萩城(はぎじょう)

萩城の基本情報

通称・別名

指月城

所在地

山口県萩市堀内

旧国名

長門国

分類・構造

梯郭式平城、山城(指月山)

天守構造

複合式望楼型[5層5階/1608年築/破却(廃城令)]

築城主

毛利輝元

築城年

慶長9年(1604)

主な改修者

主な城主

毛利氏

廃城年

明治7年(1874)

遺構

曲輪、石垣、横堀、長屋、井戸

指定文化財

国重要文化財(旧厚狭毛利家萩屋敷長屋)、国史跡(萩城跡、萩城城下町)、国天然記念物(指月山)他

再建造物

北の総門、土塀、土橋、石碑、説明板

周辺の城

櫛山城(山口県萩市)[7.6km]
青景城(山口県美祢市)[18.1km]
亀山城(山口県長門市)[19.0km]
奥阿武宰判勘場(山口県萩市)[19.3km]
渡川城(山口県山口市)[22.3km]
古城ヶ岳城(山口県山口市)[25.4km]
賀年城(山口県山口市)[27.0km]
山口城(山口県山口市)[27.2km]
白水山城(山口県山口市)[27.3km]
大内氏城館(山口県山口市)[27.5km]

日本100名城・続日本100名城スタンプ情報

番号・名称

75 萩城

設置場所

本丸入口料金所[地図

萩城の解説文



萩城(はぎじょう)は、山口県萩市にあった日本の城である。別名・指月城(しづきじょう)。城跡は国の史跡に指定されている。

概要 

関ヶ原の戦いに西軍の総大将に就いたことにより周防国・長門国の2ヶ国に減封された毛利氏が、広島城に代わる新たな居城として慶長9年(1604年)に築いた城。完工は慶長13年(1608年)だが、築城者である毛利輝元[1]は、慶長9年12月に未完成のまま入城していた。

指月山の山麓にある平城(本丸・二の丸・三の丸)と山頂にある山城(詰丸)で構成されている。本丸の御殿は藩主居館と政庁を兼ねており、250年余りの間、長州藩(萩藩)の拠点であったが、明治7年(1874年)前年に発布された廃城令により櫓など他の建物と共に破却され、石垣や堀(水堀)のみが現存している。現存していた頃の姿は解体前に撮影された古写真[2]で見ることができる。現在、二の丸土塀や三の丸総門など一部は復元されている。さらには、破却された天守など建物の復元を行う動きもあるが、財源の問題で難しくなっている。

現在、城跡は指月公園(しづきこうえん)として整備され、二の丸入口近くに旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(重要文化財)が現存し、松下村塾や侍屋敷などとともに萩市の観光名所となっている。萩市の観光の中でも有名である。

歴史・沿革 

戦国時代

  • 戦国時代、指月山に津和野城主・吉見氏が出城を構え、のちに吉見正頼の隠棲所となった。
  • 1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで西軍総大将となった毛利輝元は安芸国ほか8か国で112万石の大大名であったが、敗戦により隠居のうえ嫡男の秀就に家督を譲るように命じられ、防長2か国29万8千石[3]余に減封された。

江戸時代

  • 1603年(慶長8年)幼少の秀就に代わり、輝元は後見役として萩・山口・三田尻(防府市)の3ヵ所を城地の候補とし、幕府に裁可を求めた。これに対し幕府は、海に臨み要害の地である萩が良いとの回答をしている。
  • 1604年(慶長9年)萩城建造に着手。指月山に連なる干潟を埋め立て、城地を建造した。輝元は、本丸御殿などまだ一部しか出来ていなかった11月に、早々に入城した。
  • 1608年(慶長13年)落成。平時に建設された城ではあるが、指月山に詰の丸を配するなど、戦時を意識した構えとなっている。
  • 1613年(慶長18年)、幕閣とも協議のうえ36万9千石に高直し、幕府は長州藩の表高として公認した。この石高は支藩の分与後も変わることはなかった。
  • 1863年(文久3年)時の藩主・毛利敬親は幕府に無許可で藩庁を山口城(山口市)に移し、萩城は藩庁としての役目を終えた(山口移鎮)。

近現代

  • 1874年(明治7年)廃城令により天守・櫓などの建物を破却。
  • 1951年(昭和26年)国の史跡に指定される。
  • 1967年(昭和42年)萩城下町が国の史跡に指定される。
  • 1971年(昭和46年)指月山が国の天然記念物に指定される。
  • 1996年 - 堀や石垣・門の復元・保存を行う「史跡萩城跡外堀保存整備事業」を開始。
  • 2004年 - 「史跡萩城跡外堀保存整備事業」によって北の総門が復元される。
  • 2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(75番)に選定された。
  • 2011年3月29日 - 1996年から行われていた「史跡萩城跡外堀保存整備事業」が終了。堀や石垣の復元整備や北の総門復元などが行われた[4]
  • 2015年7月5日 - ユネスコの世界遺産に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の1つとして登録される。

