高杉城(たかすぎじょう)

高杉城の基本情報

通称・別名

祝城、祝要害、杉山城

所在地

広島県三次市高杉町383他

旧国名

備後国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

祝氏正

築城年

不明

主な改修者

主な城主

祝氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

県史跡(高杉城跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

甲山城(広島県庄原市)[10.0km]
仁後城(広島県安芸高田市)[14.7km]
五龍城(広島県安芸高田市)[16.1km]
黒川城(広島県世羅郡)[16.7km]
福原城(広島県三次市)[18.5km]
吉田郡山城(広島県安芸高田市)[20.8km]
有福城(広島県府中市)[20.9km]
上下陣屋(広島県府中市)[22.4km]
松尾城(広島県安芸高田市)[23.6km]
猿掛城(広島県安芸高田市)[24.1km]

高杉城の解説文



高杉城(たかすぎじょう)は、備後国三谿郡(現在の広島県三次市高杉町)にあった日本の城(平城)。広島県指定史跡に指定されている[1]。現在は知波夜比古神社が鎮座する。

概要 

備後国国人江田氏の家臣、祝氏の居城であった。天文20年(1551年)に陶隆房の反乱(大寧寺の変)で大内義隆が弑逆されると、江田氏は天文22年(1553年)に大内氏を見限り尼子氏に寝返る。翌年、陶晴賢の指示を受けた毛利元就の攻撃によって陥落して廃城となった。

城は廃城となったが、当時から知波夜比古神社が城内にあり、社殿の再建が行われている。また、祝氏一族で生き残った者もおり、祝広縄は知波夜比古神社の神職を務め、高杉小太郎は厳島の戦いにも参戦し、軍功を挙げている。

構造 

馬洗川と美波羅川の合流する河岸段丘上にあり、東西70メートル・南北80メートルの方形居館型の城郭であった。落城後に廃城となり、神社の神域として保護されたため、城の北側東側の周囲には堀が残り、郭内部には土塁が残っている。南側の部分にも虎口を意識した作りの郭内部に土塁が残存し、こちらが大手だったと推測される。

現在、西側には道路が通っているが、この部分にも堀が存在したことが、2012年(平成24年)の調査で確認されている[2]

建築物の詳細については不明だが、当時から知波夜比古神社の社殿が存在していたと推測される。

当時の城域は不明であるが、現在の境内を本丸部とし、周囲の丘陵まで城域であったという説もある。戦後まもなく撮られた1947年(昭和22年)の空撮写真では周囲にまで城域があった痕跡は見られない。

安芸武田氏支流祝氏・高杉氏 

城主であった祝氏は元々安芸国分郡守護武田氏の一族(系図には諸説あり)で、知波夜比古神社の祝職を担ったため、名字を祝としたとされる。高杉城落城後は祝の名字を捨て、在地名である高杉を名字とし、毛利氏家臣として続いた。

毛利氏の家臣録である萩藩閥閲録では、高杉晋作の祖先は備後国高杉城主の高杉小四郎春時とされ、初代春時→春光→春貞→就春→春俊→春信→春善→春明→春豊→春樹→春風(晋作)と続いた。

文化財 

広島県指定文化財

  • 史跡
    • 高杉城跡 - 1984年(昭和59年)11月19日指定、2015年(平成27年)1月13日に史跡範囲の追加指定[3]

参考資料 

  • 広島県教育委員会 1996年『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』第4集
  • 『萩藩閥閲録』
  • 2014年(平成26年)『広島県文化財保護審議会史跡・埋蔵文化財合同部会 現地調査・会議記録』(https://www.pref.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/150911.pdf)
  • 三次市教育委員会 2016年『広島県三次市文化財調査報告書9:高杉城堀跡試掘調査・高杉段遺跡発掘調査報告書』(https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/search/item/63368?all=%E9%AB%98%E6%9D%89%E5%9F%8E)

高杉城の口コミ情報

2022年02月28日 安芸守 あきら
駐車場[高杉城  駐車場]



