仁後城(にごじょう)
仁後城の基本情報
通称・別名
- 尼子城
所在地
- 広島県安芸高田市高宮町船木田屋郷地区
旧国名
- 安芸国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 尼子氏?、和智誠春?
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、堀切、竪堀、土塁、井戸、土橋
指定文化財
- 市史跡(仁後城跡)
再建造物
- 説明板
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-
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仁後城の解説文
仁後城の口コミ情報
小鉄馬単騎周防守黒煤蕪様[2014年10月26日]
地元の方にお願いして、獣避けの柵の中に入れてもらいました。堀切、堅堀、切岸…。山城の教科書、見本市…、いや、山城の総合商社やぁ~!!
誰かのホームページに書いてありましたが、仁後城を見ずに安芸国の山城を語るなかれ…。確かに、実感させて頂きました。
一度、城に足をお運び下さいませ!!
小鉄馬単騎周防守黒煤蕪様[2014年04月06日]
鹿避けの柵と蛇に阻まれ、現地には入れておりませんので、道路脇にあった説明板より 『別名尼子城ともいい城主は不明。一説には尼子一族の城といわれ、毛利方の牛首城(佐々部氏)との間にたびたび戦いが行われたという伝説をもつ。血刀を洗ったため、小川が桜色に染まったので、桜小川の名がついたのもその一つである。また別に吉舎南天山城主和智誠春の居城ともいわれている。毛利隆元は、永禄六年、出雲遠征の途中、式敷 蓮華寺で没したが、その前夜誠春の供応を受ける。その場所は定かでないが、地理的条件や言い伝えなどからここに誠春の館があったとする説は、うなずけるところである。城跡は、標高280mの丘陵頂部の主郭を中心に北西に伸びる尾根筋、南東に伸びる丘陵上に七つの郭と小規模郭群が設けられており、それらの周辺に配した堅堀、土塁などの遺構が確認されている』
城跡は丘陵の重畳を主郭とし、北西に伸びる尾根筋、南東に伸びる丘陵上に郭群が設けられている。
現在でも竪堀、土塁などの遺構を確認する事が出来る。