大内氏城館(おおうちしじょうかん)

大内氏城館の基本情報

通称・別名

大内氏城館[大内館・築山館・高嶺城]

所在地

山口県山口市大殿大路他(地図は大内館を示す)

旧国名

周防国

分類・構造

城館遺跡群

天守構造

築城主

大内弘世[大内館]、大内教弘[築山館]、大内義長、毛利元就[高嶺城]

築城年

14世紀中期〜15世紀中期?[大内館]、室町時代[築山館]、弘治2年(1556)[高嶺城]

主な改修者

主な城主

大内氏[すべて]

廃城年

弘治3年(1557)[大内館・築山館]、寛永15年(1638)[高嶺城]

遺構

土塁[大内館・築山館]、曲輪、横堀(空堀)、石垣、井戸[高嶺城]

指定文化財

国史跡(大内氏遺跡)

再建造物

石碑、説明板[すべて]、西門、空堀、土塁[大内氏館]

周辺の城

山口城(山口県山口市)[0.8km]
障子ヶ岳城(山口県山口市)[2.0km]
古城ヶ岳城(山口県山口市)[2.2km]
陶氏館(山口県山口市)[11.0km]
白水山城(山口県山口市)[11.5km]
右田ヶ岳城(山口県防府市)[12.9km]
敷山城(山口県防府市)[15.4km]
荒滝山城(山口県宇部市)[17.3km]
渡川城(山口県山口市)[18.5km]
青景城(山口県美祢市)[21.2km]

日本100名城・続日本100名城スタンプ情報

番号・名称

(続)174 大内氏館・高嶺城

設置場所

山口市歴史民俗資料館[地図
大路ロビー[地図
文化財保護課(山口市歴史民俗資料館休館時のみ)[地図

大内氏城館の解説文



大内氏館(おおうちしやかた)は、山口県山口市大殿大路にあった城館。周防国・長門国を本拠とした大内氏の居館(守護館)である。「大内氏遺跡 附(つけたり)凌雲寺跡」[1]として国の史跡に指定されている。

概要 

大内氏24代当主の大内弘世が、山口を本拠と定め移り住んだ時に築かれた[2]居館で、京都を模した山口の街に似つかわしく城ではなく館として建てられた。そのため、詰の城として背後に高嶺城がある。

最盛期の館は堀を含めると東西160m・南北170m以上の規模を誇る方形の居館で、京都の将軍邸を模しているとも言われる[3]。初期は、館は溝と塀で囲まれている程度だったが、15世紀中期には空堀と土塁によるある程度の防御力を備えた城館になった。堀はさらに南側にも伸びていることから、土塁で囲まれた部分よりさらに南にも関連する施設があったと推定されている。

館のすぐ北側には別邸として築山館(築山御殿)が築かれており、大内氏館は住居として、築山館は迎賓館的な役割の場として使われていたと思われる。また、館の南東部には大きな池を持った庭園があり、北西部には枯山水の庭園、現在の龍福寺の南東でも詳細不明の庭園が存在していた。

沿革 

江戸時代に描かれた「山口古図[4]」によると14世紀半ばの1360年とされるが、発掘調査によると1400年代半ば第13代大内教弘の建築である可能性が高いとされる。

大内氏の繁栄とともに“西の京都”山口として栄えたが、弘世の子・大内義弘の頃にはもう手狭になったようで、すぐ北側に築山館を築いている。大内氏館もその領土の拡大とともに最低5回の増築を繰り返されていることが発掘調査により確認されている。

大内義隆の時代の天文20年(1551年)に家臣の陶隆房の謀反により山口は灰燼に帰した(大寧寺の変)。この時の大内氏館の状況は不明であるが、変の後は、新たな大内氏の当主となった大内義長が大内氏館に入った。

弘治2年(1556年)に毛利元就が侵攻(防長経略)してくると、大内義長は山口を放棄して逃亡。大内氏館もその役目を終えることとなった。そして翌年、同地に毛利隆元が大内義隆の菩提を弔うために龍福寺を建立している。

昭和34年(1959年)11月には国指定の史跡となり、発掘調査や復元整備が進められてきた。

平成29年(2017年)4月6日、高嶺城とともに続日本100名城(174番)に選定された。

遺構と木造復元整備事業 

発掘調査が行われる以前は、大内氏館跡の遺構は龍福寺山門近くに残っていた土塁程度であったが、昭和53年(1978年)より発掘調査が繰り返され多くの遺構が発見された。平成20年(2008年)の第34次発掘調査では、龍福寺本堂の解体修理に伴い初めて本堂地下の発掘調査を行った。平成9年(1997年)から始まった復元事業により、土塁・西門・庭園などが復元整備されている。