構造 

城の位置と構成

毛利輝元は、萩・山口・防府の3ヵ所を築城候補地とし、最終には幕府の指示で萩に決定した。一般的には、これは外様大名の雄である毛利氏を山陰の僻遠地に押し込める意図が幕府にあり、毛利氏の本命候補地は山口であったとも言われている[5]。しかし、幕末に山口移鎮を行った毛利敬親は、萩城は他大名と戦う場所としては優れた「形勝之地」と表現するなど先祖代々の重要な場所と認識しており、萩への築城は毛利氏の不本意だったという見方には根拠が無いとする見解もある。

三角州に築城されたため、三方を海に囲まれている。日本海に張り出した指月山山頂の詰丸(要害とも呼ばれる)と、その山麓に梯郭式(曲輪#縄張と主要な曲輪を参照)に本丸・二の丸・三の丸を配し3重の堀を巡らした平山城であった。吉田郡山城などの中世山城に見られる"山麓の館と山頂の砦"という形態を近世の最新築城術で再現したような城で、広島城を失った毛利輝元が背水の陣で築いた城として、輝元の築城理念が最もよく示されているとされる[6]。厳密には、山頂の詰丸も本丸と二の丸で構成されており、山麓の城とは独立したものであるため、平山城ではなく平城と山城であるとする見解がある。また、海に突出しているため、海城であるという見方もある[7]

本丸

指月山を背後にした本丸御殿を中心に、南西部に天守を、南東部と北東部の隅に櫓(着見櫓と井上櫓)[8]を配した曲輪。広さは東西約200メートル・南北約145メートルに及ぶ。正面となる南側には本丸門(内側の渡櫓門と外側の高麗門で構成される内枡形の虎口)と極楽橋(現在は土橋だが往時は木橋)を設け、二の丸との間には幅20間(約40メートル)の内堀・石垣を巡らせていた。明治12年(1872年)に豊榮神社・野田神社を分社した志都岐山神社が建てられたほか、明治20年(1887年)には藩主別邸の花江御殿から茶室・花江茶亭[9]も移築された。現在では指月公園(要入場料)を成しており、その他の旧跡として梨羽家茶室[10]、旧福原家書院、万歳橋などがある。

  • 本丸の櫓[11]:井上櫓・着見櫓・天守

天守

萩城の天守は5層5階の複合式望楼型(天守の北側には付櫓を接続した複合式の縄張りと2層2階の入母屋造の基部に3層3階の望楼を載せた構造)で、高さは約21メートルであった。外壁は白漆喰の総塗籠で、窓は銅板を貼った突き上げ戸を備える。明和5年(1768年)の修理では赤瓦に葺きかえられた。また、高さ6間、約11メートルの天守台は、非常に勾配の緩やかな裾から上にいくに従って急勾配に立ち上がっている。これは、城の築かれた土地である三角州の地盤の強度を補うため、底面を広げることで荷重を分散させる工夫である。

指月山山麓の本丸南西部に据えられた天守は、城外(城下町)からは見えなかったため、安土桃山時代以降の多くの近代城郭が持っていたとされる城主(藩主)の支配力を誇示するという役割は期待できなかったと思われる。

各階

東西は桁行、南北は梁間。「間」は柱割であり寸法ではない。重数は「御天守之図」記載の名称。括弧内は「萩城絵図」記載の名称。

付櫓(天守戸前と天守附添之長屋)
付櫓は、「天守戸前」と「天守附添之長屋」に分かれていた。戸前の北西に附添之長屋が付属する構造が「御天守之図」に描かれている。平櫓であるが、内部には中二階があり、天守台下に当たる付櫓1階から中二階を経て天守に入る構造となっていた。
初重(天守下段)
東西11間、南北9間。「萩城絵図」によれば坪数99坪とある。
天守台から外に半間ほど張り出している張出構造で、張出し部の床下は石落としに利用された。
身舎には6部屋あったが、無目の敷居が敷かれるのみであった。
弐重(天守弐階)
東西10間、南北8間。
構造、仕様は初重とほぼ同じである。
三重(天守三階)
東西6間、南北5間。東西面に2間×3間の小屋の間、南北面に4間×1間の入母屋破風出窓の張り出しがある。
身舎には薄縁の畳が敷かれ、南側に床の間と上段があり、建具は障子とはめ殺しの格子が建てられていた。
四重(天守四階)
東西6間、南北5間。南北面に2間×1間半の小屋の間(入母屋破風出窓の上)がある。
構造は三重目とほぼ同じであるが、床の間や上段などはない。
五重(天守五階)
東西3間、南北3間。ただし、南北は19尺5寸、東西は22尺5寸である。
外廻縁高欄をつけ、南北面に中央開口部の両脇に2つずつ、東西面中央に1つずつの花頭窓型の出入り口(花頭口)があった。

二の丸

本丸と指月山を囲むように造られた曲輪。12基の櫓、34の井戸、蔵元役所、寺社(真言宗満願寺[12]、臨済宗妙玖寺[13]など)、6代藩主毛利宗広により東園と名付けられた回遊式庭園[14]などがあった。南側と東側にそれぞれ内枡形虎口城門があり、大手門である南門は虎口内部に突き出た石垣を設けて「コ」の字型とする構造となっており、東門は外門(高麗門)・内門(渡櫓門)に加えて2つの櫓(三重の東櫓・二重の時打櫓)が設けられていた。また、菊ヶ浜の方に面した東側には渡櫓門式の潮入門やいくつかの埋門があった。いずれもの門も石垣のみが現存し、豪雨被害の修復は行われたが復元はされていない。ただし、潮入門の南側には四角い銃眼のある土塀(二の丸土塀)が昭和40年(1965年)に復元されている。地続きとなっている二の丸南側は幅16間(約32メートル)の中堀で囲まれていたが、大正15年(1926年)に指月川(橋本川の水を迂回させて水害を防止するために造られた萩疎水で中堀とは無関係。)が造られた時に埋め立てられている。

