堀
⑦物見手前にも堀切あり
⑧弘元公の墓。第二駐車場からすぐ

2024年05月04日 織田上総介晃司
田屋城(八千代)[猿掛城  周辺城郭]

車は湖面に隣接する土師ダム第四駐車場に停めます。
周回道路に接する駐車場が空いていればトイレもありベストポジション。

一番の見どころは三方を取り囲む横堀です。安芸の山城では貴重な遺構です。
比高20mとお手軽山城ですが、本来は土師ダム(八千代湖)が無かったのでもっと比高はあったと思います。

田屋城近くの土師ダムサイクリングターミナルでダムカードを貰う事ができます。

2024年01月19日 尼崎城因幡守一口城主
猿掛城



[登城編後半]麓の教善寺から寺屋敷曲輪を経由して遺構と思われる石積の間や整備して下さっている登山道(写真①)を登っていき、本丸跡(写真②:説明板)に到着。
説明板に沿って、櫓台として使用されたと思われる約3m高い盛土(写真③)に上がり本丸曲輪を撮影(写真④)説明板に長さ50m×幅24mとあるように細長い曲輪であることを確認。説明板に<三方は急峻な崖>とあったので崖の感じが最も分かりやすそうな東側斜面(写真⑤)を撮影。
本丸から元就公が猿掛城の次に入城された郡山城(写真⑥:ほぼ中央の山(盆地の左手の山))を撮影📷2023年元就公が吉田郡山城<入城500年>ということは、訪城時の2023年は元就公の猿掛城<出城500年>だなと思いながら眺めていました。また、幼くして別れ離れになった兄の興元公のいる郡山城方面を元就公は時々、兄ちゃん元気かなとかまた遊びたいなとか色んな思いを込めて眺めていたかもしれないなと思ってしまいました。
下山時、寺屋敷曲輪から教善寺のお堂越しに猿掛城城下町の和む風景を撮影(写真⑦)
帰路、多治比猿掛城跡案内図(写真⑧)があったので眺めてみました。眺めながらハッとして、進軍時お参りしようと思っていた元就公の父・弘元公の墓所に行っていなかったことに気づきショックを受けました。またいつの日が来城するきっかけが出来たと思い帰路に着きました。

2024年01月19日 尼崎城因幡守一口城主
猿掛城



[進軍編&登城編前半]2023年9月23日、吉田郡山城下城後に元就公が郡山城入城前に過ごされていた猿掛城に向かって進軍。道中、県道6号から県道319号に進むよう猿掛城方面を示す標識(写真①)があったのでそれに従いお城を目指しました。道中、猿掛城の遠景も撮影(写真②③)。お城近くなので、もしかしたらこの辺りなども元就公が領内巡回されていたのかと思うと嬉しくなってきました。
猿掛城の麓の猿掛山教善寺(写真④)に辿り着き、案内板(写真⑤)に従い登山開始🥾案内板から約3分で寺屋敷曲輪(写真⑥⑦)に着き、遺構と思われる石積(写真⑧)の間を通りながら約10分で本丸跡に辿り着くことが出来ました。

2023年05月02日 尻啖え孫市権大納言
猿掛城

中腹まで車で行けます。お寺の手前に3台位停められる。登道は心臓破りの急な坂。落ち葉、枝が散乱しているが、道は確保されている。帰りは木の段通りに行けば迷うことなく帰れる。マウンテンブーツ、杖があると助かると思う。山頂は登ったかいがあるくらい開けてる。規模は小さい。郡山城が目の前。北側は堀切が素晴らしい。南側は急峻な崖。守りやすい城で最後は兵站なくば落ちるだろうけど大きな損害覚悟か。私は攻めたくない。

2022年06月13日 つか征夷大将軍
田屋城(八千代)[猿掛城  周辺城郭]



毛利氏の家臣中村氏の居城です。小さいお城ですが横堀は見事です。安芸の山城では横堀は貴重みたいですね。湖の駐車場が使えるのでアクセスは良いです。また定期的に整備されているようです。

以外説明板より

可愛川の上流、中土師集落を見下ろす丘陵の先端に存在したが、現在ダムの周回道路のすぐ上にある。 標高は286m、現在からの比高は26mだが、ダム建設以前はそれ以上であった。

築城時期は不明であるが、十五世紀から十六世紀にかけて存在したと思われる。城主と伝わる中村氏 は、南北朝期に土師の地に移住したと伝わる国人領主で、十五世紀末元明のときに毛利氏に従い、弘元と興元に仕えた。大永3(1523)年、毛利元就が家督を相続する際、元明は重臣の一人として判に署名 している。中村氏はその後もこの土師を拠点としていたが、江戸時代に入ると毛利氏に従い、萩へ移住し、藩士として仕えた。
城跡は、主郭(中心の)と南側2つの郭を中心に構成され、全体は 南を向いている。南端は道路建設によって破壊され長い通路状になっているが、古写真から元は帯状の郭であったと思われる。また、南を除く三方には全長100mに近い横堀がよく残り、この城の最大の見所であ る。
山城での横堀の使用は安芸では 珍しい。

今は湖底となった、中世の土師地域を領有した中村氏の拠点を伝え貴重な城跡である。

2022年05月06日 raven
猿掛城



2022.5.5現在、登山口は土砂崩れで通行できませんでした。

2021年06月28日 ビーンズマン左近衛中将
猿掛城



お寺の境内から、出丸に登れます。所要時間2分。その後、寺裏の道を登り、本丸へ。15分くらい。本丸横の大きな堀切を渡り、山頂の物見丸へ。ここまでは、15~20分くらい。けっこう、鹿に遭遇しますが、向こうから逃げていきます。

