大内氏城館(おおうちしじょうかん)
大内氏城館の基本情報
通称・別名
- 大内氏城館[大内館・築山館・高嶺城]
所在地
- 山口県山口市大殿大路他(地図は大内館を示す)
旧国名
- 周防国
分類・構造
- 城館遺跡群
天守構造
- -
築城主
- 大内弘世[大内館]、大内教弘[築山館]、大内義長、毛利元就[高嶺城]
築城年
- 14世紀中期〜15世紀中期?[大内館]、室町時代[築山館]、弘治2年(1556)[高嶺城]
主な改修者
- -
主な城主
- 大内氏[すべて]
廃城年
- 弘治3年(1557)[大内館・築山館]、寛永15年(1638)[高嶺城]
遺構
- 土塁[大内館・築山館]、曲輪、横堀(空堀)、石垣、井戸[高嶺城]
指定文化財
- 国史跡(大内氏遺跡)
再建造物
- 石碑、説明板[すべて]、西門、空堀、土塁[大内氏館]
周辺の城
-
山口城(山口県山口市)[0.8km]
障子ヶ岳城(山口県山口市)[2.0km]
古城ヶ岳城(山口県山口市)[2.2km]
陶氏館(山口県山口市)[11.0km]
白水山城(山口県山口市)[11.5km]
右田ヶ岳城(山口県防府市)[12.9km]
敷山城(山口県防府市)[15.4km]
荒滝山城(山口県宇部市)[17.3km]
渡川城(山口県山口市)[18.5km]
青景城(山口県美祢市)[21.3km]
日本100名城・続日本100名城スタンプ情報
大内氏城館の解説文
[引用元:Wikipedia「大内氏城館」の項目]
大内氏館(おおうちしやかた)は、山口県山口市大殿大路に建てられた城館で、周防国・長門国を本拠とした大内氏の居館(守護館)である。「大内氏遺跡 附(つけたり)凌雲寺跡」[1]として国の史跡に指定されている。
概要
大内氏24代当主の大内弘世が、山口を本拠と定め移り住んだ時に築かれた[2]居館で、京都を模した山口の街に似つかわしく城ではなく館として建てられた。そのため、詰の城として背後に高嶺城がある。
最盛期の館は堀を含めると東西160m・南北170m以上の規模を誇る方形の居館で、京都の将軍邸を模しているとも言われる[3]。初期は、館は溝と塀で囲まれている程度だったが、15世紀中頃には空堀と土塁によるある程度の防御力を備えた城館になった。堀はさらに南側にも伸びていることから、土塁で囲まれた部分よりさらに南にも関連する施設があったと推定されている。
館のすぐ北側には別邸として築山館(築山御殿)が築かれており、大内氏館は住居として、築山館は迎賓館的な役割の場として使われていたと思われる。また、館の南東部には大きな池を持った庭園があり、北西部には枯山水の庭園、現在の龍福寺の南東でも詳細不明の庭園が存在していた。
沿革
正確な建築時期は不明であり、江戸時代に描かれた「山口古図[4]」によると14世紀半ばの1360年頃とされるが、発掘調査によると1400年代半ば第13代大内教弘の建築である可能性が高いとされる。
大内氏の繁栄とともに“西の京都”山口として栄えたが、弘世の子・大内義弘の頃にはもう手狭になったようで、すぐ北側に築山館を築いている。大内氏館もその領土の拡大とともに最低5回の増築を繰り返されていることが発掘調査により確認されている。
大内義隆の時代の天文20年(1551年)に家臣の陶隆房の謀反により山口は灰燼に帰した(大寧寺の変)。この時の大内氏館の状況は不明であるが、変の後は、新たな大内氏の当主となった大内義長が大内氏館に入った。
弘治2年(1556年)に毛利元就が侵攻(防長経略)してくると、大内義長は山口を放棄して逃亡。大内氏館もその役目を終えることとなった。そして翌年、同地に毛利隆元が大内義隆の菩提を弔うために龍福寺を建立している。
昭和34年(1959年)11月には国指定の史跡となり、発掘調査や復元整備が進められてきた。
平成29年(2017年)4月6日、高嶺城とともに続日本100名城(174番)に選定された。
遺構と復元整備事業
発掘調査が行われる以前は、大内氏館跡の遺構は龍福寺山門近くに残っていた土塁程度であったが、昭和53年(1978年)より発掘調査が繰り返され多くの遺構が発見された。平成20年(2008年)の第34次発掘調査では、龍福寺本堂の解体修理に伴い初めて本堂地下の発掘調査を行った。平成9年(1997年)から始まった復元事業により、土塁・西門・庭園などが復元整備されている。