  • 二の丸の櫓:北櫓・満願寺櫓(三摩寺院櫓)・荒川櫓・紙櫓・華櫓・東櫓・時打櫓・塩櫓・青海櫓(青見櫓)・八間櫓・岡崎櫓・妙玖寺櫓。

三の丸

重臣の居住区となっていた曲輪。厚狭毛利家の萩屋敷[15]も建てられている。三の丸から城下町に出入りする総門は北・中・南の3つがあった。南は平安古の総門と呼ばれ、外堀に架けられた玄武岩製の石橋・平安橋が現存している[16]。また、平成16年(2004年)には北の総門が復元され、総門脇の土塁・船着場・土塀付き土橋なども整備された[17]。一方、城内と城外を隔てる幅20間の外堀は、元和8年(1622年)に完成したとされる。しかし、東側の城下町の発展にともなって堀が埋められていき、元文4年(1739年)には幅8間(16メートル)になった[18]。現在では、外堀より内側(萩城側)の地区が堀内と呼ばれており、昭和51年(1976年)に、堀内地区のうち約77ヘクタールが重要伝統的建造物群保存地区として選定されている(日本で最初に選定された7地区のうちの1つ)[19][20]

  • 三の丸の櫓:益田家物見櫓[21]・大野毛利家隅櫓[22]・児玉家隅櫓。
  • 旧厚狭毛利家萩屋敷長屋:二の丸南門の近くにあり、約1万5500平方メートルにおよぶ敷地に庭園も備えていたとされる武家屋敷。明治維新後にほとんど解体されたため、現在では長屋のみが残っている。桁行51.5メートル・梁間5メートルの長屋は、萩に残る武家屋敷の中では最大のもの。昭和41年(1966年)に国の重要文化財に指定された。昭和43年(1968年)に解体修理が完了し、現在は萩城下町絵図や萩城復元模型などを展示する資料館となっている。

詰丸

指月山の山頂に設けられた詰めの城。城跡の案内板では「萩城要害跡」とも表記されている。石垣と土塀で囲まれた本格的な城郭で、東側の上段を本丸、西側の下段を二の丸として、石垣と塀で仕切られていた両者の間は棟門で繋がれていた。二の丸の南側に枡形虎口と櫓門による表門があり、本丸東側に裏門として埋門がある。詰丸には現存する建物はなく、天守があったという記録もないが、二の丸には海と陸を監視する番兵たち(平時でも6・7名が泊まり込んでいた)が詰める番所と居小屋が、本丸には藩主のための茶屋があったとされる。また、門櫓以外に7基の櫓が建てられていた。櫓には万が一籠城する時ために武器が備えられていた。なお、山頂には井戸がないので水溜があり、昭和40年に土塀の一部と共に復元整備された。石垣とする石を切り出した石切場も残されている。

  • 詰丸の櫓:八間櫓・拾間櫓・北国櫓・辰巳櫓(小櫓)・大将櫓(大櫓)・瀬戸崎櫓・山中櫓[23]

指月山

阿武川下流の松本川と橋本川に囲まれた三角州の北西端ある標高143mの山。岩相は花崗岩で、萩城の石垣にも用いられた[24]。城内の山として長く人手が入らなかったため、シイノキ・タブノキ・クロガネモチ・カゴノキ・イスノキ・クスノキが混生する暖地性原生林となっており、昭和46年(1971年)に国の天然記念物に指定された[25]。推定樹齢600年以上の老樹もある[26]。また、サザンカ・オガタマノキ・カカツガユが自生している他、ミカドアゲハの中国地方唯一の生息地でもある[27]

五郎太石事件 

五郎太石(ごろたいし)事件とは、萩城二の丸東門の普請に必要な五郎太石(石垣の裏や隙間を埋める小石や砂利)が盗まれたことを発端として、毛利家重臣の熊谷元直らが処罰された事件である[28]

事件の経緯

熊谷元直は益田元祥と共に築城総宰(総責任者)に任じられていたが、慶長10年(1605年)3月14日に、天野元信(元直の娘婿)の者が事前に運び入れていた五郎太石の盗難が発生する。天野方は、益田方の者3人を盗人として捕らえ、益田家の普請奉行として肝煎を務めていた栗山兼成(栗山三郎右衛門兼成)の元に訴えた。栗山は事を大きくせずに解決しようと努めたが、天野方は益田方の人夫70人が荷担した大規模な盗みであると主張し、前々夜も20人が盗みに加わったとして合計2000荷の五郎太石の弁償を要求する。前々夜の盗みについては証拠が無いために栗山はその要求を拒否した。

