五龍城(ごりゅうじょう)

五龍城の基本情報

通称・別名

所在地

広島県安芸高田市甲田町上甲立

旧国名

安芸国

分類・構造

連郭式山城

天守構造

なし

築城主

宍戸朝家

築城年

南北朝時代

主な改修者

主な城主

宍戸氏

廃城年

慶長5年(1600)

遺構

曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)、井戸

指定文化財

県史跡(五龍城跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

吉田郡山城(広島県安芸高田市)[4.7km]
猿掛城(広島県安芸高田市)[8.3km]
仁後城(広島県安芸高田市)[9.8km]
松尾城(広島県安芸高田市)[10.4km]
日下津城(広島県安芸高田市)[10.6km]
鈴尾城(広島県安芸高田市)[10.6km]
黒川城(広島県世羅郡)[15.0km]
高杉城(広島県三次市)[16.1km]
阿賀城(広島県安芸高田市)[18.0km]
福原城(広島県三次市)[20.9km]

五龍城の解説文



五龍城(ごりゅうじょう)は、広島県安芸高田市甲立にあった日本の城(山城)。広島県指定史跡[1]

概要 

五龍城は可愛川と本村川の合流地点に突き出したような半島状の丘陵に築かれた城で、尾根を堀切で断ち切った連郭式の山城である。本の丸は石垣が現存しており、搦手となる西には大きく深い堀切を設け、背後を固めている。現在でも石垣や井戸、土塁等が存在しており、標高も高くないため、中世の山城としては探索しやすい場所である。現在は宍戸神社が建っており、その五龍城の真下を国道54号線が通過している。

沿革 

五龍城を築城した宍戸氏は源頼朝の御家人である八田知家の子孫である。八田知家は鎌倉幕府で要職を務め、常陸国や下野国、安芸国に所領を得た。その八田知家の四男・八田家政が常陸国宍戸を本拠としたため、宍戸を名字とする。

統治初期は代官による安芸国支配を行っていたが、宍戸朝家は鎌倉時代末期に安芸国甲立荘に下向して土着し、ここに安芸宍戸氏が始まった。安芸に下向した直後は近隣にある柳ヶ城を居城としていたが、南北朝時代に五龍城を築いて移った。この時、水が不足したため、五龍王を勧請して祈願したところ井戸水が湧きだした。これを大いに喜んだ宍戸朝家は城を五龍城と名付け、五龍城は宍戸氏の居城となる。

戦国時代になると近隣との勢力争いが起こり、宍戸氏はこの城を中心に勢力を拡大していった。やがて毛利氏とも争うようになったが、天文2年(1533年)、当主宍戸隆家は毛利元就と和睦し、元就の長女(五龍局)と結婚した。これ以後、宍戸氏は毛利氏の重臣として活躍し、毛利氏の勢力拡大に一助をなした。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、当主宍戸元続も毛利氏の防長移封に従い、萩へと去った。そして五龍城は廃城となり、安芸宍戸氏と五龍城の歴史は終わりを迎えた。

1971年(昭和46年)4月30日に広島県の史跡となった[2]

五龍城の口コミ情報

2024年11月24日 気分爽快根室守
五龍城



尾根沿いに郭が配置された細長い城域なので、最深部まで行くとそれなりに時間がかかります。
16時に登り初め土橋到着が16時40分。日の入り17時のため急いで下山しました。櫓ノ壇まで戻れば安心ですが、日没間際は当たり前にかなり日がかげるので注意が必要です。

①尾崎丸
②物見ノ壇と一位ノ壇との間
③一位ノ壇
④本丸南にある石積み
⑤本丸西の堀切(縦では収まらない)
⑥御笠丸
⑦土橋のある二重堀切
⑧土橋南の土塁に囲われた郭

2024年05月04日 サムライちゃん
五龍城

割と低い位置にある城で、余り人の手が入っていないと思われる当時の土塁や堀を見られる。毛利の郡山城を背後で守った宍戸家の居城。ただ、実戦型の城址なので本丸まで行くのに至るところで足がすくむ場所も。見学でも滑落しないようご注意を。

2023年10月08日 伊達 幸村
五龍城

バス停の反対側あたりに駐車スペースがあるので停めて、鳥居が近くにあるので、そこから登りました。階段は結構急なので気をつけたいです。登りきると神社が出てき右側から登れます。時間はさほどかかりません。

2022年05月06日 raven
宍戸隆家夫婦の墓[五龍城  寺社・史跡]