発掘調査により検出された遺構
館跡の西辺の調査で石組の溝が検出され、溝の底には水の流れた痕跡があることから排水溝と推定されている。1500年代前半に造られたが、西門(後述)が造られた頃には埋め戻されたと思われる[5]。現在、発掘調査で発見された溝の一部がそのまま展示されている。
- 石組溝
石組溝と同じく館跡西辺で発見された小規模な門跡。その配置や大きさから屋敷内の内門の一つで、礎石が検出されなかったことから、礎石を使わずに門柱の両端を石で押さえて固定する様式の門だったと推定される。平成9-10年(1997年-1998年)の調査で門柱跡が発見され、失われた館跡の一部として復元可能と判断されたことから、当時の風景が描かれた「洛中洛外図屏風」などを参考に平成17年(2005年)に復元[6]。
- 西門
昭和53年(1978年)の調査で発見された庭園跡。作庭年代や庭園形式など詳細は不明だが、他の庭園より古い時代の物と考えられており、護岸石の内側に立石や平玉石があったことが分かっている。現在では埋め戻されているため、その様子を見ることはできない。
- 1号庭園[7]
敷地南東部に位置している館跡最大の庭園。中央部にひょうたん池がある池泉式の庭園で、水は庭園東側の水路から入れている(排水路などは不明だが南西側に流したと推定される)。池の東側にはソテツが植樹されているが、これは1488年当時の史料にも出てきており、国際交流も盛んだった大内文化を感じされるものとなっている[8]。平成4-5年(1992年-1993年)の第13・14次発掘調査で発見され、平成23年(2011年)に16世紀前〜中頃の様子を復元整備された[9]。周囲には、庭を鑑賞する建物だったと思われる基礎石や石組井戸なども復元・展示されている。
- 池泉庭園(2号庭園)
16世紀前半の大内義隆時代に構築とされる小規模な枯山水式の庭園だが、その中頃に火災により焼失した。火災後に庭石のいくつかは動かされ、その後の改変により破壊されている。大内義隆の頃の庭と思われ、陶隆房の謀反により焼失し、大内義長によって改変されたと推定される。平成9-10年(1997年-1998年)調査により発見され、平成17年(2005年)に復元整備された。
- 枯山水庭園(3号庭園)
その他、石組かまど・せん列建物[10]の跡も展示品として整備されている。また、昭和53年(1978年)の最初の調査では金の瓦も出土している。
参考資料
- 歴史群像シリーズ49 毛利戦記(1997年 学習研究社)
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大内氏城館の口コミ情報
2023年02月16日 曽根崎刑部卿
大内氏城館
徒歩15分くらいの県庁近くにある山口市歴史民俗資料館に行くと、もう少し詳しい資料が見られます。一緒にいくのがオススメ。
2023年01月03日 左京大夫さとー
大内氏城館
年末の休館期間でしたが、歴史民俗資料館入り口にスタンプ設置されていました。
2022年11月30日 尼崎城大膳大夫一口城主
大内氏城館
[高嶺城]続100名城で大内氏館とセットになっている高嶺城に登山⛰登る前に麓の香山公園を散策して瑠璃光寺の五重の塔や大内弘世公之像を撮影。昔、大内のお殿様、殿様殿様お殿様ヨヨヨーイ🎎とお祭りで踊っていたのを思い出しながら山城を見上げていました。その後、木戸神社⛩の横を通って山の中腹まで連れて行ってもらい登山開始🥾途中まで道は舗装されているので比較的登りやすい山城だと思われます。途中、小雨が降ってきましたが木々がある程度遮ってくれたので傘はささずに済みました。先に主郭を見学した後、石垣を見学。主郭の説明板を読むと大内家の最後の当主が築いて毛利氏が改修したとありました。大内氏が攻めてきたけれど毛利氏の守りが固かったとのことが書かれていました。大内氏の着眼点が良くて実戦的な山城であったことが感じられます。一国一城令で破却することになったと説明板に書かれていましたが石垣はちゃんと形をとどめていました。下山時は雨も上がり、電波塔近くの郭から虹🌈が見られました。