2020年11月15日 織田上総介晃司
猿掛城

毛利弘元墓所前に第二駐車場があります。その先は教善寺の駐車場なのでやめたほうがいい。

日没前もあって物見丸跡は諦め本丸と出丸のリア攻め。

秋に駐車場に停めると、どんぐり爆弾が降ってくるのでマイカーをキレイにしてる方はかなりヒヤヒヤもんです。
駐車場の近くで鹿に遭遇。しばらくガン見されたのでこちらも負けずにガン見。



2020年10月25日 KAZ左大臣正勝
猿掛城

略測図が新しくなっており、新たな曲輪や複雑な堀切が増えてます*\(^o^)/*
まずは、教善寺前を通って出丸を目指して下さい。出丸の説明看板に新たな略測図が記載されてます。ちなみにこの出丸、ゴールデンウィーク前には、ワラビだらけになります(^-^)

2020年10月25日 KAZ左大臣正勝
大堀切下[猿掛城  遺構・復元物]



かなり縄張り図も拡大されてて大堀切下の複雑な堀切も追加されてます複雑過ぎて、ちと難解ですo(^▽^)o

2020年10月25日 KAZ左大臣正勝
寺屋敷[猿掛城  関連施設]



寺屋敷の各曲輪も少しずつ整備されてとりあえず藪がなくなったので探索し易くなってました(≧∇≦)

2019年05月04日 KAZ左大臣正勝
物見丸跡[猿掛城  遺構・復元物]



弘元公墓所の鳥居をくぐって左手休憩所の裏を通って行けますが、最後の谷筋はめっちゃ急斜面で、階段も落ち葉に隠れたり、腐ってたりで大変です。僕は本丸からたどり着きましたが、『これ!降りるの?』って感じでした。ま!本丸から南側の堀切に降りるのもかなり大変ですが…

2019年05月04日 KAZ左大臣正勝
寺屋敷[猿掛城  関連施設]



教善寺を含めて寺屋敷の様です。教善寺の屋根に四つ目紋が(・・?)
大内に味方する前からあったのでしょうか?

2019年05月04日 KAZ左大臣正勝
第2駐車場[猿掛城  駐車場]



県道からの入り道は、道路標識があり道幅も広いので、わかりやすいと思います。突き当たりに猿掛城の石碑があるので、真っ直ぐ登って下さい。

2018年04月05日 カーネル
猿掛城

広島バスセンターから広電吉田線に乗り、1時間半で吉田小学校で下車

西へ進み、郡山城入口と歴史資料館前を通過し、県道6号を歩きますが、歩道完備でありがたいです

40分ほどで県道319号との分岐で左折。青看板の下に猿掛城址の看板もあります
ここから10分弱進み、多比小学校バス停先で左折すると案内板があります

舗装された林道を進むと、出丸跡と物見跡の標識があるので、物見跡へ向かうため、ここから山道に入ります。道を登ると鉄塔があり、ここから尾根を進むと物見跡で浅い堀があります

物見から下りながら北へ向かい尾根を進むと堀が2条あり、その先が本丸です。見上げるほどの切岸がいいですよ

本丸で土塁を堪能したら、下山して吉田病院バス停へ。往復で2時間40分でした

時間があったので、途中の宮の城バス停で下車し、鈴尾城によってから広島駅に戻りました


2015年03月18日 とめ
猿掛城

吉田郡山城から徒歩で向かいました。距離にすると3キロ超、周辺の神社を回るには徒歩も良いですが、かなり時間がかかるので車がおすすめです。
歴史民俗博物館のあたりから国道6号を真っ直ぐとおり、丹比郵便局の交差点を左に曲がり、真っ直ぐ行くと左側に案内板が見えてきます。
そのまままっすぐ、目の前の山が猿掛城。きつい坂道がありますが、車で上まで登ることができます。登ると弘元様と福原様のお墓前に第二駐車場、さらに登って第三駐車場ちかくの登山口から本丸に登ることができます…が、落ち葉も多く、斜面のため運動靴でも滑ることがあります。階段になっているところもありますがとにかく落ち葉落ち葉、帰り道で来た道が一瞬分からなくなりましたのでお気をつけてください。
ただし、
上からの景色、木々に囲まれた本丸跡、削られた地面を見下ろしたときの清々しさは素晴らしいものがあります。

2013年08月17日 【隠者】史学会帰新参
猿掛城

城の登山口まで車で行ける。駐車場もある。本丸から物見丸に行けるかと思ったが本丸からの道がなくてよく分からなかった。
物見丸にいくには入り口が違うみたいである。

猿掛城の周辺スポット情報

 本丸跡(遺構・復元物)

 本丸南側の堀切(遺構・復元物)

 竪堀(遺構・復元物)

 堀切からの竪堀(遺構・復元物)

 物見櫓下の堀切(遺構・復元物)

 物見丸跡(遺構・復元物)

 物見丸南側堀切(遺構・復元物)

 出丸(遺構・復元物)

 大堀切下(遺構・復元物)

 本丸東曲輪(遺構・復元物)

 毛利弘元公・夫人のお墓(碑・説明板)

 田屋城(八千代)(周辺城郭)

 平佐城(周辺城郭)

 高杉城(周辺城郭)

 近安山城(周辺城郭)

 竹長城(周辺城郭)

 高猿城(岩室城)(周辺城郭)

 神田神社(寺社・史跡)

 伝杉の大方の墓(寺社・史跡)

 光明寺観音堂(寺社・史跡)

 トイレ(トイレ)

 第2駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 土師ダム第四駐車場(駐車場)

 寺屋敷(関連施設)

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