そこで、熊谷家の肝煎である生駒三郎兵衛が調停しようとするも失敗する。熊谷側は天野方に味方したとされ、天野方は以後の対応でも強硬路線を崩さなかった。両者の対立が激しくなったため、宍道政慶・宍戸景好(宍戸善佐衛門)・柳沢景祐らが相次いで仲裁に乗り出し、やがて1700荷の弁償を提案するが、天野方は工事遅延を理由に即日2000荷の弁償を求めて譲らなかった。ついに、益田側は盗人である家人3人を斬首に処するが、天野方は納得せずに奉行所に訴えを起こした。この訴えにより、東門の普請が中断しただけでなく、2代将軍となった徳川秀忠を祝うための毛利輝元の上洛まで遅れた。輝元は叔父・毛利元政(天野元政)に事を託して4月に出立した。

築城作業の遅延が江戸幕府の不興を買うことを恐れた輝元は、6月下旬に萩に帰城して元政の報告を受けた後、熊谷元直・天野元信ら(妻子を含む一族11人)を罪に定め、7月2日に熊谷・天野の屋敷に軍勢を送った。両者に自害を求めたが二人とも拒否したために斬首したとされる。なお、同年12月に輝元は、家臣団の動揺を抑えるべく、福原広俊以下の家臣819名の連署起請を出させている[29]

備考

  • 輝元自らが書いた罪状書[30]では、元直・元信らの過去の横暴や軍紀違反などが罪に問われている。 これらのことから、本事件を機会に、輝元が家臣団の引き締めを図ったものと推定される。
  • 元直と元信は両名ともキリシタンであったことから(自害を拒否したのも信仰上の理由とされる)、イエズス会は二人や一族がキリスト教信仰を棄教しなかったことが粛正の理由であるとしている。熊谷元直は殉教者として祭られている[31]
  • 事件については山口県文書館所蔵の「毛利三代実録」や、毛利博物館に保存されている関係文書に示されている。
  • 東門の石垣には「是より南益田仕口」との銘文が刻まれており、五郎太石事件との関連性が推定できる遺物となっている。

参考文献 

  • 【書籍】「定本 日本城郭事典」
  • 【書籍】「戦乱中国の覇者毛利の城と戦略」

萩城の口コミ情報

2022年01月05日 内匠頭蒼崚
萩城

石垣と海を景色が重なる堀の姿が美しかったです

2021年12月29日 龍馬備中守【】
萩往還[萩城  寺社・史跡]



山口県の萩市と山口市と防府市を繋ぐ【萩往還】♪
スポットの場所は入り口付近に設定しています♪萩城の築城後に江戸への参勤交代での『御成道』として開かれています☆日本海側の萩から瀬戸内海側の三田尻港をほぼ直線で結んでいて全長は約53kmで繋いでいます☆
山陰と山陽を結ぶ『陰陽連絡道』は重要な交通路で幕末には維新の志士達が往来し歴史の上でも重要な役割を果たしています☆
この萩往還には人馬の往来に必要な一里塚や茶屋跡、通行人を取り締まる口屋跡が残ってます♪幕末に維新の志士達が時代と共に駆け抜けていった萩往還、どんな想いを持ってこの道を突き進んでいったんだろう?と考えるだけでワクワクしますね☆
遥か遠く江戸に続くこの道は多くの旅人を見守ってきました

2021年12月28日 龍馬備中守【】
東光寺[萩城  寺社・史跡]



山口県の萩市にある【東光寺】♪萩に来るとやっぱり行ってしまう…お寺さんです☆
この東光寺は萩藩・3代藩主・毛利吉就が開基し創建した黄檗宗の寺院となります☆後に萩・毛利氏の菩提寺となっています☆

初代と最後の藩主となる13代藩主を除く奇数代『3代~11代』の萩藩主のお墓が残ります☆また、それぞれの藩主の夫人のお墓も横に連れ添います♪


墓前には藩士が寄進した石灯籠500数基があり正に圧巻です☆

往時の権力の持ち方というのは墓を見れば判るモノですが正に毛利家の墓所は凄いの一言です☆慕われ、信頼されていたんだろうなぁ〜ってひと目で判ります☆
今は萩は椿東の地に☆戦国時代に毛利元就で一躍、名を馳せた毛利家☆安芸高田より南下し広島のデルタ地帯に居を構え、関ヶ原の敗戦により萩の地へ☆この地で力を蓄えて維新の原動力となった♪日ノ本の事を本気で憂いた長州藩はやっぱり大好きです☆
東光寺、今は静寂の中で毛利家は静かに眠ります☆

2021年12月27日 龍馬備中守【】
郡司鋳造所[萩城  遺構・復元物]



山口県の萩市にある【郡司鋳造所】♪松下村塾の北側にある石組大砲鋳造の遺構は日本で唯一の物となっています☆萩藩のお抱えの鋳物師だった郡司家の鋳物工房の遺構を移築し復元しています☆
この郡司家は鍋・犂・梵鐘のほかに大砲などの兵器の鋳造を営んでいました☆マシュー・ペリーが黒船を率いて来航した事をキッカケにして江戸幕府が公布した『洋式砲術令』の流れに乗って萩藩は郡司鋳造所を藩営の大砲鋳造所に指定☆大量の青銅製大砲を鋳造しています☆ここで鋳造された大砲は江戸湾防備の為の三浦半島に設けられた萩藩の陣屋に運ばれています☆馬関海峡での外国船砲撃に始まり同海峡での英・仏・蘭・米連合艦隊の戦争(下関戦争)にも使用されています☆

