山口城(やまぐちじょう)
山口城の基本情報
通称・別名
- 山口屋形、山口御屋形、山口政庁
所在地
- 山口県山口市滝町1-1
旧国名
- 周防国
分類・構造
- 平城
天守構造
- なし
築城主
- 毛利敬親
築城年
- 元治元年(1864)
主な改修者
- 毛利敬親
主な城主
- 毛利氏
廃城年
- 明治6年(1873)
遺構
- 曲輪、石垣、横堀(水堀)、門
指定文化財
- 県有形文化財(旧山口藩庁門)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
大内氏城館(山口県山口市)[0.8km]
障子ヶ岳城(山口県山口市)[1.6km]
古城ヶ岳城(山口県山口市)[1.8km]
陶氏館(山口県山口市)[10.8km]
白水山城(山口県山口市)[12.1km]
右田ヶ岳城(山口県防府市)[13.5km]
敷山城(山口県防府市)[16.0km]
荒滝山城(山口県宇部市)[16.5km]
渡川城(山口県山口市)[18.9km]
青景城(山口県美祢市)[20.5km]
山口城の解説文
[引用元:Wikipedia「山口城」の項目]
山口城(やまぐちじょう)は、山口県山口市滝町(周防国山口)にあった日本の城。山口屋形・山口政庁・山口政事堂などとも呼ばれていた[1][2]。表門(旧山口藩庁門)など一部が現存する。
概要
大内氏が築城した高嶺城(こうのみねじょう)跡のある山口の一露山麓に、長州藩(毛利氏)の13代毛利敬親の居城として築かれた城。
慶長5年(1600年)以降、萩城が周防・長門国36万石を所領した毛利氏の居城であったが、幕末の変動に伴う有事に備えて、下関や瀬戸内海側への指揮がしやすい拠点として、山口に築城された[3]。なお、かつて関ヶ原の戦いに敗れて広島城を失った毛利氏が、防長移封後の新たな居城建設候補地のひとつとして、山口(高嶺城)を挙げている(江戸幕府が萩への築城を指示したのは、要衝の地である山口ではなく僻地である萩に押し込めたと一般的に言われているが、外国艦隊との戦いに備えて山口への移転を行った山口移鎮の経緯から、山口城の築城は長年の毛利氏の悲願という見解は成り立たないともされる[4])。
天守の無い平城であったが、高嶺城を詰城としている。現存する絵図によると、大砲を備えた西洋式城郭(八角の稜堡式城郭)の特徴があったとされる[5][6]。また、周囲には水堀と腰巻型の石垣を築き、萩城御殿を解体移築した御殿が建てられていた[7](萩城の御殿や禁門の変後に没収された江戸桜田藩邸を解体したものが移築されており、幕府には「屋形の移設」として申請されている[8])。性質としては居館であるが、広義の城郭としては毛利氏が築いた最後の城となる。
長州藩内では山口屋形(やまぐちやかた)、藩外からは山口城と呼ばれた。
歴史
幕末
文久2年(1862年)10月、本拠地を萩城から山口に移すことを内定、元治元年(1864年)10月に新たな藩主居館(屋形・政事堂)が完成し、毛利敬親は山口に移った(山口移鎮)。
しかし、同年に生じた第一次長州征討で、幕府側の撤兵の条件として山口城の破却が提示された。これに恭順した長州藩は、城の一部を破却して一旦は萩城へ戻ったものの、慶応元年(1865年)4月に再び山口へと移住した。同年の第二次長州征討では、政治・軍事の拠点として機能している。
明治以降
大政奉還後の明治3年(1870年)2月、政事堂から藩庁に改称。さらに、廃藩置県が行われた明治4年(1871年)には、城内に山口県庁が置かれた。
明治6年(1873年)の廃城令によって、存城処分となり陸軍省(第5軍管)の所管となるが、同年7月に大蔵省の所管へ変更され廃城となった。
遺構
水堀の一部と薬医門(山口政事堂の表門)が現存する。この表門は、廃藩置県までは藩庁門、その後は県庁正門となった。大正5年(1916年)に新たな県庁舎など(旧山口県庁庁舎と旧山口県議会議事堂)が完工すると、同門は県庁の西門となる。
1987年(昭和62年)3月27日に「旧山口藩庁門」として山口県指定有形文化財に指定され、現在の山口県庁舎の中央門と正門の間に残されている(徒歩にて通行可)。また、大正時代に城趾に建てられた旧山口県庁庁舎と旧山口県議会議堂は、今日山口県政資料館として利用されている。