五龍城から湧永満之記念庭園に向かう途中にあります。動物避けの柵が2ヶ所あるので、きちんと閉めて帰りましょう。

2022年03月04日 ʀᴇᴅ副将軍
五龍城



個人的に大好きな名城です。
御笠丸にある両サイドに食い違いの竪堀が連なるステキ土橋が素晴らし過ぎる毛利氏重臣の居城です✨

オススメ度 ★★★★★

南北朝時代に源頼朝の御家人であった八田知家の子孫である宍戸氏により築城。宍戸氏代々の居城となりました。
水不足により、五龍王を勧請して祈願したところ井戸水が湧き出した伝承から五龍城と呼ばれる様になりました。
近隣の毛利氏と勢力争いをしていましたが、
1533年に当主の宍戸隆家は毛利元就と和睦。宍戸氏は毛利氏の重臣となり、毛利氏の勢力拡大に貢献した様です。
1600年の関ヶ原の戦いの後、毛利氏の防長移封に宍戸氏も従い、廃城となりました。

見所
全長約800mに渡り20近い曲輪が配される巨大山城。大きく櫓ノ段、本丸、御笠丸の三つのブロックが尾根上に連なります。
麓に駐車場があり、本丸までは登城路も整備されています。
本丸は石積み遺構が点在し、背後に腰巻土塁が聳え、さらにその背後を大堀切で遮断しています。
本丸背後の大堀切で下山する人も多いですが、見所は最高所の御笠丸です。
一気に足元が悪くなりますが、標高312mの御笠丸も背後に土塁が付され、石積みもあります。
やはり一番の見所は、背後に食い違いの連続竪堀が設けられ、そこに蛇行して架かる土橋と思います。
きっちり2時間堪能しました。

2021年12月12日 サユンバ
五龍城



五龍城へはかなり行きやすく登り口のそばに駐車場トイレが有り攻略も神社の境内に登る感覚で行けます。まずは鳥居をくぐって足を取られそうな階段を登ると綺麗に生え揃った苔が迎えてくれます。その次に尾崎丸、神社、物見の段と続き少しコンクリートで固めた所を通ったらいよいよ林の中に次から次へと連続して各〜の段〜の丸が面白い様に現れて時間を忘れてしまいました。特に本丸周りには石積みが良く残っておりどんな建物がとか自分なら、といろいろ想像してしまいました。この時期なので落葉で足を取られ取られ進みましたが中々楽しいリアル攻略でした。

2021年07月04日 ビーンズマン右衛門督
五龍城



堀切が大きく、主郭から御笠丸までの一つと、御笠丸から足軽ノ壇までの一つは、10メートルくらいの高さがある。なめてそのまま下りたらすべってこけた。回りからまわるのがよいかも。

2019年11月17日 織田上総介晃司
五龍城

県道52号の五龍橋付近の可愛川(江の川)に大きな駐車場、本村川に小さな駐車場があり、簡易トイレがあります。

宍戸神社の表参道と裏参道が登城口となります。裏参道側に五龍城の縄張り図がありますので写真に撮って登城してください。
でないと特に本丸より先はわけわからなくなります。

各曲輪を高土塁で隔てており、まさに土の城で力攻めでは容易に落とせない城です。
毛利元就は力攻めを止め、宍戸隆家に長女(五龍姫)を嫁がせて一門衆とし、勢力下に治めてます。

安芸高田市甲田町はハンドボール湧永製薬の本拠地です。

安芸高田市には毛利家臣の桂氏の桂城。福原氏の鈴尾城(福原城)と名付けられてるのに宍戸氏の五龍城は宍戸城とは言いません。何故…?

シシドジョー…俳優さんで聞いたような名前が…

2013年04月28日 小鉄馬単騎周防守黒煤蕪
五龍城

宍戸神社の北東側の橋のたもとに駐車場と案内看板があります。本丸の奥まで城の領域ですが、余りにも奥に行くと山中に迷い込む恐れあり。

2013年04月28日 小鉄馬単騎周防守黒煤蕪
五龍城

二度書きしてしまった。 城を訪れた際には、近くに名水が沸いてますので、喉を潤してお帰り下さい。


五龍城の周辺スポット情報

 本丸跡(遺構・復元物)

 姫の丸(遺構・復元物)

 桜の段(遺構・復元物)

 三の丸(遺構・復元物)

 矢倉の段(遺構・復元物)

 一位の段(遺構・復元物)

 物見の段(遺構・復元物)

 土橋(遺構・復元物)

 畝堀(遺構・復元物)

 竪堀(遺構・復元物)

 説明板(碑・説明板)

 説明板(碑・説明板)

 五龍城址図(碑・説明板)

 岩屋城(周辺城郭)

 宍戸司箭神社(寺社・史跡)

 宍戸隆家夫婦の墓(寺社・史跡)

 駐車スペース(駐車場)

 駐車スペース(駐車場)

 五龍橋(その他)

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