郡司鋳造所は在来技術である『こしき炉(鉄を溶かす事)』で西洋式大砲を鋳造しました☆鎖国をしていたこの日ノ本は、マシュー・ペリーの登場と共に近代技術へと移行する過渡期を迎えていきます☆産業遺構は目覚ましいモノがありました☆

閉ざした状態なら進歩は無い☆拓いてこそが広がる世界☆人も技術も一緒ですね♪

2021年12月26日 龍馬備中守【】
恵美須ヶ鼻造船所[萩城  遺構・復元物]



山口県萩市にある【恵美須ヶ鼻造船所】
萩の産業遺産群の1つである恵美須ヶ鼻造船所☆萩城下町、萩反射炉、恵美須ヶ鼻造船所跡、大板山たたら製鉄遺跡、松下村塾の5つの資産で構成されています☆往時のこの島国は鎖国を貫いていました☆江戸幕府は1639年から1853年の間の200年余り海外との通商、交通を禁止、対外封鎖政策を実施していたのは教科書で習いましたね☆そして風雲幕末期に突入していくと…アメリカ合衆国よりマシュー・ペリーは黒船艦隊を率いて『開国シナサ〜イ』と、この日ノ本に迫りました☆
黒船来航、鉄の塊が水に浮く😳こんな凄い技術を持った異国の登場に往時の人々は驚き、そして震え上がりました☆当然、江戸幕府にも激震が走りアタフタ💦アヘン戦争に始まり、周辺諸国は次々に植民地化状態…。。このままでは、ココ日ノ本も危ない…そして立ち上がったのが各藩の攘夷派の志士達というのが大まかな概要です☆さて恵美須ヶ鼻造船所ですが、この外部環境が不安定な中、長州藩が設けた造船所の遺跡で幕末に2隻の西洋式木造帆船を建造しています☆徳川幕府は大名統制の為、江戸時代の初期に軍艦等の建造を禁止する大船建造禁止令を制定しましたが状況が状況なだけに立ち上がった長州藩です☆桂小五郎(木戸孝允)は軍艦建造の意見を藩に提出しています☆これを受けた藩主・毛利敬親が洋式軍艦を建造する事を決定しました☆往時、国内では伊豆半島の戸田村でロシア人で海軍将校のプチャーチンが地元の船大工を使って西洋式木造帆船を建造していました☆これが日本人による初の本格的な洋式船建造になっていて長州藩は直ぐに戸田村に船大工を派遣します☆建造に携わった技術者を招きココ恵美須ヶ鼻にて造船所を建設します☆『丙辰丸』、2隻目には『庚申丸』が進水しました☆庚申丸の建造技術は丙辰丸とは違い幕府が軍艦の操縦と建造の技術習得の為に設立した長崎海軍伝習所でオランダ人教官が教えた技術を採用しました☆ロシアとオランダ♪2つの異なる技術による造船を1つの造船所で行った例は他にありません☆長州藩の本気度が伺える遺構となります☆因みに…丙辰丸は藩の主力艦として海軍の練習と国産交易、第二次長州征討や戊辰戦争などの戦でも使用されました☆庚申丸は下関海峡で米商船ペンブローク号に砲撃しましたが直ぐに米ワイオミング号の報復攻撃により撃沈しています…☆

2021年12月24日 龍馬備中守【】
萩反射炉[萩城  遺構・復元物]



山口県の萩市にある【萩反射炉】 『明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業』の構成資産の1つとして世界遺産に登録されています♪強国を目指した長州藩らしい遺構です☆

江戸時代末期の不安定な情勢によって(アヘン戦争、黒船来航などなど)海防強化の必要性を感じた長州藩は西洋式の鉄製の大砲を造る為に金属溶解炉として反射炉の導入を計画しました☆

日本で1番最初に反射炉を造り先行していた佐賀藩へ長州藩士・山田宇右衛門らを派遣しています、が、1度目は見学を許されませんでした☆
2度目の訪問の際に砲架旋風台の模型を持参で交渉しています☆この砲架旋風台は長州藩で発明された砲架となっていて、交渉は成立☆反射炉の見学を許可され、そのスケッチを作成して持ち帰る事に成功しています☆

往時、佐賀藩は時代の最先端を突き進んでいました☆佐賀藩の主君・鍋島直正公を中心に勤勉で真面目で誠実な藩柄により自分達で創り出すという事が出来た佐賀藩の風土を物語ります☆黒船来航時に江戸幕府から大砲の発注もありました☆これは品川台場に設置されました☆それと…佐賀藩は唯一異国と交易のできる場所・長崎の出島を持っていたという事もデカイと考えます☆出島は天領ではあるものの、肥前国との繋がりがあったんじゃないかなぁ〜?というのは想像できます☆
もう1つ☆佐賀藩が反射炉を日本で1番最初に造れた要因として焼き物の技術というのは大きいんじゃないかなぁ〜と思います☆肥前国には有田焼、伊万里焼、波佐見焼などがありますね〜☆焼き物を造る際に炉の温度を高温にする事が出来た☆この技術が大いに役立っていると思われます☆