私事になりますが、翌日のマラソンに参加する為に久しぶりに帰省してお城アプリを始めて出身県で初のリア攻めを達成することができて良かったです。
2022年05月07日 ゼロ阿波守ファイター
大内氏城館
駐車場の入り口は分かりにくいですが南と西からアクセスできます。続100名城のスタンプは敷地内に案内ありますが少し離れたところにあります。
2022年04月02日 紅葉安芸守修
大内氏城館
大内氏城館だけでなく付近には観光駐車場もあり、車での訪問には全く困りませんでした。瑠璃光寺など大内氏の栄華を辿る寺社が数多くありますのでゆっくり散策したい町です。
2022年02月13日 織田上総介晃司
高嶺城[大内氏城館 周辺城郭]
木戸神社・木戸公園を過ぎ中腹のTV中継局に4〜5台停めれるスペースがあり、10分位で主郭まで行けますが、道幅は狭く積雪があると無理。運転に自信の無いかたは木戸公園に停めて登るほうが良いでしょう。登城口は他に山口大神宮にもあります。
大内氏最後の当主・義長が築くも完成前に毛利氏が攻撃。その後毛利氏家臣の市川経好が城番となる。主郭にある石垣はこの頃だろう。
山口市内に湯田温泉があり登城後は温泉に浸かるのも楽しみのひとつでしょう。
湯田温泉駅に足湯があり足湯に浸かりながらSLやまぐち号を見ることができます。(時刻表確認のうえ)
駅には高さ8mの白狐「ゆう太」の像もあり、ゆう太目当てに来るかたもいます。
2022年02月13日 織田上総介晃司
大内氏城館
凌雲寺跡には見学者用の無料駐車場と簡易トイレがあります。
大内氏館(龍福寺)と築山館(八坂神社・築山神社)の近くに観光者用の無料駐車場があります。
明との貿易と応仁の乱で都から逃れた公家を保護した事により山口に優雅な文化を持ち、一時代を築いた大内氏。
陶晴賢の謀反と毛利氏の侵攻により一気の凋落・滅亡となる。
アニメ「一休さん」に登場する末姫は大内氏の姫という設定で蜷川新右衛門は末姫に恋い焦がれていた。
末姫も新右衛門さんを慕っていたのだが、女心に疎く新右衛門の「それにつけても姫の愛しさ」と言うのが決り文句だった。
※高嶺城は毛利氏の手も加わっているので別で口コミします
2021年12月14日 昌幸修理大夫佐竹深掘りツアー
常栄寺 雪舟庭[大内氏城館 寺社・史跡]
およそ500年前、第14代当主大内政弘が、別邸として建てたのが始まりで、庭は雪舟に依頼して築庭させたものといわれています。後に政弘は母の菩提を弔うための寺、妙喜寺としましたが、時代の変遷にともない毛利隆元の菩提寺、常栄寺と合寺し、改めて常栄寺となりました。
尚、この雪舟庭は禅味あふれる日本庭園の代表作として国の史跡並びに名勝に指定されています。
【写真の説明】
①山門
②本堂
③鐘楼門
④雪舟庭を迎月亭跡方面から見る
⑤雪舟庭を龍門之滝から見る
⑥雪舟筆塚と政弘公母君・妙喜寺殿の墓
⑦南溟庭 昭和43年重森三玲作
⑧本堂から見た雪舟庭
2021年12月14日 昌幸修理大夫佐竹深掘りツアー
山口大神宮[大内氏城館 寺社・史跡]
山口大神宮は、永正17年(1520年)に大内義興が創建した古社です。
義興は京都で足利幕府の管領代をつとめていたころ、伊勢神宮に参拝し、その荘厳な神霊にうたれ、帰国後、高嶺山麓に神域を選定し、社殿を造営したといわれています。
社殿は伊勢神宮と同じ形式の神明造りです。当時、伊勢の神霊を迎えた神社はこの大神宮だけであったので、伊勢信仰の盛んであった江戸時代には、西のお伊勢様といわれ多くの参拝者でにぎわったといわれています。
社殿の横の石段を登ると、内宮と外宮があり、内宮は天照大神、外宮は豊受大神が祭神で神明造りの社殿が建てられています。
【写真の説明】
①石鳥居と日参一万日碑
②参道。背後の山が高嶺城。
③外宮。別宮を備える。
④内宮。右に別宮、左に摂社を備える。
2021年12月08日 昌幸修理大夫佐竹深掘りツアー
保寧山 瑠璃光寺[大内氏城館 寺社・史跡]
大内氏25代大内義弘は現在の香山公園に、石屏子介禅師を迎え香積寺を建立しました。義弘は応永6年(1399年)足利義満と泉州で戦い戦死。26代弟・盛見は兄の菩提を弔うため、香積寺に五重塔を造営。盛見も九州の少貳勢と戦って戦死。五重塔はその後、嘉吉2年(1442年)頃落慶しました。