発掘調査により検出された遺構

石組溝
館跡の西辺の調査で石組の溝が検出され、溝の底には水の流れた痕跡があることから排水溝と推定されている。1500年代前半に造られたが、西門(後述)が造られた頃には埋め戻されたと思われる[5]。現在、発掘調査で発見された溝の一部がそのまま展示されている。
西門
石組溝と同じく館跡西辺で発見された小規模な門跡。その配置や大きさから屋敷内の内門の一つで、礎石が検出されなかったことから、礎石を使わずに門柱の両端を石で押さえて固定する様式の門だった。平成9-10年(1997年-1998年)の調査で門柱跡が発見され、失われた館跡の一部として木造復元可能と判断されたことから、当時の風景が描かれた「洛中洛外図屏風」などを参考に平成17年(2005年)に木造復元[6]
1号庭園[7]
昭和53年(1978年)の調査で発見された庭園跡。作庭年代や庭園形式など詳細は不明だが、他の庭園より古い時代の物と考えられており、護岸石の内側に立石や平玉石があったことが分かっている。現在では埋め戻されているため、その様子を見ることはできない。
池泉庭園(2号庭園)
敷地南東部に位置している館跡最大の庭園。中央部にひょうたん池がある池泉式の庭園で、水は庭園東側の水路から入れている(排水路などは不明だが南西側に流したと推定される)。池の東側にはソテツが植樹されているが、これは1488年当時の史料にも出てきており、国際交流も盛んだった大内文化を感じされるものとなっている[8]。平成4-5年(1992年-1993年)の第13・14次発掘調査で発見され、平成23年(2011年)に16世紀中期の様子を復元整備された[9]。周囲には、庭を鑑賞する建物だったと思われる基礎石や石組井戸なども復元・展示されている。
枯山水庭園(3号庭園)
16世紀前半の大内義隆時代に構築とされる小規模な枯山水式の庭園だが、その中頃に火災により焼失した。火災後に庭石のいくつかは動かされ、その後の改変により破壊されている。大内義隆の頃の庭と思われ、陶隆房の謀反により焼失し、大内義長によって改変されたと推定される。平成9-10年(1997年-1998年)調査により発見され、平成17年(2005年)に復元整備された。

その他、石組かまど・せん列建物[10]の跡も展示品として整備されている。また、昭和53年(1978年)の最初の調査では金の瓦も出土している。

参考資料 

  • 歴史群像シリーズ49 毛利戦記(1997年 学習研究社)

大内氏城館の口コミ情報

2026年01月23日 海月勘解由長官
大内氏城館

近くの八坂神社と間違えないようご注意を。

2026年01月23日 尼崎城安芸守一口城主
大内氏城館



[山門付近]
1/2、帰省中に登城。現地に到着したところ、館跡は龍福禅寺で大内義隆卿菩提寺となっていたので登城というより参拝(写真①:山門横、写真②:説明板、写真③:石碑、写真④:山門前)
説明板を読むと大内氏24代弘世公が正平15年(1360)頃当地に移り、それ以降天正20年(1551)31代義隆公まで200年近くの長きに渡りいらっしゃったとのことでした。厳島の戦い(天文24年(1555))後の弘治3年(1557)に義隆公の菩提を弔うために毛利氏が館跡に龍福寺を建立したとのことでした。
山門を入るとすぐ左手に宝現霊社(写真⑤⑥)や豊後石(写真⑦⑧)があり、大内家の領国の広大さなど長きに渡る往時の栄華を感じることが出来ました🪨
私事ながら、昔盆踊りで大内の〜お殿様〜と踊っていたのをふと思い出してしまいました。