さて萩反射炉に話を戻します☆スケッチを持ち帰り反射炉の試験は何度も繰り返されていたという記録が残ります☆
長州藩は幕末期、強国になる為、わずかな蘭書の知識などを頼りに自力で射程距離の長い鉄製大砲や大型の軍艦を建造しようと試行錯誤しました☆往時、鉄製大砲を建造するには衝撃に弱い硬い鉄を粘り気のある軟らかい鉄に溶解する必要があってその装置として反射炉を用い使用しました☆
現存している遺構は反射炉の煙突部となっています☆この日ノ本を守ろうとした長州藩♪技術革新を進めていきました☆

2021年12月23日 龍馬備中守【】
萩城下町[萩城  寺社・史跡]



山口県の萩市にある【萩城下町】♪萩城を中心に発達した町筋は碁盤目状に区画され、商家をはじめ中級の武家屋敷や医者の家などが軒を連ねました☆この萩城下町は国指定となります☆(勿論、萩城も含めてです♪)
萩城三ノ丸・中総門の東外を東西に通じる中心路である呉服町の通り(御成道)と、その南を東西に走る慶安橋筋の2本の東西路に直交する菊屋横丁・伊勢屋横丁・江戸屋横丁に囲まれた区域を城下域としています☆
基本的には碁盤目状を形成してますが(中心域)一部、鉤型の動線などもあり有事の際の万全な備えも見て取れます☆

幕末・維新の三傑の1人、木戸孝允の旧宅や蘭方医・青木周弼の旧宅☆高杉晋作の生家に伊藤博文ゆかりの円政寺などが並びます☆
もう幕末好きにはタマラナイ、萩城下町なのであります☆

幕末期の藩主・毛利敬親は天保14年に藩校明倫館の改革に着手したり文武奨励に取り組み長州藩を盛り立てていきます☆この文武奨励以降、藩からは優秀な人材が育っていきます☆黒船の来航から、島国であるこの日の本🇯🇵を守るべく更には江戸幕府に対抗するべく力を蓄えていきました☆
軍事面においては恵美須ヶ鼻造船所を造り丙辰丸の建造や兵制改革等強兵策も断行しました☆反射炉なんかも、日本で1番最初に造られた佐賀藩の反射炉を見学に行くなど意欲的な行動をとりました♪(この時、佐賀藩は長州藩士の反射炉見学を断っています)

この試みは明治維新に先駆けた産業革命として今に評価されています☆
幕末、公武合体論や尊王攘夷を拠り所にして京都で政局を主導した長州藩☆吉田松陰が作った松下村塾は幕末・維新期で活躍する多くの優秀な人材を輩出していきました☆

住民の方々、萩市の努力は本当に素晴らしいです☆素敵な町並みが今に残ります☆
1日じゃ足りない☆
また改めてゆっくり遊びに行こう♪

2021年12月20日 龍馬備中守【】
詰丸[萩城  遺構・復元物]



山口県の萩市にある【萩城要害城】♪
この場所は津和野城主・吉見氏の出城として、また萩城の詰城として指月山のピークに築かれました♪日本海に突き出し標高143mの花崗岩からなる円錐形の山は萩の何処位置からも望める目立った山になっています☆

葛籠折れで動線を限定☆動線上に進んで行くと指月山の山頂へ♪登りきると要害門の枡形虎口へ♪この枡形を抜けると主要域へと入るのですが、上段と下段に分かれたそれぞれの郭があるのみです♪上段は主郭、下段は副郭と簡単な構造になります♪2つの郭の側面は全部、石垣で固められています☆主郭の北側には山中・矢倉に向かう搦め手虎口の石垣も残っています♪大手枡形と比べると非常に小さな枡形なので、あっ🤭搦手って直ぐに分かりますw
ここ迄は良くある城郭なんですが、凄いのは主郭の中央に残る巨石などに矢穴がバシバシ入っている事☆そうです☆萩城の一部の石垣の石はココから切り出し普請に使われています☆石切丁場として使用された萩要害城なのであります☆
関ヶ原が終わって数年後の再築城の萩要害城♪万一の有事を意識した造りは毛利家の周到さを伺い知る事が出来ます♪
そして江戸時代、明治維新と力を蓄え、取り戻していく長州藩☆ヤッパカッコいいですね

2021年10月01日 相模守新九郎
萩城



良いお城🏯ですね。石垣の残りも良く、指月山⛰を借景とした庭園のようです✨
指月山には石垣を切り出した石丁場の跡もありますので、お見逃し無き様に😉

2021年09月17日 石畳治部少輔三成
萩城



萩八景遊覧船が無料駐車場の近くから乗船出来て、萩の町の歴史などを聞くことができ、海からお城を眺める事もできます。

船頭さんから、潮入門付近は元々砂浜が続いていましたが、海側からの船での侵入を防ぐために築城に使った石などを沈めることで船が容易に近づけないようにしていること、天守の石垣は海の底にあった石を使用していると教えていただきました。海の底で波で洗われているから表面が綺麗なんだそうです。春先にはイルカを見ることも出来るそうです。