それからしばらくの時を経た関ヶ原の合戦の後、毛利輝元が萩入りし、香積寺を萩に引寺。跡地に仁保から瑠璃光寺を移築しました。これが今日の姿です。
大内文化の最高傑作と言われる五重塔は全国に現存するうちで10番目に古く、美しさは日本三名塔の一つに数えられ、室町中期における最も秀でた建造物と評されています。
また長州藩主(毛利本家)13代敬親夫妻・14代元徳夫妻・15代元昭夫妻の墓所にもなっています。
【写真の説明】
①瑠璃光寺中門
②瑠璃光寺本堂
③五重塔(国宝)
④毛利家墓所(国史跡)
2021年10月01日 陸奥守新九郎
大内氏城館
大内氏館
発掘調査成果に基づいた整備は説得力があります✨整備後もきちんと管理されていて、好感が持てる整備が行われた城館だと思います。そんなに大きくはないので、築山館とともにゆっくりぐるっと回ってみてください😉
2021年07月11日 上田主税頭雪娘
大内氏城館
龍福寺の外周を一周することをオススメします。また高嶺城主郭の石垣は必見です。
2019年11月03日 大納言Z内大臣369
西門(復元)[大内氏城館 遺構・復元物]
この門は、正門ではなく、屋敷の中の区画を仕切る内門であったと考えられます。門の中は墓地です。
2018年03月14日 カーネル
大内氏城館
山口線の山口駅から
山口線に沿って北上して、龍福寺の大内氏館跡を訪問します
館跡から北へ向かうとすぐに築山館跡です。神社ですね
さらに北すぐの国道9号で左折して西へ向かい、山口県庁の山口城址へ。ここは、隣接する県政資料館がかっこいいです
次は県庁の西隣の山口大神宮へ向かうと、高嶺城登山口の標識があります。下宮と上宮の雰囲気が、いいです
お参りしたら、山口大神宮の境内内にある多賀神社脇から登ります。山道を登り続けると、高嶺城の中継局に着きます。中継局までは、車で来れます
まだ、ここからも登りは続きますが、傾斜は緩いです。いくつもの平場を超えると本丸で周囲に井戸と石垣がいい感じです
来た道で山口大神宮に戻ってから、木戸公園南の障子ヶ岳城に寄ってから山口駅へ
全行程で3時間半でした
2017年05月08日 五瓜ニ唐花紋太政大臣や~きみ
大内氏城館
駐車場あり。
お寺になっていますので、神社の駐車場になります。
お寺は何時でも入れます。
お寺の周りを土塁があり、門など遺構があります。
2017年01月28日 尾張守だもんで
大内氏城館
高嶺,凌雲寺跡,氏館の順に行きました。築山館はパスしました。国指定の見事な史跡なのに口コミがないので書きます。
高嶺城へは山麓の木戸神社の脇道で城郭まで行けます。谷側にはガードレールがなく、山側には溝があり、すれ違うことは無理な程度に狭いです。終点のFM中継所には4,5台駐車できるスペースがあります。
高嶺城は北尾根の曲輪群がメインです。そちらの説明は必要ないかと。南尾根には3つほど腰曲輪を降り、大きな石がごろごろしてる辺りを左に行くと立派な石垣があります。
凌雲寺跡は高嶺城の西方にありますが、直接西進できないので、国道に戻ってから別の道を北上します。山口まで来たら是非行ってみてください。街中からさほど離れておらず、日本の元風景とも言えるような谷間にちょこんと石塀が残っています。
氏館は神社になっています。周囲には土塁が整備されています。神社には義興の立派な馬上像があります。
大内氏城館の周辺スポット情報
西門(復元)(遺構・復元物)
凌雲寺跡(遺構・復元物)
主郭(遺構・復元物)
池泉庭園(遺構・復元物)
枯山水庭園(遺構・復元物)
土塁(遺構・復元物)
北堀(遺構・復元物)
東堀(遺構・復元物)
大内氏館跡碑(碑・説明板)
高嶺城(周辺城郭)
築山館(周辺城郭)
保寧山 瑠璃光寺(寺社・史跡)
山口大神宮(寺社・史跡)
常栄寺 雪舟庭(寺社・史跡)
龍福寺(寺社・史跡)
菜香亭(寺社・史跡)
山口市歴史民俗資料館(スタンプ)
大路ロビー(スタンプ)
簡易トイレ(トイレ)
龍福寺の駐車場(駐車場)
築山神社の駐車場(駐車場)
駐車場(駐車場)
駐車スペース(駐車場)
資料館(関連施設)