2026年01月23日 尼崎城安芸守一口城主
大内氏城館



[大内義興公、義隆公親子]
山門をくぐり本堂に進んでいく途中に大内義隆卿の史跡案内があったのでお参り。説明板(写真①)にあるように正面が義隆卿の宝篋印塔の複製、左奥の十三重の塔は義隆卿に従った忠臣や公家の供養のために建てたもの(写真②)とのことでした。
次に辞世の碑(写真③)『陶晴賢の謀反により大寧寺に逃れた際、大寧寺の住職の弟子となり金剛経の経文を引用したという「討つ人も討たるゞ人も諸ともに 如露亦如電応作如是観」敵も味方も人の命は露のようにまた稲妻のようにはかないという仏教の無常観をうたった辞世の句』を見て切なさを感じるとともに大寧寺の変から中国地方も本格的に戦国時代に突入していったように思えました。
本堂は写真④の通りで室町時代の建築の特徴をよく表しているとのことでした。
本堂付近の資料館前には大内義興公の馬上展望像(写真⑤)があり大内家の隆盛期の躍動感が感じられました🐴※訪れたのがお正月期間中だったので資料館は閉まっていました😅
境内散策中、元就公が息子達を連れてきたという説明板(写真⑥)がありました。大寧寺の変から厳島の戦いの主要武将が元就公が息子達と訪れた際にこの館に一同に会していたかと思うと当時から何百年も経っていますが同じ場所にお邪魔できたんだと感激してしまいました‼️偏諱についても確認してみたところ、義興公が「興」を元就公の兄の興元公、義隆公が「隆」を元就公の長男隆元公、三男隆景公に与えていました。勉強不足でしたが偏諱を確認していたら陶晴賢(隆房)も義隆公から頂いていました💦

2026年01月23日 尼崎城安芸守一口城主
大内氏城館



[大内氏庭園]
大内氏館跡(龍福寺)を見学後、南東の庭園(写真①:案内地図の2️⃣)も散策。
まず、池泉を見学(写真②※池の奥に龍福寺の本堂の屋根、さらに奥に見えている山が続100名城で館とセットで選定されている高嶺城です。)池泉(写真③④)は、ひょうたんのような形をした池だったようです。
池泉周辺には石組井戸(写真⑤)や石組かまど(写真⑥)、塼列建物(写真⑦⑧)もあり、これらは池泉庭園と同時期に造られたようです。

2026年01月12日 ᴿᴱᴰ副将軍
築山館[大内氏城館  周辺城郭]



周防国・長門国を本拠とした大内氏の別邸🏯

続日本100名城

室町時代に第13代当主の大内教弘により築かれたと云われます。
大内氏の勢力拡大、繁栄とともに本拠である大内館が手狭となり、北側隣に別邸として築いたのが築山館です。
大内館は居住用であったのに対し、築山館は迎賓館として機能し外交に用いられたとされます。
1551年に第16代当主の大内義隆は重臣の陶晴賢に謀反(大寧寺の変)により自害。
大内氏が衰退すると1557年に毛利元就は山口へ侵攻。大内氏は滅亡しました。
元々は、大石を積み上げた土塁で周囲を囲っていた様ですが、1864年に毛利敬親が萩城から山口城に居城を移した際に、山口城築城のために大石は運び出されたと云われます。

見所
「大内氏遺跡 附 凌雲寺跡」として国史跡に指定され整備されています。また大内氏城館として大内館・高嶺城とともに続日本100名城に登録されています。
大内館の北方に隣接しており、現在は八坂神社、築山神社の境内となっています。
四方を大石を積み上げた土塁が巡り、絢爛豪華な庭園があったとされますが、大石は持ち出されて北東部に土塁だけが残り、庭園は埋められてしまっています。
発掘調査による地表面展示がされています。

あと敷地内の河村写真館がエモすぎました!明治の建物で2010年頃まで現役だったそうで、現在は文化財指定されています。

2026年01月11日 ᴿᴱᴰ副将軍
大内氏城館



※登録地である大内館の口コミです

周防国・長門国を本拠とした大内氏の守護館🏯

続日本100名城

大内古図により1360年頃に第9代当主の大内弘世により築かれたと云われていましたが、発掘調査により1400年代半ばに第13代当主の大内教弘により築かれた可能性が高いとされます。大内古図は江戸時代に描かれたものであり史料としての確実性は低いです。
大内氏の勢力拡大、繁栄とともに増築が繰り返され、最低でも5回は行われています。
1551年に第16代当主の大内義隆は重臣である陶晴賢の謀反により自害します(大寧寺の変)。
代わって大友義鑑の次男で猶子の大内義長が第17代当主として大内氏館に入ります。大内義長は当主になったとはいえ、実質的には陶晴賢の傀儡でした。
1555年に陶晴賢が毛利元就との厳島の戦いで討死すると、弱体化していた大内氏家臣団は完全に崩壊。大内氏が衰退すると1557年に毛利元就は山口へ侵攻。大内義長は長門長福院に逃亡するも毛利軍に包囲され自刃。西国の名門とされた大内氏は滅亡しました。
同年に毛利隆元により、後奈良天皇の綸旨を受け大内氏館跡に龍福寺が建立され、自害した大内義隆の菩提寺として復興しました。