砂利敷ですが、広い駐車場です。普通車なら10台ぐらいは駐車できそうです。アクセス道路もそれなのに広く、安心して訪れることができます。

2021年07月03日 九曜紋東市正
高杉城



馬洗川がつくった河岸段丘上にある。周囲には田んぼが広がっています。

尼子方に属した祝氏を毛利氏が滅ぼした後、本城跡に、元就,隆元父子によって、神社(知波夜比古神社)が復元されています。

神社の南側には、1m程度の高さで石垣が残っています。北側には、1.5m程度の土塁跡が鎮守の森の中に残り、さらに北側には、幅2〜3m程度の堀らしき凹みも確認できました。車で訪れる場合には、神社の西側に5〜6台分の駐車場があります。

2021年02月03日 KAZ中納言正勝
陣床山城[高杉城  周辺城郭]



【陣床山城】毛利元就が旗返山城を攻める際に築いた城と伝えられてます(^-^)旗返山城よりも低い山で比高も180m位ですが、なんと言ってもお城の距離が近いっす(°_°)国道375号を挟んで隣山!本丸間の直線距離は840m!出丸間だと640m!毛利・陶軍は1万以上の大軍なので舐めてかかってる感じでしょうか?

はっ!Σ( ̄。 ̄ノ)ノ厳島合戦の逆では?元就さん…この辺りも心理戦として活用してたりして…妄想が膨らみます(≧∇≦)

肝心の陣床山城概要は、城域までの道は無く、ただひたすら直登りです。但し見通しはいい感じなので、地図で地形を予習しておけば、たどり着く事は出来るかと思います。縄張りは、Y型に近い形で北側と北東側に2本の角が段曲輪で旗返山城に向いている形で、北側の曲輪には三日月型の土塁も確認出来ました(^-^)見通しは悪いのですがうっすらと旗返山城の出丸方向が見えたので撮影して見ました(下手でごめんなさい)西側の曲輪には3つの井戸跡があり、麓の川から汲み上げて貯めとくタイプのものだと推測します(ついこないだ、城友さまに井戸には湧き出しタイプと貯めとくタイプがある事を教えて貰いました♪)

南東の竪堀群は比較的わかりやすいですが、旗返山城とは真逆となり敵からは全く見えません。なぜこちら側に竪堀群を作ったのか?疑問に感じました。山裾には川が流れてて、川が蛇行してるので昔は湿地帯では?しかも山はかなりの急斜面、そんなトコを渡河作戦で攻め上がる敵を想定してたのでしょうか(・・?)

2021年02月03日 KAZ中納言正勝
旗返山城[高杉城  周辺城郭]



節分とは季節の分かれ目…次の日は立春と暦上では春になるとの事。そんな分かれ目の日に、分かれ目となったお城に訪問しました。
【防芸引分】毛利元就と陶晴賢の間に確執が生まれ始めた城、旗返山城!尼子軍に組みした江田氏のお城です。

毛利・陶軍1万数千に攻め寄せられ江田隆連は千数百で籠城、尼子の援軍を唯一の頼りにして約4か月籠城しましたが敢えなく落城(>_<)その後、毛利はこのお城を我が物にしようとしたのですが、毛利の力が大きくなる事を懸念した陶晴賢が自分の家臣、江良さんを城番にしたので毛利は面白くない…って感じらしいですσ(^_^;)

旗返山城の概要は、L型の曲輪群で一部階段では?って言うスロープ状の石組みも確認出来ました(^-^)北側には複雑な竪堀があり略測図と見比べると見えてきます。ちなみに、三次市のお城では付近の道路に写真の略測図&解説看板が設置されてますので、訪問時有難いと思います。登城口からの道中は節理の石と、落ち葉の堆積が多いので足元注意です。しかし方向を示す看板が多いので迷う事は無いと思います。各曲輪は削平がしっかりされてて、広いです。本丸には現代版見張り台が設置されてて、街道方向がよく見えます(^-^)標高434m比高200mで途中、写真の滝を2本見に寄り道しても本丸までは1時間くらいだと思います。写真の三角の山は毛利・陶軍が陣取った陣床山城です。出丸からバッチリ見えます。