2019年12月30日 天道民部卿早雲
北矢倉跡[萩城  遺構・復元物]



海に直に接する矢倉跡 搦手の警備や荷の揚げ降ろしなどに使われたのでしょうか。 近くに矢穴が残る石もあり、石切場でもあったのかな

2018年08月06日 三浦の荘甲斐守大介義明くん
萩城

東萩駅で8時から貸し自転車で散策。おじさんに主目的と時間を告げたら、地図付きで松蔭神社や世界遺産など親切丁寧に散策コース教えてくれました(๑˃̵ᴗ˂̵)

また萩城外堀にある、萩八景遊覧船はオススメです。小一時間萩の歴史や、海から眺める、萩城の石垣は最高でした、写真がいっぱい撮れました(╹◡╹)

2017年05月27日 W平八郎北見守鼎衛門
萩城

綺麗に整備されているので見やすかったです。そして何故かここに来てからほんの少し晴れやかな?気持ちになりましたがパワースポットなんでしょうかね(笑)。すぐ近くにはキリシタン殉教公園があるので隠れキリシタンが好きな方は行ってみても良さそうです。

2017年05月11日 織田上総介晃司
萩城

萩城前の市営駐車場(有料)と土産屋さんの無料駐車場があります。

本丸内は有料だし、安易な考えで内堀からの天守台と東萩駅にある天守レプリカの写真だけでいいや!と思ってたけど、
時間もあって東の海岸側へ行くと、
土塀が残っており、さらに海岸沿いには石垣が続いている。
干潮だったのもあって、石垣の奥まで歩いて写真を撮りました。

潮が満ちてくると帰れなくなるかもしれないので注意が必要

土塀脇から城内に戻り、奥へ行くと崩れかかった土塀と崩れた土塀がある。

萩市観光課は天守台だけでなく海岸沿いもアピールすればいいのに…

萩の城下町は高杉晋作・木戸孝允(桂小五郎)旧宅などあり、さらに東萩駅方向に進むと吉田松陰の松下村塾(松陰神社内)がある。
小さな建物だが、偉大な人物が多く輩出している(高杉晋作・久坂玄瑞・伊藤博文など)
城跡と幕末の志士を感じる場所は是非ともセットで訪ねるべき


2016年05月13日 相模式部大輔ぶー
萩城

私も厚狭毛利家の受付のおじいさんと小一時間話をしました。萩城についてや萩についてはもちろん、おじいさんの身の上話も聴かせていただきました。むしろ身の上話の方がメインなくらいでした。

あと萩城内に駐車している車ですが、あれは思うに萩焼のお店や窯で働く方々の車ではないでしょうか。

2016年05月08日 まるき〜主殿助
萩城


萩城趾の少し手前のお土産屋さんの駐車場が無料Pとなっていたのでそちらに停めさせて頂きました。
城方向に歩いて行くと石垣の中まで駐車スペース?何台か停まってましたけど、ここも停めて良いの?って感じ、現地に行くとわかります。(;^_^A
堀を超え本丸門手前に券売所、100名城スタンプもこちらです。
ここからが城内?とにかく使われてる石が大きく4〜5段くらいしか積んでないのに軽く背の高さを超える塀がある事が印象的でした
城内を歩いて、どこからの角度からも石垣の重なり具合が画になるし、石垣の色も茶色がかっているためか周りの草木の緑に映えるような気がします「萩」という地名のイメージが落ち着いた雰囲気や上品さを感じさせてくれるのかもしれません…

見所は天守台の反り具合、花燃ゆのロケ地、個人的には券売所裏の御台所門の150mくらい続く石垣ですかね石垣に上がる階段が崩れそうでヤバイですが…それがまた良い。

この辺り夏みかんの収穫地につき城下一帯5月初旬からほんのりと夏みかんの香りに包まれるそうです、 お土産屋さんの夏みかんソフトはあっさりと酸味が効いて美味しかったです。

2015年09月29日 コロ助
萩城

萩バスセンターから徒歩25分程。登山口から詰丸までは15分。

9月半ばに訪れましたが、詰丸で物凄い蚊の襲撃を受けました。常に両腕両足に各4,5匹蚊がとまる様な状態。長袖&レギンスだったので平気でしたが、今まで行った場所の中で一番蚊が多かったです(詰丸以外では、そんなに蚊はいなかったのですが詰丸だけ)。

詰丸は石切場を兼ねていた様で、矢穴ビッシリの大きな石がゴロゴロありました。埋門はロープが張ってあり通れません。草は刈ってありますが、木が生い茂っているので詰丸からは海は見えません。

東園の外(有料ゾーンの外)にある北門跡は目の前が海。
他の方も書かれていましたが、妙玖寺兵倉跡からの海の眺めも素敵です。

萩城から10分程の所に、外堀北の総門と土塁が整備されています。
近くの萩温泉は、立ち寄り入浴が出来るホテルもあります。ナトリウム泉で気持ち良かったです。

2015年07月01日 左近将監摂政
萩城

〈日本海の眺望スポット〉
城趾西端の日本海に突き出た場所に、妙玖矢倉跡があるのですが、ここからの眺望はなかなか明媚です。

天守下の水堀の西端にある岡崎矢倉跡の脇道を、7~8分ほど歩いたところにあります。途中から道が消え、林の中を進む格好になるかもしれませんが、迷うことはないでしょう。詳しくは、城内の案内図で確認してください。