見所
「大内氏遺跡 附 凌雲寺跡」として国史跡に指定され整備されています。また大内氏城館として築山館・高嶺城とともに続日本100名城に登録されています。
龍福寺一帯に築かれていましたが、大半の遺構は消失。発掘調査により土塁や枯山水の庭園、池泉などが復元されています。
東西160m・南北170m以上の方形の居館であったとされ、往時は西の京都”山口”として栄えており、京都の将軍邸を模していたとされます。

7年半振りに高嶺城とともに訪れましたが、ほとんど記憶にありません🥲

2025年11月29日 はにまる外記
大内氏城館

頑張る、初めて早数年中々進まないがやる
後何年かかるだろうな

2025年11月10日 ぱぱ〜ん伊豆守
大内氏城館



毛利家が大内家の菩提寺として建立した龍福寺が、大内氏城館後になります。紅葉🍁が少し始まってましたが、紅葉が赤く染まったら綺麗だろうなぁと思います。土塁跡や庭(池)などが少し残ってました。

2025年09月14日 小太郎右近衛中将南畿陽13國守
大内氏城館



城としてではなく、京を模した館というべきである。ちゅうしゃは北東と北側の隣接地に設けられており見学は便利である。跡地は寺となっている。9月5日訪問。

2025年05月06日 オルガン左京大夫小僧
大内氏城館



館の方は広範囲で時間がかかるが見所多数。新100名城でセットの高嶺城は車で10分位の上り口、大きな車はビビる狭さの道で要注意だが街が見下ろせ絶景

2025年04月04日 ひで
大内氏城館



大内氏遺跡としては館跡、築山跡、高嶺城跡、凌雲寺跡の四遺跡で構成されていますが,時間と足があれば是非凌雲寺跡まで足を伸ばして下さい。

2025年03月23日 MAHARAJA釧路守77
大内氏城館

とても整備されていて、静かでいいところです。山口駅から歩いてちょうど良い距離です。

2024年01月14日 龍馬備中守【無戦無敗】
凌雲寺跡[大内氏城館  遺構・復元物]



山口県の山口市にある【凌雲寺】♪舌状台地に築かれた寺院跡となります♪この凌雲寺、今は石垣が残ります♪大内氏城館遺跡の1つとして『大内氏館、高嶺城、大内氏遺跡附凌雲寺』として国の史跡に指定されています♪

周防国の戦国大名、第15代目・大内氏の当主大内義興の菩提寺となります♪
残る遺構の石垣は舌状台地の南側を南北に仕切っています♪寺院の詳細は一切不明♪
石垣は総門と伝えられ長さ60m、高さ3mと寺院の石垣としては立派なものです♪
舌状台地上に、石垣の長さ、高さからピンときますね♪そうです♪恐らく有事の際は大内家と共に戦う城郭寺院の役割を果たしたのでしょうね♪石垣の長さ、高さ♪ただの寺院ならそこまで必要ありません♪

大内義興は室町幕府の管領代となっていて将軍の後見人へ♪周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城の7ヶ国の守護職を兼ねた大内家の実力者であります♪大内家の勢力を確固たるものにしていきます♪

この時代に、これ程の石垣を組めるのは朝鮮半島との交流を積極的に行なっていたんでしょう♪かなり立派な石垣造りとなっています♪発掘調査によると大内菱の紋が入った軒丸瓦等が出土していたり大内義興時代の創建である事が裏付けられています♪
更に発掘調査では焼けた土や炭も出土してたり、火事か?攻められ焼かれたのか?凌雲寺の最期がどうだったのか?興味が沸いてきます。

今は舌状台地の上には石垣と大内義興と義興の夫人のお墓がヒッソリと残ります♪

2023年12月13日 ハニワ太政大臣
大内氏城館



館とは別に後詰めの城があり、少し離れています。高嶺城に行くには、結構な山道を歩くことになります。ただ、高嶺城の石垣は、一見の価値があります。

2023年11月27日 国府左京大夫城介
築山館[大内氏城館  周辺城郭]