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山口城の口コミ情報
2026年02月01日 まつぎん主計頭
山口城
旧山口県庁舎、表門ともに車で目の前まで行ける
2026年01月26日 やや康
長山城(亀山城・平蓮寺山城)[山口城 周辺城郭]
現在は公園になっており遺構はありません。
2026年01月06日 尼崎城安芸守一口城主
山口城
1/2🎍帰省中に登城。以前より山口県庁前に江戸時代の門があるのは知っていましたが恥ずかしながら本アプリのお陰で山口城跡に県庁が建っていることを認識😅
登城時、まずは旧山口藩庁門(写真①)を門から少し離れて後方の山城(高嶺城※続100名城大内氏館とセットで選定の山城)と合わせて撮影📷(写真②)
藩庁門付近に案内板(写真③)があったので案内板右側に載っている❷〜❻(※❶は藩庁門、❷土塁❸東陵堡の砲台跡❹東陵堡の基礎石垣❺兼重慎一❻新旧の石垣)の見学に出発🚶🏻❷〜❹は場所は何となく分かったものの生憎遊歩道は年末年始は閉鎖とのことでした😢(写真④)
❺兼重慎一の墓🪦を見学に向かい元就公の菩提寺の洞春寺の墓地で探してみました🕵️すぐには見つけられませんでしたが墓地内のお堂(写真⑤)前に兼重慎一のお墓(写真⑥)がありました。写真③の案内板の説明板が見えづらいかもしれないので書き起こし🔍[❺兼重慎一のお墓:洞春寺の境内には、周布政之助とともに、山口新御屋形(山口城)地の選定や、山口周辺の防備構築に尽力した、兼重慎一の墓がある。]
最後に写真③の案内板に載っていた遺構スポット❻新旧の石組も探索。木の葉で隠れている石組もあり、どの辺りのことを指しているのか明確には分からなかったものの堀と石垣を見学(写真⑦⑧)して下城。
2026年01月06日 尼崎城安芸守一口城主
洞春寺[山口城 寺社・史跡]
1/2🎍山口城(現在の山口県庁)見学の際に参拝🙏
まずは山門(写真①②)ですが全国的にも数少ない貴重な四脚門とのことでした。洞春寺は案内板(写真③)の通り、毛利元就公の菩提寺で毛利氏の本拠地の移転に伴い、安芸(吉田)郡山➡︎萩➡︎山口と移ったようです。境内には本堂の屋根や塀(写真④)に毛利家の家紋が見られます。
洞春寺の観音堂前には菩提樹(写真⑤)が植えられており、説明板には昭和の初め洞春寺の住職が大江氏(毛利家の祖)の菩提寺の廣園寺(八王子市)から取り木したとありました。
墓地に行ったところ大内盛政のお墓(写真⑥⑦)や御典医のお墓🪦(写真⑧)などがありお参りしてきました🙏
2025年09月14日 小太郎右近衛中将南畿陽13國守
山口城
山口城は萩城と共に毛利氏の中心とも言うべき城で、現在城内には、山口県庁が所在している。遺構としては山口藩庁門が顕著で、石垣、水堀等が残されている。9月5日訪問。
2025年03月22日 MAHARAJA釧路守77
山口城
駅から一本道でとてもわかりやすかったです。
2024年11月10日 讃井摂津守
山口城
土曜日にリア攻めできました。山口県庁のある場所が山口城趾となっているため、土日は入れるのかなと思ってましたが、旧山口藩庁門は開いていて、ほっとしました。
2022年02月13日 織田上総介晃司
山口城
山口県庁来庁者の駐車場を利用。山口藩庁門と水堀、土塁が残る。
幕末の長州藩主・毛利敬親のとき藩庁を萩から山口に移す。他藩からは山口城と呼ばれるが、長州藩では居城は萩城。政務をとる場所が山口に変わっただけ。として山口屋形と呼んだ。
敬親は家臣の提言にすぐ「そうせい(そのようにしなさい)」と答えた事から「そうせい公」と呼ばれた。
2018年02月07日 太閤 なつりん
山口城
明治維新の拠点にもなった毛利氏幕末の居城 周防山口城。廃城令によって破却されたが、一部の石垣と曲輪と水堀、そして薬医門が残存してました。
車は県庁の無料駐車場があります。
また、せっかくですので、車で10分程で行ける近くにある有名な湯田温泉で、ちゅるるっと汗を流されてはどうでしょうか。