旗返山城では、毛利との合戦時の悲しい物語りがあります。城主、江田隆連は落城を覚悟し妻と娘を、北東方向に逃がしました。娘は身ごもっていて逃亡途中で産気づき、かわいい女の子を出産しましたが、逃亡と出産で体力を使い果たしてしまいました(>_<)兼ねてより『逃げ切れぬ時は自刃せよ』と諭されていたので、産まれたてのかわいい赤ん坊と共に全員自刃(ToT)

戦国の世の習いとは言え…
悲しすぎです(/ _ ; )
合戦後、村人が供養の為に建てた祠【姫塚】が、道の駅『川西郷』の先200m位いった所、『藤谷』と言うバス停の裏にあります。お城からも見える距離です(T-T)

2020年11月05日 大膳大夫マイリバ
比叡尾山城[高杉城  周辺城郭]

~ 比叡尾山城解説板より ~

比叡尾山城本丸跡

(2550㎡約770坪)
標高420mで三吉氏の本拠であり、建久3年(1192年)8月佐々木秀綱が三次地方の地頭職を得て比叡尾山城を築き居住したのが初めという。以後15代400年の歴史の中で徐々に拡張され今に残る形となっております。

2020年11月04日 大膳大夫マイリバ
比熊山城[高杉城  周辺城郭]

~ 比熊山城解説板より ~

比熊山城跡

代々、畠敷町の比叡尾山城を居城としていた三吉氏ですが、戦国時代の天正年間 (1573~92)になるとこの比熊山に築城します。比叡尾山城を廃墟した理由は解りませんが、おそらく畠敷町の五日市が三次町に移ったので河川交通の発達などから将来的に三次の地を城下町として機能を整備する必要があったのでしょう。
頂上の標高331mの城域は戦時中に畑に転用されていたとはいえ、全山に郭、土塁、井戸、竪堀の構えを残しています。特に千畳敷と呼ばれ本丸に相当する郭は90x50mの広さで東端には高さ3m、幅5m、長さ30mの基壇も残り、相当な建物があったことを想像させます。現在は鳳源寺境内から山道が登っていますが 本来の大手道はさらに西の谷にあり、登り切った所には両側を土塁で囲んだ桝形と呼ばれる郭が設けられ正面玄関としての役割を果たしていました。
三吉氏は関ヶ原の合戦で豊臣方に味方した毛利氏の武将であったため、改易となリ三次の地を去ります。築城からわずかの年月でしたが、当時の築城技術を知る上で 当城は大器貴重な史跡です。

三次市
三次市教育委員会

2020年02月15日 織田上総介晃司
高杉城

高杉城(知波夜比古神社)の左側に駐車場があり、境内にトイレもあります。

三次ICからも近く、平城なので気軽に散策できます。

三次市三良坂町またはトレッタみよし内の「麦麦」(パン屋さん)のサンドは美味しい。
食パンもあれば買って帰ったほうがいいですよ。

2017年08月17日 サクラガイ
高杉城

のどかな田園風景の中にあります。すぐ隣がきれいな駐車場でした。徒歩0分で行けます。平地で、しかも浅く幅の狭い堀しかなかったこの城は、戦国時代に入ると防備が手薄で攻められやすかっただろうなと思います。神社を守る人々のおかげで城跡も残ったのでしょうね。

2017年05月20日 東照大権現周防守カズピー
高杉城

今は神社になってるので駐車場ありました。トイレもあったので安心だと思います。高杉晋作のルーツでもあるみたいです!登ることもないので体力的には余裕だと思います。

高杉城の周辺スポット情報

 説明板(碑・説明板)

 石碑,説明板(碑・説明板)

 比熊山城(周辺城郭)

 比叡尾山城(周辺城郭)

 旗返山城(周辺城郭)

 陣床山城(周辺城郭)

 知波夜比古神社(寺社・史跡)

 駐車場(駐車場)

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