立派な土塁が残る大内教弘が築いた別邸

【歴史】
15世紀中頃に、大内氏第13代当主である大内教弘(1420~1465)が別邸として築いたと伝わる。
この地を連歌師の宗祇が訪れており、築山にあった立派な庭園に対して一句詠んでいる。
 「池はうみ こずゑは夏の みやまかな」
寛正6年(1465)に教弘が没すると、築山大明神として神格化された教弘を祀る場所になった。

大内氏が滅びた後、この地を治めた毛利氏により、寛文6年(1666)に氷上山山王社(大内氏に所縁がある鎮守社)に築山の跡地は寄進された。
幕末から明治にかけて、八坂神社と築山神社が移築された。

【遺構】
大内氏館跡(龍福寺)の北側に位置する方形居館で、現在は八坂神社の境内となっている。
往時は、周囲を高さ3mほどの土塁で囲み、堀や階段状の石組で組まれた出入口状遺構などがあったが、現在は北西部に土塁が一部残るのみである。本来は土塁でなく石垣であったようだが、毛利氏が幕末に山口城を築く際に築山に残っていた石垣を転用したと伝わる。なお、土塁裾の石垣は近代以降のもので、大内氏時代のものではない。

【感想】
瑠璃光寺に向かう途中のバスの車窓から、分厚い土塁があるなと思ったら、そこが築山でした。
大内氏館にも土塁が復元されていますが、それと比較してもかなり分厚く、本来の大内氏館の土塁もこれ位あったのではないかと想起できます。また、往時は土塁ではなく石垣でもあったことから、大内氏の強さも推し量ることもできます。

今回は親連れでの訪問であったため、時間的制約もあり、見落とした箇所(築山跡史跡公園)やリア攻めできなかった高嶺城があるので、また山口を再訪したいと思います。

【アクセス】
山口駅から「香山公園五重塔前」行きのコミュニティバスに乗り、「八坂神社前」で下車。

【写真】
①八坂神社
②築山神社と土塁
③④北西部に残る土塁
⑤説明版

2023年11月25日 へこ
大内氏城館

電車で行く場合は山口駅から十分歩けます。1キロ強です。帰りも電車の時間を調べておけば余裕で帰れます。

2023年05月03日 延暦寺覚恕
大内氏城館



名城スタンプ設置の大路ロビーから程近い場所に史跡が残り、遊歩を兼ねて観覧されるのも良いかと思います。

2023年02月16日 曽根崎右近衛大将
大内氏城館



徒歩15分くらいの県庁近くにある山口市歴史民俗資料館に行くと、もう少し詳しい資料が見られます。一緒にいくのがオススメ。

2023年01月03日 左近衛大将さとー
大内氏城館

年末の休館期間でしたが、歴史民俗資料館入り口にスタンプ設置されていました。

2022年11月30日 尼崎城安芸守一口城主
大内氏城館



[高嶺城]続100名城で大内氏館とセットになっている高嶺城に登山⛰登る前に麓の香山公園を散策して瑠璃光寺の五重の塔や大内弘世公之像を撮影。昔、大内のお殿様、殿様殿様お殿様ヨヨヨーイ🎎とお祭りで踊っていたのを思い出しながら山城を見上げていました。その後、木戸神社⛩の横を通って山の中腹まで連れて行ってもらい登山開始🥾途中まで道は舗装されているので比較的登りやすい山城だと思われます。途中、小雨が降ってきましたが木々がある程度遮ってくれたので傘はささずに済みました。先に主郭を見学した後、石垣を見学。主郭の説明板を読むと大内家の最後の当主が築いて毛利氏が改修したとありました。大内氏が攻めてきたけれど毛利氏の守りが固かったとのことが書かれていました。大内氏の着眼点が良くて実戦的な山城であったことが感じられます。一国一城令で破却することになったと説明板に書かれていましたが石垣はちゃんと形をとどめていました。下山時は雨も上がり、電波塔近くの郭から虹🌈が見られました。
私事になりますが、翌日のマラソンに参加する為に久しぶりに帰省してお城アプリを始めて出身県で初のリア攻めを達成することができて良かったです。