妙玖矢倉跡からは、右手に奇岩の景勝、正面に紺碧の海、左手に砂防用の松原が望めます。一見の価値ありと思うのですが、なぜか萩市がアピールしていないため、その存在が知られていません。

2014年11月16日 百華
萩城

東萩駅より歩いて30分程で着きました。まぁーるバスという市内を循環してるバスの西回りでも行けます。
どこで乗って降りても100円です。
他の方も、書いてましたが抹茶おすすめです。
お時間ありましたら、城とは反対方向ですが吉田松陰のゆかりの地や毛利家の墓がある東光寺も近くにあります。歩いて行けなくもないですが、バスがおすすめです。よろしければ是非。


2012年10月20日 はせちゃん弾正忠
萩城

本日、東門・三階矢倉の石垣修理見学会が午前10時からありますよ

2012年05月03日 A&M
萩城

外堀の橋の左に茶屋があります。80過ぎの上品なお婆さんが抹茶を点ててくれます。冷抹茶もあります。とても美味しい上に歴史にも詳しく、楽しい思い出になりました。是非行ってみて下さい。

2011年07月30日 太政大臣M三郎
萩城

萩城は、海に突き出た指月山上に詰め城を置き、南麓に郭を展開する毛利氏の居城です。建物はありませんが、正面の大ぶりな石で統一された長大な石垣と堀は、それだけで重厚感があり見応え十分です。塁線上の天守石垣は、極端な程に大きな反りが美しく、風情ある望楼型五重の天守が現存しないのが残念です。天守西側には、直線で構成され複雑に入りくんだ堀、石垣群が残り、こちらは塀などの遮蔽物が無い分、配置が明瞭で素晴らしさが楽しめます。東側の浜に面して続く曲線状の白塀、石垣も素敵で、落ち着きと格調を感じる城です


2011年05月21日 加藤豊後守清正
萩城

特異な造りで、あまり使っていなかったようです。周りを塀で囲み、石垣も巨石です。存在感有り過ぎです。

2011年01月01日 私は豚さん
萩城

萩市民は、無料で見学できますよお車ない方は、萩駅より、市内バス(100円)で楽天地のホテル前のバス停で降車したら良いです

2010年08月29日 私は豚さん
萩城

指月公園が、すぐにあり、春になると、桜の花見の観光客で賑わいます

是非、一度足をお運び下さい


萩城の周辺観光情報

菊屋横町

旧萩城の外堀から外側に広がる城下町は、町筋は碁盤目状に区画され、中・下級の武家屋敷が軒を連ねていた。現在でも町筋はそのままに残り、往時の面影をとどめている。

詳細はこちら

道の駅 萩しーまーと

平成13年4月、萩漁港隣接地にオープン。萩をはじめとする山口県北部の生産者が「新鮮な旬の食材」を提供し、城下町・萩が育んだ「おいしい食文化」を発信する施設です。

詳細はこちら

萩往還

日本海に面した城下町・萩から、瀬戸内海に面する防府・三田尻までを結ぶ『萩往還』。かつて参勤交代の御成道として整備され、吉田松陰先生や高杉晋作などの維新の志士なども往来した歴史の道で、国の史跡に指定されています。

詳細はこちら

松陰神社

明治23年(1890)に吉田松陰を祀って建てられた神社。松下村塾改修時に松陰の実家である杉家により私祠として村塾の西側に土蔵造りの小祠が建立されました。

詳細はこちら

情報提供:萩市観光課

萩城の周辺スポット情報

 復元された三の丸隅櫓(遺構・復元物)

 復元北の総門と船着場(遺構・復元物)

 益田家物見櫓(遺構・復元物)

 平安橋(遺構・復元物)

 潮入門(遺構・復元物)

 塩矢倉跡(遺構・復元物)

 潮入門跡(遺構・復元物)

 花江茶亭(遺構・復元物)

 天守跡(遺構・復元物)

 北矢倉跡(遺構・復元物)

 萩反射炉(遺構・復元物)

 恵美須ヶ鼻造船所(遺構・復元物)

 郡司鋳造所(遺構・復元物)

 詰丸(遺構・復元物)

 久坂玄端誕生地(碑・説明板)

 石碑(碑・説明板)

 毛利輝元墓所(寺社・史跡)

 桂小五郎旧宅(寺社・史跡)

 志都岐山神社(寺社・史跡)

 萩城下町(寺社・史跡)

 東光寺(寺社・史跡)

 萩往還(寺社・史跡)

 トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 萩博物館の駐車場(駐車場)

 萩城駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 萩博物館内の復元模型展示(関連施設)

 堀内鍵曲(関連施設)

 旧萩藩御船倉(関連施設)

 萩城全景模型展示(その他)

 貸し自転車屋(その他)

 平安古鍵曲(その他)

 久坂玄瑞像(その他)

 高杉晋作像(その他)

 萩城天守野外模型(その他)

 毛利輝元公銅像(その他)

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