右田ヶ岳城(みぎたがだけじょう)
右田ヶ岳城の基本情報
通称・別名
- 右田ヶ嶽城、右田城、右田岳城
所在地
- 山口県防府市上右田1708
旧国名
- 周防国
分類・構造
- 連郭式山城
天守構造
- なし
築城主
- 右田氏
築城年
- 鎌倉時代後期
主な改修者
- -
主な城主
- 右田氏、南方就正(毛利氏家臣)
廃城年
- 安土桃山時代後期?
遺構
- 曲輪、堀切
指定文化財
- -
再建造物
- -
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-
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右田ヶ岳城の解説文
[引用元:Wikipedia「右田ヶ岳城」の項目]
右田ヶ岳城(みぎたがたけじょう)は、周防国佐波郡右田、現在の山口県防府市にあった日本の城(山城)。
概要
右田ヶ岳の山頂に築城されており、頂上は東・中・西の3つに分かれている城。西部に本丸があり、その東下に二の丸がある。大内氏の本拠・山口防衛の要衝であり、急峻な右田ヶ岳により天然の要害となっていた。
沿革
鎌倉時代末期に、大内氏の庶流・右田氏が築城し、代々在城した。
天文24年(1555年)に、陶晴賢が厳島の戦いで討死し、同年より毛利氏が周防・長門国への侵攻を開始した(防長経略)。その際に城主であった右田隆量は、野田長房と共に籠城したが、毛利元就の勧告に従い降伏して、毛利氏に仕えた。
後に毛利氏家臣の南方就正が城番として入城し、永禄12年(1569年)の大内輝弘の山口乱入(大内輝弘の乱)では、就正がこの城より出撃し、輝弘を撃退した。
その後の歴史は不明だが、江戸時代初期には廃城となっていた。
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