2022年05月07日 ゼロ阿波守ファイター
大内氏城館

駐車場の入り口は分かりにくいですが南と西からアクセスできます。続100名城のスタンプは敷地内に案内ありますが少し離れたところにあります。

2022年04月02日 紅葉安芸守修【織田】
大内氏城館



大内氏城館だけでなく付近には観光駐車場もあり、車での訪問には全く困りませんでした。瑠璃光寺など大内氏の栄華を辿る寺社が数多くありますのでゆっくり散策したい町です。

2022年02月13日 織田上総介晃司
高嶺城[大内氏城館  周辺城郭]

木戸神社・木戸公園を過ぎ中腹のTV中継局に4〜5台停めれるスペースがあり、10分位で主郭まで行けますが、道幅は狭く積雪があると無理。運転に自信の無いかたは木戸公園に停めて登るほうが良いでしょう。登城口は他に山口大神宮にもあります。

大内氏最後の当主・義長が築くも完成前に毛利氏が攻撃。その後毛利氏家臣の市川経好が城番となる。主郭にある石垣はこの頃だろう。

山口市内に湯田温泉があり登城後は温泉に浸かるのも楽しみのひとつでしょう。

湯田温泉駅に足湯があり足湯に浸かりながらSLやまぐち号を見ることができます。(時刻表確認のうえ)
駅には高さ8mの白狐「ゆう太」の像もあり、ゆう太目当てに来るかたもいます。

2022年02月13日 織田上総介晃司
大内氏城館

凌雲寺跡には見学者用の無料駐車場と簡易トイレがあります。

大内氏館(龍福寺)と築山館(八坂神社・築山神社)の近くに観光者用の無料駐車場があります。

明との貿易と応仁の乱で都から逃れた公家を保護した事により山口に優雅な文化を持ち、一時代を築いた大内氏。
陶晴賢の謀反と毛利氏の侵攻により一気の凋落・滅亡となる。

アニメ「一休さん」に登場する末姫は大内氏の姫という設定で蜷川新右衛門は末姫に恋い焦がれていた。
末姫も新右衛門さんを慕っていたのだが、女心に疎く新右衛門の「それにつけても姫の愛しさ」と言うのが決り文句だった。

※高嶺城は毛利氏の手も加わっているので別で口コミします

2021年12月14日 昌幸近江守茨城城郭サミット
常栄寺 雪舟庭[大内氏城館  寺社・史跡]



およそ500年前、第14代当主大内政弘が、別邸として建てたのが始まりで、庭は雪舟に依頼して築庭させたものといわれています。後に政弘は母の菩提を弔うための寺、妙喜寺としましたが、時代の変遷にともない毛利隆元の菩提寺、常栄寺と合寺し、改めて常栄寺となりました。

尚、この雪舟庭は禅味あふれる日本庭園の代表作として国の史跡並びに名勝に指定されています。

【写真の説明】
①山門
②本堂
③鐘楼門
④雪舟庭を迎月亭跡方面から見る
⑤雪舟庭を龍門之滝から見る
⑥雪舟筆塚と政弘公母君・妙喜寺殿の墓
⑦南溟庭 昭和43年重森三玲作
⑧本堂から見た雪舟庭

2021年12月14日 昌幸近江守茨城城郭サミット
山口大神宮[大内氏城館  寺社・史跡]



山口大神宮は、永正17年(1520年)に大内義興が創建した古社です。
義興は京都で足利幕府の管領代をつとめていたころ、伊勢神宮に参拝し、その荘厳な神霊にうたれ、帰国後、高嶺山麓に神域を選定し、社殿を造営したといわれています。

社殿は伊勢神宮と同じ形式の神明造りです。当時、伊勢の神霊を迎えた神社はこの大神宮だけであったので、伊勢信仰の盛んであった江戸時代には、西のお伊勢様といわれ多くの参拝者でにぎわったといわれています。
社殿の横の石段を登ると、内宮と外宮があり、内宮は天照大神、外宮は豊受大神が祭神で神明造りの社殿が建てられています。

【写真の説明】
①石鳥居と日参一万日碑
②参道。背後の山が高嶺城。
③外宮。別宮を備える。
④内宮。右に別宮、左に摂社を備える。

2021年12月08日 昌幸近江守茨城城郭サミット
保寧山 瑠璃光寺[大内氏城館  寺社・史跡]



大内氏25代大内義弘は現在の香山公園に、石屏子介禅師を迎え香積寺を建立しました。義弘は応永6年(1399年)足利義満と泉州で戦い戦死。26代弟・盛見は兄の菩提を弔うため、香積寺に五重塔を造営。盛見も九州の少貳勢と戦って戦死。五重塔はその後、嘉吉2年(1442年)頃落慶しました。

それからしばらくの時を経た関ヶ原の合戦の後、毛利輝元が萩入りし、香積寺を萩に引寺。跡地に仁保から瑠璃光寺を移築しました。これが今日の姿です。

大内文化の最高傑作と言われる五重塔は全国に現存するうちで10番目に古く、美しさは日本三名塔の一つに数えられ、室町中期における最も秀でた建造物と評されています。

また長州藩主(毛利本家)13代敬親夫妻・14代元徳夫妻・15代元昭夫妻の墓所にもなっています。

【写真の説明】
①瑠璃光寺中門
②瑠璃光寺本堂
③五重塔(国宝)
④毛利家墓所(国史跡)

2021年10月01日 陸奥守新九郎
大内氏城館



大内氏館
発掘調査成果に基づいた整備は説得力があります✨整備後もきちんと管理されていて、好感が持てる整備が行われた城館だと思います。そんなに大きくはないので、築山館とともにゆっくりぐるっと回ってみてください😉

2021年07月11日 上田兵部大輔雪娘
大内氏城館

龍福寺の外周を一周することをオススメします。また高嶺城主郭の石垣は必見です。

2019年11月03日 大納言Z関白369
西門(復元)[大内氏城館  遺構・復元物]



この門は、正門ではなく、屋敷の中の区画を仕切る内門であったと考えられます。門の中は墓地です。

2018年03月14日 カーネル
大内氏城館

山口線の山口駅から

山口線に沿って北上して、龍福寺の大内氏館跡を訪問します

館跡から北へ向かうとすぐに築山館跡です。神社ですね

さらに北すぐの国道9号で左折して西へ向かい、山口県庁の山口城址へ。ここは、隣接する県政資料館がかっこいいです

次は県庁の西隣の山口大神宮へ向かうと、高嶺城登山口の標識があります。下宮と上宮の雰囲気が、いいです

お参りしたら、山口大神宮の境内内にある多賀神社脇から登ります。山道を登り続けると、高嶺城の中継局に着きます。中継局までは、車で来れます

まだ、ここからも登りは続きますが、傾斜は緩いです。いくつもの平場を超えると本丸で周囲に井戸と石垣がいい感じです

来た道で山口大神宮に戻ってから、木戸公園南の障子ヶ岳城に寄ってから山口駅へ

全行程で3時間半でした

2017年05月08日 五瓜ニ唐花紋太政大臣や~きみ
大内氏城館

駐車場あり。
お寺になっていますので、神社の駐車場になります。
お寺は何時でも入れます。
お寺の周りを土塁があり、門など遺構があります。


大内氏城館の周辺スポット情報

 西門(復元)(遺構・復元物)

 凌雲寺跡(遺構・復元物)

 主郭(遺構・復元物)

 池泉庭園(遺構・復元物)

 枯山水庭園(遺構・復元物)

 土塁(遺構・復元物)

 北堀(遺構・復元物)

 東堀(遺構・復元物)

 高嶺城東麓曲輪群(遺構・復元物)

 大内氏館跡碑(碑・説明板)

 説明板(碑・説明板)

 高嶺城(周辺城郭)

 築山館(周辺城郭)

 恋路城山城(恋路山城)(周辺城郭)

 深野氏館(弥太郎館)(周辺城郭)

 深野氏館(周辺城郭)

 深野氏館(周辺城郭)

 周慶寺山城(周辺城郭)

 七ツ尾山城A(周辺城郭)

 七ツ尾山城B(周辺城郭)

 七ツ尾山城C(周辺城郭)

 七ツ尾山城D(周辺城郭)

 凌雲寺(周辺城郭)

 保寧山 瑠璃光寺(寺社・史跡)

 山口大神宮(寺社・史跡)

 常栄寺 雪舟庭(寺社・史跡)

 龍福寺(寺社・史跡)

 菜香亭(寺社・史跡)

 山口市歴史民俗資料館(御城印)

 山口市歴史民俗資料館(スタンプ)

 大路ロビー(スタンプ)

 簡易トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 龍福寺の駐車場(駐車場)

 築山神社の駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 駐車スペース(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 資料館(関連施設)

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